日本キリスト改革派の「教案誌 vol. 66」に、
僕のメッセージが掲載されました。
長い文章ですけど、読んでいただけたら嬉しいです。
タイトル「神様とのつながり」
【エフェソの信徒への手紙 1章4~5節】
「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、
御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、
キリストにおいてお選びになりました。
イエス・キリストによって神の子にしようと、
御心のままに前もってお定めになったのです。」
イエス様を信じる私たちが受ける最も大きな祝福は、
この世界が創造される前に、
キリストにおいて選ばれたということです。
神様は私たちを天地創造の前に選ばれました。
宇宙が生じる前に、私たちが生まれることを決められたのです。
神様はなぜ私たちを選ばれたのでしょうか。
それは、私たちを永遠に愛するためであり、
神様の前で、私たちを聖なる者、汚れのない者にするためです。
汚れや傷がある人も、汚れや傷がまったく無いようになさいます。
私たちが新しいものへと造り変えられるのです。
神様の子どもとされるために、私たちは選ばれました。
【ヨハネによる福音書1章1節】
「初めに言(ことば)があった。
言は神と共にあった。言は神であった。」
この神様の言葉は、
愛のみ言葉として、私たちに語りかけられました。
神様の言葉によって、私たちは生まれました。
み言葉のうちに、私たちは生きています。
神様の言葉に守られて、
イエス様を信じる私たちは永遠の命に招かれているのです。
この「初めに言があった」は、
「天地創造の初めに愛があった」と言い換えることができます。
いくら愛があっても、それを相手に伝えなければ、伝わりません。
神様は天地万物をお造りになりました。
じゃあ、なぜ造られたのでしょうか。
それは、神様が愛だからです。
神様は、ご自分の愛を表したいから、私たちを創造されて、
まず天地創造の初めに、私たちに語りかけられたのです。
神様の言葉は、愛です。神様の愛は永遠です。
その神様が、み言葉によって私たちを創造して、
私たちを愛して、天地創造の初めから、私たちに語りかけておられるのです。
では、神様はどのようにして、
私たちに「神の愛」をハッキリと表わされたのでしょうか。
神様のみ子イエス・キリストを、
私たちに遣わしてくださることによって、です。
聖書で神様は、私たちへの愛を証明したい時はいつでも、
イエス様の十字架に目を向けられます。
【ヨハネの手紙一 4章9~10節】
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。
その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。
ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。
わたしたちが神を愛したのではなく、
神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、
御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
イエス様は「神のことば」そのものです。
「神の愛」を表す最高の言葉・御業として、
イエス・キリストは十字架にかけられたのです。
そして、イエス様を信じる私たちは、神様の子どもとして、
キリストにあって永遠に選ばれたのです。
イエス様の御姿から、十字架から、
「あなたを永遠に愛している」という神様の言葉が、
あふれて、あふれて、私たちを満たします。
イエス様が徹底して、私たちに語りかけて、触れてくださって、
そして十字架で命すら捨てて、私たちへの愛を示し、
「神はあなたたちを愛している」という真理を、
私たちに語ってくださったのです。
【(新改訳)哀歌 3章22節】
「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。
主のあわれみは尽きないからだ。」
神様は私たちが良い時に愛し、
悪い時に憎むのではありません。
神様の愛は不変であり、絶えず注がれ、
愛することを止めないのです。
そして、【新改訳 イザヤ書 64章8節】には、
このようなみ言葉があります。
「しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。
私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。
私たちはみな、あなたの手で造られたものです。」
陶器師は土をよく練って、自分が造りたいと思う器を造ります。
練る土は同じですが、陶器師の思いと必要に応じて、
あるものは大きく、あるものは小さく、
