エスペラントな日々

エスペラントを学び始めて22年目である。この言葉をめぐる日常些事、学習や読書、海外旅行や国際交流等々について記す。

おまけの1日

2009-04-22 | ネパール旅行その2
 3月10日、ネパール旅行の最終日である。風邪の症状がひどくなっている。出発は夜なので、もう1日部屋を借りておくことにした。
 朝食後、数人でハチミツを買いに行く。山やホテルで出された蜂蜜が美味しかったし、たぶん無農薬だろうからおみやげにもいい。たいていの食料品店にあったが、どこでも2~3個しか置いてない。4軒目の少し大きなスーパーマーケットにはいろんな種類のものがあった。色の薄いものを選ぶ。クセが少なくて食べやすい気がするのだが、根拠はない。以前ベトナムで買ったハチミツは、かなり濃い南国の香りがした。
 この日は外出するのは「命がけ」だった。水の入ったビニール袋が飛んでくる、バケツで水をかけられる。それも色つきの水で、服やバッグに赤いシミが付いてしまう。まともにぶつけられてめがねを壊された人もいた。手を挙げて勘弁してくれというとやめてくれるが、人通りの多いところではとばっちりを食うのは避けられない。これがネパールの最終日でなかったら、汚れてもいい服装で楽しめたかもしれない。
 この最後の1日はタメルの土産物店を見て歩くのを楽しみにしていたが、店の多くが閉めてしまっていて、出かけてもずぶ濡れになるだけである。「幸いなことに」私は風邪のために出かける気にはなれない。ベッドでおとなしくしていた。買い物に出かけた他の人たちも結局すぐに戻ってきて、共同で借りた部屋にいたらしい。
 Dさんが日本食レストランを予約してくれた。閉店していたが、8人も行くからということで応じてくれたと。明日には日本にいるのに何でここで日本食なんだ? と思うのは私くらいらしい。
 呼んだタクシーに乗ろうとホテルを出たところで大量の水が降ってきた。このホテルに泊まっているヨーロッパ人が悪のりしているらしい。向かい側のホテルでも顔を赤や青に塗ったヨーロッパ人が水をまいている。Dさんが英語で怒鳴っていた。Eさんは日本語で「バカヤロー!」と。レストラン前でタクシーから降りるのも辺りの様子を見ながら決死の覚悟である。
 食事はショウガ焼き定食、トンカツ、ハンバーグ、鯖の煮付け、鯖の塩焼き、野菜炒めにみそ汁と漬け物などの定食。私はとくに感激はしなかったが皆さん大喜びだった。
 午後もおおむね部屋で寝て過ごして、夕食はネパール人エスペランティストの案内で近くのレストランへ行き、「モモ」という蒸し餃子やサラダを食べた。モモは中国から伝わったものだと思うが、カトマンズの名物料理の1つである。水掛け祭りの騒ぎはほぼおさまっていた。
 8:10頃小型のバスで出発、空港、とくに売店などは少しきれいになっていたが、セキュリティチェックは3年半前と同様にしつこい。空港の建物に入るときに荷物のX線検査とボディチェックがあって、預ける荷物にはチェック済みのシールが貼られる。空港税の券を買って、チェックイン、出国検査。2階に上がって最後の買い物。待合室へ行くのにいったんX線を通して、さらに鞄を開けて調べ、終わったら切符に印を押す。待合室前でその切符の印を調べる。バスで飛行機へ行くと、乗る前にまたまたボディチェックである。
 香港で東京組と別れる。トランジットのセキュリティチェックで、あれだけ調べたネパールでは無事だったソーイングセットのハサミを没収されてしまった。
 飛行機は台北経由だった。台北で約1時間。土産物店でお菓子を試食したり、台湾の少数民族の物産展を見たり。
 名古屋へは3時半頃、無事到着。お疲れさんでした!
 さて、ここまで読んだ方たちはどう思われただろうか? 「こんな旅行なら行きたくない!」か、それとも「おもしろそう、行ってみたい」か?

   写真は向かいのホテルの屋上で水の入ったバケツを持っている外国人旅行客
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ネパール王虐殺の跡

