エスペラントな日々

エスペラントを学び始めて27年目である。この言葉をめぐる日常些事、学習や読書、海外旅行や国際交流等々について記す。

総合案内の仕事・その3

2007-09-01 | 2007年世界大会
 最後に、寄せられた質問のうちからまだ触れていないものをいくつか順不同で紹介しておこう。前にも書いたように、Kongresa Libro:大会書でも Kongresa Kuriero:大会新聞でもわからないことが多い。
 ・C^e-kurso(直説法によるエスペラント講習)にはどこで申し込むのか?
 ・Paroligaj kursoj(会話教室)はないのか?・・・大会第2報と大会書の記述(Edu.net)が違うために起こった混乱である。初心者が日本語で聞きに来ることが多く、大会書の該当ページを示しながら説明した。逆に、Edu.net って何をするんですか? という質問も。
 ・AIS というのはなんですか? これはサン・マリノにある国際大学で、その公式の講座である。登録すると(有料?)最後に修了証(公式の単位?)がもらえる。詳しいことはわからない。誰かコメントしてください!
 ・Tago de lernejo って何をやるの? 5時間半もあるのに内容についてはどこにも書いてない。教師の会合であるが、エスペラントの講習会を想像した人もいた。
 ・冷たい水はどこで飲めるのか? この質問が多かったのは、大会書に「一般的に水は良質である。おすすめはしないが水道の水さえ飲める。レストランでは水やお茶が無料である。大会会場では冷たい水がただで飲める」という一項があったからである。たいていは「どこにもありません、自販機を利用してください」ですんだが、大会書を示して「ここに書いてあるじゃないか」という人もいたらしい。「水道水も飲めますよ」「あれは冷たくない!」
 ・Diservo(礼拝)の行われる教会はどこにあるのか? 大会書には所番地のみが書いてあった。
 ・ZAIMでの行事に関する質問も多かったが、プログラム表以外には何もわからないので、とにかく現場へ行ってくださいとだけ返事をしていた。「エスペラントの講習会はどこですか」という質問は、このZAIMでの入門講習会が多かった。
 ・Nacia Vespero のチケットはどこでもらうのか? 会場のみなとみらいホールが、このときだけ座席指定制で、チケットを入場の時に受け取ることになっていた。入場するときにわかることなのだが、このことが繰り返し流されていた(開会式でも言われたのだろうか?)。あらかじめチケットを入手する必要があると思うのは自然な成り行きであった。
 ・当日受付はどこですか? はともかく、受付はどこですか? というのも結構あった(すぐ目の前じゃ!)。 その他、開会式やコンサートの場所はどこか? 自分の泊まるホテルの場所。 国際電話のかけ方は? 近くの観光地や空港への行き方・時間などなど。

 これで私のUKはおしまいである。夢中になって仕事をしていた気もするが、あまり責任のない立場で(だからこそ)充分に楽むことができた。この先もう2度とこんな機会はないだろうと思う。

   写真は来年の世界大会(ロッテルダム)の第1報
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UK日記(9)8月11日

2007-08-31 | 2007年世界大会
 第92回世界エスペラント大会も今日が最終日である。閉会式が行われるが、遺失物の管理があるので誰かが会場にいなければならない。それで私が残ることにした。ホテルをチェックアウトしてきた人が荷物を置いていったので、その番もしなければならない。大会本屋さんが2時まで営業ということで、総合案内の窓口は1時までということにしてある。
 閉会式の間、私の他に受付の責任者のKさんとUEAの書籍責任者とが残っていた。もう誰も来ないだろうと思っていたら、閉会式の場所を聞きに来た人が3人、当日参加を申し込みに来た人が1人。閉会式は公開なので参加登録は必要ないのだそうだ。知らなかったのでKさんがいてくれてよかった。
 11時半頃に閉会式が終了。最後にカメラが1個見つかり、別のカメラと帽子が1個が持ち主の元に戻った。残った持ち主不明の拾得物のリストをつくって、LKK事務所に届ける。後は任せて、私の仕事は終了である。この間にも大会後の旅行などについての質問が数人からあった。1時を過ぎると総合案内にやってくる人はほとんどいなくなり、2時から本屋さんの片付けが始まった。それが終わっても、まだLKK事務所の片付けが続いていたし、そのあとはZAIMの片付けがあるということだったがここで失礼してホテルへ。ZAIMには一度も行かなかったが、入門講習会が満席になるなど盛況だったらしい。世界大会の運営も外国人参加者の評判はよかったとか。
 この日の総合案内のテーブルには、次回世界大会の第1報と、横浜大会のカラー刷りポスター(A4版)が大量に積まれていた。次回大会はともかく、500枚以上もありそうな横浜のポスターはもう役に立たないと思っていた。ところが、案外おおぜいの人が持っていく。おみやげにと沢山持っていく人もいて、2~3割しか残らなかった。最初は違和感を抱いた近代的ビルの建ち並ぶ「日本」の写真も、今となっては懐かしく、美しいとさえ感じる。
 夕方過ぎて妻と桜木町に戻る。大会会場から見ていた公園を散策。汽車道を渡って、横浜ワールドポーターズをうろつき、インド料理の夕食、コスモロック21(観覧車)は30分待ちだったのでやめて赤レンガ倉庫へ。ここでタクシーを止めてホテルに帰る。デートもおしまい。荷物を片付けて宅急便でわが家に送る準備。

