エスペラントな日々

エスペラントを学び始めて22年目である。この言葉をめぐる日常些事、学習や読書、海外旅行や国際交流等々について記す。

日本へ帰国~アメリカ映画と麻薬捜査犬

2005-07-08 | アメリカ旅行
 2000年7月27日、アメリカ旅行最終日。シリアルで朝食。アンドレの一家とクララの4人と別れをして、バス停へ。空港直行バスである。ほとんどノンストップで10:40空港到着。国際線はどこだ? 来た時のイメージが全く役に立たない。通りがかった女性職員に切符を見せたら、ここに並べと示してくれた。無事に手続きが終わり、出発ロビーへ。土産物店の店員が日本語で声をかけてくる。知らん顔してたら中国語に切り替えてきた。
 13:15頃離陸。空いた席で横になってみたが、やっぱり眠れないから映画を2本見た。タイトルは憶えていないが、アメリカ的正義を感動的に謳い上げる映画。今回の旅では、このアメリカ的正義と現実社会とのギャップがいまいち見えなかった。飛行中ずーっと日は暮れなかったと思うのだが、日本(名古屋)に着いたのは翌日28日の15:30だった。
 出国手続きに並んでいて、機内に帽子を忘れてきたことに気づき、係の人に頼む。ついで、麻薬捜査犬の訓練に協力してくれと頼まれて承諾したら、足に麻薬の袋を取り付けられた。大きな犬が来て、待っている人の足の匂いを順にかぐ。私のところでピタッと止まった。犯人見っけ!というわけだ。
 それやこれやで遅くなったのに、荷物検査がやけに厳しくて、待っていた妻をやきもきさせた。五週間ぶりに会う妻を、ミコやアンドレがいつもしていたように抱擁しようとしたが、拒否されてしまった。
 これで長い長いアメリカ旅行の記録を終わる。エスペラントでできる一人旅行がどんなものだったか、いくらかわかっていただけただろうか。一日一日が充実していて、最初の予定より長くなってしまった。もし全部読んでくれた人がいたら、感謝である。

   写真はコーバリスの囲碁クラブ
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再びコーバリスへ

2005-07-07 | アメリカ旅行
 7月26日、ポートランド最後の日。私は朝6時には目が覚める。このアパートは上階の足音、床のきしみ音がすごい。日本でもこれだけ粗悪なアパ-トはあまりないと思う。共同洗濯場があった。庭にはプールがあったが、閉鎖されていた。
 昨日書き忘れたが、クリスがサンフランシスコ州立大学の私宛に送った手紙が、私が大学を去ってから届き、クリスの元に戻っていた。アメリカの郵便はそんなものらしいが、往復に10日以上かかっている。
 クリスは昨日と同じ8時に起きて長いシャワー。シリアルと昨日いただいたプラムで朝食。話していると時間がかかるから、なるべく話をしないで、車で9時に何とか出発。今日はワシントン公園である。広い公園内にいろんな施設があって、それらをつなぐ遊歩道も整備されている。時間があれば1日かけてゆっくり歩きたいところだ。
 まずローズガーデン、かなりの規模のバラ園である。クリスは1本1本丁寧に見て匂いをかぎ・・・最後は私が待っているのに気がついたようだ。
 日本庭園。日本からの移住者が多い土地柄、かなり本格的な庭園が造られている。クリスにいろいろ説明しながら回ったが、彼自身、かつて日本式の庭園で働いたことがあって、松の枝をいじったり、石を据えたりしたことがあるという。
 ベトナム戦争記念公園。犠牲になった兵士の名前が年度別に彫り込まれたモニュメントが並んでいる。それぞれに戦争の簡単な経過が書いてあるが、北ベトナムの侵攻とか共産主義との戦いといった文字が見てとれる。
 最後にビジターセンターによって、ワシントンパークをあとにし、昼食は中華レストランへ。私は隣にあったベトナムレストランに行ってみたかった。料理はひどく塩辛かった。
 グレイハウンドのバスステーションへ。一方通行やらバス専用路に遮られてなかなか行き着けない。市内をぐるぐる回って、やっと着いたのはサンフランシスコのバスターミナルに比べるとずいぶん立派である。切符を買う行列がなかなか進まない。切符を買う時はクリスに手伝ってもらった。
 15:05発車、17:55時間通りにコーバリスに到着。1週間前に行った囲碁クラブのレストランへ。アンドレもすぐ来たが、彼はアラビア語の講習会へ。少し疲れていたので、1局だけ打った(優勢だったが見損じで負けてしまった)だけで、あとはクッキーをかじりながら観戦していた。
 21:00、アンドレの家へ。カレンと3人で少しおしゃべり。アンドレと碁を2局。ベッドに入ったのは1時を過ぎていたが、眠れない。起き出して荷物を整理して、3時に再びベッドへ。5時半にまた目が覚めて、風呂に入り、出発準備。

   写真は日本庭園とベトナム戦争の慰霊碑(オレゴン州だけで1年にこれだけ死亡)
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ポートランド、日本人移民の町

