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エスペラントな日々

エスペラントを学び始めて28年目である。この言葉をめぐる日常些事、学習や読書、海外旅行や国際交流等々について記す。

ベトナム縦断オープンバスの旅

2005-08-09 | ベトナム旅行その2
 2001年2月6日、ベトナム旅行18日目。ハノイからホーチミンまでのオープンバスは、切符は通しで買うが、途中下車は自由である。前日に電話で予約すれば、降りたところでまた乗れる。途中で乗り換える必要もあり、フエなどでは泊まらないと先に行けない。私にとっては、ここからホーチミンまでは言葉の通じない世界でもある。いくらか不安もあったが、ここまで来れば度胸を据える以外ない。
 夕べは8時頃に発車した。ずいぶんボロいバスだ。タムコックへのツアーで一緒だった女子学生とまた一緒になった。他にも若い日本人女性が2人、いずれも単独で旅行している。9時半、ニンビンで日本人女性1人を含む3人が下車。朝7時、ドンホイで2人下車。ここを出てしばらくしたら、渋滞していて動かなくなった。原因がさっぱり分からないまま1時間15分、対向車が続々とやってきて、こちらも動き出した。少し行くと大小2台のバスが正面衝突していた。
 10時半近くになって、やっと朝食休憩。食堂には入らず、フォン・マイにもらった菓子、マンダリン、パンを食べた。片足のない男が物乞いをしていたが、食堂で残り物をもらって食べていた。
 12時半、フエ到着。バスがホテルの前で止まった。割にきれいな部屋で10ドルだったからさっさと決めた。ここで2泊する。バスタブがないが、まあいいか。ところが、例の女子学生さんが5ドルにまけろと交渉している。かなり長時間粘っていたが、結局まけさせてしまった。ベトナム人より日本人の方がすごい!
 明日のDMZツアーを予約。明後日のバスも予約。
 フエはベトナム最後の王朝グェン朝(1802〜1945)の都である。華麗な王宮はベトナム戦争でほとんど破壊された。周辺には歴代の王の廟が散在する。私は1999年夏のエスペラントアジア大会の大会後遠足で一度来ており、その時に王宮やいくつかの廟を回っている。今回はホテルでタクシーをチャーター(10ドル)して、前回行かなかったところに行くことにした。
 カイ・ディン帝廟、外観は黒っぽくてさえないが、内部はタイル装飾で華麗。入場料55,000ドン(約3ドル)に駐車料金10,000ドンは高い。ティエウ・チ帝廟(22,000ドン)は以前来たミン・マン帝廟とよく似ている。隣にお寺があって、内部にヒスイ画がたくさん飾ってある。このあと訪れた2つの廟にも同様のお寺があった。
 トゥ・ドゥック帝廟(55,000ドン)。規模が大きく観光客も多い。蓮池に美しい木造の釣殿がせり出している。ここでヤシの実を10,000ドンで。まず上部を切ってストローでジュースを飲む。そのあと、実を割って中の白い肉を食べることを教えてもらった。味が薄く、脂肪分が多そうだ。3分の1くらいしか食べられなかった。
 運転手が、ここからドン・カイン帝廟(22,000ドン)へは歩いていけという。おかしな男が勝手にガイドについてきた。たいした距離ではなかったが、車でも入れるところだった。「ガイド」が茶色の豆のようなものを食ってみろという。やたらに酸っぱかった。戻ってくると、運転手が「ガイド」の男の家がそこだからお茶を飲んでいこうという。断ると、今度は「ガイド」がチップをくれという。タクシーのチャーター料はすでに払ってあるから、必要ならホテルでもらえと、断固拒否。彼らの英語もあまりよく理解できないが、私はエスペラントでしゃべるから、どこまでお互いに分かっているのかよくわからない。
 夕方前にホテルに戻った。歩いて橋を渡って、ドンバ市場へ。ハノイよりも品が豊富な感じがする。戻ってきたらレストランのオープンスペース(歩道いっぱいに椅子とテーブル)に例の女子学生さんが座ってジュースを飲んでいる。私も座って、メニューを見ると日本語でも書いてある。カタヤキソバと生春巻きで20,000ドン。すごい量だったので、学生さんに半分お裾分けしてしまった。ハノイではあまり見なかった日本人観光客が目につく。南に行くほど多くなるそうだ。

   写真はカイ・ディン帝廟とその内部
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ベトナムの障害者たち

2005-08-08 | ベトナム旅行その2
 2001年2月5日、ベトナム旅行17日目。ハノイ最後の日。ホテルをチェックアウト、荷物はゴク・ラン宅に預ける。外でフォーの朝食をとって、旧市街の土産物店へ。ちょうど開けるところだった。ここで3人の盲人女子学生がカゴを編む訓練をしている。作ったカゴは他の土産物と一緒に売っている。大きすぎるし、スーツケースに入れたら潰れてしまうので買ってくるわけにはいかなかった。
 グエン・バン・トー教育センターへ。ベトナムエスペラント協会(VEA)の図書館を見学。管理しているフォン・マイも来てくれた。VEAには日本からもずいぶん本が寄贈されたが、かつての職員が私物化してしまったこともある。いまはきちんと管理されているが、この部屋はあまりに狭くて棚も一つしかなく、全部の本は置けない。残りは書記のトアンの家に置いてある。毎週日曜日の午前だけ開館していて、貸し出しもするが、原則としてここで読む。いつもは数人、多いときは十数人が来るという。最近の人気は「紅楼夢」(分厚い3巻本)だと言うから、ハノイのエスペランティストの読書熱もレベルも高い。
 ベトナムコーヒーの店へ。十数種類の中から、香りのいいものを選んで400グラムずつ2種類買った。ベトナムはコーヒーの輸出国である。
 ゴク・ランの従兄弟の家へ。ここも豪邸である。息子たちが外資系企業に勤めているのでとてもお金持ちなんだとか。平均月収5000円の国である。日本系企業に就職すればその何倍もらえるのだろうか? この家の別荘に行く予定だったらしいが、このところ天気の悪い日があって、道がぬかるんでいるからとやめにした。
 ここの奥さんと「平和の村」へ、枯れ葉剤被害者の教育・生活訓練と授産施設である。正月で大部分の入所者が家に帰っている。それでも10人ほどのこどもが授業を受けていた。別に10人ほどの若者が石彫りの作業をしていた。ここで作ったという3ドルの猫の彫り物に10万ドン(7ドル)を出したら、記念にとTシャツを1枚くれた。所長さんが、施設を案内しながら日本人がどれほど援助をしてくれているかを強調する。こどもの描いた絵を買わないかといわれたが、断って、財布の中にあった15万ドンを寄付してきた。
 絹織物の村へ。もう正月休みではなかったが、職員旅行とかで、工場はほんの少し動いていただけ。スカーフなど安く買えると思ったが、自分では選べない。妻がいれば何枚か買ったかもしれない。
 町の中に忘れられたような空き地があって、一つの像がひっそりと建っている。アメリカによる激しい空爆で多数の死者が出たところである。
 このあともう一軒、親戚の家、古いアパートで、以前は借りていたが、いまはもう自分のものだとか。レストランで昼食。ずっと同行していた奥さんの家族もやってきた。そして、その豪邸に戻る。ここでもコーヒを出してくれた。朝、ゴク・ランが自分の古いアルミのコーヒーフィルターを届けておいたというのだが、それがピカピカに磨かれていた。昨夜食べなかったサツマイモを食べてみた。ものすごく甘いが、べとべとしている。日本ではホッコリしているサツマイモが好まれるといいたかったが、このホッコリという感じをエスペラントで話すのは難しい。
 ここを最後にしてゴク・ラン宅に戻る。これから私のお別れ会である。まず、朝出会った盲人女子学生3人と男子学生がやってきた。折り鶴を作りたいというので、途中からやってきたフォン・マイにも手伝ってもらって教えたが、手探りなので難しい。男子生徒がほとんど出来るところまでいったが、時間だからとゴク・ランが帰らせた。彼らだけで、2人ずつ手をつないで、旧市街のあの雑踏の中へ消えていった。彼らの学校は、健常者と盲人との共修を試みているベトナムでは数少ない学校の一つである。
 ついで大人のエスペランティストたちが8人来た。初めての人も3人。リクエストにこたえて、また外国旅行の写真をテレビで見せる。やがてVEAの役員2人を残してみんな帰っていった。フォン・マイの両親からの贈り物として、緑色の餅菓子、VEAからは木彫りの立派なお面。寿老人に似ている。突然、裏でものすごい騒音。のぞいたらこどもが十数人。この裏の家もゴク・ランの親戚で、私的な塾であった。
 上の孫娘が、小さな住所録を記念にと持ってきた。猫の形をしているので喜んだら、リエンも猫がついた灰皿をどこかで見つけてきた。日本に行きたいというので、エスペラントを覚えたら招待してあげるよと約束。
 ゴク・ランがおみやげをたくさん用意してくれて、さらにリンゴ・マンダリン(オレンジ)やパンを持ってきた。カバンに入り切らなくなって、ビスケット2箱はおいていくことにした。今夜は夜行バスでフエまで行くのだ。

