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エスペラントな日々

エスペラントを学び始めて28年目である。この言葉をめぐる日常些事、学習や読書、海外旅行や国際交流等々について記す。

ドリトル先生の郵便局

2025-01-20 | 読書ノート


 久しぶりの読書ノート。ドリトル先生シリーズの2冊目、エスペラントのネット上の図書館 Libro で見つけてダウンロードしたものである。この図書館には大量のエスペラントの本があって、ダウンロードできる本もたくさんある。ドリトル先生は好きな話なので楽しく読めた。この本が紙の本で出版されているのかはわからないが、PDF 版のこの本は欠陥本である。本文の間に挿絵があって、この挿絵が独立した1ページになっている。そのため、本文がそこで途切れて、挿絵ページを挟んで次のページに飛ぶことになる。そのせいで1ページが2〜3行で終わってしまうところもある。そして、1番の問題は、後半の3分の1くらいが欠けているのである。そこまでしかエス訳しなかったのか、PDFにする段階で欠落したのか?
 エス文は割に読みやすいが、時々ちょっと変わった表現に出会う。英語からの翻訳だからであろうか?
 例えば、”Jadi" という感嘆詞。「大変だ!素晴らしい!、驚きだ!」くらいの意味らしいが、英語なのかどうかわからなかった。jadiegi! なんてのも出てくる。jadi-eg-i ? ちょっと変だよね。
 その他、ちょっと戸惑った表現をいくつか:
 ankaŭ estis leteroj kiujn de sendis al kaj ricevis de birdoj kaj bestoj en la tuta mondo.
 sendis al と ricevis de  を kaj で結んだものらしいが、de が一個余分な気がする。
  li rapidegis el la ĉambron kaj supren laŭ la ŝtuparo.
 部屋から飛び出して階段を駆け上がった。こういう場合、 ĉambro に対角語尾を付けるのか?
 Ĉirkaŭe-ĉirkaŭe li iris supren, ĝis li pretis fali pro kapturniĝo.
 周り階段をぐるぐる回りながら登ったので目が回った。ĉirkaŭe って変じゃない?
 si multe ekŝatis lin, multe malplaĉante sian edzon
 自分の夫が嫌いになって、子豚(lin)が大好きになる。plaĉi の使い方はこれでいい?
 その他ちょっと面白かった表現:
 Je saltanta fromaĝo! ネズミが発した感嘆詞。
 tutdume: その間中ずっと
 bardaŭege: bardaŭ に-eg をつけたのは初めて見た。
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トム・ソーヤーの冒険

2024-11-19 | 読書ノート


 実に1年ぶり以上になる久しぶりの読書ノート。この間「紅楼夢」全3巻を読んでいてなかなか終わらないので他の本に手が出なかった。「紅楼夢」は多分今年中に読み終わるので、その時には簡単な感想を書くつもりである。
 さて、今回はマーク・トウェインの少年向け冒険小説「トム・ソーヤーの冒険」である。多分中学生の頃に読んで、私の好きな小説の一つとなった。エスペラント版は Libro というサイトからダウンロードできる。カテゴリーの junulara にある。続編の「ハックルベリー・フィンの冒険」の方が好きなのだが、そのエスペラント訳はまだないようだ。「方言あるいは口語体で書かれた最初の小説作品」(ヴィキペディア)ということでスラングも多く使われているようなので訳しにくいのかもしれない。
 400ページを超える長編で、ストーリーは複雑でないが、なんとなくすらすらとは読みにくい。特別に難しい表現や英語からの直訳を思わせる表現もあまりないと思うのだが。

 有名な小説なので、中身には踏み込まないことにするが、気になった表現が少しだけあった。
 Li palpis sin supren de la monteto.
 Li palpis sin malantaŭen.
 英語にこのような表現があるのかどうかはわからなかった。直訳すれば「自分に触れる」だが、ここは「手探りで進む」という意味らしい。
 La dormo estis kvazaŭ ligita al hararbutono,
 「眠りは髪のボタンに結び付けられたようなものだった(?)」
 状況から、あまり深い眠りではない様子である。
 ネット検索して初めて知ったのだが、この小説の舞台はアメリカに実際にある街で、小説に出てくるマクドウガルの洞窟も実際に存在していて観光名所になっているようだ。
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Telenio