2005-07-06 | アメリカ旅行
 7月25日。クリスはとてものんびり屋である。朝はゆっくり起きだして、長いシャワー。エスペラント初心者なので、話をする時はすべての動作が止まる。朝食をどうするか(時間がないからシリアルですませた)、バスの1日券を買うかどうかで議論。10時、やっと出かける。私は近くのバス停から乗ればいいと思ったが、彼は車で広い駐車場のある乗り換えセンターへ。郊外に大きな駐車場を設けて、都心部に入る車を減らすというわけだ。ところが満車で1台の空きもない。もう一つの乗り換えセンターへ。何とか駐車スペースを見つけて、ここからMAXという電車に乗る。市街地に入ると路面電車になる。ポートランドの中心地に着いたのはもうお昼に近かった。
 パイオニア・コートハウスを見学。「商業の女神像」は工事中で見ることができなかった。歴史博物館に入る。私は英語が読めないから、ざっと見ながら進むが、クリスは丁寧に読んでいる。私は待っていなければならない。開拓以来の歴史は割に理解できる。先住民の文化も紹介してあるが、やっぱり歴史的なことには触れていないようだった。
 昼食はファーストフードの店。肉団子をはさんだパンに大量の野菜を乱暴に積み上げる。どうしたってこぼれてしまう。これを丁寧に食べている老人の姿が妙に印象に残った。
 バスでピトック邸へ。90年ほど前に建てられたフランス風の豪邸である。もう3時半に近いが、開館は4時までである。バス停からかなり登らねばならない。早足で登ったら、クリスは汗まみれでハーハー言いながら必死でついてきた。
 帰りは森の中を下る気持ちのいい遊歩道を見つけた。街に戻るバスの中で、この旅行で初めて日本人観光客に出会った。
 ウィラメット川沿いが長い公園になっているが、その一角に日本人移民の歴史公園があった。この地方は日本人移民が多く、子供たちをアメリカ人と同じ学校に通わせ、土地に根付く努力をしてきた。しかし、第2次世界大戦中は、差別され、収容所に追い込まれた。戦後はアメリカ人もこれを反省して、2度とそんなことのないように誓う。。。といった石彫りの説明板が年代順に並んでいる。
 夕食はタイ料理の店。値段は少し高かったがおいしかった。
 少ない日数で、できるだけたくさん見てこようという私と、クリスのテンポが全く合わない一日だった。広告博物館など、予定していたところをいくつか割愛をせざるを得なかった。クリスは、明日はもっと早く行動しようと言っているが。。。隣の部屋の人が、「田舎から送ってきた」とプラムをひとかご持ってきてくれた。

   写真はピトック邸(外観と内部)、日本人移民の公園
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オレゴンシティの一日

2005-07-05 | アメリカ旅行
 7月24日。アメリカ旅行、最初で最後のホテル。朝食は4つのメニューから適当に選ぶ。さらにベーコンまたはソーセージ、パンのチョイス。大量のポテト、大量のスクランブルエッグが出てきた。アメリカ人はこんなに食うんかい? 他にイチゴが1個、コーヒー。
 10時過ぎに、この町を案内してくれるジョンがやってきた。かなり高齢のふとっちょさん、元医者だとか。まず歴史博物館へ。ここでポートランドのクリスと合流。ジョンはいったん自分の仕事に帰る。
 歴史博物館は全体が3台の幌馬車の形をしている。「オレゴントレイル」から始まって、この地方の歴史を、年代を追って展示。案内人が一部屋一部屋を解説しながら案内して歩くツアー形式。こういう形式は英語のわからないものには困る。見たいものをゆっくり見ることも出来ない。オレゴントレイルというのは、1840年代に始まった西部開拓のルートで、ミズーリ州のカンサスシティあたりを出発してオレゴンシティーまで3,000km以上に及び、その移動はたいへんな困難を伴っていた。開拓民は、直径が3m以上もある木材を切り出すなど、林業を興し、鉄道を引き、発電所を作り・・・等々を、当時の様子を再現したジオラマや映像も使いながら紹介していく。
 この土地には先住民がいたこと、彼らの文化を示すいくつかの品物も展示されていた。しかし、彼らがやってきた開拓民とがどんな関係を持ち、どんな運命をたどったのかは展示してないように思った。英語ができないから正確にはわからないが。
 アンドレに聞いたところでは、この辺りには現在は先住民はいないという。しかし、先住民のいたあかしが地名に残っている。例えば、「ハヤック」というのは川が急流になっているところだ。まさか「早く」ではないだろうな。
 一通りツアーが終わって、展示コーナーや売店を見て時間を過ごす。入場の時に小さなバッジをくれたが、これを見せれば出入り自由である。当時の扮装をした女性が刺繍をしている。また当時の幌馬車なども展示されている。
 ジョンが戻ってきて、彼の案内でこれからオレゴンシティ見学である。まず交通エレベーター。崖地の交通用に作られたもので、90年に近い歴史があるという。落差の低い滝は、アメリカ最初の発電所ダムのあとで、その横に川の落差を通過する短い運河がある。この歴史的なダムと秀麗なマウント・フッドの展望ポイントも。偶然だが、私の住む恵那市にも日本で一番古い発電用ダムがある。
 昼食には「もっともアメリカらしい食べ物」だと言って、(高級?)ハンバーガーの店へ。ルートビアなる飲み物が名物だと言うが、あまりおいしくはなかった。
 ジョンと別れて、今度はクリスと2人でポートランドへ。観光案内所や領事館へ行って観光資料を探して、日本語の案内書を見つけた。夕食はテリヤキ屋、一応日本食でおいしかったが、日本でこの味ではすぐ潰れると思う。「UWAJIMAYA」なるアジア商品店に寄った。恐ろしく多種多様な商品を揃えている。主に日本の食品・雑貨だが、中国・韓国のものも。折り紙用紙のコーナーもあって、これだけ揃えている店は日本にもなかなかないのではないかと思ったほど。桜餅が変な色をしているのでよく見たら「要冷凍」品が解けてしまっていた。
 クリスのアパートは1寝室と広いリビングダイニングキッチンである。彼はポートランドに来て2か月で、まだ職を探している。明日は私と一緒に行動したいと言う。
 寝袋2つと、清潔だがボロボロの上掛けを何枚か出してきた。寝袋1枚を敷いて、その上に、一番ましなボロをかぶって寝る。
   写真はオレゴンシティ歴史博物館内部、昔の服装の夫人、古い発電所の跡とマウントフッド
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アメリカで11才の少女と遊ぶ