 8月12日
 新幹線はベトナムのニエムさんと一緒になった。私がホーチミンに行ったときにお世話になった方で、娘さんがJEIの招待者でもある。77才と高齢なので、席を譲って私と妻が交代で立つ。しばらくは名古屋の親戚の家に滞在するということで、名古屋駅には出迎えの人が来ていた。昼食をすませて中央線のホームに出ると、ブルガリアのウラジミールさんとばったり。このあとわが家に泊まる人である。10日近くも家を空けていたので、もう少し遅く来てもらって掃除をしたかったのだが一緒に恵那へ。この日から22日まで休みなく外国からの客が泊まるが、それについてはまた改めて書こう。

   写真は夜の赤レンガ倉庫
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総合案内の掲示板

2007-08-30 | 2007年世界大会
 総合案内の横に掲示板が1枚だけあった。私は、いろんな団体・個人がいろんなものを貼るからもっとたくさん要ると思った。実際、北京の世界大会では自由に貼れる掲示板があったし、柱や壁面に貼っている団体もあった。しかし、事前準備の段階では「掲示はUEAの許可事項であり、総合案内係としては関知しない」ということだった。実際には、当日会場でUEAの担当者を捜し出して許可を取るなどはほとんど不可能である。総合案内の掲示板は公式のものだけを貼るというのが原則ということになるが、実際に貼られたものが公式のものかどうか判断することは我々には困難である。
 会場の壁面などは掲示が許されないし、他に適当な場所もないから、予想通りいろんなお知らせが貼られていっぱいになってしまった。放っておくと他の人の貼った上にまた貼る人もいる。この掲示板には、私も遺失物・拾得物の告示を貼っていたので、結局ほとんど私が管理することになってしまった。明らかに期限が過ぎたものや、意味のわからないものを勝手に判断して取り外し、板面を有効に使うように整理しなおした。中には「UK後、日本を旅行したい。誰か泊めてくれないか」「文通したい」といった全く個人のものもあったが取り外さなかった。こういうものを知らせる場所が他にないからだ。
 この掲示板は裏表使ったが、ずいぶん狭く、張り出したくても場所がなくてあきらめた人があったかもしれない。たぶんこの3倍くらいあってもよかったのではないかと、個人的には思っている。

   写真は夜のランドマークタワー
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UK日記(8)8月10日

2007-08-29 | 2007年世界大会
 朝、総合案内の席をセットしようとして「Rendevua Tabulo の荷物がどこにもない!」と、一騒ぎ。とくに預かっているメッセージがないと仕事ができない。いつもは拾得物と一緒にLKK(地元実行委員会)の事務所に置くのだが、昨日片付けた人が別の部屋にしまったらしい。思いつく限りの部屋をさがしたが見つからない。そのうちにやっと見つかったのは普通の会議室だった。「LKK事務所(412号室)」というのが「421号室」と取り違えられた間違いだった。
 自分のノートに記録がないのだが、たぶんこの日の朝だったと思う。Sさんがやってきて、UEAの会議の手伝いをしてくれる人が2人要るという。大きな部屋での会議なのでマイクを使うが、その発言者にマイクを持っていく仕事である。長時間の会議なので30分程度で交代してもらう。Sさんもすぐ会議に行かなければならないから、自分でさがしているわけにはいかない。誰かいないかと見回していたら、ハノイから来た女性を見つけた。3~40分ならいいというので会議室へ連れて行く。もう1人、受付の女性に頼んで2人確保。午前中は総合案内も忙しく、私がやったのはここまで。このあと順調に交代要員が見つかったのかどうかは知らない。
 午後は囲碁の分科会に出てみたが、どうも気分が落ち着かない。総合案内の方が気になってしまう。結局数分で出てきてしまった。
 Au^kcio(競り売り)に物品を提供したいという人が2人。我々にもどこに行ったらいいのかわからない。とりあえずUEAの窓口(会計・一日参加の受付をしている)へ行ってみるように助言。それで解決したのだろうか?
 Teatraj^o(演劇)の出演者だろうか、1年間かけて準備して上演したのに、大会新聞に一言も評が載っていないのはなぜかと怒っている。誰かが投稿したらどうかと総合案内に置いてある投稿箱を示す。ささっと書いて私に見せてくれたが、ごく簡単に書いてあるだけで署名もない。「署名はしないのか?」「最後に?を書いたからそれでいい」 この投稿は、大会新聞には載らなかったと思う。
 大会新聞は会場内のあちこちに置いてあるのだが、4号(8月7日)だけがなくなってしまった。取りに来る人もいるのでLKK事務所で少しだけもらってきたがすぐになくなる。もう一度行って、増刷はしないのかと聞くとHさんが「君がここで刷っていったらどうか?」という。いくら何でもそれは総合案内の仕事ではない。ちょっと頭に来た。このあと、4号は増刷されたが、最終日にはやっぱりなくなってしまった。あとで、4号から発行部数を減らしたと聞いた。最終日に出た増刊号も発行部数が少なかったらしく、なくなってしまった。余ってもいいからたっぷり刷ればいいのにと思った。
 この日は「Internacia Arta Vespero:国際芸術の夕べ」である。世界のエスペランチストが自分たちの芸を披露するのだが、オーディションに合格しないと出場できないと聞いた。これに出たいがどこに行けばいいのかという問い合わせも受けたが、やっぱりUEAの窓口へ行ってもらった。
 韓国のバンド(元UEA会長の Lee さんが参加していた)、韓国の有名なエスペランチスト・ホルテンシーオの踊り、ブラジルの3人組、ブラジルのソロ、日本人3人のちょっと変わった演奏(オカリナ、口笛、指笛など)、日本人5人の合唱、ヨーロッパの2人による韓国風の踊り、一人芝居、中国の武闘風の踊り、日本の盲人エスペランチストTさんのピアノと女性の独唱、フルート独奏、着物の着付けを音楽に合わせて一人でやって見せた日本人女性、最後が国際合唱団。
 この国際合唱団というのは世界大会の場で結成されるもので、常連もいるが始めての人も多い。事前に曲が示されないので、本番までに数回集まって練習する。盲人のTさんが参加したとき、点字の楽譜も歌詞もなくて、聞きながら自分で採譜し、歌詞を憶えたと聞いた。

