エスペラントな日々

エスペラントを学び始めて27年目である。この言葉をめぐる日常些事、学習や読書、海外旅行や国際交流等々について記す。

猫の年

2005-09-30 | ベトナム旅行その2
 このブログは、私がエスペラントの学習を始めた1997年1月を起点に、思いつきのテーマや現時点での出来事なども時々織り交ぜながら、おおむね時間を追って書いてきました。ネパールに出発する前には、2001年1~2月のベトナム旅行を書いていましたが、最後は1日に2回分載せたりしてなんとか終わらせました。
 そこで、頭を2001年2月ベトナムから帰国した時点に戻します。

 ベトナムで面白いと思ったのは、「干支(えと)」の話です。ちょうど旅行中に正月(旧正月:テト)を経験したわけですが、この年は日本と同じくベトナムでも巳年でした。街には蛇の飾り物がありました。もっともコブラの形をしていましたが。
 それで、さっそく疑問に思いました。十二支は日本と同じだろうか?
 それが少し違うんですね。
 1.鼠
 2.水牛・・・ベトナムの田んぼで働いているのは水牛でした。
 3.虎・・・ベトナムにも虎がいるらしい。日本にはいないのになんで寅年なんだろう?
 4.猫・・・ベトナムにもウサギはいるのに。ウサギは私も食べたけど、猫も食べるらしい。私のベトナム人の友達の猫が行方不明になった時、彼女は「誰かが食べるためにとって行ったのかもしれない」と心配していました。
 5.竜・・・これはベトナムでは特別な動物。神に近い。
 6.蛇・・・蛇料理を誘われたけど断りました.
 7.馬
 8.山羊・・・山羊の肉も食べました。
 9.猿
 10.犬・・・ベトナムでは犬も食べる。
 11.鶏・・・最近はトリインフルエンザの流行で大変のようです.
 12.豚
 こう並べると、日本とは4つも違っていますね.とくに「猫年」は日本にも欲しいなぁ!

   写真はネパール・チャングナラヤンにて
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ベトナムに娘ができて・・・

2005-08-21 | ベトナム旅行その2
 お知らせ:今日も2回分をアップしました。ベトナム旅行記は今日で終わり、明日からしばらくお休みです。次回のアップは9月8日の予定です。
 2001年2月20日、ベトナム旅行32日目(最終日)。大きなベッドを一人で占領して寝たのだが、居間のソファーに何人かが寝ていたようで、いつもは大人の男の兄弟が何人か一緒に寝ているベッドを私に提供してくれたらしい。朝、フォンと近くの公園を散歩。エスペラントがあまりうまくないので複雑な話は出来ない。31才の英語の先生、両親を亡くしたのは交通事故。
 クアンが果物をたくさん持ってきた。日本へ持っていけという。とりあえずドリアンだけは機内で嫌がられそうだと思って遠慮した。キエウもやってきて、4人でフォー食堂へ朝食に行く。フォーと一緒にハーブのような野菜をお皿一杯に持ってくる。キエウがそれをより分けて、新鮮なもの以外は全部床に落とす。
 道路が渋滞してタクシーではかえって時間がかかるからと、私の大きなバッグも単車に乗せて
空港へ。8:45到着。イェンやクイも見送りに来ていた。お別れしてすぐに中に入り、チェックインの行列に並ぶ。10人くらいの行列がなかなか進まない。すんだのはもう10時。飛行機は9:55発になっている。税関でまた時間がかかって、空港使用料は現金で12ドル。やっと待合室に入って、今度は手荷物検査。バスに乗って、飛行機に乗り込んだのは10:30を過ぎていた。
 香港で乗り換えに2時間ほど。順調に日本へ。伊勢湾に入ってからはすばらしい夜景だった。8:46着陸。名古屋空港で、ヤシの実以外の果物はすべて没収されてしまった。代わりに、「持ち込むことができない果物」を書いた一枚の紙切れをもらった。それによれば、ヤシの実以外にはドリアンが持ち込み可であった。惜しいことをした。
 今回の旅はいっぱいいい思いをしてきた。それだけエスペラントが話せるようになったから出来たことでもあるが、日本のような「先進国」から貧しいベトナムに遊びに行って、あんなに大事にされてもいいのだろうか? 私が使ったお金でベトナムから日本に招待できるではないか。。。そんな思いがあって、2004年の10月に、ホーチミンから一人を招待することにした。このことはいずれまた書くことになると思う。

   写真は統一会堂前の公園に展示してあった少数民族の家屋、手前の水車のようなものは自動演奏式の楽器
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蛇料理、犬料理・・・

2005-08-21 | ベトナム旅行その2
 2001年2月19日、ベトナム旅行31日目。夕べは3時頃まで近くのビアホイ(ビアホール)の大騒ぎが聞こえていた。5時半から1時間、レ・ニエムとその娘さんにつきあって散歩。途中でパンを買って、それで朝食。レ・ニエムとベトナムのエスペラント運動について話す。ホーチミンとハノイが離れすぎていて統一した組織として動きにくい。
 ハワイで日本の水産高校の練習船がアメリカの潜水艦に沈められたというニュースを聞いた。
 この日の午前中も「自由」にしてもらって、ホーチミン市内を歩くことにした。8:30出発。まずベンタイン市場近くの骨董店街へ。骨董にはあまり関心がなく、ちょっとした玩具や変わったものがあればと思ったのだが、私の買うようなものはなかった。
 ドンコイ通り。観光客が集まるところだが、買い物をしない私にはあまり興味が持てない。映画の撮影か何かをやっていて、いく手をさえぎられてしまった。
 ホーチミン博物館へ。月曜日なので休館。ここからブラブラと、でたらめに歩く。先日3人組に襲われたので小銭以外は何も持っていなかったが、カメラを持ってこなかったのは失敗。川沿いにものすごいスラムのような建物群があった。
 暑い中を歩き回って疲れてきた。途中でヤシの実ジュースと、青汁のようなものを飲んだが、もっと早くから水分を補給しておかなければならなかった。昼頃に帰ったが、軽い熱中症らしい。1:30にクアンが来てどこかに行こうかと誘ってくれたが、休むことにした。
 4:00頃に再びクアンが来た。彼女の単車でヒンズー寺院へ。キエウと合流して、夕食にいく。蛇料理か犬料理はどうかと聞くから遠慮した。それで山羊料理の店へ。低いテーブルを囲むと、火の入ったコンロと肉を持ってくる。炭火の焼き肉屋さんである。肉は山羊だというが、体調が悪くてあまり食べられず、味もよく覚えていない。惜しいことをした。
 ベトナム最後の宿は、私の「娘」、フォンの家である。両親がいないということだったが、兄弟が大勢いて大家族である。ここでデジカメの写真をテレビで見せることになった。私のこれまでの海外旅行をまとめたもので、ハノイでは何度も上映したが、ホーチミンでは初めて。近所の人たちまで集まってきて、観衆は20名以上になった。
 夕食はまたすごいご馳走を用意してくれたが、脂っこいものが多くてまだ調子のでない私は主に野菜を食べていた。惜しいことをした。
 キエウとクックがやってきて、ドリアンを食べた。噂されるほどひどい匂いはしない。濃厚な味は体調の悪い私にも美味しかった。クックが香油を使ったマッサージをしてくれた。