2023-07-18 | 読書ノート


 久しぶりの読書ノートはオスカー・ワイルドの「Telenio」である。
 オスカー・ワイルド(1854-1900)はアイルランド出身の作家で、「幸福な王子」「ドリアングレイの肖像」などで知られている。この長編小説は、楽天のネット書店で「エスペラント」で検索して見つけた電子書籍である。たぶん日本語訳は出版されていない。ワイルド自身についてはほとんど何も知らなかったが、なかなか破天荒な人物らしい。興味があったらウィキペディアなどで調べてみてほしい。
 この作品が本当にオスカー・ワイルドのものなのかどうか少々疑問もあるらしい。
 冒頭に次のような「警告」がある:「小説Telenioはエロチックな世界文学である。それは同性同士と異性同士の性行為についての赤裸々な表現を含む。」
 前文を読むと、この小説の翻訳が非常に丁寧に誠実に行われたことがわかる。前文には次のようなことが書かれている:
 ・19世紀のイギリスの読者は、ギリシャ神話と聖書、そしていくつかの外国語(主にフランス語、他にドイツ語・イタリア語など)を知っており、作品にはしばしばイギリス文学から原典を示さずに引用がされている。そのため、多量の脚注を生じた。
 当時の上流の人たちは、使用人に聞かせたくない話をするときや、気取って自分の階級や教養を示すときなどにフランス語を使っていた。
 ・Ĝentlemano について・・・19世紀では金持ちで農場などを持ち、自分では働く必要のない上流階級を意味した。弁護士や医者以外で働いている人は、上流階級の身分を失う恐れがあった。名刺にも「Gentleman」と書いていたほどであった。・・・この説明は、小説内のある小さなシーンを理解するためにだけ必要なのである。

 さて、この作品の紹介を簡単にしておこう。主人公は2人の美貌の青年である。そのうちの一人Kamiloと作者(?)との対話という形で進められる。
 あるチャリティ音楽会でKamiloは音楽家Telenioと知り合い、お互いに強く惹かれる。Telenioを忘れられないKamiloは興奮で寝られず、夢を見る。夢の中で、自分の妹(実際にはKamiloに妹はいない)がしどけない姿で横になっている。彼はその足元から衣服の中に潜り込み・・・ここでいきなり非常に生々しい描写が出てくる。あまり明確には語られていないが、この小説の底流には近親相姦・母親への憧れがあるような気がする。
 Kamiloはずっと以前から「愛」を感じてはいたが、その対象が常に男性だったので自分ではそれが愛だとは思っていなかった。そして男女の性愛については何も知らないまま大人になってしまった。小説では高校卒業後に同級生たちと繰り出した夜の街の娼館が思いっきり醜く描かれている。
 KamiloはTelenioへの思いとそれまでの道徳観との矛盾に苦しむが、コンサートでは常にTelenioの視線が強く自分に向けられているのを感じる。あるときTelenioが伯爵夫人と性行為(ここでもその描写はポルノ小説である)をするが、Kamiloはその光景・感覚をTelenioと超自然的に共有する。こうして2人は強い思考の伝達・共有を経験する。
 この後様々な事件=もう一人の同性愛者Briankourtの登場、使用人の少女との交流、その少女に御者の男が暴行、少女の自殺=などなどが起こり、KamiloとTelenioは再会し、お互いに愛を打ち明けあい、激しく愛し合う。その後も様々な事件が起こるが二人の愛はますます強まっていく。男同士の性行為も具体的に生々しく描かれる。そして、悲劇的な事件が起こり・・・。
 ネタバレになるのでこれくらいにしておこう。ともあれ、エスペラントだから読んだわけで、この小説が日本語訳されていても読む気にはならないと思う。エスペラントのおかげで珍しいものに出会ったわけである。

 ワイルドの人物画はウィキペディアからコピー。
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異文化の出会いと悲恋