2009-04-20 | ネパール旅行その2
 3月9日「第8回ヒマラヤの集い最終日・自由行動日」である。
 夕べから風邪気味でノドが痛くて調子が悪い。朝食後は横になって休む。
 10:00、日本人だけ11人が若いネパール人エスペランティストの案内で公開されたばかりの国立ナラヤンヒティ王宮博物館へ行く。ネパールは去年の5月に王制を廃止し、当時の王ギャネンドラが6月に退去した宮殿を公開したものである。
 一般の関心も高いようで、11時の開館を前に長い行列が出来ている。外国人の入場料は500ルピー(約630円)とネパールの物価水準からすればずいぶん高い。その代わり、我々は並ぶ必要がなくて開館と同時に入場できる。ネパール人の場合は100ルピー(学生20ルピー)である。少し時間があったので近くを散歩して、喫茶店でコーヒーを飲む。
 2001年6月、この王宮で当時の国王はじめ9人の王族が射殺されるという凄惨な事件が起きた。最後に自殺した皇太子が犯人とされたが不可解な点が多く、実際には王の弟でその後に王となり、去年退位したギャネンドラが真犯人だったという説もある。ただし、ギャネンドラ自身は当時ポカラの別荘に滞在していて実行犯ではないようだ。ネパールのエスペランティストに聞いたら「私もギャネンドラが真犯人だと思う」という返事だった。
 この元王様は現在はカトマンズ郊外に暮らしている。不動産、ホテル、茶園業を営む実業家で膨大な個人資産があり、退位しても生活には全く困らないということである。現在のネパール指導部の一部にはその財力をネパール発展のために投資してほしいという期待もあるという。
 王宮内は撮影禁止で、カメラや鞄を入り口で預けて入場する。虐殺事件のあった建物は取り壊されて基礎部分だけが残っているが、周辺の建物の外壁には弾痕が残っている。庭園はあまり手入れがされていなくて少し荒れていた。宮殿内は国賓を迎えるためのきらびやかな部屋々々や国王の個室などが見学できた。たくさんの調度品や外国政府からの贈り物なども展示されていたが、たぶんとくに貴重なものは元国王によって持ち去られてしまったのではなかろうか?
 ホテルに戻って昼食。午後はネパールに何回も来ているAさんの案内で郵便局へ。いろんな切手を買う人もいたが私には興味がない。配達制度がないということで、数千の私書箱が並んでいるのは壮観だった。さらにお茶やスパイスの店へ。ネパール人の買う店なので安く買うことが出来る。歩き回って疲れてしまった。
 街を歩いていると子供たちが水の入ったビニール袋をぶつけ合っている。建物の2階や3階からも降ってくる。明日のホーリー祭(水かけ祭り)の前哨戦だという。
 夜は最後の行事、交流会である。ホテルの屋上にテントで屋根をかけた会場は、近所のレストランの音楽が響く。マイクもなく、挨拶などはほとんど聞き取れない。何人かの挨拶や報告の後は音楽が続き、我々も「大きな栗の木の下で」をエスペラントで歌った。日本人によるオークションは会場の条件が悪くて、少し後ろにいると何をやっているのか分からない。数人のネパール人にたたき売りをしているような状況になっていた。私が提供したドライバーセットが250ルピーで最高だったとか。
 まだまだプログラムは続きそうだったが、風邪が抜けないので部屋に戻った。

   写真は旧王宮
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最後まで石段登り

2009-04-18 | ネパール旅行その2
最後まで山登り
 3月8日、ほぼ全ての日程が終わって、この日はカトマンズに帰る。
 早朝に、熱い湯が出たのでバスタブに湯を張ってネパールで最初で最後の入浴。屋上に上ってみたが、朝日に輝くアンナプルナ南峰がわずかに見えるのみ。
 7:00朝食。ラフティングの話は立ち消えになったのかと思っていたが、ヨーロッパの人たちだけで早立ちしていった。
 9:00大型バスで出発、しばらく走って、どこかの街でバスが接触、左のバックミラーが壊れてしまった。11時頃、洞窟に行くというのでバスを降りる。すぐ近くだというが、確かめると30分ほど歩くという。あわてて草履を靴に履き替える。
 洞窟へは急な石段を登る。そんなに登るとは思っていなかったのだが、ほとんど永久に登るのかと思うほど登る。標高差で300mに近かった。予期しない登りでペース配分がうまくいかず、少々バテ気味になってしまった。
 やっとついた洞窟は鍾乳洞の一種で奥行きが700mほどあるらしい。奥の方にはしごがかけてあったくらいで、照明など人工的な設備は全くない。ガイドのランプを頼りに中に入る。鍾乳石などには見るべきものはあまりないが、真っ暗な洞窟を探検するのはおもしろかった。
 洞窟から下りて、少し歩いたら来たときと同じレストランがあって、ここで昼食。昼食後少し走って、ラフティングの人たちが合流。壊れたミラーは直っていた。カトマンズに着いたのは7:30頃だった。明日は「自由行動日」で、夕方に最後の交流会である。

   写真は鍾乳洞の中で見たカエル。カメラのフラッシュにも微動もしなかったから眠っていたのか、それとも目が退化しているのかもしれない。
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ネパールのカーストなど

2009-04-15 | ネパール旅行その2
 コメントで少し話題になったので少しだけネット検索で調べてみた。簡単にまとめると「簡単に一言で言うことは出来ない」ということになる。まずネパールは多民族国家である。大学でネパール語を教えているという人に会ったことがある。地方では民族語を話しているので、大学に入ってもネパールの公用語を話せない学生がいるというのだ。
 カーストは民族ごとに特徴を持っているので、ネパール全体でひとくくりには出来ない。以前ネパールの人が「大都市ではカーストが消えつつある」と言っていたが、少数民族の住む地方と大都市では確かに様子が異なるようだ。
 インド同様、「不可触賤民」といわれるカースト外の被差別民も存在する。このブログの山の2日目の記録に「この村に住む人たちは低いカーストに属していて、井戸なども他の人たちとは別々なのだとか。」という記述があるが、この人たちがこれにあたるようだ。男たちは出稼ぎに出ているというので、やっぱり兵士かと聞いたら、彼らの職業は兵士ではなく金属加工だということだった。カミとよばれる人たちで、丘陵地帯全体に散在している鍛冶職人の集団である。
 カーストとの関わりはよく分からなかったが、グルム(グルン)族の職業が兵士だというのはイギリスが傭兵として使ったのがその始まりのようだ。ただし、ネパール自体は植民地を経験していない。
 3年半前にネパールを旅行したとき、チトワン国立公園近くの低地に住む人々(タルー族)の村を訪れた。インドから農耕をもたらした民族で、ネパールでは差別的な扱いを受けているということだった。ネットで調べたらカースト内の最下層(不可触賤民の上)だということである。実際の生活はともかく、低地なので山岳地帯の棚田よりははるかに豊かな農地が広がっていた。
 タルー族とは別に、このインドと接する肥沃な平原地帯に住むマデシと呼ばれる人々があり、それ自体で独自のカースト体系を持ちながら、全体として差別されている。近年、差別撤廃や自治を要求する運動が活発化し、人口の半分近くを占めることもあって議会にも進出するなど大きな力を持ち始めている。同じ地域に住むタルー族との軋轢もあるらしい。
 以上、一夜漬けで調べたレポートである。ネットを使ってチャッチャッとレポートをまとめる最近の大学生の気分? ネパールについて詳しい方がおられたら、間違いを直して、新しい情報を付け加えてほしい。