2005-07-04 | アメリカ旅行
 7月23日。フレンチトースト、メロン、ベーコン、ジュースの朝食。ポートランドで泊めてくれるクリスに電話したが、エスペラント初心者で具体的な話が難しいのでアンドレに代わってもらった。長い電話になったが、2人で今後の計画を決めてしまった。クリスはこの年の5月に東京で行われたエスペラントの全国合宿に参加していたが、クラスが違っていたので話はしなかったし、彼の方でも私を憶えていなかった。
 アンドレと娘のリビーに日本のゲーム、十六ムサシを教える。オセロはリビーが知っていた。朝食の時にリビーがアメリカの印象を聞くので、「いろんな人間が住んでいる」こと、私の家と比較しながらこの家と敷地が充分に広いこと、町にみどりが多いこと(鹿が出てくるような住宅地!)、道路が広いことなどを話した。
 リビーが、日本の料理では「焼きそば」が好きだという。焼きそばには2種類あって、ひとつはカップに入っていて湯を注いで作る。もう一つは日本食レストランで食べる、と。
 日本にアメリカレストランはあるかというから、ケンタッキーフライドチキンにマクドナルド・・・と言ったらカレンががっかりしていた。ステーキの店とでも言えばよかったのかしらん?
 リビーが一緒にプールに行きたいというのでアンドレと3人で行く。公営だが有料、3人で10ドルだったから大人4ドル、子供2ドルかな?
 更衣室が狭くて入れないのでトイレで着替え。25mプールがあって、半分は遊ぶ人、半分は泳ぐ人のため。遊び場にはいろんな噴水や落水があり、流水プールは芋を洗うようにごった返していて、ウォーターシュートには行列ができている。
 しばらくリビーと遊んで、シュートは思いっきり高速で滑り降りたらゴールで潜ってしまい、監視員のお姉さんが飛んできた。リビーが同年代の遊び相手を見つけたので、私はがら空きの25mプールで悠々と泳ぐ。
 帰ってきて、夕食は鮭を焼いてあった。ゆでたジャガイモとブロッコリー、ジュース。普段は魚を料理することがなくて、(日本人だから魚が好きだろうって)私のために作ったというのだが、リビーは全く食べられない。「私は日本には行けない」と言いだした。
 明日からポートランドに行く計画だが、その前にオレゴンシティを案内してくれる人がいるということで、今夜はその町のホテルに泊まることになった。8時頃、アンドレの車で出発。彼は制限速度をきっちり守って走る。違反を検挙されると、保険金の支払額が大幅に増えてしまうからだとか。面白いことに、赤信号でも安全を確かめながら右折するのはかまわない。
 10時頃、ホテルに着いた。朝食付きで80ドル。
   写真はアンドレの家の前の「路地」 右の木立の奧に彼の家がある。左上の小さい写真は、アンドレの家の窓から撮った鹿。
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アメリカの豊かさと草野球

2005-07-03 | アメリカ旅行
 7月22日。カレンは朝早くあわただしく出ていった。ハムとパン・牛乳の朝食。アンドレとリビー、クララと一緒に車でまずカレンがやっているガレージセールへ。売り上げはどこかに寄付するらしい。そのあと車でアンドレの親戚の家を回ったが、あちこちで同様のガレージセールをやっていた。独立記念日の花火といい、一斉に同じことをするのがお国柄なのだろうか?
 私の専門が建築で、アメリカ人の普段の生活を見たいとも言ってあったので、アンドレが自分の親戚の家、3軒に案内してくれた。初めの2軒は町の中の独立住宅で、それほど大きくはない。借家らしいのだが、1軒は家具職人で自分の家の内装工事もやっている。もう1軒も自分で家を大改装している。
 3軒目は、幹線道路から数キロ未舗装の道を入った山の中である。郵便屋さんなどは幹線道路までで、山に入る道の入り口にポストが10個ほど並んでいる。森林を伐採したあとを個人に払い下げたもので、幅5~60mで山の稜線まで3~400mはあったと思うが、それだけが分譲地。麓を平らにして、自分で家を建てて、今は2軒目を建てている。中学生くらいの男の子が父親を手伝って作業をしていた。重機が必要な工事では外注もするが、基本的に自分たちだけで建てている。家具職人や電気工事屋が親戚にいて、必要な時には手伝いに来るとか。家の前は広い庭になっていて、後ろの山にはいろんな木を植えている。
 アメリカの豊かさの一端を見た気がした。日本ではたとえお金はあっても自分で家を建てる時間がないだろう。

 アンドレの家に帰ったのは3時、そこに今日訪問した家族を含めて15人ほど親戚一同が集まってきた。スーパーで買ってきた冷凍のハンバーグとソーセージのバーベキュー(パンにはさんでハンバーガーとホットドック)、ジャガイモと卵のサラダ、果物、生野菜、パンチなど。日本人など珍しくもないのか、あまり質問されることもなかった。
 庭と居間を人が行き来するので、庭の枯れ葉が部屋に入る。カレンが何度も掃除をしていた。大人の女性3人と幼児を除く10人ほどで車に分乗してユージンの町へ野球の試合を見に行く。先着1,000名に帽子がもらえるからと急ぐ。私はこの旅行2個目の帽子をゲット。
 野球場は1塁側スタンド、すなわち地元の応援席しかない。外野席はおろか3塁側にもほとんど席がない。場内放送も地元チームの応援一色である。試合途中でファンサービスのイベントが何回も行われる。チアリーダーの踊りはもちろん、例えばバズーカ砲のようなもので記念品を客席に打ち込むといったことも。
 試合自体は、大リーグのルーキー級にも入れないアマチュアチームのリーグ戦。大リーグを目指す選手もいるということだが、打球は滅多に外野まで飛ばないし、外野まで飛べば必ず長打になるという試合。そんな試合でも観衆は熱狂的に応援し、1-0で地元ユージーンのチームが勝って大満足。
 一緒に来たみんなもそうだったが、観客たちはスナック菓子やどぎつい色のジュース、氷菓子などを実によく食べる。掃除する人にもたっぷり仕事ができたことだろう。

