エスペラントな日々

エスペラントを学び始めて22年目である。この言葉をめぐる日常些事、学習や読書、海外旅行や国際交流等々について記す。

韓国旅行最終日

2005-11-03 | 韓国旅行
 2002年8月29日、韓国旅行最終日である。夕べはエスペラントのガイドを務めてくれた韓国のホー・ソンや、膝の薬をくれたドイツ人のお医者さん等々に渡す折り紙作品をいくつか作った。作品は江戸時代の「千羽鶴折り形」の一つで、早乙女と呼ばれるものである。朝食後に少し時間があったので、何人かを前にして実際に作って見せた。「魔法のようだ!」なんて声がかかる。「天才的だ」なんて言われることもあるが、実際には鶴を折ることに慣れている人が少しいい紙を使えば、そんなに難しいものではない。
 朝はどこかの村へ。古い建物や生活を見学できる村として指定されているところらしい。素朴な山間の農村風景である。1軒の民家に入って見学。漬物用の壺がたくさんおいてあった。私は少し村の中を歩いて写真撮影。
 これで第3回エスペラントアジア大会の大会後遠足が終わった。キョンジュ(慶州)の駅で、プサン(釜山)から船で帰る日本人7人が下車、あとはソウルへまっしぐら。15:00頃ソウル到着。日本エスペラント学会の旅行団は迎えのバスがきていた。十分大きいバスだったが、我々は乗せてくれない。韓国のエスペランティスト、ユがバス停まで案内してくれた。
 空港で最後の買い物。マッコリとかキムチとか。マッコリについてはこの旅行記で触れなかったが、お米を発酵させてつくる「にごり酒」である。アルコールはそれほど強くなく、少し甘くて飲みやすい。
 順調に名古屋空港到着。韓国旅行記はこれで終わりである。

   写真は韓国の農家
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キョンジュ観光

2005-11-02 | 韓国旅行
 慶州市は古い都市で、街全体が文化遺産の集合地である。周辺には世界遺産の仏国寺や南山などの観光地が多い。もう一度、時間をかけてきてみたい所だ。
 まずソッグラム(石窟庵)へ。長い下り坂を降りて、最後は石段を上る。足が痛くて、みんなが説明を聞いている間に、私だけ一人でゆっくりと先に行く。上りはまだいいが下りが大変。
 石段を登りきった所に石窟がある。石造ドームの上に土をかぶせて自然の山に見せ、天然の洞窟のように見せたという凝った寺院。中央に美しい仏像が据えられている。韓国では最高の仏像といわれる。戦前から戦後にかけて数回の修復工事が行われたが、石窟解体後に間違って組み立ててしまい、今では本来の姿が分からなくなってしまっているという。
 次はプルグクサ(仏国寺)。ここも大きなお寺である。8世紀創建(別のデータでは6世紀)の古い寺だが、やっぱり秀吉の侵略の時にほとんどの建物が焼失して荒廃した。その後少数の建物が再建されていたが、1970年代に本格的に復元された。見事な石造の多宝塔などが昔をしのばせてくれる。石組みの立派な階段は、世界遺産紹介の映像などでよく紹介される。
 ついで新羅歴史科学館。時間がなくてざっと見ただけだが、庭に展示してあるたくさんの石仏が興味深かった。朝鮮王朝の廃仏政策で無惨に破壊された姿をさらしている。周囲にはおみやげ屋さんがたくさんあって、私の妻は1個1,500ウォンの人形を、10個で16,000ウォンに負けさせるという不思議な買い物をした。
 午後は、ムンムデワンヌン(文武大王陵)へ。三国統一をなしとげた新羅の王様の墓である。「死んでも竜になって倭敵から国を守る」という遺言に基づいて、海中に作られた珍しい墓で、別名を大王岩。7世紀のことだから、秀吉どころではない、ずいぶん前から日本は朝鮮で海賊行為を繰り返していたらしい。
 この岩を眺めながら海岸を散策する。砂浜に果物を供え、ろうそくや旗を立てて一心に読経する人が何人かいた。
 最後に、大きな石造の塔が立つ感恩寺の跡を見学。文武大王が建設を始め、息子の神文王が完成させた寺だが2基の大きな石造の塔が残るのみである。
 昨日と同じホテルへ。夕食後、みんなはどこかに飲みに行ったらしい。アルコールがダメな私と妻はコーヒーを飲みたくてホテルの近くを歩く。もう暗かったが、高さが10mほどもありそうな巨大な水車があった。最近、山岡町(合併して今は恵那市)に作られた観光用の水車と同じくらいの大きさである。
 妻が人形のおみやげに使ってしまったのでウォンが底をつきかけていた。ホテルのコーヒーが高かったので外に出たのだが、みつけた喫茶店はもっと高かった。結局自販機をみつけて飲んだのだが、私の貧弱な作文力ではとても表現できないほどまずかった。

