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やがて6月23日がくる !

2016-06-05 23:57:34 | 戦を超えて

 

 

             やがて6月23日がくる !

 

ブロガーの皆さんは、6月23日が何の日かご存知ですか?昨今は若い人でも分からない世代が増えつつある。

1945年6月23日に日本軍の組織だてての抵抗が終わったと米軍側が判断した日なのです。戦争の停戦ではありません。抵抗の終了です。すこし意味あいが違いますね。敗走状態になった日本軍は抵抗すら出来ない状態であの糸満市摩文仁地区に立てこもりました。軍隊と共に逃げてきた沖縄住民も逃げ場がなく幾多の犠牲者を出しました。沖縄平和祈念公園のある摩文仁地区だけで13~14万人の軍民の戦死者の遺体があったそうです。足の踏み場もないくらいに死体だらけだったのです。そんな砲弾の雨が降る場所で生き残った住民もいました。人には運命のようなものがあるのではと考えさせられることもあります、全員死んでもおかしくない状況でも死なないのは、死ぬ時ではないと決められた人かも知れません。そんな生き残りの人達があの過酷で悲惨な戦争を語りついでいるのです。八十代半ばで平和ガイドとして頑張っておられる吉嶺氏もガマ(自然豪)に家族と隠れて命を生き長らえた一人です。吉嶺氏は母親と妹の三名で摩文仁高地の下の豪に隠れていたが、米軍の投降呼びかけにも応じず隠れていました。米軍の最後通牒で、翌朝に豪を火炎放射器で焼き払うとの通告がありました。翌朝、豪の入り口にいた男性が火炎放射気器で生きているままに焼かれるのを目撃しました。大きな悲鳴を上げて火だるまになり焼かれるのを見て、戦争の怖さを感じたそうです。母親が決意して、外に出て投降しようと言ったら、中学生の吉嶺氏は反対しましたが、母の言う言葉に従いました、「こんな死に方はしたくない、ぬちどぅ宝やさ!」と言ったそうです。「命こそ宝!」の意味なのです。

吉嶺氏の家族が出たら、他の住民もそれに続いたのです。その豪には100名余の住民が隠れてほとんど助かりました。

その後、投稿者が続き、米軍が人数を数えたら、8万人の住民が豪から出てきたそうです。悲惨な壮絶な戦闘があった場所から幾多の人達が命を助かった、悲劇の地でもあり、希望の地でもあったのです。生き残った8万人の人達は戦後、家庭を持ち、子を産み育て、孫が出来て沖縄の戦後の復興に尽力、貢献したのです。

tiger60個人も、戦争で兄、姉と母方のおじ、おばを失くしました。毎年沖縄県主催の異例の日が6月23日に行われます。毎年参加するようにしています。母も亡くなり私が慰霊の日に参拝しないて、いつか子孫が忘れるのではと思い継承していくように頑張っています。沖縄の6月23日は梅雨の終わる頃、梅雨の中、砲弾の雨が降り注ぐ戦場をずぶ濡れないなり、梅雨が明けたら負傷したものは暑いから水をくれと泣き叫び死んでいったのです。

沖縄が背負った運命と言うには、あまりにも無慈悲な戦争だったのです。今、摩文仁の地には平和祈念公園が出来て、かっての敵味方の区別、差別なく合肥してあるのです。死んだらみんな同じ仏になると信じるのが沖縄の心なのです。敵味方を平等に合肥してあるのは世界中でも例がないそうです、沖縄だけが憎しみを乗り越えて共存しているのです。

毎年、慰霊祭に出席して思うのは、政府、総理大臣が参拝に来ると、政治的に反対の立場の団体や個人が非難の言葉を浴びせるのです、拡声器の音量を大きくして慰霊祭の妨げになるくらい自らの主張をしていることがあります。これでは静かに眠りたい戦死者も落ち着かないのではと思います。そっとしてほしい思いが遺族の心情だと思います。亡くなった英霊たちが浮かばれないと思います。

毎年この季節は夏の始まりで、月桃の花がたわわに実を咲かせています、あの時もそうだったのかなと思いをいたしております。

いつまでも平和でありますようにと月桃の花に祈る。

tiger60

沖縄の戦後はいつまでも終わらない気がします。いつまでも引っ張ってはいけないのかもと自問自答しながらも続いています。

戦跡地はいつまでも残ると思うが、合肥や慰霊のやり方が未来の世代では違うものになるかも知れない、時代は進んで変化していくからそれはそれで良いのではと考える、ただ残ってほしい思いだけです、いつまでも。沖縄から世界へ平和のオーラとエネルギーを送れたらいいですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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