   写真は見事な棚田。こんな風景がどこにでも見られる。
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ポカラ1日観光

2009-04-13 | ネパール旅行その2
 3月7日、ポカラ観光。
 ポカラは3年半前、エスペラントアジア大会の大会後観光でも来たところである。このときはアンナプルナのほとんどの山は雲に隠れていたが、マチャプチャレのピラミダルな姿をはっきり見ることが出来た。早朝にホテルの屋上に上ってみたが、今回はモヤの奥にうっすらと見えるだけだった。
 昨日着いたときに、ホテルの近くで子供たちが卓球をやっていた。石で作った台の上に石を並べてネットにしたものである。みんな結構うまい。早朝に散歩したら、もう卓球が始まっていた。
 ポカラにはフェワ湖という大きな湖があって、湖畔はホテルが並ぶ観光地になっている。周囲の山が湖に映って美しい。
 朝食後かなりの時間待たされて、バスでポカラ観光に出発。まず小高い山の上にある日本山妙法寺。バスから降りて、ほこりっぽい道をかなり登った。寺といっても中心は真新しいパゴダである。ルンビニの公園でも同じものを見た。頂上からのアンナプルナの山々の眺望がすばらしいところなのだが、わずかにかすんで見えるだけだった。
 次はグブテシュワール・マハーデヴの洞窟。地下に小さな寺院がある。その後ろに小さな鍾乳洞があり、一番奥にこの洞窟に流れ込む滝がある。3年半前に来たときは雨期のために水が多くて入ることが出来なかった。洞窟から出て道路を渡った反対側にバタレ・チャンゴとよばれるその滝がある。今回は水量が少なくて迫力がなかった。この周囲には見事な甌穴がいくつか見られる。滝の落ちるところ自体が巨大な甌穴かもしれない。
 ホテルに戻って昼食、午後はビンドゥバシニ寺院。市街地にある小高い山の上、小さなヒンズー寺院である。
 次はセディ・ガンダキ。幅が5mくらいで深さが50mもある谷に橋が架かっていて、上から見下ろす。橋と平行に幅1.5mくらいの水量の多い運河があって、この運河の水も谷底の水もミルクのように真っ白である。氷河が石灰石を削って流れ出したものだとか。
 最後にフェワ湖に出てボートで湖上の小さな島にあるバラヒ寺院というヒンズー寺院へ。ボートでもう少し湖上散策をしてみたかった。
 ホテルに帰ってお茶を飲む。元気のいい人は貸し自転車で街へ。
 カトマンズ在住のデンマーク人が、明日カトマンズに帰る前にラフティング(川下り)をしようと呼びかけている。あ、おもしろそう、と思ったが、日本人たちの反応はあまり良くない。結局どうなったのか分からないままに忘れてしまった。

   写真は朝のフェワ湖
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トレッキングコース概観

2009-04-11 | ネパール旅行その2
 5日間の山の行程を大雑把に整理すると、
 初 日 登り1,300m
 2日目 下り200m、登り100m、下り300m
 3日目 下り400m、登り800m、下り400m
 4日目 下り800m、登り500m
 5日目 登り200m、下り800m
 合計 登り約2,900m、下り約2,900m。かなり大雑把な数字ではあるが、これほどの上り下りを歩くとは思っていなかった。
 今日の写真は村々に必ずあった看板である。この黄色く示されたトレッキングコースをたどったわけだ。2つの川を渡っているが、そのたびに谷底に下りなければならない。3日目と4日目の下りがそれである。この道が村人たちの日常的な生活道路だというのも驚きである。
 ヒマラヤの一角アンナプルナの山々の地域の最南端で、天候がよくてもそれほど大きくは見えないようだ。それよりも、ネパールの少数民族の生活と文化に触れながら歩くというのがこのコースの特徴である。あまり外国人観光客が来ないコースだというのもうなずける。ネパールは観光立国である。こうした、先進国が失いつつある生活を観光資源とするのは理解できる。実際、環境問題や無農薬野菜作りに取り組んでいる人などには、この「持続可能な」生活は興味深いであろう。もっと注目されてもいいコースかもしれない。まだあまり観光化されていないから、山岳民族のナマの生活を体験できる。
 村人たちはみな親切である。「ナマステ」と元気に挨拶をしてくれる子供たちもとてもかわいい。この子供たちも観光資源の1つかもしれないと、ちょっと意地悪く思う。
 「エコツアー」といった興味深い一面を持つだけに、エスペラントを仲立ちにもっと村人たちと交流が出来たらよかったという思いが残った。
 ちなみに「ナマステ」というあいさつは「南無阿弥陀仏」の「南無」と語源を同じくしていて、「あなたのすべてを認めます」「あなたの神へ私の神から挨拶します」といった意味があるらしい。ヒンズーを中心にするネパールの宗教・世界観は寛容さをひとつの特徴としているように思う。
 歩いていて気になったことが1つある。道がゴミだらけなのだ。家畜の糞だけではなく、飴や菓子の袋が大量に落ちている。少し前まではたぶんゴミはすべて自然に帰っていったのであろうが、簡単には自然に帰らないゴミが急速に増えた結果ではないかと思う。我々一行でも、ネパール人たちは気軽にゴミを捨てている。捨てられずに持って歩いているのは我々外国人だけである。村人の生活にもいろんな形で「文明」が入り込み、それによって新しい問題が引き起こされる。彼ら自身がゴミ問題に気づくときが少しでも早く来てほしいと思う。
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山から下りて都会へ