   写真は仏国寺の石造多宝塔
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キョンジュ(慶州)へ

2005-11-01 | 韓国旅行
 2002年8月27日、今日から「大会後遠足」である。大会前遠足と違って、大型バスは7割ほどの座席が埋まっている。日本人が多いが、オーストラリア・中国・ドイツなど、エスペラントの会らしく国際色豊かである。
 昼少し前に、ギムチョン(金泉)の近くにある、黄岳山直指寺(ジクジサ)に到着。極彩色の華麗な建物が並ぶ。5世紀の創建で、韓国でももっとも古い寺の一つ。韓国でも有数の大寺だったが、「壬辰倭乱」(秀吉の朝鮮侵略)で大部分を焼失した。その後再建されたが、衰えていた寺勢を取り戻したのはやっと近世になってからという。広い境内を歩き回っているうちに、もともと悪い左の膝が突然痛くなってしまった。
 バスはさらに走ってキョンジュ(慶州)へ。まずテヌンウォン(大陵苑)。ここは美しい古墳が並んでいる。日本の古墳と違って、すべて芝生のような草で覆われている。日常的に手入れされているのだろう。ここも広いが、足の痛みをこらえてビッコをひきひき歩く。天馬塚という古墳は内部が博物館になっていて、古墳の構造や純金製の華麗な出土品などが展示されていた。
 最後はアナプナ(雁鴨池)。7世紀に作られたという古い庭園である。池を中心にした広い庭園には臨海殿という華麗な宮殿が建っていたというが、今は礎石だけが残る。池には3つの島があり、周囲は遊歩道になっている。足が痛くなかったら一周したかった。
 ホテルに着いて夕食後、近くの「観光塔(?)」へ民族音楽を聴きに行ったが、時間が遅くて2、3分で終わりになってしまった。そのあと、近くのレストランで地元のエスペランティストや、別行動で旅行していたスエーデンの歌手(夫婦とかわいい女の子の3人)などとの交流会が11時過ぎまで続いた。
 一行の中にドイツ人の医者がいて、痛み止めや塗り薬をいただいた。