   写真は空爆犠牲者の碑
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極め付きの調味料!

2005-08-07 | ベトナム旅行その2
  2001年2月4日、ベトナム旅行16日目。7時少し過ぎに歩き始めて、まず女性博物館へ。開館まで少し周辺を散歩。8時の開館と同時に入館して約1時間見学。革命闘争や生産における女性の活躍などがいろんな方法で展示してあるが、とりわけ少数民族の華麗な衣装が見物である。
 ついで革命博物館へ。団体で来ていたこどもたちの大群をかき分けて入館。1960年頃のフランスの侵入から現代まで、政治革命だけでなく産業革命もあわせて年代順に展示してある。最初に逆順に回り始めて分かりにくかったが、途中で気づいて正しい順に見直した。
 昼前にゴク・ランの家へ。私は息子さんのバイク、ゴク・ランは自分の小さなバイクで、出発。15kmほど走って、親戚の家。年取った夫婦が住んでいて、周辺は農地である。小さなお寺ほどもある立派な仏堂が建っている。母屋は1階はホールで卓球台が置いてあった。2階に2寝室、浴室・便所。例によってその場でゆすいだ茶碗でお茶を勧められる。家畜がいるためか、ハエの大群に参った。ちょっと変わった干し果物。プルーンに似ているがカツオ節の香りがするのだ。
 ついで「成道寺」へ。途中で寄った店で、葉っぱに包んだ米の団子を食べた。中に大豆をつぶしたアンが入っている。甘いのと塩辛いのと2種類。「成道寺」には僧のミイラが2体まつってある。17世紀に焼死したものというが、一方は真っ黒で一方は真っ白、どう見ても自然ではない。
 今度はもう一軒の親戚を訪ねる。建設中の街で、新しい住宅や9階建てのアパートが並ぶ。そうしたアパートの1室。近代的な設備、かなり広い3寝室と台所、浴・便・洗濯室とベランダ。家賃のようにして積み立ててきた人は2億ドン、いま現金で買えば3億ドン(230万円くらい)だという。私でも即金で買えるといったら、こっちに住まないかとかなり本気で言われてしまった。もう少し夏が涼しければ考えてもいいのだが。。。
 ゴク・ランのバイクが動かなくなった。引っ張っていったらバイク屋があって、プラグを交換したらまた走り出した。
 ついで、脳出血で体が不自由になった老エスペランティストの家へ。週に1回この家でエスペラントの学習会をやっていて、ゴク・ランと2人で新しいエスペラントの教科書を作っているとか。クッキーと、気が抜けてただの赤ワインになったシャンパンをご馳走になる。私はアルコールがすぐに顔に出てしまう。
 最後にベトナムエスペラント協会(VEA)の書記、トアンの家へ。私の顔を見るなり「何を飲んだのかね?」と言われてしまった。ここではコーヒーをご馳走になった。
 夕食はレストランへ。魚と野菜を焼きながら麺と一緒に食べる。マムトムというエビを発酵させたという調味料。見た目はイカの塩辛からイカを抜いたようなもの。匂いがかなりきつい。焼いたものと一緒に食べるとこれが美味しい! 外国人でこれを食べられる人は少ないらしく、翌日大勢集まったときに、ゴク・ランが報告すると、「おーっ」という尊敬のまなざし(?)を受けた。
 さらに喫茶店のようなところに寄って、ベトナム風ぜんざいを食べた。ショウガの利いた甘い汁の中に、黒ごまあんの団子とショウガあんのダンゴが入っている。
 少々食べ過ぎて帰ってきたところに、ふかしたサツマイモが出てきた。さすがにこれは食えなかった。
   写真は女性博物館と個人所有の仏殿
   
