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復帰前の世相

2016-04-14 01:56:29 | 復帰前

 

 

                  復帰前の世相

 沖縄が復帰した時は、tiger6022歳だった。その前の復帰前の世相を青年期の目で世相を見てきた。いろいろあったなと感慨にふける時がある。

実際にあったことを話そう。

1967年、沖縄が本土復帰をするのがまだ決まっていなかった。高校を卒業して大学生だった。中

部に住む高校の男子同級生がいたが、大阪の写真専門学校に行っていたが、夏休みに帰省した際、家

共々ブラジルに移民するとのこと。親が全財産を売って親族のいるブラジルへ行くのだと言う。理由

を聞いた、「沖縄には米軍基地があるので、中国とソ連が核爆弾を飛ばして沖縄を攻撃するので危な

いから遠いブラジルなら安全、親族を頼って行く」。彼の住まいは嘉手納基地の側、父親が外人相手

の小さなホテルとブロック製造工場を経営していた。先祖代々の土地財産もすべて売ってブラジル行

きの準備中だと言う。

遠いブラジルか、二度と会えなくなるかもと寂しさを感じつつも友を送り出した。

tiger60の通う大学にも、原水協の幹部とかいう人が来て講堂で、アメリカ対中国・ソ連の冷戦

が沖縄への核ミサイルで攻撃されるから、米軍基地の撤去運動を一緒にやろうと説明する。また沖縄

は本土に復帰すべきなので祖国復帰運動もやろうと訴えるのだ。確かに原水協幹部の説明を聞いてい

たら、沖縄は大丈夫だろうかと不安になる。当時は我が大学だけではなく、沖縄各地の公民館で原水

協や他の団体が盛んにそのような説明会をしていた。同級生の家が嘉手納基地近くにあるのも恐怖心

がつのるはずであった。県民は不安感があったが、逃げようがない大方の住民はアキラメと本当か

なとの複雑な気持ちだった。逃げることが出来る人間はいいはずだが、こちとらどうしようもない

それから1年ほどして同級生からのハガキが届いた、元気でやっている、毎日が楽しいとある。

そんなことも3年ほどして、ついに沖縄が本土復帰することになったのだ。中国やソ連から

核ミサイルが飛んでくることなどとっくに忘れていた。復帰して日本国の一員として歩むことを考え

ると、期待と夢が膨らみ、今からだぞという新たな旅立ちの心境だった、県民全部がそうだった。沖

縄が復帰して半年、昭和47年、12月例の同級生から電話があり、沖縄に帰ってきたと言う、早速

会いに行った。バツが悪そうな顔をしてなぜ沖縄に帰ってきたかを話した。いくら親族がいても、言

葉も分からず戸惑いの連続だったのが両親だったそうだ。若い子供たちは言葉の問題はあるにせよ何

とか生活に馴染みつつあったそうだ。最初に根を上げたのは両親、「沖縄に帰りたい!」、でも沖縄

から出る時に壮行会をして送り出した親族、友人、知人に合わせる顔がない、だけど望郷の念はつの

るのだ。考えた末に、一時大阪で住んで時間稼ぎをしてから沖縄に帰ればいいと決めた。自分が先に

帰り沖縄の状況を見て大阪の両親に伝える役だそうだ。ブラジルに着いた彼らは沖縄関係者から沖縄

は核爆弾が落ちていないこと、本土復帰が決まり県民みんなは喜んでいると聞き、自分の判断が間

違っていたことを悟った。ならば沖縄に帰りたいが体裁を気にしてすぐには戻れなかったのだ。全財

産を処分してブラジルへの行き帰りの旅費や生活費などかなり金を使い目減りしたはずである。戦前

までの移民は、沖縄の生活苦をなんとかしたいために沖縄を離れたが、同級生の家族は不安感からの

逃避なので強い動機付けが無かったから簡単に帰ってきたのではと考える。本人たちの責任に帰する

が、原水協も各地で県民にいいふらして反米にしようとした結果が、同級生の家族のようなことが起

こったのも事実である。原水協の幹部はその後、このような運動から姿を消したが、沖縄が復帰して

世相が落ち着いた時、噂に聞いた、県内の一流企業の参与となっている。この企業のオーナーの役員

が保守政党の県連幹部で国会議員だった。原水協とこの企業の役員の所属政党とは対立している間柄

なのだ。元原水協幹部は完全なる思想転向したのか婚姻で結ばれたのか不明だが、よくも180度も

変われるものかと思ったものです。人は変わるのは自由だが、その人の説くことを信じて行動して右

往左往した人たちのことをどう考えるのかと興味あるところである。

tiger60

復帰前の世相はたくさんあったので、話題に事欠かない。沖縄だけが特殊な体験を有するかも知れま

せん。tiger60としては米軍施政権下の世相、暮らしを暗く、否定的にとらえて考えるのではなく、

あの時こうだった、ああだったと思えればと考える。すこしオーバーな言い方かも知れないが、歴史

の証人になった気持である。今でもいろいろなことが鮮明に覚えているのだ。ブロガーのみなさんも

いろいろ思い出があるのでは。