   写真は天馬塚の内部
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ソウル食べ歩き

2005-10-31 | 韓国旅行
 2002年8月26日、エスペラントアジア大会が終わって、午後は自由時間になった。妻と2人でソウルの街に出かける。4日ほど前に何人かで行ったレストランをめざす。途中の路上でドーナツを買ってしまった。こくがあっておいしい。松の実を使っているのかもしれない。
 レストランでは石焼ビビンバとユッケ。ユッケを注文したら店の人が少し驚いた顔をしたが、1皿の量が多くて、4~5人で注文するもののようだ。その大量のユッケを2人で平らげてしまった。
 妻がモチを買いたいという。どこをどう歩いたのかもう覚えていないが、目的の店になんとかたどり着いた。モチを素材に、いろんな菓子を作っている。少し油を使っているのでくどい感じがする。日本のまんじゅうに似たものを買った。明朝出発の大会後遠足のバスの中でみんなで食べようというわけだ。
 今度はチョンミョ(宗廟)へ。少し道を間違えたが、観光地でない、生活臭のあふれる街をうろつくのも楽しい。宗廟は朝鮮王朝の都城建設(1394年)と同時に造営が始まった。歴代の国王と王妃の位牌を祀り、祭祀を行った場である。今でも年に何回か荘重な儀式が執り行われるという。広い緑豊かな敷地に、大きな長い建物が建つ。大勢の老人が休んでいる間を、日本人団体がぞろぞろ歩いている。
 いい加減くたびれたので、1区間だけ(チョンノサムガ=鐘路3街~チョンガク=鐘閣)地下鉄に乗ってみた。ホテルで荷物を整理して、近くの食堂で夕食。妻が豆乳のうどんを期待して注文したが、肉入りの細麺だった。
 統一展望所のおみやげ店で売っていた松の実の粉が欲しいというので、ロッテ百貨店へ。目的のものは見つからなかったが、メキシコパンを買い、閉店間際の大安売りで一皿1000ウォンのモチ菓子を3皿1000ウォンで買った。帰る途中の屋台で天ぷら、コンビニでリンゴと牛乳を買い込む。ホテルでH.Hに聞いたら腹ぺこだという。部屋で3人で食べる。ほとんど平らげてしまった。パンに目のない妻は、朝食用にまたパンを買ってきた。
 メキシコパンはいまいちだったが、天ぷらにピリ辛ソースをかけたものが意外にいけた。3皿のモチ菓子はそれぞれみんな違うもので、カステラに似たもの、モッチリしたものなど、それぞれにおいしかった。

   写真は宗廟
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韓国の折り紙

2005-10-30 | 韓国旅行
 2002年8月26日、今日はエスペラントアジア大会で「折り紙」の分科会である。
 世界エスペラント連盟(UEA)「アジア委員会(KAEM)」委員長のH.Y(日本人)から、アジア大会で折り紙の分科会をやらないかと言われた時は少し驚いた。分科会というのは、専門委員会の会議や、何らかのテーマに沿った討論が行われるというイメージがあったからである。しかし、日本の文化の一つを紹介する会だと思えばいいと言われて引き受けた。
 エスペラントで折り紙の話をするのは、アメリカや横浜ですでに経験がある。今回も、日本の折り紙の歴史を簡単に紹介するプリントと、数十個の作品を用意した。メインテーマはやっぱり「折り鶴」である。江戸時代の名著「千羽鶴折り形」の紹介や、鶴の基本形と、それを応用して作れるいくつかの動物や鳥、菱形や三角形から作る鶴、実際に飛ばすことのできる鶴などなど。
 参加者は30人くらい。伝統的な折り紙遊びや作品は日本だけのものでもないように思うので、参加者に自分の国の折り紙を紹介してくれるように呼びかけたが、あまり反応はなかった。一方で何人かの参加者から、私の見せた作品や、折り紙遊びについての熱心な質問がなされた。
 最後に用意した作品をみんなに配布して終了。
 そして閉会式が行われて、アジア大会が終わった
 閉会式のあと、近くの大きな本屋に行ってみた。レジで「オリガミ」と聞いたら案内してくれた。幅1mほどの書棚2段分に折り紙の本がぎっしり。日本の本を翻訳したものばかりで、韓国の伝統的なものは見つからなかった。1冊だけ、現代の韓国作家の本をみつけて買ってきた。韓国の民族服をまとった人形やお面などの作品が紹介されている。

