エスペラントな日々

エスペラントを学び始めて27年目である。この言葉をめぐる日常些事、学習や読書、海外旅行や国際交流等々について記す。

ベトナムで会った人たち

2005-05-31 | ベトナム旅行その1
 1998年8月のアジア大会参加の話はこれで最終回である。
 期間中、当時の世界エスペラント連盟(UEA)会長、エンダビーさん夫婦と朝食の席でいっしょになった。エンダビーさんはオーストラリアの労働大臣などを務めた人である。UEA会長として、言語権など国際政治的な課題にも積極的に取り組んだ。我々がまだ2年半程度の初心者だと聞いても、気持ちよく会話を楽しませてくれた。彼自身エスペラント歴はまだ12年ほど(それで世界の頂点!)であること、初心者の頃、日本の梅田善美というすばらしいエスペランティストの話を聞いたが、ほとんど理解できなかったこと、などなど。
 この人とは、2004年の世界大会(北京)の、一日遠足のバスの中でも会った。「エンダビーさん、私を覚えてはおられないでしょうが・・・」「いやー、申し訳ない」「ベトナムのアジア大会の朝食でおしゃべりしたことがあります。当時まだ初心者の私にとっては名誉なことでした」「いやいやとんでもない、私の方こそ名誉なことですよ」

 オーストラリアのフランツィスカとベルナード夫妻には中部ベトナムへの大会後遠足で知りあった。フランツィスカはフランス人である。SAT(民族を超えた世界協会)の熱心な活動家で、ヨーロッパにもよく行っている。ベルナードはオーストラリア人で、養蜂などをしながら自然の中で暮らしている。アボリジニの生活についてもよく知っている。旅行中、彼の足が虫に刺されて腫れ上がり、裸足で歩いていた。
 その後、彼らの紹介で、オーストラリアの高齢のエスペランティストと文通をしている。またフランツィスカはベトナム・ホーチミン市を何度か訪れてエスペラントを教えている。
 彼らとは、2002年の第3回アジア大会(ソウル)の大会後遠足でもいっしょになった。ベルナードが、近く家を建て増すから是非一度遊びに来いと誘ってくれた。

   写真は夕暮れのホイアン(トゥ・ポン川)
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中部ベトナムの旅 2

2005-05-30 | ベトナム旅行その1
 1999年8月、第2回アジアエスペラント大会の大会後遠足(続き)
 遠足参加者は、60人ほどだったが、大部分が日本人。他にオーストラリアの夫婦、韓国から1人。フォン・マイなどベトナムからガイド・世話人として3人だった。
 29日:船に乗ってフーン川を上り、ティエンムー寺。七層八角の美しい塔がある大きなお寺である。暑いところを歩いたのでサトウキビを絞っただけの飲み物が魅力的だったが、衛生状態が心配で飲むのはあきらめた(実は1年半後に一人で旅行した時にはたくさん飲んだ)。
 ついで素朴な小寺、ホンチェン殿。最後はミンマン帝廟。チャンパ王朝の巨大な墓所である。世界遺産に登録されて復元工事中だった。この辺りにはこのような廟がいくつかある。
 バスでフエに戻って、午後はグェン朝王宮。グェン朝はフエを都として、19世紀初めから1945年まで続いたベトナム最後の王朝である。広大な王宮で、ここも復元工事中だった。入り口には巨大な門や建物があるが、まだかなりの部分が廃墟である。
 30日:飛行機でハノイへ。途中寝込んで、目が覚めたら機内が全く静かである。すぐに、自分の耳が聞こえないことに気がついた。鼻を押さえて空気を耳に抜いたら右側だけ少し聞こえるようになった。少しずつ治ってきたが、完全に元に戻るまでほとんど丸1日かかった。
 ハノイでは希望者だけ二十数人が2つのお寺を見学。お寺の名前を憶えていないのだが、一つは昔から水上人形劇を上演したところで、池の中にお堂が建っている。もう一つは仏像彫刻が見事だった。
 ホテルに戻って夜、チャンが彼氏を連れて、餅菓子をおみやげにと持ってきてくれた。残っていた日本のおみやげ(塗り箸と日本地図)をあげて別れた。
 もう1泊して、31日帰国。

   写真はフエの川に潜って砂を採取する人たち、グェン朝王宮の一部、水上人形劇の寺
   複数画像に挑戦! 仏教彫刻です
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中部ベトナムの旅 1