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陸のハロン湾を行く

2005-08-06 | ベトナム旅行その2
 2001年2月3日、ベトナム旅行15日目。今日は4回目の観光ツアー参加、ホア・ルーとタムコックである。
 客は6人。若いカップルと初老のカップルはベトナム人、韓国在住の日本人女子学生、そして私である。運転手とガイドがついて、日帰りで14ドル。日本人学生はベトナム語も少し分かるという。細かい雨が降っている。
 2時間ほどでホア・ルーに到着。ここがベトナムの都だったのは1000年以上昔のはなしである。古いお寺を見学。建物は大きくはないが、素朴な落ち着いたお寺である。道があるようなので、山にも登ってみたかった。ガイドはベトナム語、かなりていねいに説明しているらしいが、全く分からないからひとりでブラブラすると今度は物売りがうるさい。
 1時間ほどの見学時間のあと、バスでタムコックの船乗りばへ。この辺りの山はみなハロン湾の島々やフエの五行山のように切り立っている。舟乗り場の近くのレストランで少し早い昼食。ここから小さな船で川をさかのぼる。日本人2人が1艘の船に、ベトナム人4人がもう1艘に分乗。ベトナム人ばかり6人ほど乗っている船もあった。我々の船には船頭が男女2人も乗っている。午後になって雨はやんだ。
 出発前にカメラを一生懸命構えている人がいる。出来るだけ顔を撮られないように用心していたが、敵もさるもの、一瞬のスキに撮られてしまった。
 ここは「陸のハロン湾」ともいわれる。切り立った山々の間の水路を進んでいく。川の両側はパヒューム・パゴダへの水路同様水田になっている。途中で3つの洞穴を抜ける。タムコックというのはベトナム語で三つの洞窟を意味するらしい。
 一番奥で上陸するとパゴダがあるようだったが、我々はそのまま引き返した。水路は狭くなってまだ奧まで続いていた。ベトナム人の組は帰りが遅かったからここで上陸したのかもしれない。帰路についたとたん、船頭かと思っていたおばさんが船底から刺繍をした布を出してきて商売を始めた。商売といっても買い手は2人だけ、そのうちひとりは学生である。いくら買わないというジェスチャーをしても、彼女の方も他にすることがないから布を次々に広げながら延々と売り込む。上陸するまで続いた。
 上陸すると今度は例のカメラマンが出発の時に撮った写真を買えといってくる。写真は1枚、買い手は2人。私の方はさっさと逃げてしまったが、売る方も売れなければ丸損だから、女子学生さんも最後はずいぶんまけさせて買ってきた。
 タムコックツアーは往復1時間少々。帰ってきてもガイドも運転手もいない。2時間近くもここで待たされた。ハノイに帰ったのは4時40分くらいだった。

 夕方、ゴク・ランからすぐに来てくれという電話。ハイフォンから古いエスペランティストが来ていた。この人、いきなりベトナム語で格式張ってしゃべり始めた。ゴク・ランが通訳してくれる。日本の有志の寄付で作られた盲人小学校があって、そこで4、5年生のこども8人がエスペラントの勉強を始めた。盲学校と普通学校の教師たちもサークルを作った。よく海外に出る海員大学にもエスペラントを普及したい。実力のあるエスペランティストがいなくて、教えるのがたいへん難しい。。。私の寄付した小形カセットや日本盲人エスペラント協会(JABE)が寄付した点字の教材を借りることが出来たので、そのお礼を言いたかったらしい。
 こんどは、ビチュ・ランがやってきた。彼女はアジア大会(1999年8月)で知りあった人で、当時は3か月だけエスペラントを勉強して、遠足の案内をこなしていた人である。私と文通の約束をしたが、途絶えていた。仕事が忙しく、英語の勉強をしなくてはならないので、エスペラントからは遠ざかってしまったという。年末に結婚予定だとか。
 まだもう1日あるが、ホテルの支払いを済ませた。部屋代+冷蔵庫の飲み物を少しで、2,884,000ドン(約200ドル)。びっくりしたのは、日本へ3回ほどかけた国際電話が85ドル! 国際電話は高いんだと、あとから聞いた。

   写真はタムコックの川と洞窟 この巨岩の下をくぐっていく
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ベトナムの小学校と結婚式

2005-08-05 | ベトナム旅行その2
  2001年2月2日、ベトナム旅行14日目。朝食後、ゴク・ランと近くの小学校を訪問。4階建ての校舎がコの字形に建っていて、中央にレンガ敷きの中庭がある。体操の授業は週2回、ここで行われる。こどもたちの叫び声でものすごい騒音。全員が中庭に集合。ほとんど満員状態である。朝礼のあと、半数が中庭に残り、半数は教室へ。中庭では太鼓に合わせて体操が行われる。全員はとても出来ない。半数でも窮屈な感じである。
 英語の授業を参観。英語は各学年で週2時限の選択授業が行われる。簡単にエスペラントで挨拶して、ゴク・ランが通訳。こどもたちに質問を求めたが、「東京タワーはエッフェル塔よりも高いですか?」という質問のみ。ゴク・ランが日本の小学校を訪れたときは、あらかじめ質問が準備されていたようだったが、ここはぶっつけ本番だったらしい。アメリカではこどもたちが次々に質問してきたことを思い出す。
 この学校の規模は、6才からの1〜5年生で1700人、33クラス。1クラスが50人を超える。教師と事務員で50人。45分授業で1日4時限、午前中で終了してこどもたちも教師たちも帰ってしまう。午後は別の小学校になる。施設が不足していて、こういう形になるのだそうだ。義務教育の延長(中学4年、高校4年)も検討されているが、財政的にまだ困難である。教師たちの給料も低く、半日仕事をして、あとの半日はアルバイトをする。お金持ちのこどもの家庭教師とか、塾の講師が多い。
 コンピュータ室もあって、10台ほどのパソコンが置いてあった。ベトナム文字の表示や印刷も出来る。
 小学校を出て、ホアロー収容所を見学。フランスが作った監獄で、独立運動の闘士たちが多数収容されていたところ。フランスの敗北以後はベトナム人民軍の捕虜収容所になり、「ハノイ・ヒルトン」の別名がある。半分以上が取り壊されたというが、独房や集団房(リアルな人形で再現)、拷問用具、ギロチンなどが展示されている。パンフレットには日本語の説明も書いてあった。
 ゴク・ランと別れて、ひとりで街を歩く。ホアンキエム湖の南東に延びるチャンティエン通りで何軒かの美術店に入ってみた。ベトナム人は絵が好きである。技法や表現は多彩であるが、全体にリアリズムが基調で分かりやすい。おみやげ用の墨絵風の猫が15,000ドン。貨幣感覚が狂っていて、やけに高い気がして買わなかったが、あとで後悔した。
 昼頃ゴク・ラン宅へ。誰かの命日だとかで、4人ほど親戚の人が来ていた。遅れてきた若い娘さんは日本語学校に通っているという。ここでもまたテレビで私の海外旅行写真集を見せた。
 午後はチエンの結婚式へ。チエンは前の年に訪日した人で、ゴク・ランがエスペラントを教えた最初の盲人学生たちのひとりである。アメリカが散布した枯れ葉剤のために、彼女の4人の妹全員が盲目である。
 手作りで飾り付けられた会場にはずいぶんたくさんの人がいる。用意された席よりもはるかに多い。何人かエスペラントの知人と挨拶を交わす。新郎新婦が入場して、前の席に座る。私も席に着く。次々に参加者が祝儀を持っていく。ゴク・ランに促されて、私もスカーフの包みと祝儀を、ひとことお祝いを言って新郎・新婦に手渡す。新郎も盲目のようだった。
 何かセレモニーがあるのかと思ったが、我々はこれで終わりで、会場をあとにした。外国人が列席するのだからと、簡単なスピーチまで考えていたのに。。。
 美術博物館へ。ゴク・ランと、バイクで私を運んでくれた息子さんには帰ってもらった。まず3階へ。60〜80年代の作品が多い。ベトナムの風景にいくらかでも接しているので、何となく迫るものがある。一枚一枚じっくり見て回った。カタログがあったらほしいと思ったが、売ってなかった。2階はウルシ画。独特の工芸品である。1階は考古関係の展示。
 ブラブラと街を歩いて帰る。ハノイ駅前はものすごい車の流れ。駅構内はものすごい人の群れ。自分で切符を買うのは難しそうだ。さらに歩いて歩いて、本屋に立ち寄る。ベトナム語が出来たらな〜。
 夕食後に、リエンとゴク・ランにトランプの「ハート」を教えてみた。スペードのクインとハートを「取らない」ゲームだが、七並べさえ満足に出来なかったこの人たちには難しすぎた。
 9時半にホテルに帰ったのだが、リエンがついてきて、ツルの折り方を教えろという。何とか憶えさせたら小さいのをたくさんほしいというので作っていたら、さすがに夜遅いからと、お父さんが恐い顔をして迎えに来てくれた。
   写真は小学校の朝の集い
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ベトナム語の点字