   写真は夜のみなとみらい21
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UK日記(7)8月9日

2007-08-28 | 2007年世界大会
 今日から受付を狭くして総合案内はその隣に移動、総合案内のあったところには次回大会の受付ができた。これまでに受けた質問には「来年の大会受付はどこか?」というものもかなりあった。来年のアジア大会の受付についての質問もかなりあったが、これは2日ほど設置されただけだった。すべての窓口を作るのには5階が充分に広くないためだが、4階も使えばいいのにと思った。
 拾得物が増える一方なので「これらの品物が持ち主を待っています」と書いて、机の上に並べることにした。古い水筒を見つけて「わー、私の大事な水筒!」という人や、自分のハンカチを見つけた人など、それなりの効果があった。中には売り物だと勘違いして、手にとって品定めする人もいた。
 私自身は全く行かなかったが、総合案内の仕事には、「Rendevua Tabulo:出会いの掲示板」もあった。予想を超える大繁盛で2人がつきっきりだったようだ。ここのシステムを知らない人も多く、預けられたメッセージがどんどん増えていくようだった。
 総合案内の仕事も相変わらず忙しく、田島さんのコンサート(盲人のエスペランチスト、読谷山さんの歌を聴きたかった)にも行けなかった。
 6時半過ぎ、ほとんどの参加者がコンサートなどに行って会場はもう静かになっていた。片付けをしていたらかなり高齢の女性がきて「友達とはぐれてしまった、ホテルに電話をしてほしい」という。ちょうどそこに現れたKさんに頼んだが、ホテルにはその人は帰っていない。ホテルに送っていこうかと思ったが、ここで待つという。まもなくここには誰もいなくなる。困っていると、その老婦人の友達が現れて一安心。
 市長の招待会に行っていた総合案内責任者のI.Tさんが戻ってきた。片付けを終えてコンサート会場へ行こうとしたところにI.Tさんの携帯電話が鳴る。「カメラをなくしたが届いていないか?」「ちょうどひとつある!」特徴を聞くとどうやらこれらしい。「いまZAIMにいるが、これからとりに行く」「明日ではダメなのか?」「どうしても今日ほしい」「じゃあ待っています」というわけで約20分待つ。
 今日は3つのコンサートが県立音楽堂であったのだが、最後のモーツアルトアンサンブルの開演時間にやっと間に合った。素晴らしい演奏に心が洗われ、疲れが飛んでいく気持ちを味わった。この大会では貴重な時間になった。

   写真は閉会式で誰もいなくなった5階ホワイエ(昨日の写真とは逆方向)
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遺失物係という仕事