2023-02-08 | 読書ノート


 パソコンのトラブルでこのブログの更新がしばらくできませんでした。

 久しぶりに、今回は読書ノートです。ミルチャ・エリアーデの「マイトレイ」という小説のエスペラント訳です。
 エリアーデはルーマニアの宗教学者・民俗学者・歴史学者で作家である。
 第二次世界大戦後、ルーマニアは統一国家として独立する。その頃、近代的な思想を身につけた若い知識人たちが現れ、エリアーデ(1907-1986) もそんな人たちの一人だった。しかし彼の活動は大戦よりもずっと前に始まっている。東洋の神秘、特にインドの哲学史に惹かれた彼はインドのマハラジャに手紙を書く。マハラジャはヨーロッパからの留学生に奨学金を出していた。同時に、彼はインドの偉大な教師スレンドラーナ・ダスグプタにも手紙を出す。数ヶ月後(1928〜)、カルカッタの大学で学び始め、ダスグプタに認められてその自宅に住むようになる。ここでダスグプタの娘と激しく恋をするが、ダスグプタの家族の反対で悲恋に終わる。ダスグプタの家を追い出されたエリアーデ(作品中ではAllanという名の建設技術者)はヒマラヤの小屋で数ヶ月を過ごし、1931年にルーマニアに帰国、第二次世界大戦後は政治的な軋轢からフランスに移った。8つの言語を流暢に使いこなしたといわれる。
 この小説は、インドでの悲恋をほとんどそのままに描いたもので、出版されるや大評判になった。ダスグプタの娘(小説ではマイトレイ)はその後結婚し、子供ももうけるが、一方で文化人としても有名になる。エリアーデの小説に自分達のことが赤裸々に描かれていると知った時には激怒したが、その後使用人の書いた手紙などによってエリアーデの気持ちを知り、自分が父親に騙されていたことを知る。その後彼女自身が同じテーマで小説を書いた。この2つの小説は、内容ではかなり符合しているというが、描かれている人間像はかなり異なっているという。近代ヨーロッパ人の目とインド人の目が同じものを見ても同じようには感じない、このことがこの小説のもう一つのテーマである。この小説を読んで、ヨーロッパ的・近代的な考え方は合理的ではあるが、一方我々日本人からすると、インド的な考え方も理解しやすいと思った。エリアーデとマイトレイはずっと後にアメリカで再会を果たす。情熱を失っていなかったマイトレイに対し、エリアーデは冷静だったという。
 この本はUEAの「東西叢書」の一冊であり、このシリーズに最も相応しい小説ともされている。エスペラント訳はわりに読みやすいが、二人の精神的・肉体的な交わりなど内容を細かく理解するには多少の辛抱強さと想像力が必要かもしれない。冒頭に二つの前書きがあるが、あまり読みやすいとはいえない。本を読んでしまった後に読んだほうがいいかもしれない。
 原作者の紹介と作品の紹介の内容が重複するので少々わかりにくいかもしれないが、関心を持った方はぜひ読んでほしい。
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数千年を超える跳躍

2023-01-17 | 読書ノート


 久し振りの読書ノートは Jean Forge の「saltego trans jarmiloj」。Jean Forge については、これまでにも、Abismoj、 Mr Tot aĉetis mil okulojn を紹介してきた。
 これはいわばタイムマシンをテーマにしたSF小説である。小説としては、前記2作のほうがおもしろかった。主人公(いちにんしょう、miで語られる)はオートバイででかけ、猛スピードで走って事故を起こす。気がつくと怪我をしてベッドに寝ている。ここは人里離れた屋敷で、奇妙な人々が住んでいる。なかでも Fromaĝi という学者が CO というのを発見する。読んでいても CO がいかなるものなのかはよくわからないのだが、一種の「場」のようなもので、CO の中にいると時を超えて移動できる。主人公は Fromaĝi の娘 Maria と恋仲になる。Sovaĝi という男は、ローマ時代の哲学者の名前が、Kikerono なのか Cicerono なのか、独裁者が cezaro なのか kesaro か、といったことを研究している。
 ある日、Fromaĝi が CO を利用して過去へ行こうという。議論の結果、ネロの時代のローマに行くことになる。現地での生活のために珍しいものをいろいろ用意していくことになる。CO はタイムマシンとは少し様相が異なっていて、CO 全体が昔のローマにつながっているという感じらしい。したがって、家全体が昔のローマに現れる。家の周囲は美しいローマの古代庭園である。早速ローマ人たちが家の周りに現れて、20世紀人たちとの交流が始まる。ネロとも会って、ローマ人たちは20世紀人たちの持ってきたマッチとか、ガラス(凍った空気と呼ばれる)などの小物から自動車まで様々なものに驚く。ネロには蓄音機を贈る。「女心の歌」を聞かせたり、ライオンの吠え声で驚かしたりして、次にはオペラを聞かせると約束する。あとで、Fromaĝi が20世紀のラジオを聞こうとやってみるが、どうしてもラジオ音波が CO 空間を通ってこない。ローマで過ごすうちに、20世紀人たちは様々な形でローマの影響を受け始める。Snob という女性はローマの装身具などに夢中になり、自分のものだけでなく他人の物まで売り払って装身具を買いあさり、輿までそれを担ぐ4人の奴隷ごと買い込み、さらには Glaŭkus という、当時ローマ女性のあこがれの的であった役者と交流しはじめる。主人公はローマの美女と恋仲になって Maria の怒りを買う。家の門番であった Tabakaĉ が行方不明になる。ネロの招待で闘技場にみんなで出かける。闘技場での見世物は凄惨なものだったが、最初は眉をひそめていた20世紀人たちも次第に観衆の興奮に巻き込まれていく。最後のショーとして、人間と野生獣との戦いが行われることになる。引き出された人間は行方不明になっていた Tabakaĉ だった。20世紀人たちはピストルを使って Tabakaĉ を助け出し、家に戻る。怒った群衆が押し寄せてくるが、CO を起動させてなんとか20世紀に戻ることに成功する。独裁者の呼び名が ĉezaro だったと分かったのが、この冒険の大きな成果の一つであった。
 かなり乱雑にこの小説を紹介した。エスペラントは割に読みやすいので、機会があったら読んでみてほしい。
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インドの踊り子

