昨日感じたことを綴ります。
今のところは治らないと言われている難病の僕だけど、霊的な癒しはすでに神様から与えられているんだよね。
人間が自分の力を過信して、隣人を蹴落とし、神を崇めようとせず、神に頼らず、感謝せず、従わないことが罪なのだと聖書は教えている。この罪こそ霊的な病気だ。
もし頭が良く、お金持ちで、能力が高い人間であっても、自分の力を高らかに自慢し、自分より苦しんでいる隣人を物扱いし、神様を信じていなければ、その人は罪の中で死んでいる。
でも神様を信じる人はこういった罪から解き放たれて、神中心の生き方ができるようになる。
もし障害を持つ人や弱い人がこの世界にいなかったらどうなるだろう。きっと誰もが自分を神として隣人の上に立とうとし、ただ争うだけの世界になると思う。
でもどのような人間も歳を取れば弱くなるんだよ。だから障害を持つ人や弱い人を排除する世界は、全ての人が不幸になる世界なのだと思う。
なぜならナチスドイツのように、20万人の障害を持つ人を政府が意図的に殺した国は約10数年で悲惨な状態になったじゃないか。障害を持つ人を殺すことで医療費が減ったから、一時的にドイツの財政は良くなったけど、その分を軍備に使ったから財政は悪化した。そしてドイツ国民は戦争でボロボロになり、最後はヒトラー自身も自殺した。結局ナチスは自分で自分を殺すことになった。
障害を持つ人や弱い人がいるからこそ、愛と優しさを学ぶことができる世界になる。事実何もできないと思われる赤ん坊を見て、心が和やかにならない人がいるだろうか。
病気や障害のある人生は苦しいことは確かだし、できないことが多いと自分を卑下してしまう。病気が悪化していくと人も次第に離れていくし。
でも人間の力が絶えた所で、人間にはどうしようもできない現実の中で、イエス・キリストの救いは人間の上にそそがれるのだ。そのようなときこそ、イエス・キリストの慰めは一番光り輝くのだ。なぜならイエス・キリストは弱い者を救うため世に来られたのだから。
神様に愛されているからこそ、心は平安に満たされ、神様の御言葉に従って生きていくからこそ、絶望の悪循環から抜け出ることができるのだ。
クリスチャンの信仰は苦難で衰えたりはしない。神様を信じて生きる者は、あらゆる病気も苦難も悲しみも、耐えるばかりか祝福に変えて明るく生きていけるんだよね。
今まで出会った人々の中には、「存在しているかも分からない神に祈ってもしょうがない。自分の力で頑張らなければ人生は何も変わらない」と言う人もいた。
でも僕は聖書を読むたび、祈りや日曜日の礼拝のたび、神様の愛や聖霊に包まれているような気持ちになるんだよね。これはまさに霊的な癒しが与えられているんだなと思う。まさに神様が存在している証拠だよ。クリスチャンにとって最高の賜物は、祈りと賛美だね。
もし聖書が教えている復活の希望がなければ、僕は今ごろ絶望の海の底に沈んでいたと思う。だって難病という苦しい人生を過ごしたのに、死んだら無になるなんてむなしいだけじゃないか。キリスト教信仰があれば、全てのことに意味を見出していけるんだよね。
僕が難病の人生でも神様を見上げて生きていれば、神様の存在を証明することになるはずだ。僕も神様の栄光を現わすため世に遣わされている神の国の民なんだろうなぁ。
【ヨハネによる福音書9章1~3節】
さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」
【コリントの信徒への手紙第一 15章38~43節】
神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。
どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。
また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。
太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。
死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。
*********************
下のバナーをクリックしてくださるとこのブログを訪問する方が増えます。宜しくお願いします。
にほんブログ村
にほんブログ村
今のところは治らないと言われている難病の僕だけど、霊的な癒しはすでに神様から与えられているんだよね。