2007-08-27 | 2007年世界大会
 遺失物係は、届けられる落とし物(忘れ物)を管理して持ち主を捜す、紛失物の届けを受けて記録し、見つかったら連絡する。北京で私がカメラをなくしたとき、総合案内・遺失物係・地元実行委員会が全くバラバラに対応していた。今回は遺失物係を総合案内に組み込んだのでそんなことはないと思った。遺失物についても広報が大事だと思うので、掲示板に張り出すと同時に大会新聞にも載せてもらうつもりだった。実際、私のカメラが見つかったことも大会新聞で知ったのだった。しかし、大会新聞の編集方針にあわなかったらしく、遺失物の告知は載せてもらえなかった。
 落とし物・紛失物それぞれに記録用紙を30枚用意した。余裕があるつもりだったが全く不足だった。届け出は両方あわせて100件ほどにもなった。
 一日のプログラムが終了したあとに、必ずといっていいほど、それも3個、4個と落とし物が届けられた。
 無くしたものを探し出すのは困難である。カメラ3台、携帯電話、ネーム入り高級ボールペンといったものが最後まで見つからなかった。届けられたものの中にもカメラ、革製の手帳など最後まで持ち主が現れないものがあった。会場の建物内でも、4、5階以外の場所でなくした場合には、建物の管理者に届けられている場合があり得る。このことに気づいたのは最終日になってからだった。あわてて調べて、警備室で届けの出ていたカメラを1個発見した。危ないところだった。
 他人にはなんでもないものでも、なくした人にはとても大切なものかもしれないので、靴下やハンカチなども最後まで持ち主の現れるのを待った。カメラをなくした人が何度もやってきて「見つからないか」と聞く。カメラ自体はまた買うこともできるが、これまで撮った写真が失われるのが残念だと。私にも経験があるからその気持ちはよくわかる。何度目かに来たとき、ちょうど届けられていたカメラを見て、これは自分のではないという。近くにいたHさんが「あなたは正直な人だ、そうでなかったらこのカメラを自分のだといって持っていくだろう」という。人の気持ちを踏みにじる不用意な言葉だと思う。
 スーパーのレジ袋のような袋をなくした人がいた。中には本、小さな緑星旗、写真などが入っていて本人にはとても大事な物だった。なくしたのはアジアの人で、何度も聞きに来たが見つからなかった。たぶんゴミと思われて捨てられたのではないかと思う。
 届け物で多かったのは、ハンカチ、帽子、ボールペン、カメラ、大会書、本など。他に、パスポートの入った袋、カメラ、携帯電話、メガネ、クスリの錠剤、カップラーメンや缶詰の入った袋などなどもあった。
 なくし物で多かったのは、大会書、カメラ、中にいろいろ入っている大会袋、帽子。他にルーペ、携帯電話、ウォークマンなどなど。
 解決したものも多いが、最後まで解決しないものもあって心残りである。

   写真は閉会式中の誰もいない5階ホワイエ
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UK日記(6)8月8日

2007-08-26 | 2007年世界大会
 今日は全日遠足だけの日である。遠足に参加しないとすることがない。アジアからJEIに招待者された人たちのうち、ベトナムからの4人をJEIに連れて行くことにした。石川町駅にはこの4人と、中国人ひとり、日本人ひとりもやってきた。石川町~東京(JR)=大手町(徒歩)~早稲田町(地下鉄)と乗り継いで、JEIについたのは10時。事務局長の石野さんが待っていてくれた。一通り自己紹介などが終わったところに、Tさん夫妻の案内で7人(中国・イラン・ネパール・タジキスタン・インドネシア)の招待者がやってきた。4階の会議室に席を移して、おもにエスペラント運動や国別組織について報告・交流した。1時半まで続いたが、なかなかいい雰囲気だった。石野さんに感謝。
 ホーチミンの Mai Anh が、年に3回出る情報誌「Esperanto en Azio」を、一部だけ送ってくれれば自分たちで増刷して国内の読者に送ることができるという。自信に満ちた積極的な提案だった。ハノイの若い2人もなかなか行動的である。
 別のところに泊まっていたベトナムの Le Nhiem さんたちをKさんが連れてくることになったいたのだが、Kさんの都合で来られなかったのが残念だった。
 近くのお総菜屋さんでめいめいが弁当を買って昼食。そのあとは秋葉原・早稲田大学・動物園・横浜直帰に別れることになり、秋葉原へは東京不案内な私が案内をした。ベトナムの2人、イランの2人、タジキスタンと計5人を連れて、地下鉄で水道橋へ。改札を出るときに乗り継ぎ用に切符が出てくるがJRでは使えない。改札を通ろうとすると機械に拒否される。納得させるまでしばらくは大騒ぎだった。
 秋葉原に着くと、イランの2人はさっさと行ってしまい、タジキスタンの人は横浜に帰る方法をしっかり聞いて1人で買い物に、ベトナムの女性2人には私が付き添う。友達に中古コンピュータを頼まれているというが、実際に買い物をするのは知識がないと困難である。私にも助言はできない。しばらくうろついたあと、もう少し見てきたいという2人に石川町までの列車を教えて、私はJEIに戻る。事務所でコンピュータを使っていた2人のベトナム女性を迎えに行ったのだが、もう他の人の案内でどこかに行ってしまっていた。というわけで最後は1人で寂しく横浜へ。
 ベトナムの2人は帰りの桜木町止まりの列車に乗ってしまい、終点までいっても石川町に着けなかったとパニックになりかけたらしい。