あるものは特別な器として、あるものは普通に使われる容器として、
いろいろな器を造ります。
それなら私たちは、神様が自分勝手に使う道具のようなものでしょうか。
多くの人たちが「神の主権は人間の意志を無視するのではないか?」
と疑問に思います。
しかし、安心してください。
私たちの陶器師であられる神様は、失敗のない御方です。
神様は、私たちを自分勝手に造る陶器師ではなく、
必要な尊い存在として造る陶器師なのです。
私たちひとりひとりを一番美しく造られます。
神様の主権は、私たちを絶望的な困難には遭わせず、
乗り越えられない試練を与えません。
神様の愛は、私たちを束縛しません。
神様のご計画は、私たちの人生を最後まで最善へと導きます。
たとえ、自分から見て失敗や挫折がたくさんあったとしても、
その失敗も挫折も、神様のご計画に含まれているのです。
キリストの中で、すべての出来事の意味を知るのです。
私は今までの人生の中で、
難病の試練、死にかけた経験、小学校時代の集団いじめ、
急激な病気の悪化による大学受験の失敗、などを味わってきました。
でも、私の失敗や挫折も、
神様のご計画だったんだ、と今は思えます。
私がキリストにあって、神様の子どもとして生まれ変わるために、
神様から与えられた使命のために、
神様がこのような難病をプレゼントしてくれた、と感じています。
だから、私にとって難病は恵みの試練なんですね。
苦しみとは、神様に委ねるための「痛み」なのだと思います。
なぜなら、人間は神様に委ねるまでは安らぐことはないからです。
私の命は私のものではなく、神様のものですから、
神様のみ心に従うならば、
自分にとって、最も良い人生を歩むことができるんですよね。
神様は、難病を含めたこの私を愛するために、
私を創造してくださり、私の人生を計画してくださいました。
だから、私が難病の人生を生きていくことで、
神様のご計画が実現されていくのです。
自分の苦しみだけを見るのではなくて、
神様のご計画の実現という広い視点から自分の苦しみを捉えたら、
生きる力が湧いてくるようになりました。
私たちの人生は神様によってご計画されていますし、
神様は私たちの人生を初めから終わりまでご存知だからこそ、
私たちは安心して神様に信頼し続けることができるのだと思います。
神様が、この私を望んでくださったから、他に何もいりません。
神様とのつながりさえあれば、どんなに困難や恐れがあっても、
いつも神様の恵み、神様の力の中で、安心して生きていけます。
私はこれからもキリストにあって、
すべての人生の出来事を受け止めて、神様のみ心に従っていきたいです。
【フレデリック・ブロザートン・マイアー(英国の牧師)】
「神の愛は、きのうやきょう、生まれ出たようなものではありません。
また、私たちが神を思った時、
あるいは信じた時に始まったものでもありません。
あなたの生まれ出る前から、カルバリやベツレヘムよりも前から、
いや人類の堕落、エデンの園よりも前から、
ああ、この太陽系が回転する以前から。
そうです! 永遠の昔から、
あなたはキリストのうちにあって愛され、選ばれていたのです。」
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ありがとうございます。
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【エフェソの信徒への手紙 1章4~5節】
「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、
御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、
キリストにおいてお選びになりました。
イエス・キリストによって神の子にしようと、
御心のままに前もってお定めになったのです。」
イエス様を信じる私たちが受ける最も大きな祝福は、
この世界が創造される前に、
キリストにおいて選ばれたということです。
神様は私たちを天地創造の前に選ばれました。
宇宙が生じる前に、私たちが生まれることを決められたのです。
神様はなぜ私たちを選ばれたのでしょうか。
それは、私たちを永遠に愛するためであり、
神様の前で、私たちを聖なる者、汚れのない者にするためです。
汚れや傷がある人も、汚れや傷がまったく無いようになさいます。
私たちが新しいものへと造り変えられるのです。
神様の子どもとされるために、私たちは選ばれました。
【ヨハネによる福音書1章1節】
「初めに言(ことば)があった。
言は神と共にあった。言は神であった。」
この神様の言葉は、
愛のみ言葉として、私たちに語りかけられました。
神様の言葉によって、私たちは生まれました。
み言葉のうちに、私たちは生きています。
神様の言葉に守られて、
イエス様を信じる私たちは永遠の命に招かれているのです。