2022-05-27 | 読書ノート


 読書ノートは Kumeaŭaŭa に続いて、チボリ・セケリの「Padma, la eta dancistino」。インドの、文明から取り残されたような小さな村に欧米人の旅行者 Bend がやってくる。この村で出会った少女を中心にして、村人たちの生活や風習・迷信などを描く。旅興行の一座やヒンズー教の導師などがもたらす村の外の世界からの新しい風に敏感に反応するのは子供たちである。そんな中で、Padma はダンサーになることを夢見る。Bend は、子どもたちを遠くの街の学校で学ぶことができるように骨を折る。村人たちの反応も一様ではなく、中には Bend に反感を持つ者もいるが、この小さな村共同体に注がれる作者の目は温かい。
 Padma が偶然落ち込んだ洞穴から物語は思わぬ方向に進んで・・・。インドの社会ではカースト制度が重要な役割を持つのだが、この話ではその影が殆ど見られない。作者が人していなかったのか、あえて触れなかったのかはよくわからない。
 エスペラントは平易で読みやすい。初心者におすすめの一冊である。
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5歳の孫に

2022-03-30 | 読書ノート


 引き続いての読書ノートは Julian Modest の子供向けのお話である。Modest については、このブログで何度か取り上げてきた。このお話は、作者自身の5歳の孫に読み聞かせをする中で生まれたという。
 Jombor は5歳の子供で、Miki は身長10cmくらいの小人である。2人が出会うとすぐに友達になり、Miki の不思議な力で、2人はいろんなところに冒険に出かける。唯一、小人たちの街を除けば、特に魔法の国とか不思議の国というわけではなく、彼らの行くのは遊園地・動物園・玩具屋さん・スポーツ場・雪の降る町といった現実の世界である。しかし、幼い Jombor には、憧れの場所でもある。海賊船の上に来たら、そこは映画のセットだった。Jombor は、そこでいろんなことを経験する。小人の街は一種の理想郷を表している。そこには交通信号がないが、事故も起こらない。家々の扉には錠がない。誰でもどこの家でも歓迎される。商店には店員がいなくて、誰でも欲しいものを何でも自由に持って帰ることができる・・・。
 孫の成長を見守る著者の温かい目を感じさせる作品である。挿入されている挿絵も楽しい。エスペラントは易しく、初心者向けの読本としてもお勧めできる。
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コロンブスの「発見」?

2022-03-23 | 読書ノート


 久々の読書ノートは、チボリ・セケリの「パタゴニアからアラスカまで」。
 セケリについては、このブログの読書ノート(「Mondo de travivaĵoj」)で紹介したことがある。優れたエスペランチストだが、この本はクロアチア語からの翻訳である。
 題名からは、著者の旅行記かと思わせるが、まったくそうではない。
 セケリ自身が1939〜1984年の45年間に集めた資料をもとにこの本を書いた。彼はブエノスアイレスに10年間住んでいたが、ここから南米各地に旅行した。1949〜1954年にはベネズエラからメキシコまで、中米各国に数ヶ月から1年半ほど滞在しながら旅行し、その地の歴史・地理・民族について研究した。この間、絵を描いたり、フリーのジャーナリストとして、旅行雑誌の編集・出版に携わるなどして生活をしていた。1973年に初めて北米へ、その後も各地を巡っている。
 この本自体の動機となったのはセケリの友人でもある、ある大学教授との論争であった。その教授によれば「ラテンアメリカは全てをヨーリッパから受け取ったが、その逆は全くない。名前・住民・宗教・文学・芸術・哲学などあらゆるものをヨーロッパがこの地に持ち込んだ」という。セケリは「それによってアメリカはどの程度豊かになったのか?」と反問する。1942年のコロンブス「アメリカ発見」以後、何が起こったか? それは、マヤ・インカ・アステカの高度の文明のヨーロッパ人による破壊であった。
 ヨーロッパの歴史が、ジンギスカンによる「ヨーロッパ発見」から始まると言ったらヨーロッパの人々はどう思うだろうか?