   写真はレストランかと思ったパゴダ
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バイク軍団駆け回る

2005-08-20 | ベトナム旅行その2
 お知らせ 明日、第4回アジアエスペラント大会参加のために、ネパールに出発します。計算を間違えていて、ベトナム旅行記がまだ4日分残っていますので、今日と明日は2回ずつアップします。

 2001年2月18日、ベトナム旅行30日目。夕べは遅くなったのに、今朝は5:00出発である。アンとここの奥さんと娘、それにボイの5人。車の中で寝ようと思ったが、女が3人、いやそのにぎやかなこと。もちろんベトナム語だから話に加わるわけにもいかない。
 7:00、ホーチミンについてフォーの朝食。私はミエン・ガーというのを食べてみた。ガーだから鶏肉である。ミエンは春雨のような感じだった。
 文化会館のようなところで、アン、ボイと私は降りる。今日は3か月に1回のホーチミンエスペラント会の集まりである。我々が一番乗りだったが、だんだん集まってきて40人くらいになった。会長挨拶、1年間の活動報告(この1年間でこの街を訪れた外国人エスペランティストは3組4人)などがあって、すぐに余興になった。すべてベトナム語で進められるので、ボイが横にいて通訳してくれる。
 私も求められて、この旅行や自分の学習、日本のエスペラント事情などをボイの通訳つきで話した。そのあと、歌を歌えというので「この道」をエスペラントで歌う。実は歌集を用意していた。そして、「赤とんぼ」を歌唱指導。
 20個ほど折っておいた折り紙を好きなように持っていってくれといったらあっという間になくなった。早乙女を手にして、作り方を聞いてきた若い女性がいて、簡単に教えたが、名前を聞いておくのだった。
 集会が終わって、若い人たちのグループ十数人(彼らは毎週日曜日に集まっている)と一緒に食事に行き、喫茶店で話す。フォンが私の娘になりたいといいだした。彼女には両親がいないという。私が承知したら、他の子が私もといいだした。フォンが一人だけだと躍起になるのでその子はあきらめてしまった。
 彼女とはしばらく文通をしていたが、1年くらいで来なくなった。キエウによると、結婚して子供(私の孫だ!)も生まれ、エスペラントからは遠ざかってしまったという。それでも、去年の10月にキエウが訪日したときには、私への手紙とおみやげをことづけてきた。
 単車十数台を連ねてサイゴン川へ。フェリーで向こう岸に渡ってツーリング。トゥ・ティエム地区という都市化されていないところで、牧歌的な農村地帯を走る。開発中のところもあり、道路や橋の架け替え工事をあちこちでしていた。いつまでこの風景が残っているだろうか?
 木造2階建ての建物、レストランかと思ったら、これがパゴダだった。もう一つパゴダ、これはハノイの一柱寺のコピー。一人の女性が私と写真を撮りたいと、別の人にシャッターを頼んでいたら、あっという間に3人ほどが写真の中に入ってきてしまった。この人は私が日本に帰ったあとにメールをくれて、2か月に1往復くらいだが、今も文通が続いている。まだ独身で、30才台かと思ったが、実際は40台の後半だった。
 川辺にカフェーのようなところで休んで、ボートで川に出た。すぐ近くを2回クルクルっと回っただけだったが、夕日がきれいだった。ホーチミンに帰って、みんなで夕食。みんなはベトナム語で話すのでよく分からない。この会の会長の、ドゥンという青年が日本語がいくらかできるので、時々通訳してくれる。クックとフォンが最終日に私を泊めるといって、みんなで議論していたらしい。わけがわからないままに私がフォンを指名したことになってしまった。
 この日ははレ・ニエムの家に泊まった。ホーチミンエスペラント会の図書室を兼ねた彼の書斎に簡易ベッドを出してもらった。彼の家のシャワーは水しか出ないが、隣にある彼の息子の家では湯が使えるというので借りた。やっぱりバスタブはなかった。
 なんと、ここのトイレには紙が置いてあった!

   写真はバイク軍団。ミラーの形はこれが流行。真ん中が私だが、もちろん運転した訳ではない。
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ベトナムの温泉

2005-08-20 | ベトナム旅行その2
 2001年2月17日、ベトナム旅行29日目。朝食は庭にテーブルを持ちだして、少し厚めの、餃子の皮くらいの大きさのライスペーパーにエビを乗せて焼いたもの。美味しかった。8:00にランクルで出発。ボイ、アンと3人で、運転手はボイの会社の同僚か?
 まず釈迦仏台という公園。白い大仏や涅槃象などがある。次に近代的な教会。入り口だけで引き返したが、大きな白いマリア像が建っている。ついでバック・ズィン、別名をホワイトパレスという宮殿。ベトナムを支配していたフランスの官僚の別荘だったところで、南ベトナム政府時代の大統領も別荘に使っていたという贅沢を尽くした建物。沈没船から引き上げられた陶磁器などが展示されている。
 そして、世界で2番目に大きいというキリスト像。これは下からかなり階段を昇らなければならない。足の悪いアンは下で待っている。ふとっちょのボイは汗だらけになってついてくる。魔術師だったら、キリストの顔をザメンホフに変えてやるというから、魔術でなくても、夜こっそり来てメガネとヒゲを描けばいいといってやる。キリスト像は内部も階段があって顔のすぐ横に出ることが出来る。眺望絶景である。
 最後は海で1時間ほど泳ぐ。きれいな砂浜が広がっているが、波が強すぎて波と戯れるだけ。
 いったん帰って、シャワーを浴び、昼食。こんどは、この家のおばあさん(アンの義母)、ボイの奥さんと娘、ボイ、アンと私の6人で出発、2時間ほどでビンチャウという、ベトナムでは珍しい温泉に着く。大小いくつかの浴槽があるようだったが、プールのような大きな浴槽で1時間半ほど遊ぶ。もちろん水着着用である。おばあさんは服のまま足だけつけている。娘は熱いといやがっている。泳いでみたが、水がゴミだらけであまりきれいではない。超ビキニの若い娘と中年のおじさんのコンビが入ってきた。どう見ても親子ではなさそうだ。
 日本には温泉が沢山あるが、全裸で入るといったら驚いていた。
 井戸のような、噴出口で卵をゆでて食べる。一人で3つも4つも食べる。17:00頃帰途につく。途中でウサギ料理の店に入る。お粥のようなスープに、ウサギの肉団子が入っている。骨ごと叩きつぶしてあるらしい。肉ダンゴよりもスープが美味しい。さらに途中でゆでたトウモロコシを買って食べる。私はおなかがいっぱいで遠慮したが、少しだけ味見をしてみればよかった。
 19:00,ボイの家に到着。ここで夕食。まだおなかが空いていないが、無理して詰め込む。大きな魚の干したのを裂いて食べたが、塩辛すぎた。ボイが電子レンジを自慢する。たしかに、この調理器具は、ベトナムに来て初めて見た。

