魅惑の島 沖縄を知り楽しむ

沖縄を知り楽しむ。
魅惑の島 沖縄。歴史、文化、亜熱帯の気候が織り成す独特な空気。
旅人を魅了して止まない沖縄

ハゲ特集

2016-03-24 11:33:13 | 人の体編

 

           

                         ハゲ特集

 

 

昔からの言い伝えがある。口に喰われる。人を呪わば穴二つ。言霊。エネルギーの反転。因果応報などなど。いろいろな言い含み

がある言葉ですね。今日のブログのカテゴリーは、人の体編なので、私の体験を話しましょう。

tiger60は若い頃から額が広い、周囲の人はやがて頭の毛が禿げてなくなるとみていた。確かに額が

広いし少しずつ年と共に薄くなってはいる。自分自身も中年まで頭髪が残ればいいが、望むすべもな

いと観念気味だった。当時の口の悪い友人達は自慢のフサ

フサした長い髪を風になびかせて、私をいじっていたものだ。私の家に遊びに来るときの挨拶・合図

は、「オーィ、ハゲいるか

~!」だった。私もそれを甘んじて受けていた。父親はもちろん先祖代々ハゲの家系だから、あきら

めも早かった。日々カガミの前の自分の頭の毛の状態を見ていつ無くなるのだろうと気をもんでい

た。二十代から三十代。四十代と仕事や生活に忙しい日々が続き、頭のことはいつしか忘れていた。

ある日買い物の途中、昔の悪友にしばらくぶりに会った。あれほどロン毛を自慢していた友人がマ

ルッパゲに様変わりしていた。

驚愕した、もしかして人違いかと一瞬思ったくらいだ。間違いなく友人だ。これやぁ、変わったなと

思った。時の流れは人を変える、こちらは少ししか変わっていないが、相手が完全に変わった。友人

は照れくさそうだった。昔のさんざん弄られたことがウソ

のようだった。これこそ口に喰われることかなと思ったものだ。

修学旅行の高校生達を観光ガイドして歩く時、いろいろな学生たちがいる。おりこうな生徒、明るい

生徒、いろいろ質問する生徒、わんぱくな生徒など。先日ある本土の高校の修学旅行生達を案内して

説明している時、ある男子学生がカメラを向けて写真を撮ろうとしていた、静止写真ではなくビデオ

モードにして音声も入れているようだ。こちらが説明している隙に、放った言葉が「ハゲ!」だっ

た。なんとtiger60に向かってカメラを廻してハゲと言い放ったのだ、一瞬耳を疑ったが間違いなく

聞いた。ムカッとしたが怒れない。その少し後、近くの日本軍の使用した戦争時のトーチに場所を移

して説明することになった。トーチカの前も後ろも穴が空いている。中は暗い。ハゲと言ったわんぱ

く学生はペンライトを点けて穴を覗きこんでいる。周囲の学生達も彼を見ている。tiger60は一計を

案じた。中には毒ハブが潜んでいるかも知れないから中には入らないでと注意した。

そう言うと本当にハブがいるかも知れぬと先入観を持つが、わんぱく学生は英雄気取りで、屈んで中

をのぞきこんでいる。tiger60が彼の背中に手を置き少し押して脅かした。するとわんぱく学生はハ

ブだと思い飛び上がった。周囲の学生達も引率の先生も大笑いした。tiger60はしてやったりと思っ

。それからはわんぱく学生と他の学生達とも友達のように親しくなった。別れ際、みんなが楽し

かったと感謝の言葉を言ってくれた。

我が家に孫達が遊びに来る。ワイワイガヤガヤと騒がしいが楽しい時でもある。孫とは来ると嬉しい

が変える頃になるとこちらが疲れ気味になっていて、帰るとなると嬉しいものである。子供とは笑わ

ないじぃじぃでも孫には破顔の笑顔を見せる。孫から何を言われても、されても嬉しいものだ。ある

日、ソファに座りテレビを見ていると、頭をいじる孫がいる。最近淋しくなった大事な貴重品の我が

頭髪をもてあそんでいるのだ、ブラシ状のもので髪を撫でているのだ、幾本の長い細い棒状が付いた

快感ブラシとのこと。「じぃじぃ、気持ち良いでしょう!」と言う孫。確かに気持いいのだ。こちら

も一言、言った、「じぃじぃの髪は一本一億円するから大事に梳いてね」と。孫が聞く、「どこのお

で一億円で売っているの?」本気にしているのだ、おもわず我が家族みんなが大笑いした。


tiger60

今日のブログはハゲの話しでした。男のシンボルでもある髪、こればかりは自分の努力ではどうにも

なりません。一番いいのは無駄な抵抗をせず自然に任せているのがいいですね。もうロマンスグレー

のファッションになるのは諦めました。ブロガーの皆さんはどうでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


未来の沖縄を語ろう

2016-03-14 19:51:51 | 未来

 

 

 

               未来の沖縄を語ろう

 