2005-08-04 | ベトナム旅行その2
 2001年2月1日、ベトナム旅行13日目。ハ・ロン湾ツアー第2日。
 朝もやの港を散策。朝食は、この旅では珍しい洋風のパン食とコーヒー。
 7:30、船へ。人数が半分以下になった。他の人たちは2泊以上のコースらしい。そこに昨日とは違うメンバーが合流してきた。
 昨日と同じコースを戻る。よく晴れたので、昨日とは景色が全く違うが、やっぱり退屈な船旅。宿泊した島の近くに、水上住宅がいくつかある。イカダの上の小さな家に、必ず大きな犬がいる。船中で「リプトン」を一杯。
 3時間30分でやっと上陸、昼食。その前後にもずいぶん待たされた。帰り道で、昨日とは別の「ヒューマニティセンター」に寄る。よく見たら赤十字の施設である。

 ハノイに着いたのは6時を過ぎていた。ホテルにゴク・ランの手紙、ある孤児院でフランス語を教えているから来てくれという。すぐにゴク・ランの上の息子さんが迎えにきた。彼の単車で、孤児院へ。フランス語の生徒は15人ほど、中高生くらい。授業を見学していたら生徒の前で挨拶をしてくれというので、エスペラントについて少し話した。
 この孤児院を支援しているというフランス人の女性が来ていて、ゴク・ランを通訳にして3人で話す。かつてフランスの植民地であったベトナムでは、高齢者の多くがフランス語を話すが、若いときに留学経験もあるゴクランのフランス語は折り紙付きである。こういう場ではエスペラントと混乱するらしく、時々私に向かってフランス語で話している。
 孤児院を出て、古い盲人エスペランティストの家へ。ずっと以前、ハノイで盲人エスペラント運動が盛んだった頃の人で、使う機会がなくて忘れてしまったが、いま改めて勉強中である。ベトナム文字の点字を教えてもらった。ベトナム語はアルファベトを使うが、発音を表す符号や、声調の符号がつく。アルファベット自体はどこでも同じである。発音符号のついた文字は別の文字とし、声調を表す符号は、その文字の前につける。
 ただでさえ教材や辞書が不足している国である。点字の教材は日本から送った入門書だけであり、点字の辞書などは全くない。彼の奥さんも勉強を始めており、彼が辞書を引くのを息子と娘が手伝っている。ほのぼのとした家族だった。
 今日は外の食堂で夕食。スープと中華麺。帰ってゴク・ラン宅でコーヒーを飲む。私が薄めに入れたコーヒーを砂糖もクリームも入れないで飲むのが、ベトナム人には珍しいらしい。古いアルミ製のベトナム式コーヒーフィルターを使っていれてくれる。
 ゴク・ランが洗濯をしてくれるという。リエンが汚れ物を取りに来た。そのまま帰ろうとしない。明日がチエンの結婚式で、その贈り物のパッケージを一緒に作った。結婚式では5万ドン程度の祝儀を包むのだそうだ。私は、10万ドンを包んで、別にS.Sさんが選んだスカーフを贈り物に用意していた。
   写真は水上生活者の家
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世界遺産・ハロン湾

2005-08-03 | ベトナム旅行その2
 2001年1月31日、ベトナム旅行12日目。ハ・ロン湾ツアー第1日。
 7:20分にバイクで迎えが来て、ツアー会社へ。大型バスで8:00頃出発。途中「ヒューマニティセンター」というところで休憩。大小のバスが次々に入ってくる。障害者が多いようだったが、刺繍などの仕事をしていて、いろんな土産物を売っている。「コンニチワ」と話しかけてくる店員もいるが、少し詳しく聞こうとしたら、もう日本語が話せない。土産物は、外国人観光客が対象だろうが、かなり高い。霧のような雨である。ベトナムに来て初めての雨。
 40分後に出発。海岸に出て、別コースの人たち10人ほどが降りる。レストランに入って昼食。13:30頃、船で出発。割合短時間で一つの島に着いた。階段を昇って、洞窟に入る。かなり大きな規模の鍾乳洞である。鍾乳石の発達も見事で美しい。「ホーチミン主席の顔が現れた鍾乳石」なんてのもあった。
 また船にのってハ・ロン湾を行く。霧の中から次々に奇岩が現れては消えていく。面白い景色ではあるが、これがいつまでもいつまでも続く。じきに飽きてしまった。視界はだんだん良くなってきたが、うたい文句の「美しい夕日」は見られそうにない。
 3時間以上たって、暗くなってからやっと港に到着。歩いてホテルへ。夕食で同じテーブルになったのは若い日本人3人とフランス人の夫婦。日本人たちがエスペラントのことを何も知らないと分かって、このフランス人の旦那さんが英語でエスペラントの説明をはじめた。目の前に日本人のエスペランティストがいるのに! しかも、この人自身はエスペラントが話せるわけではなかった。
 ここはかなり大きな島らしい。付近を歩いてみたが、歓楽街的な雰囲気のところが少しだけ、どういうわけか床屋が4軒。土産物屋もないし物売りもいないので、落ち着いた雰囲気がある。格安ツアーだから仕方がないが、最低クラスのホテル。

   写真はヒューマニティセンター
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ハノイ周辺の工芸村、大衆演劇