2005-05-29 | ベトナム旅行その1
 1999年8月、ベトナム・ハノイで行われたアジアエスペラント大会は8月25日に閉会した。そして26日から30日まで、大会後遠足で中部ベトナムを旅行した。
 26日:午後から飛行機でダナンへ。
 27日:まずチャム彫刻博物館。2世紀に興って中部ベトナムを支配し、15世紀に滅亡したチャンパ王朝の遺跡から出土した彫刻芸術品や石像が集められている。見事なものだが、これらがどのように使われ、どんな建築物の一部だったのかがよく分からなかった。
 ついで五行山。5つの切り立った石灰岩質の山があって、巨大な洞窟や華麗な寺院がある。頂上からの眺めがいいということだったが、案内に従って歩いた限りではそういう場所がなかった。麓は石工の村で、緑や赤の入った大理石の彫刻を売っている。小さな石彫りの猫を見つけた。1匹2ドル、夫婦だから2匹買え、3ドルにまけると言うから、2ドルにしろと言ったら即まけたので買ってしまった。もっと値切らなければいけなかったらしい。
 昼過ぎにホイアンのホテルについて、この日は終わり。午後少し涼しくなってから町を歩いてみた。古い町並みがよく保存されている。ハノイよりも清潔な感じである。この町は貿易都市として栄えたところで、中国人街や日本人街もあったという。いまでも中国系の住民は多いようで、立派な中華会館や中国様式のお寺がある。屋根付きの立派な橋は16世紀末に日本人が架けたという「日本橋」、この辺りに日本人街があったらしい。
 28日:朝、2時間ほどみんなでホイアンの町を歩いて、古い民家や歴史博物館などを見学した。ホイアンの町の郊外に、いつの時代なのかここで死んだ日本人の墓が2基ある。これは昭和の初めに文学博士・黒板勝美が中心になって建てたものである。最近新しく建て替えられ、最初のものが歴史博物館においてあった。この黒板勝美というのは、日本エスペラント学会の生みの親とも言うべき人である。
 昼頃ハイ・ヴァン峠。眺望絶景、不気味な砦跡もある。大勢のしつこい物売りに参った。峠を下り、途中のトゥアン・アン・ビーチで少し遊んでフエの町へ。夕食後船に乗ってフーン川に出て、水上で民族音楽を鑑賞した

   写真はチャム彫刻博物館の彫刻とホイアンの日本橋
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ベトナムの印象

2005-05-28 | ベトナム旅行その1
 エスペラントアジア大会(1999年8月)の1年半後に、一人でベトナム旅行した。いずれこのときのことも書くつもりなので、今回はベトナムについての印象をざっと書いておきます。
 8月のハノイはとにかく暑かった。ホテルは完全冷房だが、早朝でも外に出るとむっとする蒸し暑さである。食べ物は美味しいし、生活費は安い、エスペラントの友達に、いっそこちらに住まないかと言われたが、暑さの苦手な私にはとても住めない。
 食べ物は肉・魚・野菜・果物・麺など何でも美味しかった。それに安い。町のレストランで食べきれないほどの料理とビールをとっても一人200円もあれば充分である。ベトナムうどんは米から作る麺だが、一杯60円くらい、これも美味しかった。
 高いところもあった。例えば我々の泊まったホテルはエスペラント大会の会場でもあったが、最高級ホテルである。大会参加者はかなり安く泊まれたのだが、ここの喫茶店でコーヒーを飲むと日本の普通の喫茶店よりも高い。360ccの缶ビールが400円だった。
 チャンとビチュ・ランが食べてみたいというので日本料理店に行った。日本で食べるのとほぼ同じ料金だったから普通のベトナム人にはとても入れる店ではない。

 道路を走るオートバイの多いこと! 右側通行だが、信号交差点ではそれが左側にまでいっぱいに広がっている。赤になっても走れるうちは走る。当然前からも横からも車が出てくるが、信号が青の側、右側を走る車の方に優先権があるから、最初混乱しているように見えても何となくうまく流れていく。彼らなりのルールがあるのだ。
 歩行者が道路を横切るのは恐ろしく危険な感じだが、決して急いではいけない。ゆっくりわたれば、車の方で避ける。一度走って渡ったらバイクの運転手に怒られた。

 お寺の仏像の表情がすべてとても柔らかくて優しい。これは何か宗教上の理由があるのだろうか? 古いご本尊の後ろの光背をイルミネーションでピカピカ飾り立てるのは、日本的な感覚とはあまりにもかけ離れている。一方、日本のお寺は暗くてよく見えないと、ゴク・ランさんが言っていた。
 そしてもっとも印象に残ったのが水上人形劇である。人形をすべて水中を通して操作する技術がすばらしく、農作業や伝説に題材をとった短い出し物が次々に繰り広げられる。それらは底抜けに明るい。日本の人形浄瑠璃のように様式化されず、農民芸術をそのままの形で保持しているのだろうと思う。

   写真はブットタップ寺の山門の仏像、日本で言えば仁王様。水上人形劇(絵ハガキ)
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ベトナム戦争とエスペラント

2005-05-27 | ベトナム旅行その1
 ベトナム戦争が激しかった頃、ベトナムではエスペラントの本がたくさん発行されて世界に送られた。1950年代の終わり頃からベトナムが統一された1975年までの間に発行された本は、雑誌を除いて70を超える。アメリカの野蛮な侵略を告発したものから翻訳小説やベトナムを紹介するものまで、内容は様々である。とくに小説類は7冊が日本語にも訳されて発行された。「袋小路」「ディエンビエンフーの時計屋」「竹笛」といったものがある。
 日本でもベトナム支援の活動が行われたが、その中にエスペランティストの姿もあった。ホーチミン市の戦争博物館には諸外国の支援の資料が展示されているが、日本の占める割合は比較的大きい。中でも由比忠の進の写真が目を引く。彼はベトナムを侵略したアメリカとそれを支持する日本政府に抗議して焼身自殺をした。彼もエスペランティストであった。