この「初めに言があった」は、
「天地創造の初めに愛があった」と言い換えることができます。
いくら愛があっても、それを相手に伝えなければ、伝わりません。
神様は天地万物をお造りになりました。
じゃあ、なぜ造られたのでしょうか。
それは、神様が愛だからです。
神様は、ご自分の愛を表したいから、私たちを創造されて、
まず天地創造の初めに、私たちに語りかけられたのです。
神様の言葉は、愛です。神様の愛は永遠です。
その神様が、み言葉によって私たちを創造して、
私たちを愛して、天地創造の初めから、私たちに語りかけておられるのです。
では、神様はどのようにして、
私たちに「神の愛」をハッキリと表わされたのでしょうか。
神様のみ子イエス・キリストを、
私たちに遣わしてくださることによって、です。
聖書で神様は、私たちへの愛を証明したい時はいつでも、
イエス様の十字架に目を向けられます。
【ヨハネの手紙一 4章9~10節】
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。
その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。
ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。
わたしたちが神を愛したのではなく、
神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、
御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
イエス様は「神のことば」そのものです。
「神の愛」を表す最高の言葉・御業として、
イエス・キリストは十字架にかけられたのです。
そして、イエス様を信じる私たちは、神様の子どもとして、
キリストにあって永遠に選ばれたのです。
イエス様の御姿から、十字架から、
「あなたを永遠に愛している」という神様の言葉が、
あふれて、あふれて、私たちを満たします。
イエス様が徹底して、私たちに語りかけて、触れてくださって、
そして十字架で命すら捨てて、私たちへの愛を示し、
「神はあなたたちを愛している」という真理を、
私たちに語ってくださったのです。
【(新改訳)哀歌 3章22節】
「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。
主のあわれみは尽きないからだ。」
神様は私たちが良い時に愛し、
悪い時に憎むのではありません。
神様の愛は不変であり、絶えず注がれ、
愛することを止めないのです。
そして、【新改訳 イザヤ書 64章8節】には、
このようなみ言葉があります。
「しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。
私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。
私たちはみな、あなたの手で造られたものです。」
陶器師は土をよく練って、自分が造りたいと思う器を造ります。
練る土は同じですが、陶器師の思いと必要に応じて、
あるものは大きく、あるものは小さく、
あるものは特別な器として、あるものは普通に使われる容器として、
いろいろな器を造ります。
それなら私たちは、神様が自分勝手に使う道具のようなものでしょうか。
多くの人たちが「神の主権は人間の意志を無視するのではないか?」
と疑問に思います。
しかし、安心してください。
私たちの陶器師であられる神様は、失敗のない御方です。
神様は、私たちを自分勝手に造る陶器師ではなく、
必要な尊い存在として造る陶器師なのです。
私たちひとりひとりを一番美しく造られます。
神様の主権は、私たちを絶望的な困難には遭わせず、
乗り越えられない試練を与えません。
神様の愛は、私たちを束縛しません。
神様のご計画は、私たちの人生を最後まで最善へと導きます。
たとえ、自分から見て失敗や挫折がたくさんあったとしても、
その失敗も挫折も、神様のご計画に含まれているのです。
キリストの中で、すべての出来事の意味を知るのです。
私は今までの人生の中で、
難病の試練、死にかけた経験、小学校時代の集団いじめ、
急激な病気の悪化による大学受験の失敗、などを味わってきました。
でも、私の失敗や挫折も、
神様のご計画だったんだ、と今は思えます。
私がキリストにあって、神様の子どもとして生まれ変わるために、
神様から与えられた使命のために、
神様がこのような難病をプレゼントしてくれた、と感じています。
だから、私にとって難病は恵みの試練なんですね。
苦しみとは、神様に委ねるための「痛み」なのだと思います。
なぜなら、人間は神様に委ねるまでは安らぐことはないからです。
私の命は私のものではなく、神様のものですから、