2005-08-02 | ベトナム旅行その2
 2001年1月30日、ベトナム旅行11日目。朝、ホーチミンのキエウに電話してみた。何人かが入れ替わり電話に出てきて、やっとエスペラントの分かる人が出てきた。ひどくしわがれた低い声である。とても若い女性の声とは思えなかったが、これがキエウだった。
 今日のタクシー代に30万ドン(2300円くらい)。かなりオンボロの車である。もちろんクーラーは効かないが、郊外では窓を開けた方が気持ちがいい。ゴク・ランと下の息子さんが同行。
 まずバチャン村へ。ここは800年の歴史を持つ陶器の村として有名である。私自身は陶器には詳しくなくて、高級陶器を買うつもりもない。それよりも窯や工場を見たかったのだが、まだ正月休みで稼働していなかった。それでも火を落とした窯の内部を見せてもらった。
 陶器店が並ぶが、売り手はおっとりしていて、買う気がなくてものんびり見学できる。猫の置物を見つけて購入、他に、かわいいキス人形を妻へのおみやげに、自分用にマグカップを1個。安物ばかり、いずれも青を基調にした地味な色合いである。ベトナムでもいいものは高い。
 次はドンホー村。ここは版画で有名である。作っているところも見学できた。掛け軸のいいのがあったが、4枚組で120ドル。買ってもわが家には飾るところもないしな~と、結局買えなかった。1999年にハノイに来たときには、大判の版画十数枚のセットを買ったが、ずいぶん安かった記憶である。大量生産の単なるおみやげ品と、美術品の違いか。
 そして、ドンキー村。質の高い家具を作っている。木工が好きなので加工場を見たかったのだが、ここも正月休みで加工場は全く稼働していなかった。大きな家具を買うわけにも行かず、ちょっとがっかり。直径2mほどの大木がごろごろ、花梨か?
 バナナの皮で包んだおこわやパンで昼食。その後はコーロア砦。2000年以上前の都の跡らしいが、それらしい雰囲気は残っていない。いくつかのお寺が観光地になっているだけのようだ。後ろに、いつの時代のものか土塁が残っている。それを見に行ったら、猛烈な臭気がおそってきた。単車にキーキー鳴いている豚を乗せて走っていく人がいるが、それではないらしい。ゴク・ランが指さす先に、下肥を畑にまいている人がいた。数十年前の日本の風景だ。
 ハノイに戻って、ハイバーチュン寺。2000年ほど前、漢の支配に抵抗して戦った伝説のヒロイン、チュン姉妹をまつる寺。建物がひどく混み合っている。尼僧たちが読経していた。ゴク・ランが学生の頃、彼女の姉と2人でフランスの支配するハノイで抵抗運動に参加していて、自分たちをこの伝説の姉妹になぞらえていた。
 最後は歴史博物館。ゴク・ランの解説を聞きながら回った。こういうところでは、ベトナム語が分かればなあ~と、つくづく思う。
 いったんホテルに帰って休んで、夕食後は喜劇劇場へ。もちろんベトナム語のみだが、ゴク・ランの解説もあって、結構笑えた。導入は歌。不美人の話、宝くじをめぐる悲喜劇、2人の紳士と飲んべえの女と短い演劇・コントが続き、フィナーレの踊りまで2時間。全体として貫いているテーマは、女のしたたかさといったところか。
 まだ寒い。部屋を暖めようと思ったが、エアコンは全く効かないことが分かった。

   写真は、バチャンで買ったマグカップ、ドンホー村の版画、コーロア砦の土塁
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ベトナムの風邪治療

2005-08-01 | ベトナム旅行その2
 2001年1月29日、ベトナム旅行10日目。3日前に引いた風邪はもうほとんどよくなっていたが、ゴク・ランがエスペランティストの医者を呼んでくれた。ハノイにはエスぺランティストの医者が7人いるとか。この人は盲人学生との交流会にも来ていた人で、盲人にマッサージを教えている。
 右手と左手の両方で血圧を測って、私の通常の血圧を聞いてから「正常だ」と。次はショウガと香油を使ってマッサージをはじめた。腰から肩までの背中、首、頭から顔、両手、最後は足まで約20分。風邪に効いたとも思えないが、今朝は薬をのまずにすませた。
 フォン・マイの彼氏なる若者が現れた。そのバイクでフォン・マイの家へ。大通りから門と扉のある変わった狭い路地を入ると、3階建てだが、1階分が8畳くらいしかない家があった。狭い路地をはさんだ向かい側も使っているようで、トイレはそっちにある。3階がフォン・マイとその弟の部屋。2つのベッド、コンピュータ、本棚などなど、勉強家らしい部屋だ。たしか彼女はこの年の末頃に結婚した。
 昼食をご馳走になり、フォン・マイの彼氏のバイクで今度は文廟へ。彼はエスペラントを始めたばかりで、単車を運転しながら右手に持った手帳を開いて、それを見ながら話しかけてくる。文廟でゴク・ランが待っていて、彼は帰っていった。
 文廟は1070年に作られた孔子をまつる建築で、1076年創建のベトナム最初の大学でもある。広い構内は緑が多く、建物も立派である。大きな亀の上に乗った石碑が82基。科挙試験の合格者82人のひとりひとりを称える碑である。一つの建物の中で民族楽器の演奏をしていた。
 ついで、ゴク・ランの単車に乗って美術博物館へ。しかし月曜日で休館。旗塔に行ったら軍事博物館が開いていた。入場料を払って入館したのだが、月曜は休館日だが、団体客のために開けたので、一部分しか開けてないという。インチキじゃん!
 帰り道、旧市街の端でゴク・ランと別れて、正月は開いていなかったドンスアン市場に行ってみた。3階建ての大きな建物である。1階の店はほとんど開いていたが、2、3階はまだだった。1階は日用品、食品などが多く、おみやげになるようなものはあまりなかった。道路に出来る市場の方がはるかに活気がある感じ。
 4:30、ホテルに帰る。疲れている。また寒くなってきた。7:00からゴク・ラン宅で夕食。明日はハノイ周辺の工芸村などを単車で案内してくれるというが、私も疲れているからと、タクシーにしてもらった。明後日からはハ・ロン湾の1泊ツアー(23ドル)である。お金を取りにリエンがホテルまでついてきて、そのまま帰らないから折り紙などで遊ぶ。幼く見えてももう13才、抱っこするわけにはいかないし、少々扱いに困る。
   写真は文廟 科挙の碑と民族楽器演奏
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山間部の水事情