   写真は野球場
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アメリカの山を歩く

2005-07-02 | アメリカ旅行
 7月21日。今朝はカレンが先に起きてきた。泡立てて焼いた卵、トースト、メロンなどの朝食を準備してくれた。アンドレが思わず「オー、豪華な朝食!」と叫ぶ。今朝のカレンはゆっくりしている。彼女の仕事はフルタイムではないようだ。
 8時頃、一人で歩いて近くの公園へ。アンドレが触るとかぶれる植物を教えてくれた。草原状の低い山を登って林の中に入り、1時間くらいでチップ・ローズ・パーク。バラがあるのかどうかわからない。町の眺めがいい。クーガー(アメリカライオン)の絵を描いた注意書きがあった。乏しい英語力で読むと、どうやらクーガーがいるから気をつけろ、ではなく、クーガーが住むような自然環境を壊すなと書いてあるらしい。
 山の中に気持ちよさそうな遊歩道がある。そのひとつに入ってみた。この公園内を巡るのかと思ったら、そうではなかった。戻るのがいやなので、どんどん歩いていった。山の中では誰にも会わない。途中に分かれ道があったが、必ず右に曲がることにした。こうすればいずれ元に戻るか、どこかに出るはずである。アップダウンも少なくて気持ちのよい道だが、1時間も歩くとさすが不安になってきたが、やっと山を抜けて里に出た。畑が広がっている。山から出たところに案内板があった。歩いてきたところはかなり広い緑地で、山登り・ハイキングが楽しめ、奥の方にはキャンプ場もあるらしい。私の歩いてきたのはそのほんの一部であった。しかし、ここが町のどこなのかわからない。
 とにかく歩いていくと、馬に乗ったお姉さんとすれ違った。英語で挨拶するからエスペラントで答えた。1kmほどで広い車道に出た。通り名の標識を見つけて、持っていた地図と照らし合わせてやっと自分の位置がわかった。ずいぶん遠くに出たもんだ!
 車道を歩いて歩いて歩いて、別のコースからローズパークに登ってから帰路につく。大きなスーパーマーケットに入って、接着剤とトリ照り焼きご飯を買った。接着剤は靴底がはがれてきたので修復用。アンドレの家に帰ったのは1時。昼食・入浴・洗濯・ハンモックで居眠り・・・。
 夕食はバーベキュー。大きめの肉をロースト。アメリカに来て形のある肉にありついたのは、これが最初で最後だった。
 車庫の天井に吊ってあったカヌーを降ろして車に乗せる。3人でWillamette川へ。カレンは家に帰り、アンドレと私はオールを1本ずつ操って川下り。アンドレが用意してくれたリクレーションだ。ゆったりした気持ちのいい川である。水はそれほどきれいではなかったが、目的地の公園では泳いでいる人もいた。
 のちに、夫婦と娘で小さい川をさかのぼって、急流でボートをひっくり返すなどの大冒険をしたと聞いた。この経験で娘がたくましくなったと。。。
 9時頃カレンが車で迎えに来た。今夜の彼女はなんだか忙しくしている。明日不要品のバザーがあってその準備と、装飾品のデザインの締め切りと。

   写真はクーガーの絵の注意書きとローズパークへの道
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アメリカの地方都市を自転車で走る

2005-06-30 | アメリカ旅行
 7月20日。朝早く目が覚めたので付近を散歩。同じく散歩をしている老人2人に出会った。やっぱりニカッとしながら挨拶をする。私もエスペラントで挨拶を返す。何か大きな動物がいると思ったら3頭の鹿だった。この辺りの家は、鹿が庭に入り込まないようにしてあるという。
 牛乳とシリアル、バナナで朝食。カレンと女の子2人はシャワーと身支度に時間がかかる。それぞれが仕事などに出かけ、私はアンドレのマウンテンバイクを借りた。サドルをいっぱいまで下げてもらった。自転車用の地図もあって、専用路・共用路の他、注意して走るところ、自転車禁止のところも示してある。郊外に出る長距離の自転車道も整備されているようだ。
 道路は広くて、幹線道路には自転車路が確保されていて快調だが日差しが強くて暑い。まず近くの公園を目指す。ついで町へ行く途中、農業用車・自転車専用道があった。珍しく狭い道だと思ったら、これが開拓時代の由緒ある道で、途中に古い屋根付きの橋が保存してあった。
 市街地に入って、広いオレゴン大学構内を走り、カレンが働いている宝石店へ。自転車のキーを忘れてきたのに気づいて、宝石店の奧に自転車を置かせてもらった。アンドレとエスペラント仲間が3人やってきて、5人で寿司やへ。海苔を巻き込んで表面に出していない巻きずしが面白い。
 彼らと別れて(たぶん仕事に戻っていったのでしょう)、宝石店でのカレンの仕事を見せてもらう。装飾品のデザインと、金の鋳造などである。
 ここを出て、また一人で自転車を走らせる。コーバリスの町の北西の外れに自然公園がある。それほど広くはないが、木道から観察するようになっていた。季節外れらしく、花はあまり咲いていなかった。帰ったのは3時半頃。シャワーを浴びたところに、カレンが帰ってきた。何を話したのか憶えていないが、あやふやな英語とエスペラントでしばらく話した。
 この家の敷地は1,000平方mほどあり、庭には一抱えもある大木が十数本立っている。そこにハンモックが吊ってあって、横になると実に気持ちがいい。そのまま寝てしまった。目が覚めると、カレンがいなくてアンドレがいた。
 すぐに車で町へ。途中回り道をしながら、この町の古い由緒ある住宅を見せてくれたが、歴史の浅いので新しい建物とあまり違わない。アンドレのお姉さんが画廊を持っていて、子供の絵のカードを作ったので、その披露パーティだという。店内には70cm角くらいの子供の絵がたくさん飾ってある。同じモチーフを与えて、自由に書かせているようで、デザインは似ているが色遣いなどが全く異なる絵が何枚かずつある。それをデジカメで取り込んで、カラープリンタで印刷したカードを売っているわけだ。
 パーティは、パンチ、果物、野菜、クッキーなどが用意されていたが、同じ店内にある食事コーナーでサンドイッチを買って夕食。サンドイッチに乗せるものを注文するのに少々困った。
 帰ってからアンドレが私の行動計画を話してくれた。私自身の希望やポートランドのエスペランティストの都合もあってその通りには行きそうにないが、相談はまた明日ということで、今日は疲れたからおやすみ。

