エスペラントな日々

エスペラントを学び始めて22年目である。この言葉をめぐる日常些事、学習や読書、海外旅行や国際交流等々について記す。

2つの入門書から

2012-10-15 | -uj- aux -i-?


 -i- と -uj- についてある程度説明している入門書は少ないように思うが、手元にある入門書の中に2つの対照的な記述があったので紹介する。

 大島義夫「エスペラント独習」(1949年初版発行)より
 国の名を示す接尾辞わ現在二つもちいられており、一つわ -i- 、も一つわ -uj- である。-uj- にわもともと「いれもの」の意味があり、古くから使われてきたが、国際労働者 esp. 運動がさかんになってから、国際的な -i- がひろくもちいられるようになった。-uj- が保守的なエスペランティストにもちいられているのにたいして、-i- わ進歩的な人びとのあいだにひろまりつつある。
 -i- が用いられる理由:1)国際的な接尾辞であること(ブルガリア、ギリシァ、ルーマニア) 2)-uj- にいれものの意味があるのにたいし地理的な意味しかないこと 3)-uj- にわ、いれもの、植物名など多くの意味があること。

 小坂エスペラント講座(1954年初版発行)より(一部簡略化)
 国名接尾辞 -uj- の代わりに、国際性接尾辞であるとして、-i- を用いる人がある。・・・しかしエスペラントには io(何かあるもの), litanio(連祷), polio(騎乗球技), monarkio(君主政治), gobio(川はぜ), angio(脈管), geranio(げんのしょうこ)など -io に終わる語が非常に多いので、その上に接尾辞 -i- を用いることはまぎらわしいのみならず、一般に接尾辞はそれに品詞語尾を付して独立に用いられるものであるが(ilo, ina, ree, emi など)、接尾辞 -i- は除外的存在となり(io, ia 等は用い得ない)、エスペラントの合理性の上から見て感心出来ない(Cxilio, Algxerio などの i は接尾辞ではなくして、元来 i のついた語根なのである)。
 なおこの接尾辞 -i- は1907年エスペラントに対抗して起った新国際語 Ido の影響を受けて万国エスペラント協会(UEA)の Hodler 氏一派が用い始めたもので、これに対し日本エスペラント大会は満場一致で接尾辞としての -i- 排撃の決議をしている。

 このカテゴリーは一応これで最終回とする。私には -uj- 支持者の論理が勝っているように思える。あなたはやっぱり -i- を使い続けるだろうか?

   
写真はハノイ近郊のお寺
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-uj- を使おう!

2012-10-11 | -uj- aux -i-?


 上のコピーは「Rusoj logxas en Rusujo」の最後のページである。もちろんザメンホフが第一書につけたものを真似たものである。ただし、一千万人ではあまりに多すぎるから5,000人にしてある。もちろん、5,000名の署名を待つまでもなく使い始めようとも。
 この署名は www.bonalingvo.it/promesoj でその署名者を見ることができるし、あなたの名前を付け加えることも出来るとしてあるが、よく分からなかった。
 普通の手紙で送ることももちろん出来る。宛先は
  Anna Lowenstein
  Via del Castello 1
  00036 Palestina, Italujo

 こっちは第一書からのコピー。
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Kiu estas pli facila?

2012-10-09 | -uj- aux -i-?


 国名(地方名)には2つのシステムがある。ひとつは住民名に -uj-, -i-, -land などをつけて国名(地方名)とする。もう一つは、国名(地方名)に -an- をつけて住民名とする。では次の国名(地方名)からその住民をどう言うか考えてみよう。-an- 方式と -i- 方式が混在しているので注意。

 Hispanio
 Svisio
 Belgio
 Siberio
 Skandinavio
 Albanio
 Algxerio
 Etiopio
 Indonezio
 Tanzanio
 Mongolio
 Moldavio
 Bolivio
 Haitio
 Auxstralio

 全部分かった人はエライ!
 これが -uj- 方式なら誰にでも分かる。
  Hispanujo, Svisujo, Belgujo, Siberio, Serbujo, Skandinavujo, Albanujo, Algxerio, Etiopujo, Indonezio, Tanzanio, Mongolujo, Moldavujo, Bolivio, Haitio, Auxstralio

   
写真はエッフェル塔からの眺め。昨日の写真はシャンボール城ではなく、凱旋門でした。
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接尾辞界の異端児 -i-

2012-10-05 | -uj- aux -i-?