   写真は買った本の表紙
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骨董屋の罠

2005-10-29 | 韓国旅行
 2002年8月22日、非武装地帯ツアーから帰ると、もう6時だった。この夜は国際芸術の夕べがあったが、省略して6人ほどで「骨董品通り」へ。路地を入って、適当に韓国料理店に入ってみた。いろんな料理を注文してみんなで分けて食べた。ある程度人数がまとまれば、この方法でいろんな料理が食べられる。ここは魚料理が多かった。
 H.Hと妻と私の3人で骨董品通りを歩く。おみやげ用の小物を少し買った。H.Hと妻は何軒かの骨董品店に入る。私はすぐに飽きてしまって、一人でぶらぶら歩き、ベンチで休んで2人を待つ。しばらくしてやってきた2人はなんだか怒っている。
 ある骨董品店で、妻がうっかり触れた陶器が落ちて、一部が欠けてしまった。店の主人が怒って、5万円を要求したという。青くなった妻が、そんなに持っていない、5,000ウォン(500円)しかないと言う。そうしたらそれでいいというので、お金を渡して出てきたというわけ。
 妻は、あれは少しでも触れたら落ちるようになっていたのに違いないという。客をパニックにしておいてお金を巻き上げる悪質な詐欺だ。そのカケラは見つかったのかと聞くと、そんな余裕はとてもなかったと。私は、最初から欠けていたのではないかと思った。まあ、500円ですんでよかった、授業料だと思えば安い。
 それにしても口惜しや。

   写真は骨董品(仁寺洞)通り近くの路地、食堂が並ぶ
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南北分断の歴史

2005-10-28 | 韓国旅行
 韓国・朝鮮の人たちと交流する時、歴史についての知識と自分なりの見識を持っている必要があると思う。当然、過去の侵略や植民地化していた時代もそうであるが、戦後の歴史についてもである。今回は南北の分断について少しだけ考えることにする。
 そもそもなぜ朝鮮は南北に分断されてしまったのか? ドイツの例を見れば、日本が分割されていてもおかしくはないのに。
 これは、直接にはアメリカが提案したもののようだ。第2次世界大戦が終わるとき、敗戦国日本の軍隊を降伏させ武装解除させる作業を、朝鮮の38度線以北をソ連、以南をアメリカが担当した。
 この38度線での線引きは、以北を関東軍司令部、以南を日本の大本営司令部が管轄していたことによる。実は朝鮮南部には朝鮮司令部があったのだが1945年2月1日に改編されて大本営の指揮下に入っていた。だから「38度線」には日本にも間接的な責任がある。
 当時、朝鮮全土をソ連が単独で武装解除させることもできたはずだが、アメリカのこの分割案をソ連は受け入れた。このあたりの歴史的なことはいまいちよくわからない。ともあれ、朝鮮南部はアメリカの直接統治下に入り、北部はソ連の間接統治下に入る。その後、当然統一国家として独立するはずだったし、朝鮮人民自身による統一への努力も行われる。しかし、アメリカは占領軍として支配し続け、南北別々に政府が成立してしまう。そして戦後の「冷戦」体制の元で、朝鮮戦争がおこり、分断長期化の道を進むことになった。朝鮮戦争が日本経済復興の力になったことも忘れてはならない。
 歴史に「もし」は無意味だが、45年2月の日本軍改編がなかったら、日本がもっと早く降伏していたら、ソ連がアメリカの提案を受け入れずに単独で朝鮮を解放していたら、南北の分断はなかったかもしれない。もっとも金日成体制が朝鮮全土を支配した可能性を考えると、それが良かったのかどうかはまた別問題である。
 私は学生時代に在日朝鮮人との関わりを持っていたことがある。当時は韓国は軍事独裁の国だったし、映画「チョンリマ(千里馬)」などを見て、私も北朝鮮は成功しつつある社会主義国だと信じていた。当時すでに金日成への個人崇拝の異常さが見えてはいたのだが、その重大な意味にはまだ気づかなかった。在日の青年たちも、北の祖国を語る時には目が輝いていた。。。