2009-04-09 | ネパール旅行その2
 3月6日、山の最終日である。
 朝は6時頃に起床。北方の山の間から白い山が少しだけ見えていた。少し村の中を歩いてみた。わずか数十軒の小さな村である。通過している街道以外の道はすべて個人の家で行き止まりになっている。
 朝食後すぐに出発。いったんかなり登る。朝見えていた山が一層大きく、しかしモヤでうっすらと見える。マチャプチャルの鋭い三角形の山容もわずかに見えていた。山を越えて、今度はどんどん下る。標高1,000mくらいのところで自動車の通れる広い道に出た。あと10年もすれば山頂の村にも車道が出来るだろうと、ネパールの人が言っていた。深いホコリの道をさらに下る。
 川に出てしばらくすると今日の昼食の場所に着いた。いくつかの売店と食堂があって、登山客の基地になっているところらしい。靴を脱いで川に入る。冷たい水が気持ちいい。ネパールのエスペランティストの1人が体と着ている衣服を石けんで洗っていた。バスが川をジャブジャブ渡ってきたのには驚いた。
 昼食は焼きそば、ご飯、スープ、野菜のカレー煮、それに揚げ魚がおいしかった。
  1:40頃になってバスに乗り始めたが、ここで初めてCさんがいないことに気づいた。騒いでいるとDさんが何を考えたのか1人で飛び出していった。路線バスなのでいつまでも待たせておく訳にはいかない。何人かのネパール人とC・Dを除くメンバーはとりあえず出発。まず川を渡り、1kmほど走って、今度は本流の川をやっぱりジャブジャブ渡るとバスターミナルがあり、ここにCさんがいた。みんなが集まっていることに気づかずに通過しまい、このバスターミナルで聞いた情報を元にさらに45分も歩いて戻ってきたという。
 こういう場合、最後尾でないのだからどこかで立ち止まって後続を待つ、あるいは分かれ道まで戻ってみるというのが原則である。この日は他にも途中で道を間違えた人がいた。
 さらにカメラをなくした人がいたが、なくした本人よりもカメラそのものが先に食堂に到着していたという珍事もあった。はっきりしないが、どうも地元の人が届けてくれたものらしい。外国ではなくしたカメラが届けられるというのは珍しいのではないかと思う。
 他の乗客は別のバスに乗り換え、我々は電話で連絡を取って、残った人たちが歩いてくるのを待つ。バスは貸し切りバス状態になって、ネパール第2の都市ポカラへ。5:00頃にホテルの前に着いた。
 夕食はトマトスープ、焼きそば、チャーハン、鶏肉、野菜の煮物等々、山での素朴な料理に比べてさすがにプロの料理人の料理である。どれもおいしく、ビール・コーヒーもおいしかった。

   写真は棚田を横切っていく「街道」
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移動動物園の夜

2009-04-07 | ネパール旅行その2
 3月5日、山歩き4日目。
 夕べはなんだか暑くて寝苦しかった。夕方は急速に冷え込むので沢山着込む。しかし夜や朝はそれほどには冷えないので、そのまま寝袋の中に潜り込むと暑いことがある。寝袋は持参である。どうしても必要だというわけではないが、布団が清潔でなかったりするから持って行った方がいい。山小屋では寝袋が用意されるということだったが、今回の旅行ではなかった。
 夜中、犬が吠えて走り回っていた。遠くの犬と呼び交わしていたらしい。
 朝食は炒り卵、フライドポテト、シリアルとヤギのミルク。カレー中心のネパール食と違うので新鮮に感じてしまった。
 8:30頃出発。またまた石の階段をどんどん下る。体調はもうすっかり回復していた。800m以上も下りてやっと谷底に着いた。しばらく畑の間の道を歩いて再び登りにかかる。300mほど登ったところに保育園があった。一緒に写真を撮ったりして、出発すると大歓声で送ってくれた。さらに少し登って昼食。今日もひどく暑い。ペットボトルが空になったので沸かし湯を補充。
 食後に幼稚園児2人による踊りが披露されたが、もう出発してしまった人もあって、我々も適当に切り上げる。ここからさらに少し登って、あとは軽いアップダウンのある山道を行く。4時少し過ぎにちょっとした売店に到着。お茶が出たが、なぜここにとどまっているのか分からないままにしばらく休憩。気の短い人はすぐにイライラしている。
 どこでもそうだったが、村人が沢山集まってくる。老人・女性・子供がほとんどで、花輪や額につける米で歓迎してくれる場合もあるが、ただ我々を見物に来るだけといった様子の場合もある。我々はいろんな人種で構成された移動動物園のようなものかもしれない。
 ここから村を1つ通り抜けて、20分ほどで次の村 Pakhurikot に着く。今日の、そして山での最後の宿泊地である。標高は1340mくらい。
 ここでも民家に分宿で、私はAさんと2人で12、3才の少年について行った。宿泊先の家に着くと、真っ暗な部屋で小さな豆電球を頼りにおじいさんと少年がバタバタと準備を始めた。すごいほこりが部屋の外にまで漂ってくる。あとで聞いたら、おじいさんの一人暮らしでふだんは掃除もしていないという。狭い部屋は1、2階に分かれていて、狭い階段を上って私は2階へ。Aさんはこんな部屋で寝るのは嫌だから外で寝るんだという。結局彼は他の家の2人部屋に潜り込んだ。
 トイレの場所を聞こうとしたが言葉が全く通じない。ネパールのエスペランティストに手伝ってもらう。トイレは個人の家にはなくて、少し離れた場所に共同のものがあった。Bさんは近くの畑でやった方が気分がいいといっていたが、トイレ自体は清潔だった。
 9時近くなって夕食。食後にまた歌と踊りがあったが、疲れもあって部屋に戻る。よく見ると1階の、Aさんが逃げ出した部屋の天井から無数のクモの巣が垂れ下がっていた。2階の私のベッドのすぐ上にも巨大なクモの巣があって、部屋にあった棒で取り払った。

