岡崎直司の岡目八目

歩キ目デス・ウォッチャー岡崎が、足の向くまま気の向くまま、日々のつれづれをつづります。

名取の集落。

2007-12-08 01:35:31 | 地形観察


宇和海から斜面地に広がる名取の集落を望む。

伊達家が東北・仙台から移封され、初代秀宗が宇和島入りする際に、名取郷(現在、仙台空港がある辺り)から入植した人たちが拓いたのだと伝わる。

佐田岬灯台 ②

2007-12-08 01:29:04 | 地形観察


この日は風が強かったが、灯台近辺の海上は、大昔から海の難所。

宇和島藩時代、「伊達の殿様“お岬(はな)”が恐い」という言い方があり、参勤交代の際、御座船で上方(かみがた)へ上阪する時など、万一の海難事故を避けるために空船を回した。
殿様は、宇和海の塩成(しおなし)から瀬戸内側の三机(みつくえ)へのルート、あるいは大佐田から二名津へのルートなど、危険回避の陸路コースをたどったといわれる。

佐田岬灯台。

2007-12-08 01:17:55 | 建見楽学


大正七(1918)年に完成した佐田岬灯台。

左下の穴ポコ二つは、旧陸軍豊豫要塞佐田岬砲台跡。
右上は、椿山展望台で、戦時中には探照灯が設置されていた所。

そう言えば、12月8日は太平洋戦争が始まった真珠湾攻撃の日。
66年前の昭和16年、それから3年8ヶ月の長きにわたって未曾有の重圧が国民生活にのしかかっていった。
この灯台も(国際法上は攻撃対象としてはならないことになっていたが)戦時中には攻撃を受け、以前はその弾痕が塔身に見受けられていた。


平成の現在、手前には、豊かな漁場で漁をする漁船。

佐田岬半島の風車群、その三。

2007-12-08 01:05:52 | 建見楽学


しつこいようだが、旧三崎町、瀬戸町、伊方町に至る半島の主稜には、いつの間にか相当数の風車群が立ち並び、これからも後20基ほどが増設されるのだという。

いつかの台風では、瀬戸の掘り切りにある風車があまりの強風に吹き飛んだ。
ひょっとしたら、60本ほどの風車群が完成した暁(あかつき)には、佐田岬半島自体が飛んでゆきはしないか。マジで心配になってきた。

佐田岬半島の風車群、その二。

2007-12-08 00:58:27 | 建見楽学


あっちにもこっちにも、立ち並んでいる。

“岬十三里”などと呼ばれることもある、その長さ約50キロメートル強もある日本一細長い佐田岬半島。
宇和海と瀬戸内海を隔てる半島は、実は知られざる鳥たちの、日本有数の“渡り”の回廊。
昼間に渡る鳥たちもいるが、その多くは夜間に渡ることがあると聞く。誤った我々の常識に、「鳥目(とりめ)」というのがあって、例えば鶏(にわとり)などは夜間には目が利かない。
だが、それは家畜として飼い慣らされた結果の習性だといわれる。

つまり、多くの野生の鳥は夜間に目が利く。夜間飛行の方が、猛禽類などの襲撃を受けにくいので、彼らは夜間に飛ぶ、と教わったことがある。

その結果、この風車半島のことを渡り鳥たちの“ギロチンバリアー”だと言った人がいる。事実、鳥たちがそうした被害に遭っているという。
野生の鳥の習性として、白いものに反応するらしく、夜間に月明かりで照らされた白い風車に吸い寄せられて激突、死に至る。

例えば、宇和海・豊後水道にある洋上の水ノ子灯台には、そうした激突死した野鳥を剥製にした展示館が佐伯市側にある。それから、ナイター照明のある学校建築などでも、そうしたケースの事故がよくあるらしい。

自然条件の好立地として、クリーンエネルギーのイメージが先行する風車群だが(それは原発立地の地域性の中で)、とんだ落とし穴という次第。

佐田岬半島の風車群。

2007-12-08 00:29:40 | 建見楽学


先月のこと、少し後先になるが、八幡浜港からフェリーに乗船し、別府港へ。
(例の安心院での「全国わらこずみ大会」参加)

その際に、久々に海上から佐田岬半島を眺め、今更ながらに驚いた。
何がというと、風車群の数の多さにである。
ざっと数えても、40基は下らない。

勿論その全てを、一枚の写真に収めることは出来ないが、主要な箇所を撮影した。