政治の話しはあまりしたくない。いろいろな意見の人々がいるので、いろいろな見方が違うのは当たり前ですね。やぶ蛇をつつきた

くないのはtiger60とて同じです。今日のブログは「未来の沖縄を語ろう」なので、政治ではないが政治もどきの話しになるがご勘弁下さい。

昨年、経済評論家の長谷川啓太郎氏が本を出しました。タイトルは「2015年政局を読む」です。

この本で沖縄の近未来のことを書いてある、興味深いことなので取り上げます。

氏の結論は、沖縄が東アジアの中心になる、ハワイのような人、資本、経済、物流、学術、文化など多方面に渡り沖縄が中心とな

ると断言している。氏は沖縄を特別に慰めている訳でもない、ヘリ下って言ってもいない。内容を読むとなるほどと納得してしま

う。氏の云うようになれば、我々沖縄県民は宝の上に住んでいることになる。鳥肌が立つくらい輝かしい未来が来ると書いてあ

る。

まず、中国経済のバブルは近日中に破たんする、いろいろな統計がそれを表わしているとのこと。中国が経済破綻すれば中国軍は

八軍区に分かれて統制が効かなくなる、もう中国共産党の言うことなんて聞かなくなる。軍と軍が権益、支配権を奪い合おうと国

内動乱状態になる。そうなる前に中国に投資している外資ファンドは安全な場所に逃げる。中国の範疇にいると資本の没収やら略

奪などの合うからだ。北京、上海、香港、マカオ、陸続きの近隣のアジア諸国にも影響する、台湾でも危ないのだ。暴走する中国

軍は何をするか分からない。八つの軍区が互いに戦って疲弊したら中国も少し修まる。外資は安全な日本領の沖縄に資本を投入し

て東アジアのい一大金融センターが出来る、物資の中継貿易センター、人や文化、科学、学術のセンターや交流の地となるとのこ

と。氏いわく、普天間基地は海兵隊のオスプレイ飛行隊を辺野古基地に移して、普天間基地をそのままの状態にしたほうが有効利

用出来るとのこと、住宅地域にある普天間基地が危険だから辺野古に移動ではないかと不思議に思う。このことにも氏はこう言

う。中国が大変化して沖縄が東アジアの中心になると今の那覇空港に滑走路を数本増長しても足りなくなるから、普天間基地は跡

利用出来るとのこと。飛行機が危険だから移動ではないかと問うと、答えは、銘は明白だ。軍の飛行機と民間機とは違う、民間機

は天候が悪ければ飛ばないが、軍は紛争地の関係から少し天候が悪くても軍用機を飛ばすから事故が起きる、簡単の論理と説明で

見事に疑問に答えている。沖縄が一大センターになれば経済が豊かになる、土地が広くないから建物をタワー式に立てて上に行く

しかない、香港やシンガポールの高層ビル群が沖縄にも林立するのだ。そんな状態になれば、雇用も大幅に増える、土地の値段が

上がる。沖縄にとっては一大チャンスである。本当にそうなってほしいと願う。

沖縄が東アジアの中心地になることは、東アジアの要石になる。そうなるには絶対条件がひとつある、日本領土として沖縄が守ら

れなければならない。悪い輩に侵略されないように防衛が強固でなくてはならない。日本の自衛隊と在沖米軍が必要である。その