   写真は Rendevua Tabulo:出会いの掲示板
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UK日記(5)8月7日

2007-08-25 | 2007年世界大会
 アメリカの女性が総合案内にやってきて「外にエスペラントの横断幕を張ったがなくなっている。ずいぶんお金がかかったものだ、どこにあるのか?」という。「誰かの許可を得て張ったのか?」「いいや、勝手に張った」 たぶん建物の管理者が外したものだろうと見当をつけて、2階の案内所に行ってみる。あちこち電話をかけてくれて、LKK事務所にあることがわかった。経過はよくわからなかった。LKKのひとりが無許可で勝手なことをしないように言いきかせて返した。
 ブルガリアのポポフさんに会った。世界大会のあとにわが家に来ることになっているが、具体的なことはまだほとんど決まっていなかった。まだ切符を買っていないという。今から指定席はとれないし、我々は指定席を確保してある。一緒に帰るわけにはいかない。世話をしているYさんに新幹線の自由席切符を買う手伝いをしてもらい、恵那までは自力で来てもらうことにした。
 「アフリカのエスペラント運動」分科会に参加。コンゴの奥、ルワンダの国境近くの内戦危険地域に文通友達がいるので少しでも様子が知りたくて参加した。時間も短く、アフリカからの参加者もいなかったので、UEA会長コルセッティさんの報告が中心。アフリカ全体の様子は大まかにわかった。来年はILEI(世界エスペランティスト教職員連盟)の大会がベニンで行われる。まだまだアフリカから世界各地に出かけられる条件がほとんどないので、アフリカのエスペラント運動の発展のためには世界からアフリカに出かける必要がある。その意味でこの大会にかかる期待は大きい。
 夜は演劇の夕べがあったが、LKK委員とUEA役員の夕食会があって参加できなかった。私はLKK委員ではないが、各部署の「副」の人まで参加するということで声がかかった。実をいうと私は「総合案内」の「遺失物係」というだけで「副」でもなく、ちょっと迷ったが行くことにした。
 昨日の「大会祝宴」の料理がみじめだったと聞いた。バイキング方式で料理があまりに少なかったと。

   写真は「日本の夕べ」太鼓の演奏
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Raportoj el Vjetnamio

2007-08-24 | 2007年世界大会
 世界大会には、私が新しく出版した「Raportoj el Vjetnamio la dua eldono kun suplementoj:ベトナムからの報告・増補版」を35冊ほど持ってきていた。ベトナムに送る分の一部、何人かに贈呈した分以外はアジアの各国に一冊ずつ贈った。アジアのエスペラント運動分科会で配ったのだが、どう計算しても一冊余分になくなっていた。誰かが勝手に持っていったらしい。読んでくれるのならありがたいことだとは思う。
 大会書店はUEA(世界エスペラント協会)が出展している。ここの責任者にも一冊渡した。驚いたことに、一見するなり「以前もっと小さい版で出しただろう?」という。第1版を出したのはもう5年も前である。よく覚えているものだ。ここに何冊か持ってくれば「新刊書」扱いで売ってくれるのだそうだが、もう余分がなかった。実際、作った120冊のほとんどをあちこちに贈呈してしまったので、あまり手元にも残っていない。
 一般公開番組の行われていたZAIMの書籍売り場にも出したが、ここでは1冊売れただけだった。他に、旧版の日本語訳だけを独立させた「生き抜いた人々」が4冊、杉原千畝についての小冊子「Decido pro Amo」が3冊売れた。とくに「生き抜いた人々」は今までほとんど売ったことがないので私としては画期的であった。

   写真は Internacia Koruso:国際合唱団
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UK日記(4) アジアのエスペラント運動

2007-08-23 | 2007年世界大会
 昨日ベトナムの3人が帰国し、7月26日にスイスの2人連れを受け入れてから「恵那国際の集い」とUKをはさんで8人の外国人受入が終わった。いろんなことがありすぎて、いまは少々虚脱状態である。気を取り直してUK日記を続けよう。

 8月6日、午前中は相変わらず忙しかったが、少し落ち着いてきた。
 午後からはアジアのエスペラント運動の分科会に出た。今回の世界大会では2つだけ分科会に参加したが、その一つである。充分時間がとってあったが、中国・韓国・日本・ベトナムなど、運動の進んでいる国の報告が長くて不満が出た。北京の世界大会や韓国でのアジア大会などでも同様のことがあったような気がする。進んだ国の報告は印刷物を活用するなどして短くし、もっと遅れた国の発言を大事にしてほしいと思った。終盤は議論が白熱して少々ハラハラさせられた。
 発言した国は以下の通りである。
 インド、中国、イラン、日本、韓国、ネパール、パキスタン、ベトナム、インドネシア、マレーシア、タジキスタン、モンゴル、カザフスタン。他に中国の一部として台湾についても報告があった。イスラエルの人も議論には参加していたが、国代表としての報告はなかった(アジアじゃないのかな?) マレーシアの場合、日本で勉強している人で、本国にエスペランティストがいるのかどうかは不明のようだった。カザフスタンの人は韓国で格闘技をやっているという筋肉マン。
 この日は少し早くホテルに帰ることができたので、近くの韓国料理店で夕食。ここには3回行ったが美味しかった。中華街でも何度か食事した。一品料理よりも少々高くつくが、コース料理の方がおすすめである。