 というわけで、この本にはセケリ自身が大陸を歩きながら、あるいは住み着きながら集めた資料をもとに、41項目にわたって南北アメリカ大陸の歴史・文化やヨーロッパの侵略とその結果などについて書かれている。その一つ一つがなかなか興味深い。少しだけ紹介してみる。

 ペルーに世界遺産の街クスコがある。この街は12世紀からインカ帝国が支配していたが、それより以前から存在していて、その創建については分かっていない。インカ帝国初代の王 Manco Capac がどこからどのようにしてこの地に来たのかも分かっていない。伝説では南方にあるチチカカ湖から来た太陽の子であるとされているが、アジアから来たという説もある。元寇で日本に攻めてきた蒙古の船が台風で遭難し、流されてたどり着いたというのである。この後最後の第11代の王までの歴史は、文字を持たなかったインカの人たちの口承伝承や不思議な経緯で残されたデッサン画などで残っている。この歴史は、王族間の内紛とスペインの侵略による悲劇で終わる。
 
 この他、ガラパゴス諸島やパナマ運河の歴史、中米に残されているマヤ遺跡の謎、メキシコの地下河川の探検、ナイアガラ瀑布と冒険者たち、アラスカとゴールドラッシュの歴史、などなど様々なテーマが扱われている。セケリのアメリカへの強い愛を感じるが、記述は冷静で科学的である。エスペラント文はわりに読みやすく、大量に出てくる地名などには巻末に詳しい説明がつけられている。日本語訳は多分ないと思うので、エスペラントで読めるのは幸いである。
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スエーデン文学作品集

2022-01-20 | 読書ノート


 今年最初の読書ノートは「Sveda Antologio」である。400ページを超える大冊で、読み上げるのにだいぶんかかってしまった。周囲が裁断されないままの製本で、ペーパーナイフで切りながら読むのだが、この本は、すでに全部のページが開かれていた。中古で手に入れた本だが、いつどのようにして手に入れたのか記憶がない。
 表紙には「Unua parto」としてあるが、「Dua parto」が出版されたのかどうかわからなかった。この本自体は、Unua parto の第1巻、2巻の合本である。
 最初にスエーデンの近代文学史(1880〜1920)がかなり詳細に書かれている。これによると、ノルウェーの作家イプセンと、ドイツの思想家ニーチェが、スエーデンの近代思想・文学に大きな影響を与えた。初期の代表的作家が August Stringberg で、この選集もこの作家から始まっている。世界的な工業化・近代化の波の中で、スエーデンという国が辿った道と文学に発展がどのように関係しながら進んでいったか、ここに要領よくまとめる力が私にはないので、関心のある方はこの本を読んでみてほしい。
 エスペラント文は特に難しくはなく、わりに読みやすいが、スエーデンの歴史や社会背景に知識のない私には、やや分かりにくい作品もあった。特に前半には、凍てつく冬の厳しい自然と戦って生きる人々を描く作品が多いが、さまざまな社会問題を扱った作品も見られる。あまり触れる機会のないスエーデンの文学に触れることができるのは、エスペラントのおかげである。
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海の星

2021-12-05 | 読書ノート


 久々の読書ノートである。今年の読書量は10,000ページを超えた去年に比べて極端に少ない。もう12月なのに、まだ1,700ページ足らずである。
 今回は Julian Modest の短編集「Mara stelo」である。100ページ少々の小冊子の中に、21編の短編が収められている。表題の「Mara stelo」は、普通「ヒトデ」だと思うし、表紙の絵もヒトデである。しかし、短編「Mara stelo」にはヒトデは出てこない。これはホテルの名前である。それなら「海の星」の方が日本語としてはよさそうだと思う。
 エスペラント文は易しく、とくに難しい表現もないので全くの初心者でも読めると思う。人生のちょっとした断面を切り取ってその人の全人生を伺わせるような話が多い。深刻な話もさらりと軽く書いている。
 1つだけ、おもしろいと思った表現:Okazis io, kiu ruinigis min. (私を破滅させた何かが起きた)  ホテル Mara Srelo の主人が行きずりの旅行者に話し始める場面である。「関係代名詞 "kio" は、指示代名詞 "tio, io, ĉio, nenio" を先行詞とする(藤巻「まるごとエスペラント文法」)」なので、io, kiu にちょっと違和感をおぼえたのである。作者はそんなことは承知でこう書いたのだろう。従って、ここは「私を破滅させたあることが起きた」と解釈すべきであろう。
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染色体

2021-10-02 | 読書ノート


 読書ノートは "Neologisme" や長編 "Regulus" をこのブログでも紹介したことのある Lorjak のエスペラント原作小説 "Kromosomoj" である。ユーモアあふれた挿話をはさみながら、奇妙な物語が進む。この作家特有の言葉遣いも楽しい。150ページほどで、ストーリーは複雑ではないのだが、人間関係が少し複雑でやや分かりにくい。