   写真はモヤの彼方の北朝鮮
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北朝鮮を遠望

2005-10-27 | 韓国旅行
 2002年8月25日。朝はO.Mに教えてもらった店で「解腸湯」(ヘーヤック?)というのを食べた。朝食べると1日元気とか。肝臓とセンマイが大量に入ったおじやとカクテキである。朝から食べるようなものか?と思ったが、結構おいしく食べられた。
 さて、エスペラントアジア大会は、まず「バナナペーパー」の分科会。日本のM.Kが主催。大量に捨てられるバナナの茎から紙を作ろうという、地球環境にも優しい技術である。名古屋大学の森島教授などが中心になって普及に努めており、すでにハイチなどでは実用化されている。ベトナムでこれを実用化しようと、日本のエスペランティストなどが努力している。
 次は「アジアのエスペラント運動」の分科会。あまり広くない部屋にぎっしりの参加者。時間も短すぎた。第4回アジア大会をいくつかの国のエスペラント会が招致していたが、ネパールに決まったことが閉会式で発表された。
 午後は半日遠足に参加した。バス2台で軍事境界線へ。イムジンガン(臨津江)の鉄道駅近くに公園があって、まずここを見学。まだここからは北朝鮮が見えるわけではなかった。南北を貫く鉄道が建設中で、近く開通するということだった。川沿いにずっと鉄条網が張られ、所々に監視所があって、銃を持った兵士がいる。
 「統一展望台」へ。ハンガン(漢江)とイムジンガンとの合流地点にあり、ここから河の向こうに北朝鮮の一部が見える。モヤのために、ボンヤリと向こう岸が見えるだけだったが、なんだか感動した。ここで分断の歴史と現状についてのビデオを見た。南側の宣伝ビデオだが、かつての軍事独裁ではなく、今は韓国の民主化が進んでいるので内容にも一定の説得力がある。
 北朝鮮が南に攻め込むために掘ったというトンネルも見学するはずだったが、時間がなくなってソウルに帰る。

   写真は北に延びる鉄道。イムジンガンの向こうは非武装地帯。
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ソウルで札幌ラーメン?!

2005-10-26 | 韓国旅行
 会場の近くには食堂がたくさんあった。外国人旅行者向けの店が多い。Y夫妻と一緒に昼食に出たのだが、彼らが「札幌ラーメン」を食べるというので、妻と私は別行動で韓国料理店に行って焼き肉定食。「外国に来て日本食なんて!」というのが私の気持ちである。今まで外国で日本食に憧れたことは一度もない。
 午後はまず「大会大学」へ。これはいろんな専門的なテーマでいくつかの講義が連続して行われるものである。これとは別に、本物の国際的な大学の講座もあって、単位を取得することもできる。
 このときの講義は韓国のソ・ギルス教授の「シベリアのエスペラント運動」というもの。この人は、「アジアのエスペラント運動」を最初に運動としておこした人である。アジア大会もこの人がいなかったら行われていないかもしれない。
 シベリアの少数民族を調査する旅行で出会ったエスペラントグループなどを紹介する話だったが、むしろ少数民族の話の方が興味深かった。非常にわかりやすいきれいなエスペラントを話すが、これほど優れたエスペランティストにも苦手な発音があるというのも面白い発見だった。アジアの人には多いが、ツォ(エスペラントではC)の音がうまく発音できないのだ。
 並行して、会話教室やスエーデンのプロ歌手のコンサート、半日遠足などが行われていた。
 大会大学の後、私は日本のセミプロ級の人形劇を鑑賞。午後の最後は「韓国について」の講演。韓国の歴史や文化の紹介である。
 夕食は6、7人の日本人といっしょに近くの韓国料理店でにぎやかにプルコギを食べた。
 夜は「韓国音楽の夕べ」である。全体に、日本の雅楽のような、ゆったりしたものが多いが、始まりと終わりはにぎやかな太鼓の演奏だった。

   写真は大会会場近く、世宗大通り
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「台湾」をめぐって

2005-10-25 | 韓国旅行
 2002年8月24日、エスペラントアジア大会第2日目。街角に出ているサンドイッチの店で朝食を買って会場で食べる。まず6つの分科会が並行して行われた。私は出版文化の分科会に出席。日本エスペラント学会や関西エスペラント連盟、韓国など、いくつかの団体が、この1年間に出版した本を順次紹介していく。わりに淡々と進んでいった。
 私も自費出版したばかりの「ベトナムからの報告」を紹介する。印刷から製本まで全部一人でやったのは珍しいというので、何人かから質問が出た。すぐには単語が出てこなかったりして、やや冷や汗ものの応答。
 ついで開会式である。まず開会の挨拶やソウル市長など韓国の公的機関、世界のエスペラント団体などからの挨拶・祝辞の紹介など。ついで、大会テーマに沿った基調報告。今回のテーマは、「文化の相互理解」である。続いて韓国の民族音楽が演奏されて、最後に各国のエスペラント組織代表の挨拶である。
 イラン出身で、日本にも住んだことのあるレザが、今は台湾に住んでいる。その彼が台湾代表で挨拶したのだが、「台湾は独立の国ではない」と中国からの抗議があって、主催者が謝罪するという一幕があった。「国別の代表挨拶」でなく、「国や地域の代表」とでもすれば良かったのかもしれないが、後味の悪い出来事だった。エスペラントの国際大会でこういうトラブルはあまり聞いたことがない。