   写真は国際芸術の夕べ、韓国のグループ。元UEA会長のLeeさんも。
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「総合案内」という仕事・その2

2007-08-20 | 2007年世界大会
 総合案内という部署にはいろんな情報が自動的に集まってきて、大会参加者の疑問に的確に答えることができる・・・のが理想だと思うが、全くそんなシステムにはなっていなかった。私自身も、大会に関する情報は「Kongresa Libro:大会書」や「Kongresa Kuriero:大会新聞」によって大会参加者のわかることしかわからなかった。それでもいろんな質問が来るのは、質問者がていねいに調べていないか、情報の提示方法が的確でないかのどちらかである場合が多い。大会新聞の第1号には大会書の正誤表が載っているが、これがまた沢山あって少々わかりにくい。私も訂正事項を確認しないままに仕事にかかってしまった。「総合案内なのにわからないのか?」と怒る人もいたが、どうしようもない場合もあった。
 以下に書くことは、私個人の経験なので、他のボランティアの人は別の対応をしたかもしれない。また、他の部署の人にはやや不愉快な内容もあるかもしれないが、ご容赦願いたい。
 ある日2人の外国人女性が「××に行く遠足に指定された時間・場所に行ったが誰も来ない」と言ってきた。その日の大会新聞には、ある施設を訪問する企画の記事があって、「関心のある人は12時半に大会会場の前に集まってください」とあり、企画した人の電話番号まで添えてある。「大会会場の前」というのが1階なのか2階なのかも不明だが、日付も書いてなく、彼らがこの日に行われると考えたのはごく自然である。添えてある番号に電話しても通じない。とりあえず、ここで我々はお手上げだった。
 ところが翌日の大会新聞にはこの企画が行われる日付と、集合場所が1階だという記事が載った。こんどは集合時間が書いてなかったが、「詳細は昨日の記事を見よ」としてあった。なんと連載の行事予告記事である。
 ある講習会への申し込みが個人になっていた。時と場所も書いてあったが特定の個人を見つけるのは容易ではないし、その時間に来られない人もいる。示された電話番号の一方は受信拒否の設定がされているらしい。「どうやって申し込むのか?」という質問はかなり寄せられたが、「こういう特徴の人を探してくれ」と言うしかなかった。
 充分に調べないで失敗したこともある。大会書の中で、大会大学のプログラム番号などが混乱していた。この時間に誰が講義をするのかがわからない。仕方がないからLKK事務所に聞きに行った。ところがそこでも分からない。これはUEAの仕事だからここではわからない、というわけだ。その後「Araba Komitato:アラブ委員会」の場所が変わったらしいがどこか?」と訊かれたときには、どこにも情報がないからここではわからないと答えてしまった。すぐあとでLKK事務所に他の用事で行ったのできいてみたら、「○○の部屋だ、元に部屋の前には連絡が貼ってある」という。

   写真はJEIのあるエスペラント会館
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「総合受付」という仕事・その1

2007-08-19 | 2007年世界大会
 最初に参加した世界大会(1998・フランス・モンペリエ)はエスペラント初心者として、2回目(2004・北京)はある程度上達したものとして楽しんだ。そして今回は最初からボランティアとして楽しむつもりだった。そのために「総合受付」というのは絶好の部署だったかもしれない。
 とにかくありとあらゆる質問やら苦情が寄せられる。基本的にUK会場内の案内が任務だと思うが、慣れない日本に来た外国人が日常生活や観光について尋ねてくることもある。知らないことには答えようがないわけだが、それでもできるだけ調べて返事をするので時間がかかることもある。
 総合案内にやってくる人たちの疑問や不安・困惑、さらには憤りにどれだけ対応できるかがこの仕事の楽しさにもつながる。ちょっとしたことでひどく感謝をして、私の写真まで撮っていった人もいた。何かの用事で会場内を歩いていたら突然呼び止められて、「君の言うとおりにしたらうまくいった、ありがとう!」と言われたこともある。私はもう何のことだったか憶えていない。
 想定問答をあらかじめ考えていたはずだったが、実際にはじめたときには頭の中は真っ白だった。
 最初の2日間は土・日だったのでカードで現金を引き出せるところを聞いてくる人が何人かいた。一緒に仕事をしていた人が、クィンズスクェアの1階に郵便局と銀行のATMがあると教えてくれた。実際に見に行ってみると、銀行のATMは日本語表示しかなくて外国人には非常にわかりにくい。月曜日になると「銀行員が対応してくれる」銀行はないかと訊いてくる。またまた他の人に、少し離れたところに大きな銀行があることを教えられる。といった具合にだんだん知識が増えていく。
 それにしても「みなとみらい21」という所は案内が分かりにくく不親切な印象である。何でも横浜市の都市作りのコンセプトに「何度も訪れてもらえるように、わざとわかりにくくする」というのがあるそうだが、そのせいかどうかはわからない。
 あまり多くはなかったが、日本旅行の計画を詳細に確認しに来る人もいた。何月何日にどこへ行きたい、どこからどこ行きに乗って、どこで乗り換え、どこで降りるか、納得するまで対応していると1時間も2時間もかかってしまう。横浜周辺や東京で観光に行きたいがどんなところがよいか? なんてのもあった。ていねいに答えている人もいたが、私はあまり親切にはしなかった。基本的にそんなことは自分で調べてほしいと思うからだが、「私もここの住人ではないのでわからない」と言うと納得してくれた。
 もしコンピュータが使えてインターネットに接続できたら、かなり細かいところまで素早く対応できたかもしれない。

