今使っている車椅子が徐々に自分の身体に合わなくなってきているみたいで、毎日ずっと両足がしびれて痛くてたまらない。早く新しく自分の身体に合う車椅子を作らないとなぁ。
痛みの中であることを考えていた♪
僕は人の痛みと自分の痛みを比べることが苦手なんだ。
「あの人に比べればまだ君の痛みはましだ」「あの人に比べればまだ君は幸せだ」と言われると、余計に辛くなる。。だから僕は人に対して、こういうことは言わないようにしている。
でも主イエス・キリストの痛みと自分の痛みを比べるときだけは違う。
全人類の罪という十字架を背負ったイエス様の痛み、罪ある人々から蔑まされたイエス様の痛みを思い巡らすと、僕の痛みなんてちっぽけなものだと思える。神様であるイエス様が痛みを引き受けて下さったのだから。
そして、十字架で亡くなられた後にイエス様は復活し、全人類の罪と死の力に打ち勝ち、愛と希望を示して下さった。
どれほどの大きな痛みを感じていても、それを乗り越えたとき、必ず光・喜び・祝福を感じることができ、人間にとって最大の痛みである死を迎えたとき、罪と悲惨が何ひとつない天国という栄光の世界に入ることができる、と身をもって教えて下さった。
そして、イエス様は僕と共におられる♪
だから、いま僕がイエス様と共に苦しみを受けていることが、もう将来の栄光が用意されているという保証なのだと思う。
栄光を受けるためには、イエス様のように苦難の道を通らなければいけないのだから。。
この世の人生で味わう苦難は軽い一時的なもので、永遠に天国で味わう栄光こそ輝かしいものなんだ。
そう思うと、痛みの中で苦しんでいても、力がみなぎってくるんだ。
また、無意識かもしれないけど、人間の心は日々成長している☆
どのようなことも、「無駄にするものか!」と思っていれば、必ず人生の糧になる。なぜならクリスチャンは、神様が万事を益としてくださると信じているのだから。
イエス様は人類最大の痛みを味わい、その痛みを克服して下さった。その痛みは全人類のためであった。
だから、僕も痛みは痛みのままで終わらずに、何かプラスの意味あることにつながっていくと信じている。
【コリントの信徒への手紙 第二 4章15~18節】(口語訳聖書)
すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。
だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。
なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。
わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。
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痛みの中であることを考えていた♪
僕は人の痛みと自分の痛みを比べることが苦手なんだ。
「あの人に比べればまだ君の痛みはましだ」「あの人に比べればまだ君は幸せだ」と言われると、余計に辛くなる。。だから僕は人に対して、こういうことは言わないようにしている。
でも主イエス・キリストの痛みと自分の痛みを比べるときだけは違う。
全人類の罪という十字架を背負ったイエス様の痛み、罪ある人々から蔑まされたイエス様の痛みを思い巡らすと、僕の痛みなんてちっぽけなものだと思える。神様であるイエス様が痛みを引き受けて下さったのだから。
そして、十字架で亡くなられた後にイエス様は復活し、全人類の罪と死の力に打ち勝ち、愛と希望を示して下さった。
どれほどの大きな痛みを感じていても、それを乗り越えたとき、必ず光・喜び・祝福を感じることができ、人間にとって最大の痛みである死を迎えたとき、罪と悲惨が何ひとつない天国という栄光の世界に入ることができる、と身をもって教えて下さった。
そして、イエス様は僕と共におられる♪
だから、いま僕がイエス様と共に苦しみを受けていることが、もう将来の栄光が用意されているという保証なのだと思う。
栄光を受けるためには、イエス様のように苦難の道を通らなければいけないのだから。。
この世の人生で味わう苦難は軽い一時的なもので、永遠に天国で味わう栄光こそ輝かしいものなんだ。
そう思うと、痛みの中で苦しんでいても、力がみなぎってくるんだ。
また、無意識かもしれないけど、人間の心は日々成長している☆
どのようなことも、「無駄にするものか!」と思っていれば、必ず人生の糧になる。なぜならクリスチャンは、神様が万事を益としてくださると信じているのだから。
イエス様は人類最大の痛みを味わい、その痛みを克服して下さった。その痛みは全人類のためであった。
だから、僕も痛みは痛みのままで終わらずに、何かプラスの意味あることにつながっていくと信じている。
【コリントの信徒への手紙 第二 4章15~18節】(口語訳聖書)
すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。
だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。
なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。
わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。
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辛いときは、「痛いよー、神様!」と
叫んでいいと思います。
東京教会の牧師さんに、
「病気が辛いとき、『神様、辛いです』と
言っていいんじゃないでしょうか。
あのイエス様でさえ、十字架の上で
『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と
叫んだのですから」と言ったら
「そうです、神様に思いをぶつけていいんです。
それはクリスチャンとして大事なことです」
と言って頂けました。
広輝さんも、痛みを無理して我慢せず
早くいい車椅子を見つけてくださいね。
表現が難しいのですが、優越感を持ったりするのは だめだし、人の幸 不幸は 他人が決めるのではなく 自分なのだから。
僕もあらゆる感情や思いを神様にぶつけることは大切だと思います。むしろ神様から離れていくほうが、神様は悲しまれますよね。
新しい車椅子を作れば、足の痛みは無くなるはずなので、公費で車椅子を作ることができるように、祈り求めていきたいです。
言われたくない言葉って、ありますよね。
私も自分が言われて嫌な言葉は、
人にも言わないようにしています。
開拓伝道していると、
「教会、もう何人集まりましたか?」
と必ず聞かれる。
これってけっこう、嫌味にも聞こえてしまう(笑)
その言葉はプレッシャーでもありますよね。(汗)
また大きい教会の牧師から言われたら、嫌味に聞こえるかもしれないです。(笑)
確かにアダムとイブが堕落した結果、この世は罪と悲惨の状態のなかにあり、死・病気・挫折・貧困・嫉妬・殺人・戦争・強盗・姦淫・欲望・神様に対する人間の不従順などは罪の力(サタンの力)が原因ですから、そういった意味でサタンの仕業だと言っているのだと思います。
でも、神様はこの世の罪を、ご自身の賢いきよい計画によって、ご自身の栄光に役立てる目的をもって、この世の罪を許容することをよしとされています。だから病気や心の痛みさえも栄光に変えてくださるんですよね。
下の御言葉から考えると、僕は痛みも神様が与えてくださるものと信じています。
【ローマの信徒への手紙 11章32~36節】
32 神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。
33 ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。
34 「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。
35 だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。」
36 すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。