   写真は、河回村の民家
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アジアエスペラント大会第1日

2005-10-24 | 韓国旅行
 2002年8月23日、アジアエスペラント大会1日目。午後3時過ぎに会場について、まず受付へ。ホテル代が少し高くなっているので、まずお金を払ってきてくれという。会計はなんだか混んでいる。そこにベトナムのマイ・ランをみつけて、自費出版の「ベトナムからの報告」の、ハノイのエスペラント会に送る分10冊を手渡す。ホーチミンから来ている参加者を紹介してもらって、同じく10冊を渡す。まだ会計が混んでいるので、大会書店に本を置かせてもらうよう交渉。卸値6000ウォン、売値8000ウォンで交渉成立。韓国エスペラント会に1冊を贈呈。
 やっと会計係にたどり着いたが、日本エスペラント学会(JEI)を通じてくれという。個人で来ているのでJEIは関係ないはずだと言っても、エスペラントがあまり通じない。しかたなく受付にもう一度行くと、今度はあっさり受け付けてくれた。しかし、名札はこれから作るから後でもう一度来てくれという。
 名札をもらった時には気づかなかったが、大会宴会のチケットが入っていなかった。夕方になって宴会の時間が来てから気づいて、受付で受け取った。宴会場ではもう食べ物がなくなりかけていた。宴会の後は「知り合う夕べ」が続いた。
 もらった資料の中に、宴会だけでなく半日遠足など他のチケットも入っていないことに気づいて、また受付へ。あまり何度も行くので受付の女性たちとすっかり顔なじみになって、「日本人の○○さんを知らないか」と聞かれて、人を探すのを手伝ったりした。
 「ベトナムからの報告」は、持っていった分がなくなってしまった。贈呈分の他に何人かが買ってくれて、サインまでした。大会書店に置かせてもらった分も、3日後にはすべて売り切れていた。ベトナムのゴク・ランの頼みで韓国のユという女性にも贈呈したが、この方からは後で韓国の食器セットをいただいてしまった。
 9時半頃にすべての行事が終わって、私と妻、H.H、H.Rの4人で、トッポキ(甘辛く煮た韓国モチ)を屋台で買ってホテルに帰る。これはなかなかイケル。韓国のモチは粘り気がなくて、日本の米粉団子に似ている。韓国料理は全体においしかったが、日本で食べる韓国料理の方がおいしく感じることもある。日本人に合わせた味にしてあるためかもしれない。
 ともあれ、目の回るような1日がやっと終わった。

 写真は、景福宮内の国立民俗博物館の屋外展示物
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「三・一運動」発祥の地

