町工場 職人の声

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マルマ計画

2012年05月12日 | 日本近代史
ご存知マルマ計画について備忘録を残すべきでしょうね・・・

大東亜戦争の末期、日本防衛に苦慮した国家指導部は日本民族最終根拠地
満州と朝鮮半島北部にまたがる山岳地と決定し産業の移転を優先して進め
たが軍隊の移動展開は遅れていました。民間では工業資材を流用し簡易武

器を作り押し寄せるであろう敵に備えた。産業の移転は航空機産業が優先
されたのは当然でしょう。なにせ最終局面での戦闘機月間生産数は十数機
という話さえ有りますから。爆撃で破壊された製造工場をあきらめて移転

を決意した。それにより数万人が本土を離れて大陸に渡った・・・・
製造する物は墳進戦闘機、つまりジェット戦闘機でありドイツの戦闘機よ
りも少し大きい高性能の機体。しかし本格生産には数年を必要とする・・

指導部が考えたのは本土を防衛の盾として陸上戦で敵を約2年食い止めて
航空戦力を再建し反撃により本土から敵を追い出す作戦。天皇陛下は事前
に長野県に避難していただき機会を捉えて大陸根拠地に移動する。

最終根拠地の人口は2000万人を想定していたと伝えられています。
残りの日本人は本土と朝鮮半島南部において絶望的防衛戦闘を担う・・
日本人、老若男女数千万人が戦死する覚悟の最終戦・・・・・

最終根拠地を実現維持するにはソ連の支援が必要である事は誰でも判る。
支援の合意が得られないので軍隊の集中を避けていたのだと思います。
戦後に言われた停戦の仲介交渉というのは表向きであり本音は支援取付け

にあったと思う。戦後すぐに満州で抵抗する計画が進んでいたとは聞いて
いましたが数万人の規模で実行されていたのは長い間、知りませんでした。
断片的情報ではとてもそういう規模とは考えませんでした。最終根拠地。

史実はそうならずに日本は核爆弾の攻撃とソ連参戦により降伏しました。
問題は大陸に残された数万人の技術者や技能者達。日本再建にはぜひとも
必要な人材でした。もう一つ、アメリカは数万人の技術者をソ連に行かせ

る事は座視できなかった。引き上げの優先が決定されたのだ。と思う。
そして大陸から帰還した技術者達が戦後の工業化を進め経済の興隆を実現。
満蒙開拓団は帰還が遅れ悲惨な経験を強いられ絶望の中で大勢が殺された。

最後まで自分達がなぜ帰還出来なかったかを知る事も無く・・・・
私のいとこ達も地獄を経験したのか無言で世を去った。
現代の我日本。満蒙開拓団の犠牲、技術者達の贖罪と努力、理不尽に官職

を追われた名誉在る人々。そういう人達がいて今の生活が在る・・・
日本は信じて守るに値する国だと想う・・・




マルマテクニカ(株)

2012年05月12日 | 職人仕事
1.創業の精神・・・働く者のユートピア建設昭和22年の全社員
1.和
1.進歩改善
1.サービス精神
1.信賞必罰
1.即時断行

◎マルマ計画に参加した日本国民の生活を開こうとして創業された会社。
上が社訓だそうですが現代の私にも共感賛同できる内容です。数字が全て
1なのは項目の優劣無くひとつ、ひとつが同等に大切だと言う事ですね。

江戸時代の医者

2012年05月12日 | 歴史
なるほど~江戸時代の医者ってこうなんですかぁ~驚きの高収入も?
【 回答者:bungetsu
回答日時:2012/05/11 19:21 こんにちは。私は、自称「歴史作家」です。

回答から先に述べますと、商家のように大きな看板は出してはいませんでしたが、カマボコ板
位の「医師・○×療庵」などという表札は出していました。江戸時代、医師は資格試験などと
いうものがありませんでしたので、誰もが「医師」を名乗ることができました。診療は漢方医

で、顔色や病状を聞き、触診をしたのち判断をくだして漢方薬を調合しました。たくさんの患
者を手掛けるのが名医のあかしで、将軍家や大名家お抱えの「御殿医」と町民専門の「町医者」
とがありました。また、町医者でも、武家や大店などに気に入られる、籠の乗ってくる「乗物

医者」と庶民専門の徒歩で診察に出向く「徒医者」(かちいしゃ)とがありました。当然「乗
物医者」は診察代も高かった。享保7年(1722年)12月21日小石川薬園(現在の小石川植物園)
内に「小石川養生所」が開設され、江戸の庶民も気安く診療を受けることができました。この

小石川養生所には、門がありその門には「小石川養生所」という看板がさげられていました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%9F%B3% …
(よもやま話)

(1)砂糖は薬屋で売買された。江戸では白砂糖のことを「唐三盆」(とうさんぼん)と言い
これは言うまでもなく輸入品で貴重だったため薬屋でのみ販売が許可されていた。

(2)歯磨きの好きな江戸っ子。
歯磨き(磨き砂)売りは一袋6文~8文のものを売り歩き、一袋で約1ケ月~2ケ月は使えま
した。これが商売として成り立ったのは江戸っ子は歯を白くすることを大切にしたからです。
京都などの公家衆は「お歯黒」が有名ですが江戸の武士も庶民も「お歯黒」はしませんでした。

歯磨きを使うか使わないかで、江戸っ子か田舎者かがわかると言われちょっとした悪態にも
「口が臭いぞ。黙ってろこの田舎者めが」と言うくらいでした。また歯磨き売りは「お早う」
の歯磨き売りといわれ、毎朝早くに歯磨粉(歯磨き砂)を入れた箱を肩にかけて「お早う」
「お早う」と言いながら長屋などを売り歩きました。

(3)二千両もらった幕府の医官・狩野玄竹
慶安三年(1650)正月。堀田伊賀守が大病にかかったとき幕府の医官・狩野玄竹が幕府
より命ぜられて、堀田の治療にあたりました。幸いいいあんばいに全快しましたので褒美と
して幕府から千両を賜りました。そして堀田家からも薬代という名目で千両が渡されました

ので、合計で二千両も手にしたことになりました。(現代の2,000~3,000万円位でしょうか)

(4)御殿医には坊主の位と同じ。
「法印」(ほういん)「法眼」(ほうげん)「法橋」(ほうきょう)というのが医官の位で
「法印」は坊主の「僧正」に当たり「法眼」は「僧都」に当たり「法橋」は「律師」に当た
るとされ、坊主の扱いをされていました。では、医者の身分は・・・と言うと、武士と庶民
の中間位でしたが、庄屋などと同じような扱いでした。

(5)匙(さじ)を投げる。
「御匙」というのは御殿医の中でも将軍とその家族を診察する奥医師のことで江戸時代最高
の権威でした。しかしどのような治療をしても治らず死んでしまったら「匙を投げる」と言
うようになりました。】