日本キリスト改革派の「教案誌 vol. 64」に、
僕のメッセージが掲載されました。
長い文章ですけど、読んでいただけたら嬉しいです。
タイトル「神様に信頼するということ」
【新改訳 詩篇 62篇5~8節】
「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。
私の望みは神から来るからだ。
神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。
私はゆるがされることはない。
私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。
私の力の岩と避け所は、神のうちにある。
民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。
あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。
神は、われらの避け所である。セラ」
アメリカで2006年に公開された「フェイシング・ザ・ジャイアント」という信仰の映画があります。
ジョージア州のバプテスト教会が自主製作し、話題になった映画ですが、
とあるミッションスクールのアメリカン・フットボール部の成長物語です。
一度も試合に勝ったことがない万年最下位の弱小チームのコーチである主人公は、
日々熱意を持って指導していましたが、
部員たちは弱気で、いつも集中力に欠けていて、
授業の成績が悪く居残りさせられる部員もいる中で、
成果が上がらず思い悩む日々を過ごしていました。
小さな不幸が立て続けに起こったり、
部員の保護者たちからはコーチを解雇しようとされたり、
子供ができない原因が主人公自身にあると医者から告げられたりと、
全てが悪い方向に向かい、人生に対する希望を失いかけていた主人公が、
老紳士クリスチャンの助言をきっかけにして、
悔い改め、み言葉に基づいた祈りの生活を始めることにより、
自分だけでなく、周りも変えられていきます。
そして、主人公は新しいチームの指針を作ります。
「聖書の教えに従うこと、全て神様の栄光のために生きる」という明確な方針を部員に示します。
それだけでなく、まず自分が模範となりながら、
部員たちの生活全般にわたる指導も始めていきます。
そうして、ひとりひとりの部員が、持っているものを全力で神様のために使いながら、
自分の置かれた場所でキリストの弟子に造り変えられていく、という素晴らしい映画です。
この映画に、このようなフレーズが出てきます。
「勝敗は小さなこと・・・神様をあがめるため、我々はここにいる・・・
人生で最も大事なのは、神様を愛し、他者を愛すること。
全勝しても、それができないなら無だ・・・
イエスは人のために死に、人はイエスのために生きる・・・
プレーだけではなく、人間関係や目上の人への敬意で神様をたたえよう。
教室でもネットを使う時でもだ。
このチームで神様のみ業を示そう。
常に全力を尽くせ。
勝って神様をたたえ、負けても神様をたたえる。
どちらでも、態度で神様をあがめよう。
私は全力で神様を敬い、結果はお任せする」
私はこの映画から、「たとえそうでなくても」の信仰、
どんな試練の時も、たとえ勝負に負けても、人生に挫折したとしても、
神様から与えられている人生を感謝し、神様を賛美して、
神様を愛することの大切さを学びました。
これが神様を信頼することなのだと思います。
しかし、私たちが試練に遭うとき、苦しいとき、病気になったとき、
生きる希望がなくなってしまったとき、
神様は生きておられるのだろうか、
神様は私の祈りを聞いておられるのだろうか、と苦悩します。
私たちの信仰生活を脅かすものは失望だと思います。
「あぁ、今日も神様は祈りを聞いてくれなかった」、
「まだ神様はこの苦しみから解放してくれないのか」と落ち込む、そのような失望です。
失望というのは長引くものです。
ですから、失望と向き合うことが大切です。
失望と向き合うためにすることは、
まず自分の願いや叫びを包み隠さずにさらけ出して、
神様に自分の心をすべて注ぎ出すことです。
その後に手放す自由が与えられます。
心を注ぎ出すことなしに、
私たちは自分の願いや叫びを手放して、
「御心がなりますように」と神様に委ねることはできないと思います。
多くの人たちは、苦しみに対して誤った態度を取ってしまいます。
苦しみを受け入れないで、向き合おうとしない。
しかし、クリスチャンにとって苦しみは、産みの苦しみです。
苦しみを受け入れて初めて、産みの苦しみとなります。
私たちは、たとえ神様がくださる良いものであっても、
自分の願い通りのものでなければ、
受け取ることを拒否してしまいます。
確かに苦しみは味わいたくないものですが、
み言葉に支えられながら、苦しみを忍耐していく中で、
私たちの祈りが聖別されて、
「私の人生はこうでなくてはいけない!」という執着がなくなるとき、
私たちは自由にされて、
どんな苦しみを抱えていたとしても、
神様が与えておられる自分の人生を感謝できるように変えられていくのだと思います。
そうして今まで見えずにいた、
神様がくださる多くの恵みを感じられるようになって、
「神様は真実なお方だ。み言葉は真実だ。
神様は決して私たちをお見捨てにはならない。
神様は、私たち我が子にかかわる全てのことに、心を注いでくださる」
というような神様への信頼が芽生えてきます。
私たちは、思い通りにならない時に、
忍耐することで謙遜にされて、神様への信頼を学びます。
そうして、平凡な日常でも感謝する心が生まれてきます。
苦難を乗り越えた時はもちろん、
平凡な日常でも感謝することで、
神様への信頼はますます深められていくのだと思います。
信仰とは、何かの行いではなく、神様に対する信頼です。
祈りが叶えられたから、祝福されたから、自分が幸せだから、
信頼が生まれるのではなく、
神様への信頼は試練の中でこそ生まれるのです。
死のような試練から生き返り、
絶望の中でも、キリストの力がまた私を生き返らせてくださるのです。
【新改訳 ヘブル人への手紙 12章2節】
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」
とあるように、信仰の創始者はイエス・キリストです。
ただイエス様を見ていればいいのです。
すべて失い、すべて諦めたとしても、
目には何の証拠が見えなくても、
最後の瞬間までイエス様を見上げることが大切なのだと思います。