2005-10-23 | 韓国旅行
 2002年8月23日、夕べ洗濯したのだが全く乾いていない。暑いけれど長袖を着て腕まくりで出かける。午前中いろいろあったが省略。妻はY.Sの知人の家にお呼ばれで、私は日本人エスペランティスト、Y.M、H.Rと3人でタプコル公園へ。H.Rは夕べ我々のホテルに着いて泊まっている。タプコル公園は1919年3月1日に起こった独立運動「三・一運動」の発祥地となった所である。自然発生的に起こったこの運動は、朝鮮全土に波及するが厳しく弾圧されてしまった。その後、組織的な抗日闘争が始まる。
 公園はたくさんの市民の憩いの場になっていて、そんな歴史は感じさせないが、公園内には独立運動の様子を描いた、十数枚の大きなレリーフが掲示されている。
 アジア大会で歌う歌の練習の集まりに行くというY.M、H.Rと別れてホテルに戻る。近くにクリーニング屋があったので、乾かない洗濯物を持ち込んだ。言葉が全く通じない。漢字を書いて並べてみてもダメ。「乾燥だけで、洗いもプレスも要らない」ということを分かってもらうのにものすごく時間がかかった。1万ウォン(約1,000円)は少し高いと思ったが、値切る気力は残っていなかった。
 近くの食堂に入ってみた。言葉はやっぱり通じないし、メニューもよくわからない。壁に貼ってあるメニューの一番上のを頼む。何を食べたのか覚えていないが、おいしかったと思う。料理とは別に野菜や韓国海苔が小皿で出てきた。おいしかったので海苔を全部食べてしまったら、すぐに新しいのを持ってきてくれた。これが韓国式らしい。
 3時、クリーニング店へ。よく乾いていた。着替えて、自費出版の「ベトナムからの報告」を30冊ほど持ってアジア大会会場へ。会場での目の回るような騒ぎはまた明日。

   写真はタプコル公園のレリーフの1枚
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忠州湖周辺の観光

2005-10-22 | 韓国旅行
 2002年8月22日。朝は少し早く目が覚めたので、一人でのんびり散歩。ここは忠州湖のほとり、すでに忠清北道である。周辺には観光地が多く、『タニャン(丹陽)八景」と呼ばれているらしい。
 ホテルの食事は高いからと、8時過ぎにバスで朝食に出かける。観光船の運航時刻がわからないからと、大急ぎで荷物を取りにホテルに戻ってチェックアウト。30分くらい走って港に出た。ちょうどすぐ出る船があって、45分ほどの湖上遊覧。水面はゴミだらけだが、両岸に屹立する岩峰が見事である。
 ついで鍾乳洞に入った。規模は大きいが、特別感激はしなかった。
 昼食はまたまたたくさんの小皿。ラッキョウとかジャガイモのコロ煮など、辛くないものも。メインは辛いスープ。
 最後の訪問地は、クインサ(救仁寺)。天台宗の総本山である。信者のための宿泊施設が並ぶ、ずいぶん規模の大きなお寺だ。坂道を登っていくと次々に豪華な建物が現れる。どこまで続くのか見当もつかないが、途中でやめて下山した。
 あとは一路ソウルに帰る。途中から雨になった。ホテルは部屋が変わっていた。前よりも狭くなって、バスタブがなくシャワーだけ。
 ベテランエスペランティストO夫妻の案内で韓国料理店へ夕食に行く。焼き肉(プルコギ、日本のすき焼きに近い感じ)、ユッケ(牛肉の刺身)、野菜など。ユッケは千切りにしたナシの上に乗っている。一人1,200円ほど、おいしかった!