   写真はキリスト像と、その頂上から見たブンタウ
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3人組のおばさん強盗

2005-08-19 | ベトナム旅行その2
 2001年2月16日、ベトナム旅行28日目。朝食はベトナムの餅。ハノイで食べたのは緑色だったが、今度は黄色で中には何も入っていない。豚肉のソーセージ、豆乳、コーヒー。
 今日でアンの家を出て、ブンタウへ行くが、その前にクアン、イェン、クイという3人のおばさん3人でホーチミン市内を案内してくれる。クイはエスペラントが達者である。
 まず聖マリア教会、2つの尖塔がある美しい建物である。ベトナムにはカトリック教徒もかなり多いらしい。
 ついで統一会堂、南ベトナム政権時代の大統領官邸である。堂々とした近代建築で、いまでも重要な会議などでは使われているという。屋上にはヘリポートもあるが、地下は秘密の作戦基地で、避難用の現在の革命博物館に通じる長いトンネルもある。南ベトナム政権の最後には、ゴ・ジン・ジェム大統領がこの抜け道から脱出して、チョロンのチャ・タム教会に隠れる。
 女性たち3人も初めてだといって、ベトナム語のガイドにつく。クイが解説してくれる。主なところには日本語の簡単な表示もあり、日本語のガイドもいる。
 ここを出たところで、3人組のおばさん強盗に襲われた。物を売るようなそぶりで近づき、べたべたとまとわりついたと思ったら、後ろのバッグのチャックを開けている。数秒の早業である。あわててふりほどいて、なにするねん!と、どういうわけか大阪弁で怒鳴る。そこにクイたちが駆けつけてきて追い払ってくれた。バッグにはデジカメが入っていただけで、大事なものはウエストバッグに入っているから被害はなかった。
 今度は革命博物館。かつてはザー・ロン宮殿とよばれた優雅な建築である。小規模な歴史博物館と戦争博物館+地誌・産物といった中途半端な施設だが、ここの大階段が新郎新婦の記念写真場になっていて、次々に正装したカップルが写真屋を連れてやってくる。
 タンの家へ。ここで昼食をご馳走になって、しばらく話し込む。アンの家に戻って、荷物を持ってどこかの会社へ。ブンタウのイエスペランティスト、ボイの会社らしい。ここからランドクルーザーでブンタウへ、アンも一緒に来た。
 ボイは非常に達者なエスペランティストである。若いとき、まだベトナム戦争が激しかった頃に、ソ連に留学して、そこでエスペラントを覚えたという。あの激しい戦争のさなかに、「戦力」になったに違いない若者を戦後の復興のために留学させていた訳だ。ベトナムに来てから何度か電話で話したのだが、彼の発案でブンタウに行くことになった。彼はロシア系の石油会社に勤めていて、2週間を海の上で生活し、家に戻って2週間の休暇という生活をしている。
 夕方にボイのアパートへ。彼の10才の娘がエスペラントを少し話す。このアパートは狭くて泊まれないからと、アンの弟の家に行く。大きな2階建て、1階の床面積が4~50坪はありそうな豪邸だ。1階の天井が5m以上あるが中2階はない。アン、アンの弟夫婦と両親、娘でにぎやかな夕食。なんだかすごいご馳走である。ここの奥さんがビールでえらく陽気になった。ボイに聞いたら、最近はアルコールを飲む女性が増えてきたとか。
 ボイの単車でブンタウを案内してもらう。しゃべりながらでツバが飛んでくるのには参った。優れたエスペランティストだが、気さくで面白い人ではある。
 ホーチミンの学校に行っているという2階の娘さんの部屋に泊めてもらう。1階は真ん中に丸柱が立つ広い居間と台所・食堂と2部屋。2階には5つの寝室があり、各部屋にバス・トイレがあるようだ。もちろん水洗。
 バスタブがあるので一瞬喜んだが、少し湯を出すと水になってしまった。

   写真は泊めてもらった家
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メコンツアー

2005-08-18 | ベトナム旅行その2
  2001年2月15日、ベトナム旅行27日目。朝食は、パン、油たっぷりの目玉焼き、甘いオートミールのようなもの、チーズ、コーヒー。クアンが来て、ツアー会社のシンカフェまで送ってくれた。
 今日はメコンデルタへの日帰りツアー。昼食付きで7ドルの格安ツアーである。昨日タンが言っていたように、私に同行するために2人が切符を買いにいったが、満席で買えなかったとか。ところが、バス2台で、そのうち1台は全員が日本人観光客、ガイドも日本人である。ベトナム人のエスペランティストが一緒に来たら困ったことになっていた。
 ガイドさんはベトナムの近代史を要領よく話してくれた。若い人には勉強になったかもしれない。その他、トイレのことや、若者風俗などについても話してくれた。貞操観念が強く、とくに女性は処女を失ったらもうお嫁にはいけない。バイクの2人乗りがデートの定番。バイクで後ろか抱きついていたら、もう2人は結婚を前提のつきあい。などなど。
 あとでキエウの単車に乗せてもらったとき、後ろから抱きついてもいいかと聞いたら、ごくあっさりと「いいよ」と答えたのだが。。。
 10:30頃ミー・トーに着いた。船でメコン川に出る。向こう岸かと思ったら島である。一つの島に上陸して昼食。ご飯の上に肉が一切れ。インゲンとココナツの上にココナツミルクをかけたもの。かなり貧弱な食事。ここの名物、「象の耳」という魚8万ドンを同席した6人共同で注文。姿が象の耳に似ているというのだが、唐揚げにした魚をほぐして、野菜と一緒にライスペーパーに包んで食べる。
 小型のモーターボートに分乗して大きな島の運河に入り、途中からは歩いて蜂蜜の村へ。ここの田舎っぽい風景がとてもよかった。果物を食べ、蜂蜜を試食。蜂蜜1本を40,000ドンで買ってしまった。3mくらいのおとなしいニシキヘビがいて、これを肩に担いで写真を撮る。ガイドのお姉さんが、他の何十ドルもするツアーの参加者は、これだけでも5ドルや10ドルは取られるが、この格安ツアーではただです、という。みんな次々に蛇を担いで写真を撮ってもらう。これも経験、私もやってみた。ずいぶん重い、20kgだと聞いた。それに力があって、よく動く。
 小さなボートで、今度はココナツキャンデーの工場へ。数人だけの小さな工場である。ヤシの実の、皮の内側に着いている白いところを煮詰めてアメにする。包装まですべて手作業である。2個ほど試食。
 船でミー・トーに戻る。バスの待つ近くにニョクナムの工場があったのでのぞいてみた。大きな桶で発酵させているようだが、それはもの凄い匂い! 昔のトイレの匂いに限りなく近い。
 夕食はまたアンの家。なんだかご馳走。ハノイに比べて、ホーチミンの方が物質的には豊かな感じである。ホーチミンを訪れるエスペランティストが珍しいこともあるが、ベトナムの人たちは客を大事にする。エスペラントがいくらか出来るだけでこんなにいい目をしていいのかしらん、と思う。
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ベトナムのバイクタクシー