 冒頭にこの作家についてのインタビュー形式の紹介文があり、エスペラント単語の使い方について作家自身が語っている。

 prezidanto ではなく、prezidisto を使う。-ant は現在の一時的な行為者を示すが、-ist は職業や役職を示すからである。
 rideto は小さな笑いを意味するから、好意的な渋面(afabla grimaceto)の意味で、ridero を使う。
 副詞的に考えている時には、mie, vie, nie などを使う。
 足をたくさん動かして進むのは paŝari である。たとえ前例が無くとも、校正者が文句を言おうともだ。ザメンホフ自身「珍しいからと言って使わない理由にはならない」(Neofteco ne estu kazo de neuzo)と言っている。

 さて、物語は・・・
 Bernard Dubosk と Mirela Sidoret は40年も一緒に暮らしていた。あるとき、Benard が結婚しようと言い出す。Mirela にも異存はなく、2人の関係を「公的な」ものにすることになる。結婚式の場で、2人を結ぶ牧師が、Bernard Landru と名を呼ぶ。この Landru という名は、数十年前に何人もの女性を殺害して財産を奪った希代の結婚詐欺師を思い起こさせた。牧師がなぜ名前を間違えたのか、気になってしかたがない Mirela はその究明に乗り出す。そして思いがけないことが明らかになり・・・。

 ちょっと面白かった言葉遣いをいくつかあげておこう。
 aliese:alies を副詞にしたもの。La entrpreno ŝajnis fiaskonta, kiam iniciato venis aliese.
 mezurtaŭgis:借りた服がピッタリだった。寸法が合っていた。
 dee:Li tenis la jakon pendanta ekstreme de brako kiel eble dee etendita. 彼はその(シラミだらけの)上着を出来るだけ遠くに伸ばした腕の先きにぶら下げていた。
 elsinceri:Ne utilis elsinceri. 嘘をついても無駄だった。
 vie:Prave vie. あなた(の言うことが)が正しい。そうね、そうしましょう。
 iomete ajn:ŝi neniam iomete ajn divensentis tion. (40年の間)彼女は全くそのことに気づかなかった(想像さえしなかった)。
 kiucele ajn:どんな目的であろうと
 refali eksiden:Sub la ŝoko li refalis eksiden. ショックで彼は崩れるように座った。
 pseŭdnaive:かまととぶって
 ekje:ekje la unua vido 初めて見たその時から
 eksur:eksur revena vojo 帰り道についた時からずっと、
 ĉevivi:ともに暮らす ĉe vivis la aferon そのことと共に生きてきた。
 malsidiĝi:立ち上がる。
 havi lumon:Mi ne havas lumon pri tio そのことについては明るくない。Pri la kromosomoj miaj lumoj ne tre fortas. 染色体についての私の知識は深くない。

 キリがないので、これくらいにしておこう。
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森鴎外作品集

2021-09-17 | 読書ノート


 読書ノートは Rakontoj de Oogai である。100ページほどに高瀬舟、山椒大夫、託された手紙(?)、阿部一族の4編が収められている。発行は1962年で、UEA の東西双書に入っている。それぞれを三上照夫、宮本正男、松葉菊延、野島安太郎という当時の代表的な日本エスペランチストが訳している。
 森鴎外というのは明治・大正期の作家であり、託された手紙(La mesaĝo komisiita:原作が分からなかった)以外は、日本の古い時代を扱っているので、翻訳しにくい難しい言葉がたくさん出てくる。これらをどうエスペラント化したのかはなかなか興味深い。中にはこの訳で外国人に理解できるのだろうか? と思うものもある。
 例えば、こんな具合である:
  お上 > La Alta
  毛虫 > vila raŭpo
  口を糊する(何とか生計を立てる) > ameli al si la buŝon
  十露盤(そろばん)の桁が違っている > malsama sumo je la decimala kolono
  肩身が狭い > eksenti sin mallarĝaŝultra
  ドングリの背比べ > glanoj, kiuj konkuras inter si per siaj staturoj
  草履取 > sandalportanto
  止めを刺す > doni al li finofaran baton
 
 巻末には8ページにわたる言葉の説明がある。例えば、
  La alta:arkaismo,siatempeuzata de la popolo por respekte indiki la reganton, registaron k.s. 当時民衆が支配者や政府を尊敬の念を持って示すために使っていた古語。
  
