ぐるぐる自転車どこまでも

茨城県を自転車で散歩しながら,水戸藩の歴史について考え,たまにロングライドの大会に出場,旅する中年男の覚書

天狗党を追う~下仁田戦争

2012-12-06 22:38:09 | 自転車
今回の天狗党を追う旅は11月18日に群馬県下仁田町から始めた。
ここは天狗勢と高崎藩兵による大きな戦闘があったので、以前からぜひ訪れてみたいと思っていたのだ。

天狗勢は西暦1864年(元治元年)10月23日に那珂湊を脱出して大子へ向かい、その後、京都の慶喜公を頼って西上の旅を始める。各地の藩と衝突を避けながら行軍し、現在の栃木県、群馬県を通過して伊那路へ向かっていた。
天狗勢が下仁田に着いたのは11月15日であり、翌16日未明から高崎藩兵と戦闘になる。
高崎藩士は36名の戦死、天狗勢は4名の戦死だが、天狗勢には深手を負った者が多く、内山峠越えで絶命した者が多いという。

天狗勢が通った峠
このような道を通って下仁田に降りてきた。


下仁田戦争の全体の地図
この地図をもとに現地を歩いてやっと全体がつかめた。



武田耕雲斎が本陣を置いた桜井家


梅沢峠
高崎藩兵が侵入した峠道、ここを下ってきた


高崎藩兵が本陣を構えた里見家
壁に当時の弾丸の痕がある。


最初はこの付近で戦闘、天狗勢側から見たもの。正面から両軍が衝突した。膠着状態となる。


軍師山国兵部は、密かに右翼と左翼に別の部隊を迂回させた。
こちらは、左に回り込んだ部隊からの視点。高崎藩本陣と西牧川を挟んだ対岸から高崎藩本陣方面を見たところ。


もう一つは右の伊勢山に登り、迂回して山上から攻撃した。
ここは登り口


伊勢山へ迂回した天狗勢は現在のふるさとセンターのあたりから高崎藩本陣を見下ろす形となる。高崎藩兵を上から狙い打ち。上から現れた軍勢を高崎藩兵は援軍がかけつけたと誤解した。
写真は高崎藩本陣を上から見たところ。真ん中にある建物が高崎藩本陣


ふるさとセンターの高台から下ったところ、この付近で高崎藩兵は天狗勢に上から撃たれた。
正面、左右の三面から攻撃されて総崩れになる。高崎藩本陣前で戦死した者が多い。
ここには高崎藩士戦死之碑が建立されている。碑文は勝海舟が書いたもの。


高崎藩兵は安導寺へ後退し、追う天狗勢とさらに戦闘。ふるさとセンターの高台から戦闘のあった安導寺方面を眺めた
遠くにガスタンクがあるがその付近が激戦地


下仁田の戦闘で高崎藩兵に右腕を斬り落とされ、足手まといになることを憂慮し自害した野村丑之助(13歳)の墓
わずか13歳の少年、今なら中学生の年頃である。
彼の辞世の歌は
「亡骸は程なく土に変わるとも魂は残りてみ国を守る」


捕虜となった高崎藩兵の切腹の地
青岩河原
橋の影が河原にかかったあたりが切腹の場所


義烈千秋の碑



最新の画像もっと見る

コメントを投稿