   写真はAさんが逃げ出した寝室。私は奥の階段を上って2階へ。
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英語はやっぱり国際語

2009-04-05 | ネパール旅行その2
 3月4日、山歩き第3日(続き)。
 出発を待っているとき、3~4歳くらいの男の子がしきりに何か話しかけてきた。「君が何を言っているのか分からないんだよ」などとエスペラントで対応する。
 9時20分頃やっと出発。町を通り抜けていくのだが、町自体が急な斜面にあるので、町はずれでは既に100m以上も下りている。ここまであの男の子がついてきた。そのまま一緒に行くんだとがんばっているらしい。道はこれからどんどん下っている。困っていると近くの民家の人が連れに来てくれた。抱かれて連れて行かれるときには大泣きしていた。
 対岸に水量は多くないが落差のある滝が見える。石段をどんどん、標高差で300m以上も下りて谷についた。川を渡った対岸には日本の援助で作られた小さな水力発電所があった。石で作った棚田の中を歩く。横から見るとまるで溶岩流のように石が重なり合って見える。
 そしてまた急な登りである。夕べの下痢のせいで少々しんどい。よく晴れて日差しが強い。一気に日焼けしてしまった。標高差で800mほど登って、1時半頃に峠に到着(2,100m)。暖かくて気持ちのいい場所である。ここでポーターを待って昼食にする。リンゴ・チャパティ・ゆで卵。約1時間の休憩。
 ここからはゆったりした下り坂である。しばらくして今日の宿泊地 Pasgaun のはずれにある学校に着いた。写真を撮って見せたら、子供たちの手が争って伸びてきて、カメラがいきなりおかしくなってしまった。スイッチも切れず、何をしても反応しない。あとで電池をいったん抜いたら元に戻った。
 16;00頃、村の集会所に到着。標高1,670mくらい。最初の予定通りに昼食をとってから歩き出していたら最後の人は夜になってしまうところだった。
 着いてすぐにヒツジ肉・豆・ジャガイモ・小型のチャパティ2枚(粉を焼いたもの)のおやつが出た。まだ何となく調子が悪くて半分しか食べられなかった。
 ここでも民家に分宿である。楕円形平面の母屋があり、我々は別棟の客間に寝る。なんだか日ごとに部屋が悪くなっていく気がする。家畜小屋に水牛と牛がいて、他にヤギ・鶏・ハトなどもいる。ハトは食べるんだろうか? 母屋の小屋根の上にミツバチの巣があり、家の周囲には脱穀するための臼、石臼、糸つむぎなど様々な道具があった。
 英語の出来る人が現地の人と話して内容を教えてくれた。エスペラントの国際行事で英語だけが機能するというのは皮肉な現象である。この旅行ではネパールの少数民族の生活に触れることが目的の1つだったから、ネパールのエスペランティスト(9人が同行していた)がもっと積極的に交流の仲立ちをしてくれたらよかった。今回の「ヒマラヤの集い」でいちばんの問題点がこのことだったと私は思う。
 夕食は食欲もなかったが、美味しくもなかった。最初は地面に食べ物を並べたが、こんなところでみんなが食べ物を取りに歩いたらホコリだらけになってしまう。ネパールのエスペランティストたちも気づいたのか、あわてて机を出してきた。夕食後にまた女性たちの歌と踊りがあったが、早めに部屋に戻って寝た。

   写真は泊まった家の母屋。屋根の上の樽のようなものがミツバチの巣。
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水とトイレ

2009-04-03 | ネパール旅行その2
 3月4日、山歩きの3日目である。
 夕食の何かが障ったのか、夕べは突然の下痢に襲われてトイレに2回起きた。ネパールのトイレはどこも清潔だった。カトマンズとポカラのホテルでは洋式、村では東南アジアに多い日本式に似たトイレ(写真)である。後始末は水を使い、原則として紙は使わない。使った場合はゴミとして処理する。カトマンズではインドでも見た小さなハンドシャワーがついていた。
 初めて紙を使わないトイレに出会ったのはベトナムだった。このときはなかなかなじめなかったが、その後ネパールやインドで慣れてきた。今回はもう何のためらいもなく使うことが出来た。ネパールからの帰り、香港で乗り換えるときにトイレを使ったが、体を洗う水がない! 誰かが「もうここは文明国だから」と言ったが、ネパールの人たちがもしこのトイレを使ったら「紙で拭くだけなんて気持ちが悪い、なんて非文明的なんだ!」と思うかもしれない。
 この地方はもう5か月も雨が降っていない。乾期とはいえ今年は異常だということだったが、水はどこでも、山の頂上の街でさえ豊富に使えるようだった。
 山登りのはじめに「生水は飲むな、旅行中はミネラルウォーターを買える。または沸かし水を飲め」という注意があった。この朝、ミネラルウォーターを買いに街を歩いた。店は2つ見つかった。しかし、コーラやファンタはあってもミネラルウォーターは売っていない。水は豊富だから地元の人は買わないし、外国人観光客はめったに来ないだろうからミネラルウォータは必要ないのだろう。結局山の村ではどこでも沸かし湯をもらう以外になかった。
 朝6時頃、正面に白い山が割にはっきり見えていた。ラムジュンという山らしい。次第に朝日が当たってオレンジ色に輝き、そしてモヤがだんだん濃くなっていく様子を7時半頃まで眺めていた。この旅行で山がいちばんよく見えたひとときだった。
 朝食は昨日と同じ場所。大人たちはもう仕事に出ているのか、かわいい女の子が世話をしてくれた。このあと、彼女は外に出てきて勉強をはじめた。家の中はくらくて本が読めないのだろう。
 「ホテル」の前に集合。着飾った少女2人が踊りを披露してくれた。
 今日は昼食を食べてから出発して、夕方6時到着予定だという。途中にレストランがないからだと。少し遅れたら暗くなってしまう、各自が食べ物を持って行けばいいではないか。話し合った方がいいなと思っていたら、いつの間にか9時出発に変わっていた。昼食弁当はポーターに持ってもらうことになっていた。

