「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

100年後に学ぶこと―『漱石とあたたかな科学』

2016年12月25日 | Science
☆『漱石とあたたかな科学』(小山慶太・著、講談社学術文庫)☆

  今年2016年は夏目漱石没後100年目にあたる。そのためか漱石に関連した書籍の出版が目についた。しかし本書は新著ではない。単行本として刊行されたのが1995年、文庫版になったのが1998年である。その文庫版を買ってから、たぶん10年くらいはたっているだろう。当時ちょっと目を通しただけでツンドク状態になっていたのを、没後100年で相次ぐ新著などを見て思い出した。
  著者の小山慶太さんは早稲田大学理工学部で物理学を専攻し、母校社会科学部で教鞭をとってきた人である。物理学や科学史(物理学史)の啓蒙書を数多く執筆し、その何冊かには親しんできた。科学(物理学)と文化との関連を幅広く考察するだけでなく、科学そのものも文化として捉えるところに特徴があり、文科系の人間にとっても親しみやすい本が多いように思う。
  本書もまた然りである。科学や物理学のことを知らなくても十分に楽しむことができる。むしろ逆に理科系の人間が読むと、漱石がこれほどまで科学に造詣の深い作家だったことに驚かされる。漱石と物理学者・寺田寅彦との師弟関係・親交はよく知られているが、漱石と科学との関わり合いの一部にすぎない。
  漱石は科学そのものに対する興味もさることながら、科学の思想や方法論にとりわけ関心が深かったようである。漱石は自らの文学研究に科学方法論の適用を試みてさえもいる。文学書ばかりいくら読んでも、文学研究に活路を見いだせないからというのが理由である。余談ながら翻っていえば、科学書ばかり読んでいても、科学研究に活路など見いだせないのではないかと思ってしまう。実際、斬新な研究成果を挙げた科学者には多趣味の人や、芸術や文学・哲学などに関心のある人が多いような印象を受ける。
  小山さんによれば、漱石はいわゆる「修善寺の大患」のあと心霊現象に興味を持ったが、結局は「恣意性の強い仮定にだけに頼る議論」に見切りをつけた。ここにも科学の方法に強い関心を持っていた文学者・夏目漱石を見ることができる。ポアンカレの『科学の方法』は科学方法論の古典として著名だが、漱石の絶筆となった未完の『明暗』にポアンカレの「偶然」の概念が引用されているという。漱石といえば『坊ちゃん』と『吾輩は猫である』しかまともに読んだことがなく、漱石と科学との関わりでいえば『猫』の水島寒月のモデルが寺田寅彦とされていること(本書でももちろん触れられているし、それ以上の事実についても詳述されている)くらいしか知らないものにとって、漱石の関心の深さにあらためて驚かされる。
  本書を読んで初めて知ったことも多い。文部省から文学博士の学位を授与するという通達が届いたが、漱石はこれを辞退した。事前に本人の意思も確認せずに、一方的に学位授与を決めてしまった文部省に腹を立てたのだ。そういえば2008年にノーベル物理学賞を授与された益川敏英さんが受賞を「嬉しくない」といったのは、ノーベル財団が一方的に授与を決めたからだという話をどこかで聞いたような気がする。閑話休題、漱石が文部省の一方的なやり方に立腹したのは、そのおおもとに権威に対する不審感があったからだ。学問や芸術に御上がお墨付きを与える制度をよしとしない反骨精神の現れであった。
  1911年、帝国学士院は「恩賜賞」を制定し、その第1回受賞者に天文学者の木村栄を選んだ。その式典からほどなく漱石は『学者と名誉』と題する論評を新聞に発表した。「恩賜賞」の受賞によって、一般社会の関心が優れた業績を挙げた科学者に向けられたことは喜ばしいとしながらも、一人の科学者にだけ注目が集まり、他の多数の科学者は相変わらず闇の中におかれていることに疑義を呈した。ここにもまた漱石の権威に対する反骨精神を感じ取ることができる。ノーベル賞受賞者一人に社会的関心が集まるいまの時代にも通じる話である。
  漱石が生きた時代は、日本が西洋文明を吸収し急速に近代化を成し遂げようとしていた時代だった。その象徴的存在が科学(科学技術)であったことに異論はないであろう。小山さんは、漱石の視野に科学が入ってくるのは自然の流れだったのだろうという。しかしいまや、科学が西洋由来であることも忘れ、日々業績(それもすぐに役立つような業績)に血道を上げる時代の到来である。科学自体も漱石や寅彦の時代とは異なり、人間の感覚が届かぬ領域へと拡大してしまった。漱石没後100年のいま、科学者あるいは理科系の人間であっても漱石から学ぶことは少なくないのではないだろうか。

  

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