2005-08-17 | ベトナム旅行その2
 2001年2月14日、ベトナム旅行26日目。足がカユイ。蚊がいるのか? あとで聞いたら、蚊よけに扇風機を回しておけという。
 朝食は太い中華麺と平たい米の麺、肉団子、牛肉などがたっぷり。残った分は犬のエサにするという。かわいい小型犬が4匹もいる。
 洗濯をしたいと言ったら、隣に洗濯屋があるという。貸し洗濯機という感じだが、まだ開店していない。タライを借りて自分で洗濯をすることにした。洗い水がちっともきれいにならないので変だと思ったら、ハノイで買ったTシャツの模様がどんどん流れ出している。絞ると白い部分に転写される。
 洗濯物を屋上に干して、9:15頃一人で歩きだす。今日もエスペランティストの女性たちが案内するというのを、なんとか私一人にしてもらったのだ。ここは中国人街・チョロンの真ん中にある。まず、交差点で通り名を見て、地図と照らし合わせて場所を確認。
 観光案内書の「チョロンの心髄は中国寺院巡りにあり」に従って、7つのお寺(パゴダ)、一つのモスク、教会を巡って歩いたが、実はあまり印象に残っていない。
 歩いているとバイクタクシーやシクロの運転手がすぐ声をかけてくる。昔、平参平だったか、コメディアンが、ポンと自分の膝のあたりを叩いて足をピッと前に出すギャグがあったが、「自分の足で歩くよ」と、これをやってみせると運転手は笑い出して行ってしまう。
 「コム」というご飯とおかずの店で昼食。おかず2品とほうれん草のスープで8,000ドン(約60円)。さて、これからどうしようかと思ったところに、運のいいバイクタクシーが声をかけてきた。地図を広げて、美術館まで1万ドンで頼む。順調に目的地へ。帰りも乗ってくれと言うから、2~3時間かかるよと言ったが、通じたかどうか。
 美術館は、現代美術を中心に、古代の彫刻や像、陶器、金属細工、ガラス細工、家具などなど。時々、窓からあのバイクタクシーが待っているのが見えたが、2時間後に出てきたときにはさすがにもういなかった。
 ベンタイン市場へ行ってみた。ハノイの市場に比べて、ずいぶん静かである。市民のための日用品だけでなく、観光客相手の店も多い。町を歩くとずいぶん臭い。とくに工事場のフェンスなどはかなりひどく臭う。公衆便所が少ないので、シクロの運転手など、外で働く人がところかまわず用を足すという。
 チョロンまでシクロでいくらくらいするのか聞いてみた。1万だと言うから、ノートに10,000と書いて確認すると、そうだという。バイクタクシーと同じ値段な筈はないが、札を見せたら、違うという。結局10万ドンだとわかった。
 バイクタクシーをつかまえて、地図でアンの家を指したが、分からない。物売りのお兄さんと2人で議論、しばらくしてやっと分かったという。2ドル(3万ドン)だというのを1万ドンにまけさせて、3:30、アンの家に帰った。今日は何人かのベトナム人と「会話」したが、みんな気のいい人ばかりだった。
 ここまでに、サトウキビジュースとヤシの実ジュースを何杯飲んだことやら!
 さて、洗濯物は乾いたかな、とベランダに行くと、ズボンがない! 洗った記憶はあるが、「干さなかった」憶えもある。下の階のベランダに干してあった。アンの旦那さんが、タライの中に忘れてある私のズボンを見つけて、洗い直して干してくれたという。
 カバンを開けたら小さな赤いアリの大群が占拠していた。ハノイのホテルでもらった果物の砂糖漬けと豚肉を干して綿にしたようなもので大宴会をやっている。夕べかゆかったのはこいつらに噛まれたのか? アンが、砂糖漬けはそんなに長くは保たないからもうダメだという。
 タンというエスペランティストから電話。ベトナムエスペラント協会副会長である。夕方、キエウと再度電話で話していたが、明日のメコンツアーに誰かを同行させるという。断ったが、聞いてくれない。世話をしてくれるのはありがたいが、少々行き過ぎである。
 夜、キエウ、クアンと3人で出発。私はキエウの単車に乗せてもらう。途中で、フォンという女性とその彼氏が合流。ヤック・ラム寺とヤック・ヴィエン寺へ。どちらも和尚さんが親切に案内してくれた。お布施の要求もなしに!
 最後に、誰か知人の家の法事の集まりへ。わけがわからないままに、なんだか歓迎されてご馳走になってしまった。

   写真はお寺の一つ。仏像の後ろにイルミネーション。
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4階建て6層の住宅に泊まる