   写真はどこにでもあった水洗トイレ。左上の青いバケツが洗浄用の水である。
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無農薬茶と蜂蜜と

2009-04-01 | ネパール旅行その2
 3月3日、山歩き2日目である。今日は比較的楽な行程ということで、朝食後後ずいぶんすぎてから出発。こういう時の出発時間があらかじめ分からない。聞いてもあいまいな答えしか返ってこない場合が多い。出発前にお米を額につけて花輪を掛けてくれるセレモニー。この先も行く先々で村人たちによる同様の歓迎・歓送が行われた。
 30分くらいで一つ小さな村を通過して、さらに30分くらいで次の村へ。天候さえよければ展望のいいところのはずだったが、ガスが濃くて全く何も見えない。
 この村に住む人たちは低いカーストに属していて、井戸なども他の人たちとは別々なのだとか。以前ネパールのカースト制度について聞いたことがあるが、インドほど複雑ではなく、都市部では意味を失いつつあるという答えだった。それでもしっかり根付いた制度のようだ。
 通過した村に戻って昼食休憩。ここで2時間半くらいも休んだ。こんなに大勢の人が一度に来ることはめったになく、家庭の台所程度の厨房で料理をするから時間がかかる。なぜ朝ここを通ったときに注文しておかないのかとみんな怒っていた。いつ出発できるのかを気にしないでのんびりするのは、とくに旅行中の日本人には難しい。時間があったので日本人だけ集まって最終日の交流会のために歌の練習をした。
 ここからはほぼ水平に近い山道で山を回り、最後にまた石段を500mほど下って、2時間ほどで今日の宿泊地 Bhujung に到着。標高は1,660mくらいである。この標高は私のスポーツ時計に拠っているが、気圧を基準に高度を測定しているので数十mの誤差は避けられない。韓国の女性がしばしば私に「いまの高さは?」と聞いてメモをしていた。この時計がいちばん役に立つのは街の中を歩いているときである。コンパスの機能もあるので、迷ったときに方向が分かる。
 いったん集会所のようなところで休憩。ずいぶんたくさんの女性たちが歓迎してくれた。米を額に貼り付け、花輪は10本以上もかけられた。さらに少し歩いて「ホテル」へ。ここだけでは全員が泊まれなくて、私は他の4人と別の家で泊まることになった。
 ここはいままでの村に比べて規模が大きく豊かな感じがする。比較的若い男性の姿も見える。出してくれたお茶は地元の無農薬茶、キビ(?)で造った焼酎も出してくれた。燗がしてあって日本酒に似た味がする。
 夕食は5人でこの家のダイニングキッチンで食べた。板張りの床には隙間があって、下に家畜がいる。机はなく、食器は床に置く。宿ごとに同じ材料・同じメニューで夕食を作るが、味はそれぞれに違うという。ここは美味しかった。チャパティというパンに付けるハチミツが美味しく、ヨーグルトやジンジャーティーも出してくれた。翌日の朝食では10歳くらいの女の子が慣れた手つきでショウガを叩きつぶし、お茶を出してくれた。
 夕食後、また「母親たちのプログラム」を見に行く。100人以上の村人たちが集まって、歌と踊りに興じる。我々を巻き込もうと努力してくれるが、なかなか飛び込めない。それどころかいままで見てきた歌・踊りと似ているから飽きてきた。ネパールのエスペランティストも一緒になって楽しんでいるが、この村の生活や習慣、歌や踊りの意味などを少しだけでも解説してくれればよかった。みんな次々に宿に帰っていく。会場が寒くなってきたので我々も途中で失礼した。