 「阿部一族」には特殊な言葉がたくさん出てくるが、無理に訳さずに、巻末の説明で理解してもらおうとしている。以下、日本語訳はつけない。
 扶持米 > huĉimajo: salajro por malaltklasuloj pagitaj per rizo po 0.005 kokuo por kapo por tago
 知行 > ĉigio: jara salajro per rizo donita de daimio al siaj samurajoj
 切り米 > jara sarajlo donita al mez- kaj malaltklasaj samurajoj per rizo, kiu en efektiveco estis pagita per transkalkulita mono
 浪人 > ronino: senmastriĝinta samurajo
 介錯 > kajŝaki: helpi harakiranton fortranĉante lian kapon kiam li entranĉis sian ventron

この他、同様の言葉はたくさん出てくる。以下、説明は省略。
 la horo de Saru (申の刻)、tokonomo(床の間)、ĉazukeo(茶漬け)、iĥajo (位牌)、kamiŝimo (裃)、nageŝio (長押)、suno (寸)、sakajakio (月代)、haĉimakio, taskio, habutajo, ・・・・・
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教養のある妻

2021-08-09 | 読書ノート


 最近読んだ本。東西双書の一冊、インドの小説である。エスペラント訳は Probal Daŝgupto という少し有名なエスペランチストである。原作者の Upendronathi Gangopaddhae (1881 - 1960)は弁護士であったが、文学雑誌の編集長で成功する。彼の雑誌にはタゴールなど、インドの有名な作家たちが寄稿している。彼自身の著作もいくつかが映画化されるなど、成功を収めている。巻末には訳者による作品の社会的背景や意義などが解説されているが、少々哲学的で難しい。
 20世紀初頭のインドの社会には、現代にも通ずるのではないかと思うが、様々な社会的な階層があった。植民地支配しているイギリスと支配されるインド人、その象徴としての英語と現地語、男と女、夫と妻、町の文化・教養と遅れた農村、大地主の農園主と農民・・・。とくにこの小説では英語の持つ力が重要なテーマである。
 舞台は Monŝagaĉha という村である。18歳の Dibakor Bandopaddhae は父が亡くなったあとの農場を受けついでいる。弟の Niŝakor が大学資格試験に合格したのに、Dibakor は3回も失敗する。これは運命だ、農場主を務めるのに差し支えはない、と勉強するのをやめてしまう。Niŝakor が Dibakor に縁談を持ち込んでくるが、その相手が13歳で大学資格試験にトップ合格した美女だった。Dibakor は、そんな教養を身につけた妻など絶対に嫌だと、叔父のところに逃げ出す。彼によれば、教養のある女が教養のない男に嫁ぐのは、男の財産が目的に違いないというのである。すべての男は、知性や体力で自分より弱い妻を望むものである。Dibakor は叔父のところで Ĝuthika という美人に出会う。2人は民族楽器の合奏などで親しくなり、結婚することになる。彼女は英文学の修士だったが、周りの者は彼女の学歴については隠しておくことにする。Dibakor は彼女が貧しさのために学校にもろくに行っていないと思い込んでいて、彼女を連れて村に戻る列車の中で、自分が英語を彼女に教えてやろうなどと考える。ところが Ĝuthika が英語に達者なことはすぐに分かってしまう。Dibakor はこれも運命だと受け入れる。何よりも Ĝuthika が控えめで有能であった
 ある日、Niŝakor と Ĝuthika の2人が、村に女学校を作ることを提案する。Niŝakor, Ĝuthika と Dibakor の3人で相談し、ついに学校設立の段取りがつけられる。理事長が Dibakor、Ĝuthika が事務局長、Niŝakor が副事務局長と決まるが、Dibakor はあまり乗り気ではない。有力者を招いての開校式で、Dibakor は英語で挨拶をするハメになり、Ĝuthika の機転で切り抜けるが、誇りを傷つけられたと感じた Dibakor は次第に不機嫌になる。一方、周りからは、農園主としても英語力が必要だと言われる。Ĝuthika は自分がすべての仕事を投げ打って、Dibakor に英語を教えると言うが、Dibakor は拒否して、2年間イギリスに渡ると言い出す。イギリスで生活すれば英語が身につくだろうというわけである。さらにいくつかの誤解が重なって、夫婦のすれ違いが大きくなって、Ĝuthika は思い切った行動に出る。

 あらすじを書いてしまったが、ネタバレと言うほどではない。インド文学に接する機会は少ないと思うので、ぜひ読んでみてほしい。会話文などで、登場人物の心の動きが少し分かりにくい面もあるが、Probal Daŝgupto の訳文は割にわかりやすい。
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Mido