   写真は救仁寺
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慶尚北道北部をまわる

2005-10-21 | 韓国旅行
 2002年8月21日、宿舎を8:00頃出発。アンドン(安東)駅で1組の日本人夫婦と合流。飛行機が遅れて、夕べやっとアンドンに着いて、駅前のホテルに泊まったという。
 この遠足は慶尚北道の北部をまわっている。
 ここから北に向かって、ソスソウォン(紹修書院)へ。昔の大学、儒教学問の重要な施設だった所。緑豊かな自然に抱かれるように、こじんまりした古い建物が並んでいる。女性のガイドの案内、韓国青年クナーボの通訳でまわる。
 朝食もそうだったが、昼食も昨日の夕食と同じスタイル。いろんなおかず(主に様々なキムチ)を盛った小皿が並び、みんなでつつく。他に納豆汁のようなもの、豆腐など。食事をした所から、プソクサ(浮石寺)の参道に入り、気持ちのいい自然道をゆっくり登る。1300年前の創建という古刹である。
 義湘という僧に、善妙という娘が恋心を抱いたがかなわず、海に身を投じて龍になって義湘を守った。義湘がこの地に寺院を建立しようとしたとき、土地の住民が抵抗した。この時、娘が変身した龍が大きな岩を三度も空中に浮かして見せて屈服させたとか。現在、この浮き石が境内に残っている。
 私は足・腰が痛くなってきた。妻も体調が悪い。
 プンギ(豊基)という街の市場に入った。朝鮮人参の店ばかり二十数店が並んでいる。ここでおみやげ用に人参茶を買った。
 最後に寄ったのは、どこなのかよくわからないのだが、民俗村のような所。韓国各地の民家がたくさん再現されて展示されている。古い民家を移築したものではなく、外観だけ造って古く見せているようだった。水上生活者の家などが珍しかった。公園内の山に登ると展望台があるようだったが、みんな疲れていて誰も登らない。妻が元気だったら、私も痛い足を引きずって登ったかもしれない。
 ダニャン(丹陽)の近くで夕食。豚の焼き肉。おいしかった! 大きな肉を焼いて、焼けた頃にそれをハサミで食べやすい大きさに切ってくれる。日本ではあまりないと思うが、韓国ではハサミが調理用具の一つなのだ。
 近くのホテルへ。こういう旅行では信じられないことだが、予約がしてなかったらしい。その場で交渉して、広い部屋を2つ。男性はベッドのない部屋で、布団を銘々勝手な場所に敷く。女性の部屋は立派なベッドがあった。みんな疲れていて、入浴後早々に寝てしまった。

   写真は水上住宅(韓国のどの辺りにあるのでしょうか?)
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元日本兵のおじいさん

2005-10-20 | 韓国旅行
 2002年8月20日、大会前遠足に出発。参加者は日本人7人と韓国人3人、エスペラント初心者が一人、セザーモ(ゴマ)という女性、クナーボ(少年)という男性。このクナーボがガイドである。大型バスに10人なので、めいめい好きな所に座る。
 8時少しすぎに出発、高速道路を走る。走っている車も車窓風景も日本によく似ている。地理的な近さ以上に近い国だと感じる。10:30頃サービスエリアで小休止。ゆでたジャガイモ、甘い菓子とコーヒー。アンドン(安東)近くで昼食。ビビンバと天ぷら、大根の汁、キムチなど。
 最初の訪問地はドサン・ソウォン(陶山文庫)。朝鮮最高の儒学者イ・ホァンが1561年に建てた書堂を弟子たちが発展させたというもの。多くの儒学者が集まって勉強した所で、出版も行っていた。4917冊の蔵書と2790枚の木版が保存されている。かつて秀吉が侵略したとき、蔵書を守るために地下に隠したという。こんな所でも秀吉!
 ボランティアのおじいさんが頼みもしないのにきれいな日本語で解説してまわってくれた。よそ見をしていたらちゃんと聞けと怒られた。77才、東京生まれで、日本軍の少尉だったという。日本人観光客を見ると、こうしてガイドの押し売りをしているようだが、別にお金を要求するわけでもなく、かつての侵略や今の政治について話すわけでもない。ただ、韓国の歴史を正しく理解してほしいという思いだけかもしれない。
 ついでハフェマウル(河回村)。古い村が、人が住んだままでそのまま残されている、韓国でも貴重な村である。感じのいい青年が韓国語で案内してくれて、クナーボがエスペラントに訳してくれた。若いが優秀なエスペランティストだ。
 最後は知礼芸術村に向かう。山道に入り、未舗装の狭い道に入る。ヘアピンカーブを大型バスが時間をかけてやっと通過。
 ダム湖に沈む建物を移築した集落で、いろんな手工芸家が住んでいるということだったが、ただの宿泊施設のように思えた。我々の泊まったのはお寺の本堂らしき建物。広い部屋の両側に小部屋があって、それぞれが男女の寝室。庭に昔ながらのトイレ(外後架)があった。
 夕食はいろんなおかずがたくさんの小皿に盛ってあるのをみんなでつつく。薬膳料理のような感じだが、これが普通の定食スタイルらしい。小魚、スルメなど様々なキムチが珍しかった。
 夕食後、果物と酒と歌で交流会。わりに早く就寝。

   写真は陶山文庫
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