   写真は食事をいただいた部屋。
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少数民族の村で

2009-03-30 | ネパール旅行その2
 Khudi を出発したのが8:30、「食堂」に着いたのが11:00頃だった。食堂といっても普通の民家と変わらない。このあたりはガンコハラ・バーチェというところで、住んでいるのはグルム族という少数民族である。この先ずっとグルム族の村から村へと歩くことになる。村人たちが集まってきた。老人と女性が多い。若い男性の多くは出稼ぎに行っている。伝統的に軍人が多く、海外に出ている人も多いという。
 食事がすんで出発するのに2時間半以上かかった。この先いつもそうだったが、我々が着いてから料理にかかるから、どうしても2時間近くかかるのだ。村の女性たちが集まって花びらの首飾りを作っていたが、やがて歓迎のセレモニーが始まった。真っ白い米に水を混ぜて少しつぶしたようなものを頭から振りかけ、額に貼り付け、最後に花輪を掛けてくれる。帽子を被っていてもお構いなしで、帽子に白いシミが出来てしまった。
 やっと出来上がった食事は野菜のカレー、ヤギ肉を煮込んだスープとご飯。けっこう美味しかった。食事のあとは太鼓を持ち出して歌と踊りが始まった。引っ張り出されて踊らされているエスペランティストもいたが、休憩時間が長すぎて皆さん早く出発したがっている。
 1:45、やっと出発。2,000mくらいまで登って尾根に出ると石の階段が消えて普通の山道になった。段々畑も消えて、こうなると日本の中・低山歩きと全く変わらない。道沿いによく肥えたワラビが群生していた。日本人たちがかなり採ってきたが、ネパールでは食用にしないという。灰でアク抜きをしてゆでてもらったが、日本のワラビと全く変わらない。ワラビの根には毒がある。日本ではこんなものまで苦労して毒抜きをして食べたが、ネパールではそこまで困窮することがなかったのだろうか?
 山を登り切ったところで目の前にサッカーの出来るグランドと学校が現れ、そのむこうにかなり大きな集落が見えてきた。今日の宿泊地 Ghale gaun である。ちょうど放下になったところらしく、数十人の子供たちが下りてきた。数人で学校を訪問。5年生が6人残って勉強していた。持ってきたボールペンやテニスボールを贈った。すぐ横の丘から、今朝出てきた Khudi の集落がはるか下に見えた。
 村の集会所に集まると、ドーナツのような揚げ物、野菜の炒め物と甘いお茶のおやつが出た。ここで2~4人ずつにわかれて分宿である。それぞれの家のお母さんが我々を案内してくれた。部屋に招いてお茶やゆで卵を出してくれたところもあり(翌朝にお金を請求されて一騒ぎになったが)、我々のところのようにほとんど家の人とは顔を合わせなかったところもあった。しかしシャワーのあったところはどうやら我々の家だけだったようだ。シャワーといってもひどくぬるい。あとで見たら太陽温水器の水だった。
 夕食は集会所で。あまりおいしくはなかったが、あとから出た卵焼きがおいしかった。
 交流会が始まり少し歌なども出て、日本人も「故郷」を1番だけ歌った。そのあと地元婦人たちの歌と踊りが続いたが、観光客を楽しませるのでなく、自分たちだけで楽しんでいる感じである。ネパール人エスペランティストたちも一緒に楽しんでいる。とくに踊りの型が決まっているわけではないらしく、音楽に合わせて思い思いに踊ればいいらしい。我々「外国人」たちは同じような音楽と踊りが続くのにいい加減飽きてきて、適当なところで切り上げて宿に帰った。

   写真は我々の泊まった民宿。右が母屋、真ん中が我々の「客間」、左は家畜小屋。
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石の文化

2009-03-28 | ネパール旅行その2
 3月2日、いよいよ今日から山登りである。今日は標高840mから2,100mへ、約1,300mの標高差を登る。荷物の大部分をポーターが持ってくれることになったが、サブザックを持っている人はほとんどいないから防寒用の衣類や水など最低限の荷物だけを肩掛け袋などに入れて持って行く。ポーターたちは1人30kgほどを担ぐという。大きなかごにザックを3~4個詰めて、額にヒモをかけて担ぐ。
 初めは緩い傾斜の段々畑を左右に見ながら、車の通れる道をゆったりと登っていく。雪に覆われた山がモヤのむこうにうっすらと見えた。この集いに参加した人たちはまず第一にヒマラヤの山々の大展望を期待していた。しかし、このあとも真っ白い峰々は春がすみのむこうにうっすらと見えるだけだった。今回の「ヒマラヤの集い」での最大の期待はずれが「山が見えない!」であった。
 ヒマラヤを見るにはもっと早い時期(10~12月くらい)に来るのがいいという。なぜもっと空気のきれいな時期に「ヒマラヤの集い」を企画しないのか? あるネパール人エスペランティストに聞いたら「寒すぎるから」という答えだった。しかし、今回参加した人の多くが「もう一度、もっと山のよく見える季節に来たい!」と思ったことだろう。
 さて登山道はやがて急な石段になる。実にていねいに作られた石段の道が延々と続く。これはいわゆる観光用の登山道ではなく、生活道路であり、次の村に続く街道でもある。大人だけでなく、小さな子供も、牛やヒツジなども歩く道なのだ。段差が最大でも20cm程度である。これは私のように膝に不安を抱えるものにはとてもありがたかった。とくに下りの時の膝に与える衝撃がずいぶん軽くすむのである。
 我々が歩いたこの地方はうすく割ることが出来る石を豊富に産出するらしい。どこへ行っても石で造られた道、石で造られた家、屋根瓦も石である。雲母を含む石が多く、夜に光を当てるとキラキラと美しく輝く。
 登っても登っても段々畑が続き、農家が現れる。人間というのはたいへんなところに住んでいるものだ。家畜も歩く道だから、所々に大きな糞が落ちている。古いのもあれば新鮮なものもある。30人ほどの一行は、先に立ってどんどん行ってしまう人もあり、あとからゆっくり来る人もあってバラバラになってしまった。標高が1,500mを超えたところで学校があった。村人がこっちへ来いという身振りをしている。何のことか分からない。石段の道はまだまだ先へ続いている。私を含めて4人ほどの日本人しかいない。先を急ごうかとも思ったが、村人の様子が何となく気になるので、後続の人たちを待つことにした。
 しばらくして若いネパール人エスペランティストが来て、村人が食堂を教えてくれていたことが分かった。ここから道をそれてしばらく行くと「食堂」があって、先に行った人たちが待っていた。このあとも同様のことがあったが、「分からなくなったら立ち止まって後続を待つ」これが鉄則である。この分かれ道がわからずに直進してしまった人もいた。