神様のみ心に従うならば、
自分にとって、最も良い人生を歩むことができるんですよね。
神様は、難病を含めたこの私を愛するために、
私を創造してくださり、私の人生を計画してくださいました。
だから、私が難病の人生を生きていくことで、
神様のご計画が実現されていくのです。
自分の苦しみだけを見るのではなくて、
神様のご計画の実現という広い視点から自分の苦しみを捉えたら、
生きる力が湧いてくるようになりました。
私たちの人生は神様によってご計画されていますし、
神様は私たちの人生を初めから終わりまでご存知だからこそ、
私たちは安心して神様に信頼し続けることができるのだと思います。
神様が、この私を望んでくださったから、他に何もいりません。
神様とのつながりさえあれば、どんなに困難や恐れがあっても、
いつも神様の恵み、神様の力の中で、安心して生きていけます。
私はこれからもキリストにあって、
すべての人生の出来事を受け止めて、神様のみ心に従っていきたいです。
【フレデリック・ブロザートン・マイアー(英国の牧師)】
「神の愛は、きのうやきょう、生まれ出たようなものではありません。
また、私たちが神を思った時、
あるいは信じた時に始まったものでもありません。
あなたの生まれ出る前から、カルバリやベツレヘムよりも前から、
いや人類の堕落、エデンの園よりも前から、
ああ、この太陽系が回転する以前から。
そうです! 永遠の昔から、
あなたはキリストのうちにあって愛され、選ばれていたのです。」
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ありがとうございます。
全て神様のご計画の人生ですね。
今までの、苦しみ、挫折、病気などで
色々と悩みましたが、今は、神様が探して
くれた、神様の愛で心が落ち着いています。
神様のお恵みにを祈りばかりです。
いつもお祈りしています
コメントありがとうございます。
人間には分からないことだらけですが、全て神様のご計画なんだと最近思えます。
出来事全てが自分を形作るんですね。
僕もお祈りしています♪
難病の試練、死にかけた経験、小学校時代の集団いじめ、
急激な病気の悪化による大学受験の失敗、などを味わってきました。
わたしは過去の辛い体験に対してトラウマがあります。
>でも、私の失敗や挫折も、
神様のご計画だったんだ、と今は思えます。
ほんとにそうですね。しかしわたしは弱い人間だから、辛いことがあると神を呪ってやけっぱちになってしまうんですね。そのほうが気持ち的に楽なんですね。三浦綾子さんのように苦しみや試練を神のプレゼントとして受け入れようと思えばよけいしんどくなってしまうんですね。しかし今コメントしているのは神からの回答を得ようとしているのかもしれません。つらくなるとこのプログを見ています。
読んでくださって、嬉しいです。
辛いことがあると、神様に不満をぶつけることは悪くないと思います。
自分が思ってもいないことを無理やり飲み込んでも苦しいだけですし、僕たちの精神的な浮き沈みによって、神様の愛が消えることはないですから。
神様の愛は永遠に変わらなくて、神様は僕たちを天国に導いてくださると信じています。
難病の試練、死にかけた経験、小学校時代の集団いじめ、
急激な病気の悪化による大学受験の失敗、などを味わってきました。
でも、私の失敗や挫折も、
神様のご計画だったんだ、と今は思えます。
それについて私見を述べると、
障害者はいじめのターゲットになりやすいですし、障害や容姿、或いは能力などでいじめを受ける場合がありますが、障害を持っている人が必ずしもいじめにあうとはかぎらないと思うんです。タレントの性同一性障害のはるな愛はいじめにあったそうですが、カルーセルマキはいじめられた経験がないそうです。
まわりに苛める人がいなかったり、周りがいい人ばかりだったからかもしれませんが、神の支配する社会において偶然ということはありえないと思うんです。
人はいじめや差別について原因、理由を究明しようとします。しかし神はあえていじめや迫害の中に人を置かれることもあるのではないでしょうか。
もちろん神は人を苛めたり差別したりすることを喜ばれるはずはありませんが。わたしは神が自分を嘲っているようにさえ思えたことがありました。しかし神に出会ったことはよかったと思います。不満や怒りをぶつけたり、祈る相手がいることは幸いなことだと思います。長文失礼しました。
保田さん、今、お加減はいかがでしょうか。神様からのお守りを、心より祈っています。
ここ一ヶ月は風邪を繰り返して、体調が悪かったので、返信がすごく遅くなってごめんなさい。
僕たちが神様を選んだのではなく、神様が僕たちを選んでくださったんですね。
そもそもイエス様が十字架におかかりにならなかったら、人は誰も信仰の道に入ることはできませんし。
イエス様ご自身が、神様から僕たちへのプレゼントなんですよね。