   写真は総合案内横の掲示板。右端が遺失物の一覧表。
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いよいよ開会式

2007-08-15 | 2007年世界大会
 いよいよ開会式といっても私は出ていません。
 8月5日、8:30頃に会場に到着。まずは受付作業が大盛況である。Kさんの指導の元、なかなかスムーズに進んでいるようだ。一日参加の申し込みが沢山(150人を超えたとか)あって、その大部分がエスペラント初心者らしい。ところが受け付けているのはUEAの人だけ、どうしても日本人の手助けが必要である。Informejo(総合案内)にも質問が来るので手助けに行くが、こちらはこちらで大忙しなのでそんな余裕がない。やがてLKK(地元実行委員会)メンバーの1人が専任でついてくれた。
 午前中は開会式である。多くのボランティアの人たちも開会式と閉会式だけは出たい。しかし、開会式の間にも受付にやってくる人があり、「開会式の場所はどこか?」と Informejo にやってくる人もいる。
 開会式が終わった頃から、Informejo はメチャクチャに忙しくなった。次から次へといろんな質問が来る。ひとつひとつにできるだけていねいに対応するので時間もかかる。夢中になってやっていたら昼食をとるのも忘れていた。この日は受付作業が忙しいから、様子を見て手伝いに行こうと考えていたが、とてものことにそんな陽気じゃなかった。
 私は「遺失物」の責任者でもある。なくし物、拾い物ともに予想を超えた届け出がある。この日までに拾得物の届け出はすでに10個を超えていたと思う。ハンカチ、ボールペンといった物から帽子や上着、革表紙の大事そうな手帳・・・。
 18:30、窓口を閉じて「Nacia Vespero:日本の夕べ」が始まる直前に会場の「みなとみらいホール」へ。世界大会では恒例になっていると思うが、開催国の文化を見せる行事である。雅楽、琴と尺八の演奏、日本舞踊と古典芸能が続き、最後は若者たちの勇壮な太鼓の演奏で終わった。日本に住んでいても、こういう芸能を生で観る機会はほとんどないし、知識もない。とくに雅楽というのはテレビでも見た記憶がない。
 残念だったのは、演奏中の撮影禁止が全く守られなかったこと。演奏後に3分間の撮影タイムが設けられるのにである。

 (ちょっと一服)
 14日から泊まっていたブルガリアの方が次の宿泊地にきのう出発、つづいてドイツの学生が来ている。今日は墓参りで、明日からは八ヶ岳エスペラント館で学習サークル「チャンブロチャルマ」の合宿である。というわけでしばらくこのブログの更新はできないかもしれない。

   写真は「雅楽」の踊り
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UK日記(2) 大会初日

2007-08-14 | 2007年世界大会
 8月4日、今日は早朝にベトナムからの参加者が成田に到着する。そのうちの4人はJEIが世界大会に招待した人たちである。ハノイで行われた世界青年エスペラント大会の参加者たちも到着する。Uさんが借りてくれた20人乗りのバスで成田へ。5時に出て、6時少し過ぎに到着。7時半頃にはオーストラリアの一行など20人ほどが現れ、私の持っていた袋に ESPERANTO の文字を見つけて歓声を上げる。
 それぞれが泊まるホテルを聞いてUさんが的確に助言をし、シャトルバスで横浜駅まで行くことを勧める。安い普通列車で行くのには途中の乗り換えが複雑すぎる。皆さん助言にしたがってバスで横浜へ。しばらくすると、6人のベトナム人を含む10人が残った。さらにホーチミンからの2人が到着。私を含めて13人がUさんの運転するバスで会場に向かう。
 大会会場にはすでにたくさんの人がいた。受付をすませたベトナム人たちにUKや会場について簡単に説明。荷物を預けるために、4人の招待者をホテルまで案内する。みなとみらい線の元町・中華街の駅からはほとんど0分で彼らのホテルに行けるのだが、エスカレーターで登っていくと途中から階段になってしまう。さがしたがエレベーターが見つからない。時間もないので階段を上ることにする。若い女性ばかりだが持っているトランクなどはものすごく重い。大変な重労働だった。
 大急ぎで会場に戻って、滞在中の旅行保険の手続きをする。これでこの仕事からはとりあえず解放されて、Informejo=総合案内の仕事へ。ここがまたなかなか大変である。次から次へといろんな問題が持ち込まれるが、これについては後述する。一応6時までなのだが、今晩は「Interkona Vesper:友達になる夕べ」があって人が多く、結局7時半頃まで開いていた。
 Interkona Vesper ではいろんな団体や国別組織が展示などをしていたが部屋が狭すぎて人がごった返し、とてもゆっくり見て回るわけにはいかなかった。今回の大会は全体に少し狭いと感じた。