 -i- が非公式にしろ接尾辞であるとして、これは他の接尾辞に比べてかなり様子が異なっている。
 これは「Ni metu -ion en la ujon!」(Marcel Leereveld)という小論から。

 作者は SAT の会員なので半世紀にわたって -io を国名に使ってきた。しかし言語学の研究によって -io がエスペラントの精神に反しており、その造語法に例外を作ることだと分かった。
 1)接尾辞 -i- は文法語尾 -i と同形である。他の接尾辞にはない例外的な形である。
 2)1文字だけの接尾辞としてもただひとつである。おそらくザメンホフは(por ne tro densigi la lingvon)1文字の接尾辞を避けた。
 3)全ての接辞は(cxj, nj を除く)独立の語根としてして使うことが出来るが、-i- の場合は io=lando, ia=landa, iu=estu lando などの同音異義語を作ってしまう。
 4)語根が -io で終わる国名との区別がつかない。
 5)全く不必要なネオロギスモである。
 6)-uj- で何の問題もない。

   
写真はシャンボール城
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接尾辞 -i- の歴史

2012-10-01 | -uj- aux -i-?


 前にも書いたが、接尾辞 -i- の歴史は結構古い。Meksiko(メキシコ市)と Mekisikio(メキシコ)という提案をしたのはザメンホフである。ただしこれは必ずしも定着はしていない。Brazilo(ブラジル)、Brazilio(ブラジリア)のように逆な例すらある。
 前回その一部を紹介した M. C. Butler の「Pri landnomoj」から、接尾辞 -i- の歴史を簡単にまとめておこう。

 1906年 G. Moch が Lingva Komitato(LK) に -uj- を -i- で代えることを提案。1910年の報告では、この提案を支持したのは Moch 一人だけであった。
 1908年 Akademio(当時は LK の Centra Komitato)は 8:1 で -i- を否決。Moch は Ido に走る。
 1918年12月 当時の Esperanto 誌の編集者が「LK が認めた」と、年鑑で -i- を使用。LK は抗議した。
 1920年 Akademio は Fundamento にそって -uj- のみを使うことを宣言。
 1921年 Esperanto 誌の編集者が -i- への支持を呼びかけたが、LK は 75:5 で否決。しかし編集者はこれを無視して -i- を使い続けた。これに対して世界的に抗議の声が起こった。
 しかし、-i- を使う人がすでに存在しており、思想的な理由から SAT がこれを支持。政治的な合い言葉になった。

 第一次大戦前の世界のエスペラント運動では労働者層が大きな力を持ち、そのために -i- が広がっていったのではないかと思う。現在では Renato Corsetti など、SAT の有力メンバーの中にも -uj- に戻すべきだと主張する人たちがいる。

  
写真は Villandry の城と庭園
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ネオロギスモと -i-

2012-09-26 | -uj- aux -i-?


 エスペラントにない単語でどうしても欲しい単語があるとき、新しい単語を誰かが導入する。同じ意味の単語が複数導入されるかもしれないが、おおぜいで使っているうちにどれかひとつに収束していく。こういう形でエスペラントは発展していく・・・ということでいいのだろうか?
 ザメンホフ以来今日まで、エスペランティストの作家や中心的な活動家には欧米系の言語話者が多い。自由に勝手にやっていたらどんどん欧米化していかないか? それでかまわないというのが Naturismo であろうか?
 何人かに意見を聞いてみたが「私にはどうでもいいことだ」「私らの考えることではない」といった反応が多かった。私自身も「大勢順応派」を標榜してきたのだが、それでいいのか?

 今回は -ujo に反対する論拠とそれへの反論を Rusoj Logxas en Rusujo の中から少し紹介する(Pri landnomoj:M. C. Butler)。
 1) -ujo は美しくない。
   --- 人の好みは様々である。私には -ujo の方が美しく響く。
 2) -ujo は3つも意味を持っている。
   --- ひとつの単語や要素がひとつの意味しか持たないということは不可能である。元々言葉は融通性を持つもので、文脈の中でその意味が決まる。ただし「容器」と「木」はいくらか混乱する面もあるので、-arbo などが使われている。
 3) フランス語では -ujo は不愉快な意味を持っている。
   --- 英語では pi, po, fart, fuk... などが同様である。かつて Kiel vi statas? とやった人もいたが、まもなく消えた。