   写真は古い橋。土が流れてしまわないように屋根をつけたもの。
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アメリカの「普通の家庭」

2005-06-29 | アメリカ旅行
 7月19日、ニューポート最終日である。まず水族館へ。パトリックと一緒に行けば入場無料。まもなく彼は仕事に行ってしまい、私はゆっくりと見学。なかなかよくできている水族館で、とくにクラゲの展示が美しい。鯨や海鳥の短い映画を3本見て、アシカ、ラッコの水槽は上からと横から見ることができる。大きなトンネル式の水槽があって、難破船が沈んでいる演出が楽しい。厚さ11cmの透明プラスチック板の上を歩く。1カ所、この板にヒビが入って、セロテープで補修(!)してある。みんな板の上を歩けず恐る恐る端を歩くから大渋滞している。短い自然遊歩道があって、すぐ外の潟の自然観察やバードウォッチングも出来る。
 水族館を出て、一昨日にも渡った橋を越え、帰る途中で客のほとんどいないメキシコレストランに飛び込んだ。メニューを持ってきた女の子にエスペラントで「メニュー見ても分かんないんだ」とか何とか話す。彼女は目を丸くして、「ちょっと待って、スペイン語のわかる子がいるから」と飛んでいく。もちろんその子にもエスペラントは通じない。メニューを開いて、目をつむって指をぐるぐるっと回してポン、これ持ってきて。まあ、何とか食べられるものが出てきた。5.5ドルに7ドル払った。パトリックに聞いたら、オレゴン州では税金は要らないが、チップを加えて7ドルなら妥当だろうという。
 荷物を整理して、折り紙を少し作っているところにパトリックが帰ってきた。車でこの地方の昔の中心都市に行こうという。木材産業で栄えたが、今は人口も減って中心もニューポートに移ったと。町の様子はあまりわからなかったが、川沿いの気持ちのいいドライブだった。時間ギリギリにバス停に着いた。何十時間も話したパトリックとここで別れて私はバスでコーバリスへ。

 17:30頃コーバリス着。アンドレが迎えに来てくれて、まず囲碁サークルの例会へ。レストランの席を借りて毎週5,6人が集まっている。アンドレはアラビア語の講習会に行ってしまったが、碁を打つのに言葉は要らない。一人を除いて、みんな初心者である。30代後半くらいのひげの大男が会長で、二番打って一勝一敗だった。私よりも少し強いかもしれない。
 9時、アンドレの家へ。かわいい奥さんのカレンは、1週間前からエスペラントを勉強しているという。ただ私と会話したいだけだそうだが、まだ話せる段階ではなかった。カレンがエスペラントを勉強する代わりにアンドレが3カ所あるトイレを掃除したという。11才の娘さんリビー、それに同い年の姪、クララが遊びに来ている。
 初めて「アメリカ人らしい」家に泊まる。1階は大きなガレージと、卓球台の置いてある広い多用室。横に中2階があって、玄関もそちらにある。入るとエントランスがあって、広い居間と広いダイニングキッチン。その奧にもう一つ食堂があって、トイレ・洗濯室・機械室がある。2階は6畳くらいの書斎と子供部屋、広い広い夫婦寝室(立派なバス・トイレつき)、それに洗面所がある。私はこの書斎にマットを置いて寝る。アメリカには「客間」の思想がない。
 洗面所も広い。洗面台が2つ、トイレ、浴槽、しっかりカーテンで仕切ることが出来るシャワー。浴槽はほとんど使った形跡がないが、私は毎日風呂に入った。

   写真はクラゲの水槽、アンドレの家 かつて殺人事件があって空き家になったのを買ったとか
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アメリカで日本経済の行く末を考える

2005-06-28 | アメリカ旅行
 7月18日。今日は教会の児童保育所のようなところに行くというので、折り鶴や紙飛行機などをいくつか作って準備。夏休み中、子供を預かっているところらしい。玄関を入ると1週間の予定表が張り出されていて、今日の欄には私の名前がある。
 午前中に十数人のグループが3組。パトリックの通訳で簡単な自己紹介をして、質問を受ける。どのグループも年齢層はバラバラ、いわゆる混合クラス。集まった時の姿勢の悪いこと、きちんと座っている子もいるが、床に寝そべったりソファで逆さまになったり。ところが質問はどんどん出る。小さい子は「任天堂に行ったことありますか?」(後で知ったのだが、ここではポケモンが大ブームだった)、小学校高学年くらいになると「日本の経済はこれからどうなるか?」
 ついで折り紙とエスペラントの紹介。パトリックが「入門用レッスン1」を用意していた。これは自分で読んで問題の答えを送ると、添削とレッスン2が無料で送られるというもの。いわば無料の通信入門講座というわけだ。
 30分経つと、話の途中でも何でもさっと移動する。他の点ではずいぶん自由にしているようだが、このときだけはずいぶんきびきび動く。
 昼食休憩が45分。めいめい持参らしく、親が来て一緒に食べている子もいる。我々はその間手持ちぶさたで待つのみ。施設内を自由に歩いて写真を撮った。立派な礼拝堂があった。教育施設だとすれば庭が狭いが周囲には林が多く、私の妻が現役の保育士だったら大喜びで園外保育に行きそうだが、ここではあまり外には行かないという。
 午後は希望者だけが集まってきて、折り紙の実習。私は紙飛行機、パトリックが折り鶴を担当。全く経験のない子たちなので、大きい子でも紙をきちんと折るのが難しい。やっと何人かが飛行機を完成させたが、鶴の方は一人もできあがらなかったらしい。30分経ったら、やりかけの紙を放り出してさっと次のプログラムに行ってしまった。
 最後にお礼のカードをもらっておしまい。
 帰って昼食。果物と穀粒を水で混ぜて少し暖めたもの。おいしくなかった!
 彼が昼寝をしている間に買い物をしてきた。ついでに銀行でトラベラーズチェック(TC)を現金化。簡単に済んで、手数料もなかった。アメリカに行く時はお勧めである。実はサンフランシスコでTCを1冊落としてしまったのだが、手続きをしたらお金は戻ってきた。現金よりも手軽で安全である。
 パトリックへの記念に少し難しい鶴を作った。そのあと、彼の案内で「歴史博物館」へ。小さな博物館で、30分もあれば充分だった。かつてこの地方に住んでいた先住民の日用品などに興味を持った。この地方の他の博物館もそうだったが、「こんな文化を持った先住民がいた」という展示はあっても、白人の移住で彼らがどうなっていったかという展示が全くなかった。
 そして、この日の夕食は私が作った。アメリカでというよりも、外国で私が作った唯一の料理である。
 ニンニクひとかけとショウガ少々をみじん切りして油で炒める。次にナナメ切りしたネギを加えて炒める。豆腐をまるごと入れて、砂糖としょうゆを適量加える。中火でぐつぐつ煮て、中まで火が通ったら、スライスしてざっくりと混ぜてできあがり。
 酒も少し入れるといいのだが、これはなかった。豆腐が大きくて硬く、水を少し足した。これだけで夕食には充分だった。ニンニクは残っても使えないと言うので、残りを全部薄切りして油でカリカリに揚げた。これも美味しいといってよく食べてくれた。ネギは日本のものとは違って、断面が円ではなくてへの字形になっていて驚いた。ニラネギ、西洋ネギとかいって、欧米では普通だということは最近知った。しょうゆは「キッコーマン」をいつも使っているようだ。
 夜は近くの友人の家へ。夫婦と中学生くらいの女の子、小学校4年生くらいの男の子の4人暮らし。この男の子がポケモンカードをたくさん集めていて、カードの日本語の説明をずいぶんせがまれた。お父さんが折り紙に興味を持っていて、本も持っていた。
   写真は児童館の様子
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アメリカの片隅にベトナム戦争の傷跡を見る