 今日は何人かの旧知・未知の人に出会った。ベトナム・ホーチミンのレ・ニエムは2001年に私を泊めてくれた人、スポメンカとデニスは2000年に参加したNASK(アメリカの3週間のエスペラント講習会・このときはサンフランシスコ)の先生だった人たち。ポルトガルの人とはフランス・中国に次いで3回目の出会い。イタリアの盲人たちとも3回目の出会いである。アントアネータは最近何回かメール交信をしたが、結局わが家には泊まらないことになった。

 早朝、成田に行く前に石川町駅の近くで日本エスペラント界の重鎮Sさんの名札を拾った。受付でもらうもので、これがないと大会会場には入れないことになっている。地元実行委員会(LKK)の事務所に届けると、「本人に売りつけよう」とか「セリに出したらどうか」とか・・・。

   写真は総合案内の様子
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UK日記(1) 開会式前々日

2007-08-13 | 2007年世界大会
 UK(ウーコー)というのは「Universala Kongreso de Esperanto:世界エスペラント大会」の略である。第92回大会が横浜で8月4~11日に行われた。この記事はその参加の記録である。
 8月3日、朝7:30発の列車で出発、横浜へ。途中で昼食をとって、会場に着いたのは12:30頃。準備活動は昼休みに入っていたが、「Informejo:総合案内」関係の設営はすでに終わっていた。受付関係の仕事=袋詰め作業も人数は充分だという。しかしUEA(世界エスペラント協会)の荷物が、関税で問題があって到着が遅れているという。設営の終わっていた「総合案内」だが、表示の訂正や細部の打ち合わせなどで何となく時間が過ぎていく。このあと、翌日の開会に間に合わせるために大変な作業があったらしいが、私は何も知らなかった。携帯電話を持っていたら呼び出されたかもしれない。
 5時頃に会場を出て中華街で食事、そのあと「みなとみらい線の中華街・元町駅」近くのホテルで行われる「アジアからの招待者」の会に行く。JEI(日本エスペラント学会)が世界大会に招待した人たちと、その世話人たちの会議である。インド、中国、インドネシア、イラン、ネパール、パキスタン、タジキスタンからの十数人が集合した。私が世話をするハイ・ミンを含めて4人のベトナム人とモンゴルの人は明日到着する。エスペラントの達者な人からやっと中級程度の人まで、様々である。
 ここから歩いてホテルに帰る。泊まるのは以前の「ドヤ街」(簡易宿泊所)を改造したホテルである。外国のバックパッカーなどが利用するらしい。部屋の広さは4畳ということになっているが、1畳分は入り口と冷蔵庫、残りの3畳は畳が小さいので実質2畳半くらいである。共同の炊事室・トイレがあり、コインシャワーとコインランドリーもある。パンとジャム、コーヒー・ジュースなどの朝食も付く。とにかく安い。外国人のエスペランチストがおおぜい泊まっていた。
 必要最低限のサービスは提供されているし、おおむね清潔である。宿泊代が安いから、夕食などは贅沢ができる。もちろん徹底的に節約したかったら自炊も可能である。実際、自分で料理をしている人もいた。
 我々は主として近くの銭湯を利用した。この話を聞いて「神田川」の世界だといった人もいた・・・。

 会場に近いJRの駅は桜木町である。3時頃にいったんホテルに私だけ行くことにして、2人分の荷物を持って行くと、ホームへのエレベーターが下り専用である。荷物を抱えて階段を上るのはしんどい。駅員に聞くと、改札の外にあるエレベーターを利用してくれという。場所がわからずにウロウロしたあげくやっとエレベーターを見つけたが、ボタンを押しても動かない。改札を通らずにホームに出てしまうので駅員をインターホンで呼び出さねばならないのだ。インターホンから出てくる駅員の声は次のようにいっていた。「この時間、エスカレーターは上り専用になっていますので、そちらをご利用下さい」 ちょうど3時でエレベーターは上り専用に切り替わっていた。・・・暑さで目が回りそうだった。

   写真はベトナムからの招待者たちとコルセッティ(UEA=世界エスペラント協会=会長)夫妻
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