 この論文は全部で95ページの本の中で15ページを占めており、21章からなる。-io の導入が如何に混乱をもたらしたかなど、様々な視点からこの問題を論じている。もう一つ、-io を擁護する論拠とその反論を。

 1) -io は国際的である。
   --- 一部のみについて言えるが、一般化は出来ない。
 2) 中立的で、非民族的である。
   --- その意味では、-io も -ujo も -lando も違いはない。
 3) より単純で明快である。
   --- 全く違う。かえって複雑にし、混乱させただけである。
 4) 国名の作り方が2種類あるのを避ける。
   --- 状況は変わっていない。
  5) 現代的でよりよい形である。
   --- 新しいものがよいとは限らないし、実際には -io はずいぶん前に出てきたものである。
  6) 多くの人が使っている。
   --- それだから良いとは言えない。

 最後に、-io に反対する論拠を。
  1) Fundamento に反する。
  2) 異なる形が併存するのは良くない。
  3) -io で終わる単語がたくさんあって、mal- と同じくその繰り返しが文章の印象を悪くする。
  4) Ido がこのことで混乱した歴史に学ぶべきである。
  5) -io が国際的だというのは正確ではない。それは、科学・技術・国・行動分野などなどの意味を持つ。国名にこれを導入するのは明確さから不明確さへの変更である。

   
写真はモンペリエ旧市街
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やっかいな接尾辞 -i-

2012-09-15 | -uj- aux -i-?


 -uj- が3つも意味を持っていて不便だというのなら、-i- はもっと奇怪である。PIV は -i- に国名以外の5つの意味を与えている。エス日にはこの記述はない。造語要素としてもあげていない。たぶんすべて語根の一部だという立場だと思うが、それにしても以下に示すように例が多すぎる。
 PIV の5つを簡単にあげておく。
 1.人からその行動分野
  ksenofobo(外国人嫌いの人)ー ksenofobio(外国人嫌い) 
  pederasto(男色者)ー pederastio(男色)
 2.専門家からその専門
  agronomo(農学者)ー agronomio(農学)
  diplomato(外交官)ー diplomatio(外交)
   しかし、kemio(化学)ー kemisto(科学者)、kemo ではない
 3.人から社会システムや現象
  aristokrato(貴族)ー aristokratio(貴族政治)
  demokrato(民主主義者)ー demokratio(民主主義)
 4.道具や行動から技術名
  stetoskopo(聴診器)ー stetoskopio(聴診法)
  stenografo(速記)ー stenografio(速記法)
 5.数学・・・これについては私には質問しないこと
  homeomorfio(位相同形)ー homeomorfio(同相写像)
  progreso(進展)ー progresio(級数)
 余談だが、人からその専門分野などを作るのはどうもしっくり来ない。ヨーロッパ言語と日本語との違いであろうか。

 -i- には他にもややこしい問題がある。以下は「Rusoj Logxas en Rusujo」から拾ったことである。
 メキシコの首府はやっぱりメキシコである。これを区別するために、ザメンホフは、都市には Meksiko、国名には Meksikio を提案した。エス日辞典には、Meksiko は都市・国名両方に使うとしてあり、Meksikio もある。国民名ではないものから国名が作られている同様な例は他にもいくつかある。当然これらの国の住民は -ano である。
  Algxero(アルジェ)ー Algxerio(アルジェリア)
  Tunizo(チュニス)ー Tunizio(チュニジア)
  Luksenburgo(ルクセンブルグ・都市)ー Luksenbrurgio(国)
  Senegalo(セネガル川)ー Senegalo, Senegalio(セネガル)
  Nigxero(ニジェール川)ー Nigxero(ニジェール)
              ー Nigxerio(ナイジェリア)
 例外も多い。
  Paragvajo(パラグアイ)には同名の川もあるが、これは PIV によれば Paragvajrivero である。
  Urugvajo(ウルグアイ)にも同名の川がある。
  Malto(マルタ)には同名の島もあるが、国名を Maltio とは言わない。
  Singapuro(シンガポール)は都市国家だから国名と都市名を区別する必要はないだろうが、構成する一番大きな島も同名である。
  Kenjo(ケニア)は、本来同名の山から由来する国名であるが、Kenjio とは言わない。

   
写真はフランス・モンペリエ、1998年のエスペラント世界大会会場近くの公園
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-uj- の持つ意味

2012-09-10 | -uj- aux -i-?