2005-07-31 | ベトナム旅行その2
 2001年1月28日、ベトナム旅行9日目。マイチャウ2日目。夕べはよく寝た。朝6時に起きだして、周辺を散策。昨日は5時に閉めた土産物店がもう店開きをはじめている。
 周辺は水田地帯だから、水は重要である。村の入り口にはため池があった。この民宿村の近くには川から引いた小さな流れもある。昨日歩いたところには立派なかんがい水路も造られていた。しかし、清潔な飲料水はないようだ。
 宿泊棟の中庭に4m四方くらいの池がある。全くのたまり水ではなくて、どこかから引いてきた水が流れ込んでいる。鯉がいて、50cmくらいの透明度だからあまりきれいではない。この池でお米を洗う。たぶん炊くときは地下水を使っているとは思うが・・・。
 朝食はインスタントの中華麺。アメリカやヨーロッパの若い男性が数人いたが、好奇心旺盛である。エスペラントについて私に英語で質問しはじめた。質問はだいたい分かるからエスペラントで答え、例のフランス人が通訳してくれる。複雑な話になるとこの通訳にも理解できなくなるので苦労した。
 昨日とは別の集落に遠足。民家の一つに上がると、布を織っている。昔、母の実家にあったはた織り機と同じものである。お茶をご馳走になり、台所を見せてもらう。布を買っている人もいたようだ。
 また小さな市場に寄って、民宿村へ戻る。私は日本へのおみやげに薄いスカーフのような布を買おうと思った。色合いが実に素朴でいいのである。1枚が1万ドンだという。20枚買うから10万ドンにしろと、ノートに金額を書いたら男の人がそれでいいという。いろんな色があるから20枚を選んで10万ドンを出したら、その頃にはあたりから5~6人の女性が集まってきて、ダメだという。押し問答したが、まけたら自分たちが首になるという仕草をする。どうやらこの民宿村全体が一つの企業らしい。値段は定価であって、全くまけないと分かった。
 それでも、いくつかの店で合計17枚を買った。いいおみやげになった。
 裏の木にカメムシが沢山いて、こどもたちが採っている。小さなガラスビンに油のようなものが入っていて、その中にいれる。食べるのか、何か薬を作るのか?
 昼食後、バスで来た道を戻ってハノイへ。途中、また同じカフェで休憩。コーヒーは3,000ドンだった。昨日、私はただで飲んでしまったらしい。
 ゴク・ランは私の後半の予定をしっかり作っていた。下の息子さんが失業中でヒマだから、バイクで案内してくれるという。

   写真は、水田で働く水牛と、マイチャウへの途中の峠からの眺め。
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少数民族の村へ

2005-07-30 | ベトナム旅行その2
 2001年1月27日、ベトナム旅行8日目。今日から1泊で少数民族の村マイチャウへのツアー(1泊4食で22ドル)である。ホテルの方は、荷物はそのままで料金はなし。ベトナムの少数民族は53あり、ほとんどが山岳部に住んでいる。
 昨日からずっと寒い。朝食代わりにミカンとビスケットを食べ、風邪薬をのむ。7:05、ホテルに迎えのバスが来た。バスといっても日本のハイエース程度である。あちこちのホテルで客を拾って、10人で満席。パヒューム・パゴダの時と同じガイド。しゃべる英語がさっぱり分からない。
 途中で居眠り。気がついたときにはすでに山間部を走っていた。9:00休憩。コーヒーを飲む。お金を払わずにすませたので、ツアー料金に入っているのかと思った。
 山を登って峠を越え、小さな村に到着。ここから500mほど歩いて、観光用の民宿村に着いた。処理方法が気になったが、水洗トイレもある。シャワーや洗顔用には地下水をくみ上げて使っている。
 昼食の時にとなりに座ったフランス人の老夫婦と話す。私がエスペラントを話すと聞いて、彼が自分の父がやっていたが、自分はダメだという。しかし、私の話すことはほぼ理解できる。フランス語とイタリア語とスペイン語の混合みたいなものだという。彼はその他に英語も分かる。私がエスペラントで質問して、彼らが主にイエス・ノーでこたえてくれて、今日の予定がやっと分かった。
 食後約2時間の自由時間。村まで歩いてみた。田んぼの風景は日本によく似ている。住宅は木造の高床式、平床式、街でよく見るフランス式の2~4層の鉄筋コンクリート造が混在している。高床式でも、床下で豚や鶏を飼っているところはなかった。
 2:30から村内のトレッキング。いきなり風景に不似合いな立派な鉄筋コンクリートの橋が現れた。「日本の援助で出来た」と彫り込んだ金属板がはめ込んであった。農作業(田起こし、均し、田植えなど)を見ながら歩く。数十年前の日本の風景だ。こどもが遊ぶ姿はほほえましいが、小さなこどもが突然手を出して「マネー」という。街に入って、小規模な市場を見学。広場に大勢集まってサッカーをやっていた。約2時間で民宿村に戻った。
 民宿村は宿舎の建物と、土産物の店がある。きれいな手織りのスカーフが主力商品。5時になったらもう店じまいしてしまった。
 夕食時、みんなと一緒に食べないで、持参してきたバナナと豆乳だけで食事をしている女性がいた。日中は5リットルくらいの大きなミネラルウォーターを持って歩いていた人だ。たぶん菜食主義者だろう。菜食主義者には、牛乳や卵くらいは食べるタイプと、動物性のものはいっさい、蜂蜜さえ食べない厳格なタイプの2種類ある。私のスエーデンの友人は後者である。ヨーロッパでは、もう一つ、平和的な菜食主義者と戦闘的なそれとがあるらしい。後者は食肉輸送車を襲ったりするという。
 彼女にエスペラントで、「このビスケットを食べるか?」と聞いてみた。英語で「私は日本語が分からない」という返事。そばにいたフランス人が笑い出した。彼を通訳にして会話を少し。私は彼女の英語を何とかおぼろげに理解し、私の言葉は、フランスの老人が通訳してくれる。彼女はブルガリアの人で、厳格な菜食主義者である。ビスケットにはバターが入っているから食べない。ご飯だけなら食べられるが、ベトナムしょうゆ(ニョクナム)は魚から作るからダメである。
 夜は、1人40,000ドン(約300円)のオプションで民族舞踊を呼んだ。「歌舞団」は、全く素人の若い男女十数人と、ひとりだけ踊りの上手な中年女性であった。
 蚊帳を吊り、広間をカーテンで仕切って就寝。

   写真は「歌舞団」とお酒の壺。中にピンク色の甘くて弱いお酒が入っていて、ストローのような茎を使ってみんなで飲む。
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お寺巡りツアー、ベトナムの都市住宅