二つの軍隊がいる限りは沖縄の安全が保証、保障されているのだ。外資ファンドはその事実を冷静に見ている。防衛がある、安心

して投資出来る環境か考えるのは当然のことですね。昨今の時流に、軍隊は沖縄の経済発展の邪魔をしているから必要ないと言う

が安全が確保出来なければ観光客さえも来ないのでは。危ない所に行きたがるのは戦場カメラマンか報道人くらいだろう。

ハワイは有名な観光地であり、東西の文化、経済、学術、交流センターですね、ではハワイは軍隊の庇護がない無防備でしょう

か?米軍が駐留しているからハワイの安全は守られているのです。これが世界の常識、現実ではないでしょうか。一時の感情に左

右されて沖縄の安全、発展のチャンスを潰してはなりません。洋の東西を問わず、過去の歴史で無防備で経済、文化発展して続い

た国はあるでしょうか?一つもないですね。

どちらを選ぶかは我々ウチナーンチュにかかっています。

tiger60

今日の話しは決して政治的な意図は持たないで書いたつもりです。未来の沖縄が輝かしいことを願うしだいです。我々はいずれ年を取っていく、子々孫々まで沖縄が豊かで真の平和であることを望みます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


東西南北

2016-03-11 15:53:35 | 言語 文化

 

              東西南北

 

世界中、東西南北の基軸でものを考えたり生活したりと文化や歴史などに関係している。琉球も同じですね。

沖縄の方言で東西南北を言えますか?

東 あがり 太陽が上がる

西 いり  太陽が沈む

南 ふぇ

北 にし

どうですか?年配の方なら分かります。東と西は分かるが、南はそうなんだろうと考える、北をにしと呼ぶのが不思議ですね。

なぜかは説明不可能です。那覇市久米に西武門と見たことがあるはずです、字のごとくニシンジョウと呼びます。那覇市の西の方

角にあるから西武門と呼ぶと思っているかたが多いですね。本島は西の方角を表していません。北を表しています、方言で北をに

しと呼ぶからです。久米大通りの端を北と位置して、北(にし)と呼ぶのです。南は国道58号線の泉崎交差点ですね。

なんだかややっこしくて混乱しそうです。現在の西原町も首里城から見れば、北よりに位置するので西原(にしはら)と北を意味

したそうです、その名残で西原町なんです。昔の西原間切りは首里王府の直轄領だったので、その西原が那覇にある末吉は西原の

飛び地であった。石嶺や泊、安里、真和志なども西原間切りに属していたそうです。本来の那覇はごく一部の面積でした。

那覇は浮島でした、浮島通りがあるのは昔の首里城から浮島通りを通って久米などに行ったそうです、宿道だった名残りです。

浮島とは陸地から離れた島だったから浮島と名付けたのです。今の若狭や松山は海だった。埋め立てや橋を繋いで領域が広がった

のです。那覇の町は中州に点々と小さな陸や島が浮かぶ内陸湖のようなものでした。

昔の中国からの冊封使が泊まった場所は今の久米あたりにあり天使館と呼ばれていました。

沖縄のエイサーは誰が持ってきたかご存知ですか?