2021-08-04 | 読書ノート


 「百年の孤独」の訳者は Fernando de Diego(1909 - 2010)というスペインのエスペランチストである。長くベネズエラに住んでいた。著作の中には翻訳技術に関するものもあり、大量の翻訳作品がある。この本を読みにくくしている最大の原因はその訳語にある。なにせやたらに難しい単語が使われているのだ。
 多用されているのですぐに慣れてしまうのは、nul (=neniu) と mido (=tagmezo) である。neniu は形容詞としても代名詞としても使われるが、nul も全く同じ使い方をしている。mido から postmida といった合成語も作られる。散文の翻訳でわざわざこういう単語を使う理由は私には理解できない。巻末には5ページにわたる単語の説明があり、例えば次のような単語があげられている。
 antagoni:antagonismo(対立・敵対など)から作った新語。
 glekti:neglekti(無視する)から造った新語
 ĉendi=ekbruligi
 fusili:fusilo を動詞化したもの。
 mokra=malseka
  あげていたらきりがないが、この他、辞書にあっても散文ではあまり使われない「雅語」や専門用語なども大量に使われている。mava, incidi, raŭto, dirta, poka, ĉipa, adheri, koncipi, ...
 また、あまり見ない合成語もたくさん出てくるが、これらは読者が自分でその意味を考えることになる。dekonvinki:〜しないように説得する。despolvi:ホコリを取ってきれいにする。pojndueli:腕相撲をする。
 以上、ごく簡単にあげたが、いろんな単語が好きな人にはお奨めの一冊かもしれない。

 
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100年の孤独

2021-08-02 | 読書ノート


 東西双書の一冊である。原作者のガブリエル・ホセ・デ・ラ・コンコルディア・ガルシア・マルケス(Gabriel José de la Concordia García Márquez:1928 - 2014)はコロンビアのノーベル賞作家である。
 マコンドという架空の村の創設から滅亡までの100年を描く、400ページを超える長編小説だが、かなり読みにくい。語られる様々なエピソードは現実と幻想的なものが交錯して、バラバラのようでいて、深くつながっていたりして、全体像がつかみにくい。
 ある村で、近親結婚が続いたために豚の尻尾を持った子供が生まれるようになる。従兄弟のホセ・アルカディオと結婚したウルスラは貞操帯までつけて夫との性行為を拒否する。それが噂になり、妻を馬鹿にされたホセがその男を殺してしまう。殺された男が夫婦の前に現れ続けたために、一族は故郷を離れて放浪し、文明から隔絶した場所に新しく「マコンド」を開拓する。当初は20軒ほどの粗末な小屋が並んでいただけだったが、次第に繁栄していく。ついにはバナナ工場が出来、鉄道まで引かれるが、4年と11か月2日にわたって降り続いた雨とその後の10年の日照りをきっかけに崩壊していく。
 ホセ・アルカディオとウルスラの2人の息子、ホセ・アルカディオとアウレリャノ・ブエンディア大佐と娘アマランタ、アウレリャノとその妻レメディオス・モスコテ、アウレリャノとその愛人ピラル・テルネラとの間に生まれたアウレリャノ・ホセ、アルカディオの妻サンタ・ソフィア・デ・ラ・ピエダとそのあいだに生まれたレメディオス、さらにアウレリャノ大佐が戦地で違う女たちに生ませた17人のアウレリャノ、アルカディオとサンタ・ソフィアの双子の子供、ホセ・アルカディオ・セグンドとアウレリャノ・セグンド、アウレリャノ・セグンドの妻フェルナンダ・デル=カルピオ・・・といった調子で次々と主要人物が変わっていく。同じような名前も出てきてややこしいが、読んでいてそれほど混乱はしなかった。ウィキペディアに簡単な人物紹介があったので参考になった。
 女たちは長命である。それぞれに、一家を支える働きをする。とくに初代のウルスラは物語のほとんど最後まで生きている。男たちはそれぞれに何かに夢中になったりこだわったりして、晩年は悲惨なことが多い。男も女も常に深い所で孤独である。
 現実的な生活と幻想的な状景が交錯する。家の中には常に幽霊が現れるし、レメディオスという少女の美しさはこの世のものではない。彼女に焦がれて4人の男が死ぬほどである。ある時彼女は干してあったシーツとともに天に昇って消えてしまう。そんなエピソードも淡々と語られる。
 最後の結末はかなり思い切ったプロットが使われていて、読む者にはますます現実と幻想の区別がつかなくなる。
 全くまとまらない記事になってしまった。エスペラント初級者には少々歯ごたえがありすぎる(これについては次回に)が、中南米文学の代表的な作品でもあり、一読をお勧めする。日本語訳も出ている。
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