2005-08-16 | ベトナム旅行その2
 2001年2月13日、ベトナム旅行25日目。朝早くにクアンとキエウがやってきた。6時にホテル代を払って、荷物を担いで外の道路へ。ワゴン車が1台。イェンとアン、エスペラントが話せないおばさんと若い娘。私をいれて7人で、今日はクチとタイ・ニンへの遠足である。
 アンは1998年のエスペラント世界大会(フランス)で会った人だが、99年のアジア大会(ハノイ)で会ったときには私を憶えていなかった。今度はさすがに憶えていた。ものすごく話好きで、つたないエスペラントで車内で絶え間なく話しかけてくる。このアンの話が一つのきっかけになって、私は「ベトナムからの報告」(日本語版は「生きぬいた人々」)という本を自費出版することになる。
 8:00少し前にクチ到着。ここは総延長が200kmにもなるゲリラ戦用のトンネルで有名なところである。案内人について入場。まずビデオを見る。私のために日本語のビデオだった。トンネルは3層になっており、体の大きなアメリカ兵は入れないし、たとえ侵入してもあちこちにとラップが仕掛けられている。アメリカ軍も総力を挙げて攻撃したが、ついに持ちこたえたところである。2、3のトンネルに入って、通路などを歩く。
 近くに大きなパゴダがある。中に入ると、正面にホーチミン主席の像があり、4方の壁面にはぎっしりと戦死者の名前が彫り込まれている。この地方の分だけだというのだが、いったいどれだけの数なのか見当もつかない。
 ここを出てさらに車で走り、横道にそれたと思ったら、キエウのおじさんの家に到着。ちょうど、そのおじさんの父親の命日で、十数人の男が2つのテーブルを囲んで飲み食いをしながらこっちを見ている。ここで昼食。なかなかのご馳走である。男たちの輪に入ってみたが、言葉がわからないだけでなく、私は酒もタバコもダメなのでどうしようもなかった。
 この家の庭に例のトマトに似た果物の木があった。思ったよりも大木であった。トイレを借りたら、女の人たちが台所で食事をしていた。
 ここから近くに遊園地のような山があった。案内書にあるバーデン山だろうか? 中腹にお寺があって、そこまでロープウエーで登る。
 最後はカオダイ教寺院。巨大で派手派手しい。内部には大きな目玉が本尊の代わりに置かれている。カオダイ教というのはベトナムの新興宗教で、この地方では大きな勢力を持つ。あらゆる宗教を統合したようなもの、らしい。
 16:00に帰途につき、途中で夕食。焼き豚と骨の入ったうどん、キノコをゼリーで固めたもの、ヤシの実ジュース。今日からアンの家に泊めてもらう。
 まず警察に行って、パスポートを見せて書類を受け取り、さらに別の警察署に行って、保証人2人が署名をして、やっと宿泊許可が出た。この手続きは、ほかの家に泊まるときはもう必要がなかった。
 アンの家は4層だが、中2階を途中に作って内部は6層で、その最上階に泊めてもらう。さらにこの上に屋根裏部屋があるという。すぐ下にアン夫婦の部屋と浴室・便所がある。浴室にバスタブがあったので喜んだら、排水が壊れていて使えないからシャワーだけだという。バスタブに水が張ってあるのはトイレの後始末用である。トイレ自体は水洗。
 コーヒーを持ってきてくれたが、甘いインスタント。私がいつもはブラックで飲むと言ったら、もういいというのにまた持ってきてくれた。次には夜食はどうかと、なかなか一人にさせてくれない。
 10時過ぎにやっとベッドに入ったが、暑い。外が騒がしい。何か食べ物売りだろうか、チンチンと鐘を鳴らしているのがいつまでも止まらない。

   写真はトマトに似た果物、カオダイ教寺院内部
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ホーチミン戦争博物館

2005-08-15 | ベトナム旅行その2
 2001年2月12日、ベトナム旅行24日目。早朝にこのあたりを散策。ホテルのある一角は、広い道路に取り囲まれて、内部は迷路のように狭い道が入り組んでいる。全体でタテヨコ100メートル弱くらいか。狭い道沿いの家々は、暑いからか窓が開け放してあるところが多く、生活がモロに見えてしまう。こんなところでも朝の食堂が店開きをしている。
 キエウとクアンの2人がやってきた。単車で少し走って、フォーの朝食。キエウは仕事に行き、クアンが単車で町を案内してくれるという。彼女は60才くらいだろうか。
 まず戦争博物館。パンフレットは英語と日本語で書かれている。アメリカの犯罪行為の告発。枯れ葉剤被害の正視に耐えない写真も。ベトナム人民の戦い。各国からの支援・抗議行動の資料。日本での闘いが大きく取り上げられ、焼身自殺でアメリカと政府の抗議したエスペランティスト由比忠の進の写真も。最後に「虎のオリ」の実物大模型。これは、コンソン島の牢獄である。アメリカ軍はこの島で残酷な拷問を行った。
 1979年の中国によるベトナム侵略についての展示がなかったように思う。あとで若い人たちに聞いてみたが、この事件そのものを知らなかった。
 サー・ロイ寺、ヴィン・ギエム寺。どちらもそれぞれに歴史のある寺だが、建物は新しい。どちらも本尊はかなり大きな仏像である。天井にぶら下がる巨大な渦巻き線香が面白い。
 ダイ・ヤック寺。極彩色の布袋さんのような、にこやかな巨像。
 エスペランティストのイェンの家へ。通りに面した一部屋が事務所になっていて、ガンガンに冷房がかけてある。近くの路地に小さなパゴダがあった。日本のお宮さんのような感じだろうか。キエウと中年女性のクックという人が来て、昼食を一緒によばれる。かなりのご馳走である。ご飯、野菜サラダ、野菜たっぷりの鶏の煮込み、同じく魚の煮込み、ラッキョ、キャベツ、カリフラワーの酢漬け、トマトに似た果物、パイン、ザボン。
 またクアンと2人になって、レ・ヴァン・ユエット寺。大きなお墓とタイル装飾の派手な建物。中国様式の海福寺。元をうち破った英雄をまつるチャン・フン・ダオ寺。中国様式のフン・ソン・トウ寺。最後にヒンドゥー寺院を3つ、その最後がマリアン・ヒンドゥー寺院。高い塀に囲まれていて、内部は彩色された、ヒゲがあるくせに妙に色っぽい人物画や像。
 たくさん回ったが、ハノイの寺のような古寺の風情はあまりない。夕方近くにいったんホテルへ。近くにシン・カフェという旅行会社があって、15日のメコンツアーの切符を購入。ここの観光案内には日本語のものがあった。
 キエウと2人の女性がやってきて、一緒にレ・ニエムの家へ。彼はホーチミンエスペラント協会の会長である。ホーチミンに来て、はじめて男性のエスペランティストに会った。この家の書斎が、ホーチミンエスペラント協会の図書館にもなっていて、キエウが管理を手伝っている。
 ホーチミンでは全体にレベルが低く、図書館の活用もあまり活発ではない。若い人が少ないが、最近宣伝をして十数人が学習を始めたとか。いい先生がいなくて、キエウはじめ、若い人の発音もよくない。
 ここで夕食をご馳走になった。薬膳料理「黒いヒナ鳥と薬根の煮物」、真っ黒なヒナ鳥が丸ごと入っていて、あまり気持ちのよいものではなかったが、かなり高価なものらしかった。

   写真はお寺の天井からぶら下がる巨大な渦巻き型線香。
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ホーチミンの交通地獄