袋中上人という福島県岩城市出身の教養ある僧侶でした。自分の寺を開いた後、中国(民)に留学しようとして長崎経由で中国に

渡航しようとしたが、折しも豊臣秀吉が朝鮮出兵をして中国との関係が悪い時期でした。アジアの国々を転々として琉球の国にた

どり着きました。1603年から三年間琉球に滞在して浄土宗の布教に努めて琉球国王を帰依させました。国王は桂林寺(那覇市

松山公園周辺)を建立しました。サツマイモや砂糖製造技術の普及、和紙や漆器などの工芸品の発展に貢献した琉球の大恩人、儀

間真常も袋中上人に帰依して師弟関係を結びました。

福島の「じゃんがら念仏踊り」を三線と琉球方言に乗せて作ったのがエイサーの始まりでした、袋中上人がエイサーの元祖とも云

えます。1603年から三年間滞在して福島に帰ったが、その後1609年に薩摩の琉球侵攻が始まりました。所説あるが、袋中

上人は侵攻前に琉球入りしたのは、情報収集のためだったのでは、いわゆるスパイだったのではと捉える人もいます。時期的にタ

イミングが合うのでそうなのではと信じる人も多いようです。そうでないことを祈るが、万が一にもそうなら、琉球国王始め、ウ

チナーンチュが何と幼稚なんだろうと考えてしまいます。スパイ説は、今後なんらかの確たる文書、証拠が出てこなければ判明し

ないはずです。歴史の謎になるかも知れません。

ちなみに首里の王府や士族はエイサーをやる習慣が無かったのです。エイサーは一般庶民に広がり発展してきました、では士族は

何をやったかといえば、旗頭という大きな上りを上げた長い棒を一人の男が持ち、周囲の数人がつっかえ棒で補佐してその雄姿を

披露するものです。旗頭は今でもエイサーと並ぶ伝統伎です。

首里城のことに話しを戻します。城の西側に木製の展望台があります、那覇市の風景が一望出来る場所です。ここは西の方位にあ

るので、いりのアザナと呼んでいます。冒頭で説明したように、西をいり(太陽ば沈む、地平線の彼方に沈み入る)と呼ぶからで

す。南にはふぇのアザナ(南)、アザナとは古い方言で、崖を意味します、切り立った断崖を意味します。

tiger60

どうですか、言葉だけでも琉球の文化や伝統芸能が繋がりますね。場所や地名も繋がり歴史や昔の様が解る気がします。言葉がへ時代と共に変化することは仕方がないが、基本の言語が忘れられることは、その文化、民族などが消えていくのと同じですね。ウチナーンチュが良い意味での危機感を持って後世に伝承、継続出来れば幸いです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


首里城のこと、いろいろ

2016-03-10 19:17:58 | 琉球の歴史

             

             首里城のこと、いろいろ

 

前回に続き、首里城のことを書きます。

首里城、何度行っても飽きない、興味惹かれる城、不思議ですね。自分自身がウチナーンチュだからなのかいつも引き寄せられて

いる感じがします。いにしえの先人達に思いを浮かべる場所でもあります。

首里城は高い場所にあり、東西南北に頑強な石垣が二十に張り巡らされています。誰が勝ってに云ったか不明だが、首里城は平和

で礼節の城だったとの説。城壁をこんなに頑強に造るとは平和だとは言えないと思う。実際に石垣の幅が広く、侍走りと云われる

ように、敵が攻めて来るのを監視、反撃出来るような塀の上で兵隊が走れるようになっています。首里城が出来ても歴代の王達や

家臣達の権力闘争や城に火を放ち炎上するくらいの争いもありました。やはり人間のやることなので平和裏に物事が治まっていた

訳ではありませんでした。首里城の玄関は守礼門を抜けて東に進むと、城の北西側に歓会門があります、そこが正式な玄関です。

中国からの冊封使や薩摩の使者たちや重要な客人、ペリー一行もこの正門をくぐり入城しております。公的な表門となるところで

した。女、使用人、出入り業者、身分の低い者達はもっと東側にある久慶門から出入りしたそうです。身分や地位で出入りすると

ころが違うのは武家社会ではどこでも同じですね。

守礼門の大事なことを言います、門は三つあります。真ん中の門は王や冊封使や薩摩の使者などしかくぐり抜けることが許されて

おりませんでした。その他の人達は左右の二つの門から出入りしました、だけどある程度の身分や地位の人達のみでした。一般庶

民は勝手口である久慶門からの出入りでした。

首里城には大奥の空間があったことをご存知ですか?