2005-06-27 | アメリカ旅行
 7月17日。フレンチトーストで朝食。紅茶がひどくまずいのは水のせいらしい。パトリックは仕事に出かけ、私は家の鍵を預かって、9時頃から歩き始めた。濃い霧がまるで雨のようである。まっすぐ東に進んで海岸に出る。昨日夕日を見たところだ。海の近くの道を南に歩く。
 しばらく歩くと、また海に出る道があった。小さな公園に、鋭い円錐形の表面に彫刻をした少し異様な感じのするモニュメントがあった。ベトナム戦争の慰霊碑である。
 さらに南に進んで、灯台があった。1階が資料室か何かになっているようだったが、「CROSE」としてあった。灯台横に展望台があったが、それも閉鎖されていた。
 ヤクイナ川の河口にかかる大きな橋を渡って左に折れると一番奥に水族館があるが、そこまでは行かないで、ビジターセンターに入った。微生物の世界から、直接目に出来る世界、トリの目で見た世界、地球レベルと4つの展示、他にはタコの水槽、書籍売り場、おみやげ売り場など。よく工夫されていて、英語がわからなくても楽しめた。
 川の真ん中あたりまで木製の桟橋が突き出していて、たくさん人がいる。その先端まで歩いてみた。たくさんの人々はみな釣りを楽しむ人たちだった。
 橋を渡って戻り、右に進路を取ると、港のにぎやかな通りに出た。アメリカ人の観光客が多い。この町のロブスターを食べてみたかったが、値段がまちまちで、うっかりするとぼられると聞いていたので一人で食堂に入る勇気が出なかった。この町のもう一つの名物は鯨見物ツアーだとか。
 こんなところでサークルK(ってこっちが本場か)を見つけて入ってみた。サンドイッチを買って昼食にする。パトリックの家に帰り着いたのは3時頃。さすがに歩き疲れて、眠ってしまった。寝ている間に彼が帰ってきたらしい。夕食は彼が豆腐を使った「ミートローフ」を作ってくれた。
 食事中から11時過ぎまで話し込んだ。日本の文化・地域・宗教などなど、話題はいくらでも続く。エスペラントはお互いそれほど達者でもないのだが、彼は私の発音が気になるという。余分なところに母音のUがついて、必要なところで消えると。日本人の発音の問題点の一つである。
 この家は独立住宅だが2LDKで5~60平方メートルくらい。エネルギーは台所も暖房もすべて電気、湯を沸かすのにも電子レンジを使っている。その方が安上がりだとか。
 昨日はソファが変身した豪華なベッドで寝たが、柔らかすぎたので床に寝ると言ったら、マットを出してきた。この夜はそれを敷いて寝たが、やっぱり柔らかい。3日目は直接床に寝ることにした。
 彼が日本語の入門書を持っていた。冒頭に発音の説明があって、Nの発音には3種類あり、こういう場合にはどのNになる・・・といった説明があった。日本語って難しいんだ! この本はあまり新しくはないが、発行年は戦後である。しかし、中国人を「sina jin」としていたのには驚いた。
   写真はベトナム戦争の慰霊塔
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ニューポート、菜食主義者とブルジョア的な家