2005-08-14 | ベトナム旅行その2
 2001年2月11日、ベトナム旅行23日目。早朝に海岸まで行ってみた。泳いでいる人、体操している人、けっこうにぎやかである。8:30発だったが、9:30に出発。いままでで一番きれいな大型バスで冷房も効いている。道もよくて快適に走る。ファンランの近くだと思うが、チャンパ遺跡の塔を見た。事故った大型バスも見た。11:30きれいな海岸で休憩。ファンティエットでも丘の上に立つチャンパの塔を見た。ここから海岸沿いのリゾート地、ムイネに入り込んで昼食休憩。ここも美しい海岸であるが、レストランは町の2倍の値段。
 中国人の乗客からトマトのような果物をもらった。さほど美味しくはないが、水気が多く、わずかな甘みと酸味がある。
 ホーチミンめざしてバスは快調に走る。ワゴン車と自転車の事故。急にスピードを落としたのは取り締まりをやっていたらしい。あと40kmくらいのところで乗用車と単車の事故。道路がひどく混んできた。かなり遅れそうだ。交差点で若い女性2人乗りの単車が転倒、バスが危うくこれを避ける。そして今日4つ目の事故、単車のおじさんが倒れていてかなり血が流れていた。
 約1時間遅れて到着。荷物を持ってキョロキョロしているところにキエウがやってきた。他に3人の中高年女性。まず狭い路地に入り込んで、ホテルに案内してくれた。ダブルの部屋だが1泊5ドルの超格安。バスタブどころかシャワーは水しか出ない。もちろんエアコンもない。ここに2泊する。
 持ってきたエスペラントグッズを適当に分けてくれと言って全部キエウに渡す。キエウが私へのおみやげだといって菓子を1箱。もうカバンがいっぱいだからこれ以上荷物を増やさないでくれといったら、もう1個カバンを買えだと!
 ずっと音信不通になっていたから日本に電話をかけたいと言ったら単車で中央郵便局へ。キエウに手伝ってもらって電話。51秒ですませて34,000ドン(300円弱)。
 10階建ての百貨店へ。エスカレーターで最上階のレストランへ。キエウと3人のおばさんたち、そこに若い女性が3人加わってにぎやか。フォーかと思ったがフォーではないという麺、他に小皿に太いうどんと具が乗ったもの。最後にマンゴーシェイクを私だけ飲んで、お金はキエウが払うといって聞かない。
 少し下の階に下りて、本屋でホーチミン市の地図を買ってくれた。すごい人混みの中を地図を持って本屋から出ようとしたら、店の人に止められた。お金を払ってないというのだ。だいぶ先へ行ってしまったキエウを大声で呼ぶ。
 キエウの単車に乗せてもらって、みんなで町の中を走る。途中ではぐれてしまって、停まっていたらかわいい女の子が花を売りに来た。彼女にあげたら喜ぶよと。結局このあとは誰にも会えなくてホテルへ。
 ホテルのおばさんが体を洗うのに使えといって、熱湯の入ったポットを4本も持ってきたが、暑いから水だけのシャワーですませた。扇風機を最強にしてもこの暑さはどうしようもない。それでも疲れているからいつの間にか寝てしまった。

   写真は中央郵便局
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ニャチャン、おいしいもの食べ歩き

2005-08-13 | ベトナム旅行その2
 2001年2月10日、ベトナム旅行22日目。出発して20分くらいでバーンと大きな音がして後輪タイヤがパンク。ジャッキもなしにわずか20分で交換。7:30頃ニャチャン到着。ついたホテルに入る。こんな早朝にチェックインして10ドル。ほとんど効かないエアコンつき、シャワーの湯は出るがバスタブはなし。ホテルマンたちが大声で挨拶してくれる。「アジノモト!」
 ツアー会社で明日のバスを予約。ツアーバスはここからダーラットへ行ってからホーチミンへ行くルートもあるが、私の切符は直接ホーチミンへ行く。ついでにホーチミンでの到着場所を確認。
 朝食は屋台のフォー・ボー。ボーは牛肉である。フォー・ガーといえば鶏肉入りのフォー。なんだかわかりやすい。細かく切った生の牛肉を網の上に乗せてさっとスープにつける。フォーの上に乗せたときはまだ赤身が残っているが、上からスープをかけると完全に火が通る。絶妙のタイミングである。
 ニャチャンの街を歩く。ニャチャン大聖堂が山の上に堂々とした姿を見せているが、見学できる時間が限られていてあきらめた。
 ロン・ソン寺、拝殿のようなところに入ったら、お坊さんが手招きする。仏座の天井を見ろという。龍の絵が描いてある。そして、ごく自然にお布施を要求されて断れなかった。物乞いがひしめく階段を登って、白い大仏。台座に飾られているのはベトナム戦争当時にかいらい政権やアメリカに抗議して焼身自殺した7人の僧侶である。
 さらに45分ほど歩いて、橋を渡ってボーナガール塔へ。ここもチャンパの遺跡である。街に近いためか観光化されていて、修復・再現工事が行われている。
 ヤシの実ジュースは2,000ドンだった。いままでずいぶんボラれていたわけだ。ホテルの近くまで戻って、海岸に出てみた。広い砂浜のビーチだが、波が強くて泳げる雰囲気ではない。それでも数人が泳いでいた。周辺にはツアー会社やダイビングの会社が沢山ある。
 海岸で座ってぼんやりしていたら、次々に物売りが来る。若い男がノートを開いてみせる。日本語で、この人は親切で正直な人だ、いろいろお世話になって感謝している、といったことが書いてある。それは結構だが、いま頼みたいことは何もない。
 昼頃にいったんホテルに帰ってシャワーと洗濯。2時頃からまた散策に出る。道ばたに食べ物屋が何軒も店を広げている。葉っぱで包んだもの、「何だ?」と聞くと「ベリーグッド」と答える。2種類を1コずつ、1,000ドンで食べてみた。生春巻きを蒸したようなもの。美味しかった。立ち上がったら、2つしか食べないのかという顔をしている。またあとで来ようと思ったが、夕方にはすでに誰もいなかった。サトウキビジュースは2,000ドン。ホテルに戻って一休み。
 5時過ぎにまた歩きに出た。また違う店で葉っぱに包んだものを食べる。今度は肉を使ったハンペンのようなもの。美味しい。海辺の広場はサッカー少年たちなどたくさんの市民が遊んでいた。昼間は閉まっていた遊園地も開園している。またフォーを食べて夕食にした。
 帰る途中で道路端にコンロで何かを焼いている女の子を見かけた。何だと聞いたらバナナだという。バナナの葉にバナナを包んで焼く。これをスライスして、ナタデココとココナツミルク、荒切りのピーナツを少々かける。バナナがもっちりしてこれまた絶品。
 ホテルに帰って、ホーチミンで待ってくれるキエウに電話。到着時間と場所などを伝える。日本にも電話しようと思ったが、ホテルの人にもかけ方がわからない。あれやこれやとやっていたが、結局郵便局に行かなければかけられないことがわかった。

   写真はボーナガール塔と、ボーナガールへ行く途中の橋から見つけたタライ舟
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ミーソン遺跡とホイアンの街