大奥とはあの江戸城にあったことは有名ですね。琉球歴史の関係者の間では、琉球の大奥、御内腹(ウーチバラ)を江戸幕府が真

似たとの説が云われています。

首里城本殿の二階は国王のプライベート空間でした、今は一般公開されてる国王の椅子がある間です、御差床、うさすかと呼んで

いました。その裏にある空間が国王が過ごす御書院や御鎖の間や黄金御殿、奥書院となどがあります。そこは国王と家族、女だけ

の空間でした。王子は原復まえの13才までは一緒に過ごすことが出来たが、原復後は一人前の男として二階の空間からは出なくて

はいけませんでした。たとえ三司官の重要な地位にあるものでも二階の国王の間には入ることは不可能でした。用事がある場合は

近習詰所という入り口で鈴を鳴らして用聞きの女官が出てきて伝言を預けるしか出来ないしきたりでした。

tiger60

大奥、ハーレムと同じですね。時の権力者がほしいままに幾百人の女を囲い暮らしていた。正室(本妻)と側室(妾)が子供を産

み、それぞれの子供を次期王位に就けようと熾烈な戦いが繰り広げられた。場合によってはライバルを騙し蹴落とし殺したりもあ

りました。女の戦いは終わりがない、収拾がつかないと云われます。父親は同じでも母親が違うと子供同士でも殺し合い、潰しあ

うこともあったのことは歴史が証明しています。現代を見るとなんと平和な時代だろうとほっとするのはtiger60だけではないは

ずです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


首里城のこと、いろいろ

2016-03-10 00:45:58 | 琉球の歴史

 

 

 

 

 

             首里城のこと、いろいろ

 

首里城、沖縄県民の心の中心とも云える場所。琉球の歴史はここを中心に広がったことでもあった。いろいろな出来事が交差した城である。

tiger60は観光ガイドの仕事をやっているので、この城を頻繁に訪れる機会がある。

首里城の玄関は知っていますか? 守礼門ですね、守礼の門とは呼びません、守礼門が正式の名称です。なぜ県民でも間違えるか

といえば、守礼門に掲げられた額に、「邦の礼守」とあるからです。守礼門と言わないガイドさんも見かけます。首里城の敷地の

入り口は歓会門です。守礼門も歓会門も西に向いています、なぜだかお分かりでしょうか?答えは西の中国を向いているのです。

中国に従属していたから本家の方向に入り口を向けて尊敬と忠義を表していたのです。龍譚池も中国の冊封使から首里城内に庭を

作ったほうがいいのではと言われた尚巴志が部下の国相、懐機を中国に行かせて、中国中を調べてきて龍譚池を作ったそうです。

首里城は尚巴志が天下を取り作ったが、その前の時代に誰かは分からぬが、首里城を建てようとした按司がいたようです。首里城

の石垣の遺構が残っているが、昔の古い石垣の積み方、野面積が残っています。その年代は尚巴志が手掛けた年代よりも古い時代

のものだと分かっているからです。円覚寺側の首里城の石垣に下に古い遺構、上に新しい遺構の表示坂が張られているので分かり

ます。古い石垣の積み方から石工の手の掛かった平積と相方積に変わっていきました。野面積と平積は、下の石ひとつを抜いた

ら、石垣自体が崩れてしまうが、相方積は崩れないように石のカットが5~8角形になっているのです。時代と共に、王朝が栄えて

いくと共に豊富な資金をかけて優秀な石垣を積んでいったのが分かります。首里城の城壁は角が無い造りになっている、丸くなっ

ているのです。日本の城は城壁は直角になっているが首里城は丸みを帯びた形状になっているのも特徴があります。

城壁の一番上には丸く受けに突き出た隅頭石があります。向いている方角は北西と北東です。学術的にはまだ解明されていない

が、中国の風水(フンシー)でいう鬼方にあたる場所であるので、悪い霊魂が寄って来ないように意趣返しの為に作ったのではと

も言われています、tiger60もその説が正しいのではと考えています。

tiger60

首里城の話しは沢山あります。首里城を中心にいろいろなエピソード、ロマンがあります。なるほどそうだったのかと思う出来事

が面白いですね。戦争で焼失して戦後復元したことは素晴らしいことです。中国と日本の建築様式を取り入れ、琉球独自の城に仕

上げている琉球人の巧みさがうかがい知れます。先人達の英知が集約されているのも首里城です。もっと多くの外来の人達はもち

ろん沖縄県民が足を運んで観て自信と誇りを持ってもらえば幸いです。