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ありがとうございます。
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【新改訳 詩篇 62篇5~8節】
「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。
私の望みは神から来るからだ。
神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。
私はゆるがされることはない。
私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。
私の力の岩と避け所は、神のうちにある。
民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。
あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。
神は、われらの避け所である。セラ」
アメリカで2006年に公開された「フェイシング・ザ・ジャイアント」という信仰の映画があります。
ジョージア州のバプテスト教会が自主製作し、話題になった映画ですが、
とあるミッションスクールのアメリカン・フットボール部の成長物語です。
一度も試合に勝ったことがない万年最下位の弱小チームのコーチである主人公は、
日々熱意を持って指導していましたが、
部員たちは弱気で、いつも集中力に欠けていて、
授業の成績が悪く居残りさせられる部員もいる中で、
成果が上がらず思い悩む日々を過ごしていました。
小さな不幸が立て続けに起こったり、
部員の保護者たちからはコーチを解雇しようとされたり、
子供ができない原因が主人公自身にあると医者から告げられたりと、
全てが悪い方向に向かい、人生に対する希望を失いかけていた主人公が、
老紳士クリスチャンの助言をきっかけにして、
悔い改め、み言葉に基づいた祈りの生活を始めることにより、
自分だけでなく、周りも変えられていきます。
そして、主人公は新しいチームの指針を作ります。
「聖書の教えに従うこと、全て神様の栄光のために生きる」という明確な方針を部員に示します。
それだけでなく、まず自分が模範となりながら、
部員たちの生活全般にわたる指導も始めていきます。
そうして、ひとりひとりの部員が、持っているものを全力で神様のために使いながら、
自分の置かれた場所でキリストの弟子に造り変えられていく、という素晴らしい映画です。
この映画に、このようなフレーズが出てきます。
「勝敗は小さなこと・・・神様をあがめるため、我々はここにいる・・・
人生で最も大事なのは、神様を愛し、他者を愛すること。
全勝しても、それができないなら無だ・・・
イエスは人のために死に、人はイエスのために生きる・・・
プレーだけではなく、人間関係や目上の人への敬意で神様をたたえよう。
教室でもネットを使う時でもだ。
このチームで神様のみ業を示そう。
常に全力を尽くせ。
勝って神様をたたえ、負けても神様をたたえる。
どちらでも、態度で神様をあがめよう。
私は全力で神様を敬い、結果はお任せする」
私はこの映画から、「たとえそうでなくても」の信仰、
どんな試練の時も、たとえ勝負に負けても、人生に挫折したとしても、
神様から与えられている人生を感謝し、神様を賛美して、
神様を愛することの大切さを学びました。
これが神様を信頼することなのだと思います。
しかし、私たちが試練に遭うとき、苦しいとき、病気になったとき、
生きる希望がなくなってしまったとき、
神様は生きておられるのだろうか、
神様は私の祈りを聞いておられるのだろうか、と苦悩します。
私たちの信仰生活を脅かすものは失望だと思います。
「あぁ、今日も神様は祈りを聞いてくれなかった」、
「まだ神様はこの苦しみから解放してくれないのか」と落ち込む、そのような失望です。
失望というのは長引くものです。
ですから、失望と向き合うことが大切です。
失望と向き合うためにすることは、
まず自分の願いや叫びを包み隠さずにさらけ出して、
神様に自分の心をすべて注ぎ出すことです。
その後に手放す自由が与えられます。
心を注ぎ出すことなしに、
私たちは自分の願いや叫びを手放して、
「御心がなりますように」と神様に委ねることはできないと思います。
多くの人たちは、苦しみに対して誤った態度を取ってしまいます。
苦しみを受け入れないで、向き合おうとしない。
しかし、クリスチャンにとって苦しみは、産みの苦しみです。
苦しみを受け入れて初めて、産みの苦しみとなります。
私たちは、たとえ神様がくださる良いものであっても、
自分の願い通りのものでなければ、
受け取ることを拒否してしまいます。
確かに苦しみは味わいたくないものですが、
み言葉に支えられながら、苦しみを忍耐していく中で、
私たちの祈りが聖別されて、
「私の人生はこうでなくてはいけない!」という執着がなくなるとき、
私たちは自由にされて、
どんな苦しみを抱えていたとしても、
神様が与えておられる自分の人生を感謝できるように変えられていくのだと思います。
そうして今まで見えずにいた、
神様がくださる多くの恵みを感じられるようになって、
「神様は真実なお方だ。み言葉は真実だ。
神様は決して私たちをお見捨てにはならない。
神様は、私たち我が子にかかわる全てのことに、心を注いでくださる」
というような神様への信頼が芽生えてきます。
私たちは、思い通りにならない時に、
忍耐することで謙遜にされて、神様への信頼を学びます。
そうして、平凡な日常でも感謝する心が生まれてきます。
苦難を乗り越えた時はもちろん、
平凡な日常でも感謝することで、
神様への信頼はますます深められていくのだと思います。
信仰とは、何かの行いではなく、神様に対する信頼です。
祈りが叶えられたから、祝福されたから、自分が幸せだから、
信頼が生まれるのではなく、
神様への信頼は試練の中でこそ生まれるのです。
死のような試練から生き返り、
絶望の中でも、キリストの力がまた私を生き返らせてくださるのです。
【新改訳 ヘブル人への手紙 12章2節】
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」
とあるように、信仰の創始者はイエス・キリストです。
ただイエス様を見ていればいいのです。
すべて失い、すべて諦めたとしても、
目には何の証拠が見えなくても、
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