2005-08-12 | ベトナム旅行その2
 2001年2月9日、ベトナム旅行21日目。部屋のキーを預けて出ようとしたら、チェックアウトだという。昨日は夕方出発だから部屋もそれまで使えるようにしてくれといって、わかったと思ったのだが。言葉が中途半端にしか通じていなかった。そこに迎えのバスが来たからそのままにして出かける。10人ちょっとの客で満員のボロバス。8:05頃出発して、9:40頃到着。帰りは11:00出発だという。入場に5万ドン、小さな橋を渡って、ガタガタのトラックの荷台で約2km、さらに400mほど歩くとミーソンの遺跡が見えてきた。
 ここは15世紀に滅亡したチャンパ王朝の遺跡である。ベトナム中部から南部にかけて残る遺跡の中では最も規模が大きい。ヒンドゥー教の影響が強い石造建築の残骸がいくつか立っている。世界遺産にも登録されているが、いわば2重の意味での遺産である。かつて栄えた文化の遺産であり、愚かな戦争による破壊のあかしでもある。
 何となくひとりで見たかったので、他の観光客たちが来ないうちにどんどん歩いていった。ほとんど原形をとどめないほどに破壊された建物の一部が草むして立っているのはもの悲しい風景である。建物の残骸が転がっている。彫刻・像がほとんどないのは盗まれてしまったらしい。充分な保存対策がなされないままに、観光客が踏みつけるままになっている。このままでは崩壊が進行してしまわないだろうか?
 文字を彫り込んだ碑のようなものがあった。いまのベトナム民族は、かつては独自の文字を持たなくて、中国から漢字を移入して、それを表音文字として使ったと聞いている(実際は漢字をアレンジしたチュウ−ノムという文字)。ベトナム語の発音は6つの声調があって、発音記号としての漢字が数千も必要だったとか。しかし、この碑に彫られた文字は明らかにそれとは異質のものである。
 帰りのバスの中、向かい合わせに座ったいれずみだらけのアメリカ人らしい若者が3人ほど。私のTシャツの文字を見て、それはどこの言葉か、と聞く。「エスペラントだ」「おーっ、エスペラントか、初めて見た」と、しばらく盛り上がった。
 1時少し前にホテルに戻った。荷物はロビーに降ろしてあった。支払いを済ませて、街頭の食べ物屋で昼食。太いうどんのようなものに具が乗っている。5,000ドンで結構いける。
 ホイアンの町をゆっくり歩く。1999年の夏に来たときに一通り見学をした街である。観光地にしては、静かな落ち着いた街で好感が持てる。古い民家に10,000ドンで入ってみた。通り庭で奧に庭があって、何となく懐かしい気持ちになる。美術品の店がたくさん並んでいる。ゆっくり鑑賞して歩く。ハノイで買いそびれたのと同じような猫の墨絵を見つけて14,000ドンで買った。5万ドン札を出したら、お釣りがないと近所へ両替に行った。
 幼稚園を見つけた。妻が保育園の先生だったので、彼女のおみやげ用にと鉄の門の外から写真を撮っていたら、中に招いてくれた。自由に歩き回って写真を撮る。部屋に入っていってもこどもたちはほとんど騒がない。かなり大きな2階建ての建物がコの字形に立って、中庭はレンガ敷き。ちゃちな遊具が少し。ハノイの小学校同様、こどもたちは少々過密状態。外で遊んでいたこどもたちがだんだん私の回りに集まってきたので逃げ出した。
 この幼稚園の前を4時過ぎに通ったときは、大騒ぎになっていた。退園時間で、親が迎えに来ていて、そこにオモチャ屋さんやらアイスクリーム屋さんやらが店を出して・・・。
 少し疲れて、レストランに入る。サトウキビジュースが3,000ドン、コーヒー4,000ドン、ミルクコーヒー5,000ドンなど。シェイクココナツ5,000ドンを飲んでみた。美味しいが少し甘すぎた。ここでトイレを借りた。きれいな洋式トイレだったが、タンクから水は出ない。やっぱり横に水の入ったバケツが置いてある。
 川岸を歩く。陶器店を何軒かのぞいてみた。バチャンのものがほとんどらしい。ボートに乗れとうるさく寄ってくる女の子たちをかわしながら歩く。港の外れまで来たところで、ボートのおじさんが乗らないかと誘う。1時間1ドルだという。何となく人の良さそうな感じがしたので乗ることにした。カヌーのようにゆっくりこいで進む。岸ではさっきの女の子たちが怒っている。少しだけ私も舟をこいでみた。川の真ん中に出ると風が気持ちよく、雲に隠れていく夕日が川面に映える。
 ゆっくりゆっくり進んで、漁網を引き上げているところを見学。この調子では1時間を超えて2ドルだと言い出さないかと心配になりはじめた頃、おじさんは長い櫂を引っ張り出して立ってこぎ始めた。行くときの3倍くらいの早さで帰る。ほぼ1時間、満足の1ドルだった。
 ホテル前のレストランで7,000ドンのヤキソバ。
 ニャチャンへの夜行バスは20人乗りくらいの、いままでで一番のボロバス。最後尾に客のバッグをぎっしり詰め込んで満員にする。スーツケースだとボコボコにされそう。このオープンツアーバスは、必ず満員になる。8:20出発。道路が未舗装らしくものすごく揺れる、飛び上がる。

   写真は、ミーソン遺跡、チャンパ文字、幼稚園、ボートのおじさん
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ベトナムで過去の日本を見る