2005-07-29 | ベトナム旅行その2
 2001年1月26日、ベトナム旅行7日目。5時起床、シャワーを浴びて準備、6時20分に玄関へ。ちょうどゴク・ランの息子さんが迎えに来た。今日は寒いから暖かい格好をしろというそぶり。彼は英語も全く出来ない。近くの店で朝食。フォーではなくて、中華そばのような感じだった。バイクで今日の集合場所へ。ゴク・ランが待っていた。
 小型のバスに乗り込む。30人近い人数でぎっしり満員。ほとんど中高年の女性ばかりである。今日はハノイ周辺のお寺やパゴダを巡るツアーである。2日間にわたって行われ、毎年参加している人も多いようだ。ゴク・ランは初めて参加するという。我々は今日だけの参加。
 1日かけて、4つのパゴダと2つの寺を回った。私にとってはとても興味深い遠足であった。古い建物を眺めるだけで何となくうれしくなるのだ。それぞれが歴史のある古い寺であるが、日本で売られている観光案内書には載っていない。
 バスの中は実ににぎやかである。よくしゃべり、よく食べ、よく汚す。木の実やカボチャの種のようなもののカラを床に捨てる。お寺ごとにおみやげを買ってきて、それをまた食べる。運転手が時々床にたまったゴミを掃き集めて道路に捨てる。ゴク・ランが「東京ではゴミ収集車が週2回しか来ないが、ハノイでは毎日来る」と言っていたが、毎日集めないと道路がゴミだらけになる。
 どこかのお寺で直径50cm以上はあろうかというセンベイに似た焼き菓子を売っていた。食べてみたがあまりおいしくはなかった。
 ベトナムに来て、はじめての寒い日。朝はそれほどに思わなかったのだが、そのまま温度が上がらない。長袖シャツにウィンドブレーカーを着ていたが、寒い。腹具合までおかしくなって、あるお寺のトイレを使った。手動ウォシュレットの手動水洗で、横の水槽を使う。便器は和式トイレからきんかくしをとった形を思い浮かべていただきたい。
 4時半頃にホテルに帰った。体が冷えているのでシャワーを浴びたが、今日は早々と水になってしまって余計に冷えてしまった。そこにリエンが遊びに来た。毛布にくるまって相手をする。夕食をゴク・ラン宅で食べて、カードゲームに興じ、歌ったり話したりして遊ぶ。
 ベトナムの都市住宅は、鉄筋コンクリートの細い柱と梁で作り、床も鉄筋コンクリート、壁はレンガ積みである。地震が来たらひとたまりもないと思うが、地震の起きないところだという。階高が高いので、中2階を作る。
 ゴク・ランの家も2階建てだが3層である。中2階は1部屋で、長男夫婦と18才の娘、4才の息子が住む。この部屋に入るには、階段の途中から1mくらいの段差を乗り越えねばならない。2階は2部屋で、8畳くらいの居間、12畳くらいの寝室と、シャワーだけの浴室、洗濯室などがある。大きなベッドには長男夫婦と娘、祖母のゴク・ランの4人が一緒に眠る。
 居間には立派な祭壇と、ゴク・ランの仕事机、鏡台、テーブルと長いすなどなどが置かれている。客が来たときもこの部屋で対応する。居間の外に狭いベランダがあって、小さな台所がある。さらに屋上に上ると物干し台で、私の洗濯物もここに干してもらった。1階は広い車庫(フォー食堂)と物置、便所、台所などがある。

   写真は訪問したパゴダの一つ、一般に建物は素朴で小さい
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正月のお小遣いをもらってしまった

2005-07-28 | ベトナム旅行その2
 2001年1月25日、ベトナム旅行6日目。
 例によって私は早朝散歩。旧市街は路地が入り組んでいて、いろんな店があり、ベトナム人の生活がかいま見えて興味深い。大きな市場があったが、まだ開いていなかった。
 朝食後、女性たちが買い物をしたいというので、彼女たちはシクロという人力車、私はゴク・ランの息子さんの150ccくらいのバイク、ゴク・ランは50ccの小さなバイクに13才の孫娘を乗せて出発。やっぱり市場はまだ開いていない、おもちゃ屋でベトナムトランプを見つけて購入。いくつかのおみやげ店に入って、買い物。私は帽子を1個。
 ホーチミン廟へ行ってみたが廟には入れない。ホーチミンの家と一柱寺を見学。
 ゴク・ランのいとこの家へ。3階建て・新築の豪邸である。この辺りが再開発されて、農地の代償のお金で建てたとか。すぐ近くにも古い小さい家があって、別のいとこが住んでいる。ゴク・ランには何人のいとこがいるのかと聞くと、亡くなった夫のオジ・オバが7人いて、それぞれにこどもが何人かずついて、自分のいとこも沢山いて・・・とても数えられない!
 立派な昼食をご馳走になり、近くのパゴダやお寺を案内していただいた。パゴダとお寺は違うというのだが、どう違うのかよく分からなかった。ベトナムでは古い寺でも、仏像の光背にあたるところをきらびやかなイルミネーションで飾ったりする。我々が見ると由緒ありそうな仏像を安っぽく見せるなんてと思うが、ベトナム人は日本のお寺の中は暗くて、仏像がよく見えないと言う。
 ベトナム流のおもてなし・・・自分のハシで客の皿におかずをよそう。このあとも何度かあったのだが、現に自分が使っているハシで、私の皿におかずをどんどん乗せてくれるのだ。時にハシの反対側を使ったり、トリバシが用意されていることもあるが。
 2時過ぎ、マイ・ランの家へ行く。若いエスペランティストたちが集まって「新年会」である。1年9か月前にエスペラントアジア大会を手伝うために学習を始めた彼らが、着実に育っている。フランス語の影響が強い古いエスペランティストたちよりも発音はきれいだ。その古いエスペランティストたちも何人か来ていた。 
 正月の習わしとかで、ベトナムエスペラント協会(VEA)書記のトアンさんや青年部会長などが赤いポチ袋に入れたお金をみんなに配る。私もいただいた。トアンさんは2,000ドン(約15円)ずつ、青年は200ドンずつ。200ドン札はほとんど使われていないので、初めて見た。
 S.Sさんたちが日本へ帰ると聞いて、リエンが泣き出してしまった。彼女たちは、ゴク・ランと一緒に4時半頃空港へ。私は若い人たちと歓談。6時半頃になって、マイ・ランの単車に乗せてもらってホテルへ。時速20kmくらいまでの超安全運転だった。
 夜、リエンが呼びに来た。ゴク・ランとベトナムのエスペラント運動について意見交換。
 その後、買ってきたベトナムトランプの遊び方を教えてもらった。カードの種類が少ないので、最初の配り手に勝敗が大きく左右される。
 西洋トランプを持ちだしてきたので、七並べを教えてみた。赤子の手をひねるように私が勝ってしまう。カードの止め方などの作戦を教えたが、ゴク・ランもチエンも、どうしても理解できない。これでよくアメリカに勝てたものだとからかう。もっと簡単なゲームということで、ページ・ワンを教えた。彼らの知っている遊びは一つだけで、大貧民に似ていた。
 ホテルのオーナーから、お正月の縁起物として果物の砂糖漬けが届けられていた。

   写真はお寺の庭で見つけた実の付いたザボンの木、お小遣いを入れるポチ袋
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洗わないお茶碗、紙のないトイレ