2005-06-26 | アメリカ旅行
 7月16日の早朝5時半、パトリックの家に着いた。こじんまりした平屋の一軒家である。一人暮らしの弁護士で、初対面だがなかなか好感の持てる人である。居間に入って机の前に座ると、目の前に折り紙の本があった。英語の本だが、折り紙の歴史から始まって、かなり本格的な内容のようだ。それでいきなり折り紙について話し始めた。
 コーヒーを入れてくれて、それが朝食。とにかく、昼過ぎまで話し続けた。何を話したのかもうあまり憶えていないが、とくに日本の文化について話していたように思う。多くのアメリカ人が日本という国の文化や宗教、茶道、禅などに関心を持っていて、よく勉強していたり、あるいは間違った認識を持っている。話しているとキリがない。
 このアメリカの西のはずれの町で、彼がエスペランティストと話をするのは実に10年ぶりだという。
 午後になってやっとおしゃべりをやめて、パンと、コメ・野菜の炒め物、ジュースで昼食。このあと、この地方のお祭り見物に出かけた。農業祭のようなものだろうか。広い敷地に、農産物や家畜の展示会、ハンドクラフトや絵画・彫刻などの作品展があり、子供広場では子供番組のヒーローか何かのコスプレや大道芸のようなことをやっている。一方では4WD車のロデオ大会。大きな建物内部が細かく分けられたブースでは、企業や環境団体、政党などの展示が行われている。
 パトリックが民主党だったか共和党だったかの党員で、その関係で入場が無料だった。企業ブースで野球帽を1個もらってしまった。「USWEST Dex」と書いてある。電話帳の会社だとか言っていたような気がする。
 帰ってから少し休んで、今度は歩いて買い物に出かけた。菜食主義者だという彼は、自然食品の店でジャガイモ、人参、タコなどを買った。菜食主義者にもいろいろあって、卵や牛乳、蜂蜜さえ食べない人もいるが、彼は肉だけを食べない。何でも幼い時にとさつの現場を見たのがトラウマになっているという。
 さらに歩いて彼の母親の家へ行く。やっぱり一人暮らしだが、こちらは豪邸である。広い二段になった居間、寝室が五つほど、広い居間がさらに二つ、広いガレージ、他にもいくつか部屋があるようだった。居間はふかふかの敷物、しゃれた椅子とテーブル。開いて置いた本までインテリアの一部らしい。これまた広いテラスからは海が見える。これだけの家を母親が一人で管理しているという。
 買ってきた材料で彼が食事を作った。ユダヤ風お好み焼きだとか。この家には、かつては大勢で住んでいたらしいが、兄弟たちはみんな出ていってしまったという。パトリックはなぜ一緒に住まないのかと聞いたら、「この家はブルジョア的すぎるからいやだ」と。一人暮らしで母親は神経質になっているようで、パトリックは毎日電話をかけて気を遣っていた。
 夕方にこの家を辞して、今度は車でニューポートの町をざっと案内してくれた。海岸からの夕日が自慢のようだった。アメリカに来て初めて、バスタブに湯をはって入浴。ソファからえらく豪華なベッドを引き出してくれて、就寝。
   写真は「ブルジョア的すぎる」家
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夜行バスでオレゴン・ニューポートへ

2005-06-25 | アメリカ旅行
 3週間のエスペラント講習が終わって、サンフランシスコ州立大学を出たのは2000年7月15日の朝、10時半頃。これからアメリカ一人旅である。グレイハウンドのバス発着所に11時15分頃着いた。やあ、コスタリカの2人ではないか! 底抜けに陽気なこの2人、芸術の夕べでは絶妙のコントを披露してくれた。一人は優れたエスペランティストで上級クラス、もう一人はまだ初心者で初級クラスにいたから教室で一緒になることはあまりなかったが、コスタリカの地図・立派な観光パンフレットや紙幣をおみやげにくれて、ぜひ遊びに来いと言ってくれた人たちだ。一人旅になったところでまたこの2人にあえて嬉しかった。
 彼らのバスはまもなく発車、私のバスの改札も始まって、まず荷物を預ける。少しだけ遅れて12:40頃出発。オークランドには早く着いたが、なかなか出発しない。バスを降りて、「ポートランド行き」の表示を確かめた。ニューポートまで16時間半のバスの旅である。
 バスはいくつかの停留所で客を拾っていく。だんだん混んできて、バスの中はずいぶんにぎやかになってきた。若い人たちがお互いにすぐ友達のようになって、前の席と後ろの席で、ほとんど怒鳴りあうようにしてしゃべっている。あまり運行時間は気にしないようで、遅れてもいくつかの停留所では5~10分の停車をする。停まるたびに乗客がぞろぞろ降りていく。たいてい小さな駄菓子屋があって、スナック菓子やビーフジャーキーのようなものを買ってくる。
 夕食休憩はウィリツという町。バス停の前に3軒ほどのレストランがあった。テキトーに入った店で、メニューを見てもわからないから一番最初の料理を注文してみた。パンの上にものすごくまずいマッシュポテトとものすごく塩辛い薄切りハム、その上からグリスのような油臭いクリームがかけてあった。これがアメリカで食べた最悪の料理だった。無理矢理詰め込んだが半分近く残した。
 出発した時はよく晴れていたが、海岸に近づいてくるとまたどんより曇ってきた。海が見えてきた。ユーリカという町である。薄暗くなってきた。暗い中で大きな木が生い茂るところを走る。これがレッドウッドだろうか?
 クレスセントシティで運転手が交代。遅れているのに、何もないバスターミナルのようなところに35分も停まっていた。ここを出るとまもなくオレゴン州に入る。海岸の美しさで有名なはずだが、真っ暗で何も見えない。
 夜になってバス内も静かになり、何度か眠り、何度か目が覚める。3時半頃には完全に目が覚めた。5時15分、予定を15分遅れてニューポートに着いた。バス停にパトリックが待っていた。パスポルタセルボの宿泊提供者である。今日から3晩泊めてもらう。車で彼の家へ。

   写真はニューポート入り口の橋
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サンフランシスコを歩く(2)

2005-06-24 | アメリカ旅行
 7月8日、国際試験が終わるのを待っていてくれた日本人参加者たち、ショ-ン、リーといっしょに街へ。
 ゴールデン・ゲート・ブリッジはものすごい車の流れ。歩道があるので歩いて渡れるが、最初の柱の少し先まで歩いた。はるかに、ベイブリッジ、その手前にアルカトラズ島が見える。橋の渡り口に公園とおみやげ店があった。
 メキシコ料理の昼食の後、ヤーバグエナ・ガーデンへ。ここは1989年の大地震で壊滅したところだという。水のモニュメントと広い芝生の公園である。芝生の上には、思い思いに寝っ転がっている人もいた。ビルの壁にエスペラントで「我々の空飛ぶバスで、あなたは世界のどこにでも行ける」と大書してあった。
 最後はユニオン・スクエアだと思うが、大きなショッピングセンターで買い物。私は付近をぶらついてみた。観光客向けの店が並んでにぎやかである。ベトナムの五行山で売っていた大理石像が1個1ドル程度の安値で売られていた。近くにはケーブルカーの発着所があって、運転手が自分で向きを変えるところを見物できた。ケーブルカーには一度乗ってみたかったが、その機会がなかった。