2005-08-11 | ベトナム旅行その2
 2001年2月8日、ベトナム旅行20日目。フエをあとにして、ホイアンをめざす。例の女子学生も一緒になった。彼女とはホイアンで別れたが、最後までお互いに名乗らなかった。割合きれいな大型バス。8:45出発、10:30、ハイヴァン峠の登り口で停車。写真を撮るのに絶好の場所。天気がよくなくて見通しがきかないから峠よりもいいかもしれない。峠でも休憩。1999年の夏に来たときほど物売りはしつこくなかった。
 12:15、五行山、30分停車だという。少し短いと思ったが、入山料2万ドンを払って山を登る。前回行かなかった方向へ行ってみたが、小さな洞窟パゴダがあった。下りてきたらヤシの実を売っている。トゥ・ドゥック帝廟では10,000ドンだったのにここでは5,000ドン。やっぱりボラれていたか! ジュースもたっぷりあって、中の実もトロリとして美味しかった。そこにあの女子学生さんが下りてきて、ここって何があるの?と聞く。大洞窟への行き方を教えたら駆け上がっていった。
 13:45、ホイアン到着。ホテルの前で泊まり、気に入った部屋がなかったら別のホテルに行くという。こんなことであまり時間を使いたくないので、16ドルの部屋に決めた。旅行会社で明日のミーソン遺跡ツアー(2ドル)と、ニャチャンへの夜行バスを予約。
 バスタブがあったのでさっそく洗濯。ところが水道の水が茶色である。今更仕方がないから洗濯してベランダに干した。
 2:30頃外に出て自転車を借りる。貸し自転車屋がいなかったが、ホテルのガードマンらしき人がいいから乗っていけという。ここで値段の交渉をきちんとやっておかなかったのが失敗だった。帰ってきたら1万ドン取られてしまった。他の自転車屋で1日貸しで1万ドンという表示、時間貸しもあった。
 ホイアンには昔(16世紀頃)日本人街があって、数百人が住んでいた。ここで死んだ人の墓がある。それを探してブラブラ行くが、すぐに分からなくなって、道を聞いたら2人の女の子が自転車でついてきた。さかんに「ノーマネー」だから安心しろという。言葉がなかなか伝わらなくてムダをしたが、何とか2カ所の日本人の墓を見つけた。ガイドがいなかったら絶対に見つけられない。
 ついでに彼女たちに案内させて、ホイアンで最も古いチュック・タイン寺と中国人虐殺の碑を見に行く。第2次世界大戦中に、ホイアンやダナンで日本軍によってスパイ容疑で虐殺された、13人の華僑を悼む記念碑である。「民族正気」という文字。
 街に戻ると、彼女たちがジュースを飲んでいけという。ガイド料代わりに何か食べてやろうとついていくと、1軒のレストランに案内された。ここで「ホワイト・ローズ」というホイアンの名物料理、14,000ドンを注文。エビをつぶしたようなものを生春巻きの皮で餃子のように包んで蒸したものにカリカリに揚げたニンニクとタマネギが乗っている。これは文句なしに美味しかった。
 女の子たちが自分たちにジュースを飲ませろという。「ノーマネーだろ?」「ジュースはマネーじゃないもん」「そりゃ屁理屈ってもんだよ」・・・肝心なところは英語が分からない振りをして日本語でしゃべり倒す。彼女たちは「どうして英語を話さないんだ」と怒る。「俺は日本人じゃ!」 こんな生活をしているとエスペラントを忘れてしまいそうだ。
 ホテルの近くへ戻ってブラブラしていたら、サトウキビ屋さんがいた。1999年には不衛生ではないかと飲まなかったが、今度は飲んでみた。80cmくらいの白いサトウキビを昔の洗濯機の絞り器のような手動のローラーで搾る。一回搾ったら2つ折にしてもう1回、さらに4つ折にしてもう1回。ブリキの洗面器のようなものに汁を受ける。ちょうどコップに7分目くらい。麻布をどけると氷のかたまり。それを割って放り込み、レモンを少々垂らしてできあがり。2,000ドン。 
 氷は生水と同じで絶対に食べるなといわれていたからちょっと恐かったが、昔懐かしい味がして美味しかった。私の子供時代には、「あましん」といっていたが、よくかじったものだった。やみつきになってしまって、このあとの旅行中あちこちで何杯も飲んだ。値段はどこでも2,000ドンが相場。3,000ドンのところは、うちは量が多いんだと言っていた。
   写真は日本人墓所の一つ、民家の庭にある。中国人虐殺の碑
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ベトナム戦争の激戦地を行く

2005-08-10 | ベトナム旅行その2
 2001年2月7日、ベトナム旅行19日目。DMZツアー、11ドルだが、どういうわけか朝食付きで、昼食はめいめいに払う。DMZというのは、DeMilitarised Zone の略で、非武装地帯を意味する。1954年にベトナムが南北に分裂したとき、北緯17度線を中心に幅約10kmにわたって定められた。ベトナム戦争中にはこの周辺が激戦地になり、その戦争の跡を巡るのがこのツアーである。
 同行十数人、バスで一緒に来た女性2人、卒業旅行だという若い男、三十代くらいのカップル、そして私の6人が日本人。ガイドは英語。よく分からないから、他の日本人に聞くと、誰も分かっていなかったりして。7:20出発、まず弾痕生々しく破壊されたクアン・チ教会。保存工事をしないといずれ崩壊しそうだ。ドン・ハで朝食。コーヒーが美味しかった。ここから山岳地帯に入る。
 のどかな感じの山並みは、北部ベトナムのように切り立っていなくて優しい感じがする。少しゴツゴツした岩山が、アメリカ軍のヘリコプター基地があったロック・パイルという山。のどかな街をぬけ、少数民族の村を見ながら、戦争中に落とされて再建されたダク・ロン橋を渡って、少数民族の村で休憩。粗末な小学校があって、十数人のこどもがいた。
 少し大きな街をぬけ、ひどくガタガタの道を通って、ケサン基地に到着。戦車の残骸などが残され、新しい展示館が建っている。周囲はコーヒー畑で、ここがベトナム戦争で最も激しい戦闘が行われたところだとはとても想像できない。
 同じ道を帰って、ドン・ハで昼食。豚肉ライス14,000ドン。ここから30分ほど北へ進んで、ヒエン・ルーン橋。かつては南北分断の象徴であった橋。北半分が赤、南半分が黄色に塗られていたという。米軍によって落とされ、その後1973年に再建された。
 さらに海岸に向かって走り、ヴィン・モックの地下トンネルを見学。疎開を勧告された住民がそれを拒んで、地下にトンネルを掘って生活したというもの。有名なクチのトンネルは戦闘用だが、ここは生活用である。家族のための居住室や集会室もあり、排水なども考えられている。全長3km3層、13の出入り口があるという。狭くて蒸し暑いトンネルの中を、階段を下りたりしながらかなり歩いた。やっと外に出ると海岸だった。物売りのこどもたちが殺到してくる。
 これでDMZツアーが終わって、フエに帰った。
 同行者に聞くと、ハノイ〜ホーチミン間のバス料金は様々である。19ドルという人もいた。卒業旅行の気の弱そうな青年は、南から北に向かっているが、1日10ドルですませるのを目標にしている。ホーチミンでバイクタクシーを4日間40ドルで契約、初日も2日目も行きたいところへ行かないので文句を言ったら、逆に脅されて、ガイド代とガソリン代は別だとか何だとかで70ドルを余計に取られ、3日目には現れなかった。それ以来ベトナム人不信に陥っているという。
 夕べ、シャワーの湯が出なかったので、朝フロントに文句を言っておいたが、そのまま。部屋を代えるか部屋代を安くしろといったら、部屋まで来て、スイッチが入っていないからだという。初めての者にそんなことが分かるか、そっちの責任だろうと毒づいたが、笑っているばかり。そして、今度は熱い湯がいくらでも出た。
 街をぶらついていたら、昨日の食堂のおばさんが私を憶えていて道の向こう側から呼んでいる。10,000ドンの焼きそばで夕食。

   写真は少数民族の村の小学校とヴィン・モックの地下トンネル
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