2005-07-27 | ベトナム旅行その2
 2001年1月24日、ベトナム旅行5日目。正月の朝は街も静かである(朝だけで、昼頃にはもう元の喧噪に戻っていたが)。ゴク・ラン宅で昨日の赤米や果物などで朝食。朝食前に恰幅のいい老人が現れた。ゴク・ランの義理の弟で、元大臣、2人の大統領の秘書官も務めたことがあるという。正月に親戚を回って祖先の霊に詣でるのが習わしだとか。この家の居間にも立派な祭壇がある。
 ゴク・ランが日本人3人を案内してくれて市内見学。ホアン・キエム湖の西側にレ・ロイ(別名をレ・タイ・トー)という昔の王様の記念碑がある。1407年、黄金の亀に与えられた剣で侵略者に打ち勝ったという伝説がある。この後いくつかのお寺を回った。初詣なのか、やたらに人が多い。もうもうと線香の煙。小さなおもちゃのようなお札を売っているが、これは奉納するためのものだった。
 西湖のほとりで昼食。タニシの入ったフォーがここの名物。他に、小エビの天ぷら(コロモがやたらと大きい)、牛肉と野菜のサラダ、ヤシの実ジュースなど。
 「日本人街」に行ってみた。隔離されたアパート群のようなもの。入り口には門番までいる。中には食堂などもあるようで、近代的な生活が可能なのだろう。日系企業の社員などが住むらしいが、もっとベトナム人と触れあうところで生活すればいいのにと思ってしまった。
 冬だというのに、暑い日が続いている。私はTシャツ1枚である。S.Sさんはベトナムの民族服アオザイを着ている。脇の下近くまでスリットの入った長い上着とズボンだが、暑くて参っていた。ベトナム人の多くは、ちゃんと冬の服装をしている。マフラーを巻いている人がいるほど。
 どこかのお寺で、ゴク・ランがお茶を飲むかというので、暑くてのどが渇いていたから喜んで飲んだ。誰でも飲めるように置いてあったお茶で、飲んだら茶碗をそのまま伏せておく。お茶を入れるときにお湯でさっとゆすぐ。ベトナムではお茶碗をあまり洗わないのだった。これは個人の家でも、学校の職員室でも同じだった。
 女性たちがトイレに行くのに、わざわざホテルまで戻るので訳を聞いたら、ゴク・ランの家のトイレには紙が置いてなくて代わりに洗浄用の水が置いてある。手動のウォシュレットである。これもホテル以外はどこでもそうであった。
 夜は水上人形劇。これで2回目だが、やっぱりすばらしい。何よりも様式化されないで、にぎやかで底抜けに明るく、素朴な民衆芸術の雰囲気がいい。

   写真は西湖の近く、チャン・クオック寺
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大晦日(テト前日)の夜

2005-07-26 | ベトナム旅行その2
 2001年1月23日、ベトナム旅行4日目。旧正月(テト)前日、大晦日である。
 早朝の旧市街を歩いてみた。道路が市場に変わっている。赤い米、バナナの葉で包んだもの、活きている雷魚、鯉、エビ、イカ、野菜、果物、生肉、料理した肉、活きている鶏。狭い通路にごった返す人、そこを通り抜けるオートバイ、天秤棒で大きなカゴを担いだ人。。。
 午前中はベトナムエスペラント協会(VEA)の人たちとの交流・懇談会。私のような駆け出しのエスペランティストをまるで日本代表のように歓迎してくれた。私はデジカメのスマートメディアに、これまでの外国旅行などの写真を編集して持っていった。それを解説しながらテレビで上映。これが好評で、ハノイにいる間に何度も上映した。
 ゴク・ラン宅で昼食会。焼き豚、揚げ春巻き、麺など。そのあと、VEAの役員会。夏に国際的な集まりを計画していて、アドバイスしてくれという。こういう会の成否は、日本からの参加者数にかかっている。しかし、夏は行事が多くてあまりいい時期ではない。
 日本人3人と、ゴク・ラン、孫娘のリエン(13才)の5人で旧市街に出る。S.Sさんたちはおみやげをたくさん買い込む。私はTシャツ2枚を4万ドン(約3ドル)で買った。
 夜はゴク・ラン宅で大晦日のご馳走である。もう一人の孫娘(18才)が準備したもの。荒切りにしたピーナツをふりかけた野菜サラダがおいしかった。タケノコと豚足の煮物、骨付きの鶏、セロリと牛の炒め物、椎茸の肉詰めとウズラの卵などなど。赤いお米は日本のおこわに近い。この色は専用の果物でつけるとか。バナナの葉に包んだのは、餅米の中に肉や大豆の粉を入れて蒸したもので、保存がきく。
 若い女性(エスペランティストのマイ・ランとそのいとこ)、若い男性(クォン)が来てにぎやかに。S.Sさんが日本の着物を持ってきていて、それを女性たちに着せてファッションショーが始まる。ゴク・ラン、その2人の息子の奥さんと2人の孫娘、マイ・ランとそのいとこ、結局ひとり残らずショーに登場することになった。
 S.Sさんたち、マイ・ランたち、リエンの女性5人、私とクォンの男性2人で夜の街に出る。ホアン・キエム湖の周辺はいろんな店や飾り物でにぎわっている。舞台が作られて歌などのショーが行われている。迷子にならないように手をつないで歩く。国立劇場前にも特設ステージが作られていて、サーカスのようなショーや喜劇などが次々に上演されている。クレーンで吊ったり、大画面に移したりと面白そうだが、人が多すぎて近づけない。
 そのうちに女性たちが人混みをかき分けて突進し始めた。必死についていったが分からなくなって、後ろを振り向いたらクォンだけがいる。女性たちはどうしたと聞いたら、たぶん後ろだという。2人でいったん元のところに戻ることにした。しかしいつまでたっても女性たちは戻ってこない。あきらめてホアン・キエム湖に戻る。後で聞いたら、男2人だから心配ないだろうと探しもしなかったという。
 12時が近づいて花火が始まった。しかし濃い霧の中で開いていてほとんど見えない。やっとホテルに帰り着いたら、招待するから食堂に来いという。ホテルのオーナーと従業員のみなさんだった。そこに女性たちも帰ってきた。強いウィスキーで乾杯(私はお酒をほとんど飲めない)。
 クォンがもう少し話したいというので、3時近くまで部屋で話した。マイ・ランもそうだが、彼はアジア大会の3か月前からエスペラントを始めた若者たちの一人だからまだ1年9か月くらいだが、なかなか上手に話す。折り紙が好きで、昼の交流会で私が1:2の紙でつながった鶴を作る話をしたとき、それを聞いただけで即座に作って見せた。この夜は、三角形で鶴を作らせてみたら、少し時間はかかったが、ちゃんと尻尾のある鶴を作ってしまった。彼は、いまではベトナムの青年エスペラント運動のリーダーのひとりである。
   写真は大晦日の夜のホアン・キエム湖周辺にて 蛇の飾り物と細工飴を売るおじさん
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