 国名に -i- を使うという主張には「-uj- が入れ物を意味していて、例えば日本は日本人だけで構成されているわけではないから、日本人の入れ物= Japanujo はよくない」というものがある。
 これは2重におかしい。第一に、-uj- は容器だけを意味しているのではない。「リンゴの木」を pomujo というとき、リンゴの容器を意味しているわけではない。-uj- は、木・容器・国名の3つの意味を持っているのだ。「リンゴを入れる容器」と区別するために pomarbo が最近はよく使われるが、これは全くの別問題である。そもそも Japanujo を日本人を入れる容器だと考える人がいるだろうか?
 第2に、-uj- を -i- に変えたからといって、japano:日本人から日本という国名が作られるシステムにはなんの変わりもない。
 以上は、私が以前から抱いていた疑問である。

 Rusoj logxas en Rusujo の最初の記事、Anna Lowenstein「Kial mi favoras -ujo」から少し引用してみよう。
 私は -ujo を使うことを教えられたし、まだそれを使っている。他の接尾辞に変えるべき理由が見つからないからである。
 学習者にとってエスペラントは易しい言語だが、国名の課題に入ったとたんに泥沼に入り込むことになる。まず2つのシステムがある。
  Franc-ujo (Franc-io) ー franc-o
  Kub-o ー kub-ano
 ここまではまだ問題はない。しかし、
  Skot-lando ー skot-o, Pol-lando ー Pol-o
  Nederlando ー nederland-ano (nedero ではない!)
  Islando ー island-ano
 となると混乱が始まる。さらに、
  Cxin-ujo (Cxinio) - cxin-o, Auxstr-io ー Auxstr-o
  Cxili-o ー cili-ano(cxilo ではない!), Auxstrali-o ー auxstrali-ano
 でますます混乱は深まる。
 私がUEAの年鑑を編集していたとき(当時はまだ -uj- を使っていた)、あるベルギー人が「ベルギーにはベルギー人はいない。フランドル人とワロン人がいるのみである。だから Belgujo ではなくて Belgio を使うべきだ」と書いてきた。こういった議論は -io を使いたい人の口実に過ぎない。-ujo を -io に変えても何の解決にもならないし、エスペラントに不規則性を持ち込むだけである。
 同じ論法で、スイス人もイギリス人、スペイン人もいないことになる。
 イタリアは外から見れば、地理的にも政治的にも種族的にも言語的にも均質に見える。しかし、実際は19世紀になって統一国家になったのである。
 国名の基礎として「gento:種族・民族」を考えるのは無意味である。ただ「sxtatano:国民」だけを考えるべきである。この点ではザメンホフの言葉(Lingvaj Respondoj)は批判されるべきである。
 -io を使いたい人の唯一の理由は、それが民族語の語感に近いからと言うだけのことである。

   
写真はカルカソンヌ
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Jam-venkistoj と国名

2012-09-06 | -uj- aux -i-?


 国の名前の作り方について思うのは、問題の根源がザメンホフにあるということだ。ザメンホフは民族名から -uj- で国名を作る方法と、国名から -an- で国民を作る方法を作った。こんな面倒なことをするから問題が出てきたのではないか。最初から -an- 方式だけにしておけば混乱はなかったのではないか。さらに Fundamento には触れてはいけない、ただ neologismo によってだけ発展させるという原則がこの場合は問題を余計に複雑にしている。
 以上は私の個人的な感想である。

 さて、Rusoj logxas en Rusujo には、-uj- 方式を支持する十数人のエスペランティストの論文が集められているが、全体として整理されているわけではない。また全体を首尾一貫した体系にまとめる力は私にはない。というわけで、かなり順不同にいろんなことを書いていくことになると思う。私の勝手な憶測が入り込まないように努力はしたい。