 講習会が終わったら、さらに2週間近くオレゴン州を旅行することになっていた。最初に泊めてもらうニューポートのパトリックとどうしても連絡が取れず、バスの切符が買えないで困っていた。バスは昼の12時35分に出るのが好都合だが、ニューポート着が朝の5時である。どうしても事前にパトリックの確認が必要である。もう1本、午後2時半に着く便もあるが、サンフランシスコ発が夜の10時、そんな時間に一人で街を歩きたくはない。
 9日の夜に、コーバリスの友達アンドレと電話連絡できて、私の予定をパトリックもわかっていると聞いた。それで、翌日は月曜日だったが、午前の講義を休んで切符を買いに行くことにした。
 メトロで街へ。グレイハウンドのバスターミナルはすぐにわかった。あらかじめ行き先と時間を書いておいたメモを見せて、切符は何の問題もなく手に入った。時間があるので、ついでにELNA(北アメリカエスペラント連盟)の事務所に行くことにした。バート(近代的な地下鉄)でバークレーへ、バスに乗り換えて、事務所の近くで下りる。あらかじめ聞いてあったので問題なく行けたが、下りるところが通り過ぎてからわかって、次のバス停で下りた。
 最初の日に泊めてくれたミコが仕事をしているが、彼はまもなく大学で勉強するために東部へ行き、代わりにジョエルが仕事をすることになっていた。広い部屋の側面に本がぎっしり、他に事務室が2つ。絵ハガキなどを買って、古い雑誌をおみやげにもらって帰る。
 帰りはバートでバルボア・パークというところまで来て、30分ほど静かな住宅街を歩いて大学に帰った。にぎやかな観光地よりも、ここで生活している人や町を見ながら、あれこれ想像て住宅街を歩くのが私は好きだ。
 翌日の朝、やっとパトリックと電話連絡が出来た。

   写真はゴールデン・ゲート・ブリッジ近くの公園
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サンフランシスコを歩く(1)

2005-06-23 | アメリカ旅行
 2000年7月、サンフランシスコ州立大学の3週間のエスペラント講座の間、遠足以外にも何回か外出した。
 7月4日、この日は火曜日だったがアメリカの独立記念日で休日だった。ショーンが案内してくれて、十数人で街へ繰り出した。大学前に電車の停留所がある。市街電車のようだが、都心が近くなると地下鉄になる。かつては市街電車だったが、車が増えてきて地下鉄にしたとか。近代的な地下鉄(バート)とは別の地下鉄である。
 停留所に切符の自販機があったが、時間がなくて買わずに乗車。運転席の後ろに切符自販機があったそうだが、混んでいたのでそのまま切符なしで乗っていた。駅で降りる時は改札がなくてそのまま出てしまった。バスに乗り換えたが、地下鉄の切符がそのまま使える。切符のない私はそのまま乗り込んで、ショーンに聞いた「私、切符買ってないんだけど?」「ああ、かまわないよ」「??」
 切符は2時間が有効で、その間なら何回でも乗れるシステム。切符に時間が印刷されていたり、時間を示すところでカットされていたりする。改札は緩やかだが、時々検札があって、その時に持っていないと目の玉が飛び出るほどの罰金が科せられるとか。私は見なかったが、電車の中にいかつい男が4~5人乗り込んできて検札するところを見た人がいた。
 着いたのはフィッシャーマンズ・ワーフ。かつては漁港だったというが、サンフランシスコでは代表的な観光地。ショッピングセンターを回ってみたが、私は買い物にはあまり興味がない。馬に乗った警官が珍しかった。サービス精神があって、観光客といっしょに記念写真を撮ったりする。
 広場に舞台が作られて、音楽と踊りをやっていた。ところが、舞台のすぐ下で、男女2人がすばらしい踊りを見せていて、観客の喝采を独り占めしている。舞台の踊りが色あせてしまって、やや困った様子だった司会もその男女に拍手を送っていた。
 20分ほど歩いて中華街で夕食。漢字の看板の意味がある程度わかる。「君は中国語が読めるのか?」「いや、読めないけど意味はわかるんだ」
 サンフランシスコで食事をすると、定価に税金+チップで、3割程度加えなければならない。地震復興のために、とりわけ税金が高いのだそうだ。
 港に戻ると、花火が始まった。この日だけ、全国一斉に花火大会が行われるのだそうだ。どこだかわからないが、海の向こうでも花火が上がっていた。やたらに派手な花火だが、日本とは違ってメリハリがない。驚いたのは、どこにいても見られるように2カ所であげていたこと。コンピュータ制御だろうが、これが全く正確に同じなのだ。
 花火が終わって、バラバラになっていたメンバーも何とか集まって、地下鉄駅まで1時間ほど歩いた。我々のすぐ前にシャボン玉を吹きながら歩いている男がいた。そのうちにショーンたちとその男が会話を交わし始め、最後は肩を組んで歩くほど親しげになった。ゴダールが講義の中で、アメリカ人の特質の一つとして、「誰とでもすぐに仲良くなるが、別れればすぐに忘れる」ことをあげていた。一方、ヨーロッパなどでは「すぐには仲良くなれないが、いったん友達になったら長く続く」と。
 バスの中などでエスペラントで会話していると、「君たちは何語で話しているんだ?」と聞く人が必ずいる。人通りの少ないところで知らない人に会うと、必ずニカッと笑いながら挨拶をしてくる。「あなたに危害を加える気はありませんよ」という意味らしい。深刻に話し合っている2人にカメラを向けたとたんに、2人ともこっちを見てポーズをとりながら、ニカッと笑う。アメリカ人についての私の印象である。
 帰りはちゃんと切符を買って地下鉄に乗った。満員で乗れなくて1台やり過ごしたが、次も満員。無理に体をねじ込んだ。大学に帰り着いた時は、すでに翌日になっていた。
   写真は都心では地下鉄にもぐる市街電車
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