脳出血で無職になった親父のブログ

株式投資に腕時計が好きなオッサンのブログです。年齢を重ねスピリチュアルにも興味を持ったお蔭で人生感も変わりました。

私の今世のテーマ・・第一【働くということ】

2015年08月11日 09時25分55秒 | わが半生
50数年の人生を振り返ると・・13歳で新聞少年、高校でもアルバイト・・希望大学は不合格でしたが何とか推薦で3流大学合格したものの・・親父が倒れ進学は断念し専門学校へ。その間はマクドナルドやガソリンスタンドでアルバイト。就職はせず喫茶店でフリーター生活。20歳を超えた頃にラジカセの訪問販売。大阪第一ビルに事務所があったのですが福利厚生もなく現場への交通費・通勤手当は支給なし。半年で退職して大手靴の販売店へ就職しましたが薄給のため退職。高卒の私がスーツを着てたくさんの給料をくれるところは・・商品取引や不動産営業、布団の営業など、ちょっと怪しい会社が多く、そんな中で転職したのが消費者金融・・いわゆる【サラ金】です。とにかく給料がいい!!今でもテレビで宣伝・・『初めての~○○○』に入社。そりゃ両親に親戚から大反対をされました。昭和56年1月の頃でした。当時、大儲けのサラ金は店舗を積極的に出店しはじめ私も天満橋の新店に配属。入社してみると意外とマトモなところも多く取り立てもキツクありません。月の残業も20~30時間で月末土曜以外の土曜・日曜・祝日は休暇。手取り給料も靴屋の2倍!23歳fで社内でも誰もが羨む美人と結婚したのです。もう人生は明るいとタカをくくったのが甘かった・・その後、梅田支店へ異動になったのですが・・毎日10時、11時の残業。顧客数は当時、消費者金融業界でNo1 支店は2フロアーに分かれていて私は2Fの班長として配属されたのです。給料も残業もあって大幅に増えました。ボーナスも驚くほどの金額!!ここをクリアすれば次は支店長へ昇進・・でも仕事は超激務。もちろん、丸一晩、車で深夜かrs明け方にかけて訪問督促・・正式な役職者でない班長・・営業数字が伸びず回収も大変。店長から毎日のように説教をされ、ついに精神的壊れてしまい出社拒否症となった私・・結局、退職。若い夫婦が生活するには当然、共働き。退職し数日もせず当時、関西では、そこそこ大手の家電量販店に転職しました。給料は消費者金融当時の半分もありません。結構、経済的にも苦しく某大手消費者金融で50万円を夫婦で借りました。そう・・ミイラ取りがミイラになってしまったのです。アカン・・やっぱり『お金や!!』そう思い再度・・某大手消費者金融へ転職しました。経験もあるので入社早々、回収では社員の中でも頭角を出し26歳で支店長に昇進。当時の妻は大変、喜んでくれたものです。でも翌年に離婚・・な・・なんと妻の浮気でした。相手の男性は当時40歳前半、妻のパート先の不動産会社の部長です。私は男性を呼び出し話をしました・・不思議と感情的にならず冷静に話している自分が不思議でたまらなかったのです。27歳・・離婚。私は弁護士に相談すると弁護士名で内容照明郵便で150万円の慰謝料請求したのです・・すると意外にも、そのまま応じてくれ私は150万円を手にしました。それが次の人生のつまづきになるとは知らずに・・・
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