人間が自分の力を過信して、隣人を蹴落とし、神を崇めようとせず、神に頼らず、感謝せず、従わないことが罪なのだと聖書は教えている。この罪こそ霊的な病気だ。
もし頭が良く、お金持ちで、能力が高い人間であっても、自分の力を高らかに自慢し、自分より苦しんでいる隣人を物扱いし、神様を信じていなければ、その人は罪の中で死んでいる。
でも神様を信じる人はこういった罪から解き放たれて、神中心の生き方ができるようになる。
もし障害を持つ人や弱い人がこの世界にいなかったらどうなるだろう。きっと誰もが自分を神として隣人の上に立とうとし、ただ争うだけの世界になると思う。
でもどのような人間も歳を取れば弱くなるんだよ。だから障害を持つ人や弱い人を排除する世界は、全ての人が不幸になる世界なのだと思う。
なぜならナチスドイツのように、20万人の障害を持つ人を政府が意図的に殺した国は約10数年で悲惨な状態になったじゃないか。障害を持つ人を殺すことで医療費が減ったから、一時的にドイツの財政は良くなったけど、その分を軍備に使ったから財政は悪化した。そしてドイツ国民は戦争でボロボロになり、最後はヒトラー自身も自殺した。結局ナチスは自分で自分を殺すことになった。
障害を持つ人や弱い人がいるからこそ、愛と優しさを学ぶことができる世界になる。事実何もできないと思われる赤ん坊を見て、心が和やかにならない人がいるだろうか。
病気や障害のある人生は苦しいことは確かだし、できないことが多いと自分を卑下してしまう。病気が悪化していくと人も次第に離れていくし。
でも人間の力が絶えた所で、人間にはどうしようもできない現実の中で、イエス・キリストの救いは人間の上にそそがれるのだ。そのようなときこそ、イエス・キリストの慰めは一番光り輝くのだ。なぜならイエス・キリストは弱い者を救うため世に来られたのだから。
神様に愛されているからこそ、心は平安に満たされ、神様の御言葉に従って生きていくからこそ、絶望の悪循環から抜け出ることができるのだ。
クリスチャンの信仰は苦難で衰えたりはしない。神様を信じて生きる者は、あらゆる病気も苦難も悲しみも、耐えるばかりか祝福に変えて明るく生きていけるんだよね。
今まで出会った人々の中には、「存在しているかも分からない神に祈ってもしょうがない。自分の力で頑張らなければ人生は何も変わらない」と言う人もいた。
でも僕は聖書を読むたび、祈りや日曜日の礼拝のたび、神様の愛や聖霊に包まれているような気持ちになるんだよね。これはまさに霊的な癒しが与えられているんだなと思う。まさに神様が存在している証拠だよ。クリスチャンにとって最高の賜物は、祈りと賛美だね。
もし聖書が教えている復活の希望がなければ、僕は今ごろ絶望の海の底に沈んでいたと思う。だって難病という苦しい人生を過ごしたのに、死んだら無になるなんてむなしいだけじゃないか。キリスト教信仰があれば、全てのことに意味を見出していけるんだよね。
僕が難病の人生でも神様を見上げて生きていれば、神様の存在を証明することになるはずだ。僕も神様の栄光を現わすため世に遣わされている神の国の民なんだろうなぁ。
【ヨハネによる福音書9章1~3節】
さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」
【コリントの信徒への手紙第一 15章38~43節】
神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。
どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。
また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。
太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。
死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。
*********************
下のバナーをクリックしてくださるとこのブログを訪問する方が増えます。宜しくお願いします。
にほんブログ村
にほんブログ村
やっぱりクリスチャンにとって、霊的な癒しはなくてはならないものですよね。聖霊や神様の愛を感じるからこそ、ますますお祈りしたいと思えるようになりますし。
生かされていること自体が神様からの恵み。だから全てのことに感謝していきたいです。クリスチャンの生活は感謝から始まってくんですよね。
お互い辛い人生ですが、信仰と希望と愛があれば大丈夫と思います。