 まず Renato Corsetti の前文である。
 エスペラントの歴史は、エスペラントを難しくするのはものすごく易しいが、それをよくしていくのはとても難しいということである。この本はその一つの例を示す。
 ザメンホフは国名のシステムを完全ではないが使える形で作った。それはその時代においてはもっともよく考えられたものである。残念ながら、エスペラントが現れるやいなや、様々な理由をつけて -uj- を変えようとする人たちが現れた。
 同じことは他の分野でも起こっている。ata/ita の大げさな問題では、普通の人が使えるシステムを保持することよりも自分の知性を示すことに躍起になった。ヨーロッパのいくつかの言語では使わないからといって疑問文に Cxu を使わない・・・ヨーロッパの疑問文など知らない日本人は地獄にでも行っちまえ!(とは言わないが、そう考えている)
 Fundamento の承認はエスペラントの歴史でもっともよい決定であった。これがなかったらエスペラントは他の計画言語と変わりなかったであろう。
 多くの人たちが、エスペラントはすでに大きな社会集団で使われており、独自の形で自由に発展させればよいと主張する。そして、その集団の要求に従って不規則性を増大させる。
 こういう人たちを jam-venkisto ということが出来る。彼らによれば、エスペラントはすでに勝利したから、普及活動はもう必要ない、そんなことは fin-venkistoj の熱中者に任せておいて、我々の(ヨーロッパの)言葉に従ってこの言葉をもっと言葉らしくすることだ。それがエスペラントを複雑にするとしても知ったことではない。
 エスペラントはまだその目的からは遙かに遠い位置にいる。ヨーロッパ以外の言語圏の学習者は、単純さ・明快さを望んでいるし、それがエスペラントの価値の一つである。

 (注)fin-venkisto:エスペラントの最終勝利=すべての人々の第2言語として、世界中の学校で教えられる=まで、その普及活動を休んではならないと考える人たち。jam-venkisto は Corsetti の造語らしい。

   
写真は南フランスの運河
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Rusoj logxas en Rusujo

2012-09-02 | -uj- aux -i-?


 今回から一つ新しいカテゴリー「-uj- aux -i-?」を追加する。国の名前を作る接尾辞についてである。

 「日本人」は japano、「日本」は japanio または japanujo というのは最初に「エスペラント四週間」で学習した。-uj- には入れ物・木・国の3つの意味があり、このうち「木」は -arb- を使うことが多い。国名を表す方法には -uj-, -i-, -land- の3つがある。
 国名には -i- を使うのがよいと誰から奨められたのかはもう憶えていないが、「日本に住んでいるのは日本人だけではないから、日本人の入れ物=日本というのはおかしい。だから japanujo ではなくて japanio とするべきだ」あるいは、「-uj- には3つも意味があるから、木に -arb- を使うように、国にも別な接尾辞を使う方がよい」といったことだったと思う。
 とにあれ、私は何の疑問も抱かずにずっと -i- を使ってきた。ところが数年前、-uj- にするべきだという2人の人に出会った。
 一人はUEAの前会長 Renato Corsetti である。彼は私が自費出版した「Raportoj el Vjetnamio」を高く評価してくれてメーリングリストなどで紹介してくれたのだが、このとき「唯一、国名を Vjetnamujo でなくて Vjetnamio としているのがよくない」と言われたのだ。
 もう一人はあるフランス人女性である。このとき私は彼女が翻訳した本を編集する仕事をしていた。この本は SAT が出版したのだが、数人に校正作業をしてもらった。SATといえば当然 -i- を国名に使う人が多いのだが、翻訳した彼女は -uj- を使った。何人かの校正者は違和感を感じたが、私は「どちらでも良いことになっているから」と拘らなかった。しかし一人の外国人校正者は彼女と直接やり合ったすえに怒って作業をやめてしまった。
 そののち、彼女から送られてきたのが「Rusoj logxas en Rusujo」である。この本はしばらく私の本棚に眠っていたのだが、最近やっと読んだ。そしてこのことが思ったより重要な問題を含んでいることを知った。
 表題はザメンホフの書いたものからとっている。90ページ程度の小冊子だが、十数人のエスペランティストが「-uj-」でなければならない論拠を様々に語っていて、それがなかなか説得力があるのだ。前文を Renato Corsetti が書いている。
 私自身はまだ -i- を使っているが、正面から「なぜ -uj- ではなくて -i- なのか?」と問われたら答えられない。それで、ここに -uj- 論者たちの論拠をまとめて書こうと思う。-i- 論者の論拠をまとめたものがあるのかどうかは知らない。あったら教えて欲しい。また次回から述べる「-uj- とするべき理由」への反論も是非お願いしたい。反論できないと、私は -uj- 派に転向せざるをえなくなる。
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