 1999年8月23日、私は第2回アジアエスペラント大会の「ベトナム戦争」分科会に参加した。50名を超える参加者で会場は熱気に包まれた。まず韓国からの報告「韓国は一度も他国を侵略したことのない国だったが、唯一犯した誤りがベトナム参戦だった。当時は軍事政権で反戦活動の出来る状況ではなかった。アメリカの使った化学兵器の影響は韓国軍兵士にも現れている」と。
 日本からも当時の反戦活動などについての報告があって、最後にベトナムのボイさんが話した。非常に優れたエスペランティストで、流暢な分かりやすいエスペラントと自信に満ちた話っぷりが印象に残っている。「なぜ小国ベトナムが大国アメリカに勝てたのか」という質問にひとこと「運命だ」と答えた。少し分かりにくかったので質問が続いたが、要は「歴史の必然だ」という意味だった。「侵略者は必ず退けられる」
 実際、侵略者は軍事的に破壊するだけでなく、侵略される国の人々の生活・文化・歴史を根こそぎ破壊するから、結果としてその国の全民衆を敵にする。アメリカ軍は子供や女性にさえおびえ、残虐な皆殺しに走る。現代社会ではその事実が世界に暴かれ、侵略者はますます袋小路に追い込まれる。もし侵略者が勝利を収めたとしても、後には何も残らない。

 かつてベトナムで発行されたエスペラントの本は、ベトナム本国でも手に入らなくなっていて、発行の記録さえわからなくなっている。最近日本でそれらの本を集めて送り返す運動が行われた。2002年に私が自費出版した短編集「生きぬいた人々=ベトナムからの報告」には、MSさんの協力で作成した本のリストを資料として収録した。

   写真はベトナム中部・ダナンの近くにある五行山(マーブルマウンテン)の巨大洞窟。大きな仏像が掘り出されて昔から信仰の対象になっていた。ベトナム戦争時には臨時の病院として使われていた。上から入る光は、アメリカ軍の爆撃で空いた穴である。
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ベトナムの青年たち

2005-05-26 | ベトナム旅行その1
 今日から第2回アジアエスペラント大会参加の話です。
 第1回のアジア大会は、1996年に上海で行われましたが、その時には私はまだエスペラントを学んでいませんでした。第2回は1999年8月21~25日、ベトナムのハノイで行われました。私は妻とともに、日本エスペラント学会(JEI)のツアーで参加しました。
 大会で参加したのは、開会式・閉会式・大会宴会・植樹祭・SAT(民族を超えた世界協会)の分科会・ベトナム戦争についての分科会・芸術の夕べ・大会中の遠足2コース・大会後遠足でした。

 ベトナムはエスペラントの長い歴史があり、現在も盛んな国です。しかし、大きな国際大会を開くにはスタッフが不足していたようで、数十人の若い人に3か月くらいでエスペラントを特訓で教えて体制を作りました。日本からの少なくない参加者が、これらの若い即席エスペランティストと仲良くなって、今後の学習を励まし、援助しました。
 最初に私が参加した半日遠足でガイドを務めていた、ビチュ・ランとチャンの2人の若い女性もそんな即席エスペランティストでした。3か月の学習で、遠足のガイドをこなし、簡単な質問にも答えられました。何よりも、物怖じしないで話す姿勢には好感が持てました。大会中、我々(妻と私)はこの2人と何度も「デート」し、彼らが今後エスペラントの学習を続けることを願って、文通の約束もしました。
 即席エスペランティストの若者の多くがその後もエスペラントの学習を続け、最近ベトナム青年エスペラント会を結成しました。残念ながら、ビチュ・ランとチャンの2人は続かなかったようです。ビチュ・ランとは、1年半後にベトナムを再訪した時にも会いましたが、仕事上英語を勉強しなくてはならず、エスペラントができないと言っていました。

 ハノイ市内の「レーニン公園」の一角で、エスペラント大会記念植樹が行われました。日本人の多くは遠足に参加していて、各国の代表的な人たちに混じって私は何となく場違いな感じでした。そこに、ホーチミン市から来たという若者数人に囲まれ、会話を交わし、いっしょに写真を撮りました。彼らとはそれだけのことで、1年半後のホーチミンで再会した時にもお互い全く気がつきませんでした。最近になって、ホーチミン市のキエウさんがその写真を見て気がついたのでした。

 植樹祭からの帰りのバスで、熱心に話しかけてきた若い女性がいました。エスペラント歴2年、ハノイ在住のフォン・マイさん。若いエスペランティストの中ではすでに指導者の立場にあるようでした。彼女は非常に行動的で、熱心に日本のエスペランティストと会話を交わし、翌年に訪日を果たしました。この後、毎年のように日本からベトナムのエスペランティストを招待していますが、その第1号が彼女だったわけです。

   写真はフォー(ベトナムのうどん)の店
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