   写真はこの日の登りはじめ
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カトマンズから山麓の村へ

2009-03-25 | ネパール旅行その2
 3月1日、いよいよ今日から山へ行く。朝食は予定通り7:00からだったが、出発は予定を1時間半遅れて9:00。2台の小型バスに分乗する。参加者は日本から12人、韓国4、デンマーク3、ドイツ2、インド1、ネパール9人である。
 「山でも荷物は自分で持つ」というのが事前の情報だったから、最低限必要なものだけを持って、残りはホテルに預けておく。ところが大きなボストンバッグを持って行く韓国人がいる。え? あんなの持って山に登るつもりなんだろうか? と思っているうちにバスが走り出した。
 バスはポカラに向かう国道を走る。カトマンズは標高が1,300mを超える盆地である。ここから陸路で出るには必ず峠を越える。ところが郊外にも出ないうちに大渋滞に巻き込まれた。車が全く動かない。3年半前に来たときに比べて車がずいぶん増えている。対向して走る大型車が互いに道をゆずらなかったのが渋滞の原因らしいが、郊外に出るまでに2時間以上もかかった。
 峠を越えてからも時々渋滞した。石などを積んだ大型車が超スローペースで峠を登ってくる。道路は以前よりもかなりよくなっていて、峠道を猛スピードで走るときのスリルをそれほど感じないですんだ。
 峠を越えると山の斜面いっぱいに見えてくる段々畑に圧倒される。2時過ぎにレストランでネパール食の昼食。
 途中でポカラへの国道から分かれ、最後の約6kmはものすごいデコボコ道。ここは以前は歩いたところだとか。6時頃に Khudi という集落の「ホテル」到着。粗末な建物が並ぶが、部屋には一応ベッドがある。このあとの宿舎に比べればここは立派な「ホテル」であった。標高は840mくらい。2,000mくらいの山に囲まれているが、それらの山の中腹にも集落が見える。
 食堂でミネラルウォーターを売っていた。誰かが30ルピーで買ったという。私も買おうとしたら、かわいい女の子が「40ルピー」という。「え? 30ルピーじゃないの?」「じゃ、それでいいです」
 ここまで来て、荷物は全部ポーターに持たせるといわれた。参加者たちは歩いているときに必要な最低限のものだけ持って、残りは全部ポーターが持つというのだ。もっと早く連絡してくれればもう少し持ってきたいものがあったのに!
 実際に歩いてみたら予想をはるかに超えてアップダウンが激しく、ポーターがありがたかった。今回はこうした情報不足が他にもいくつかあった。

   写真は「ホテル」の食堂にて
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買い物の醍醐味?

2009-03-23 | ネパール旅行その2
 今日の写真は世界エスペラント教会の月刊機関誌「Esperanto」4月号。ポカラのフェワ湖上に浮かぶバラヒ寺院の前で撮った写真が表紙を飾っている。

 2月28日、カトマンズ観光の2日目である。
 絵はがきを書いたので切手を手に入れなければならない。ホテルにはポストがあるのだが切手はない。近くで売っているというので探したが、開いてない店も多くて分からない。地元のエスペランティストに聞いたら、投函してくれるというから渡しておいた。あとで「他の人に頼んだから少し余分に出してくれ」と22枚のハガキに10ドル払った。3年半前にも同じようなことがあった気がする。
 今日の遠足は、カトマンズの街を見下ろす山の上に立つ「モンキー寺院」スワヤンブナートである。前に来たときは何かのお祭りだとかでたくさんの人でごった返していたが、今回もお参りの人が長い列を作っている。これはいつものことなのだが、土曜日は特別に人が多いのだという。
 あとで知ったことだがネパールでは土曜日が休日で、日曜日は仕事日、学校も休みにならないのだ。切手の店もこの日は開いていなっかた。旅先なので私には曜日についての感覚が全くなかった。
 次いでダルバール広場。カトマンズの中心部に近い、旧王宮と古い寺院の集まった一角である。ここは観光客も多く、観光客目当ての物売りも多い。女の人たちが寄ってきて、きれいな刺繍の袋を「ジュウマイデセンエン」という。誰かがが興味を示すと11枚でも1,000円でいいという。さっそく何人かが買っていた。チャック付きのポケットが2つあって、手提げ用のヒモが着いているから使い勝手がいい、おみやげに絶好だというわけだ。ところがすぐあとに別の人たちが「ニジュウマイデセンエン」「ニジュウゴマイデセンエン」と言ってくるではないか! さらに25枚を1,000円で買った人もいたようだったが、11枚を買ったある人は「そんなに沢山あっても仕方がないからいいのだ」と言い張っていた。
 午後はバクタプル。ここも昔の王宮と古い寺院が集まった古い町の1つで、いままででいちばん大きい。同じような街をいくつか駆け足で見るよりは一カ所でじっくり歩いてみたいと思うが、そのためにはもっと少人数でもう一度ネパールに来なければならない。
 街路が市場のようになっていて人混みの中を全員が一緒に歩いた。街の入り口付近に集合してさあ帰ろうという時になって、1人が行方不明になっていた。どうやら途中ではぐれてしまったらしい。あの人混みの中だから責められない。何人かが探しに行って見つかったので大事にはならなかったが、30分ほど待たされた。
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