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魅惑の島 沖縄を知り楽しむ

沖縄を知り楽しむ。
魅惑の島 沖縄。歴史、文化、亜熱帯の気候が織り成す独特な空気。
旅人を魅了して止まない沖縄

沖縄という言葉の発祥地は?

2016-12-10 06:30:55 | 沖縄社会

 

              沖縄という言葉の発祥地は?

 

 沖縄、沖縄、沖縄。 これほどまでに愛着を持つ名前もない。沖の繩とも読める。

沖縄の語源になったのではと言われる場所をご存じでしょうか? えっ!そんなのがあるの?とびっくりされるかも知れません。

それらしきものがあるのです、ところは那覇市崇元寺、又吉道路の崇元寺石門から安里川を渡りマックスバリュー牧志店に向かうと崇元寺橋があります。その右道側に小さなほこらと御拝所があります。橋の上で信号待ちしている車から何気なく見たことがあるはずです。その場所の名前は、浮繩御嶽と言います。ここは琉球の歴史に大役を果たした、安里大親の住んでいたところと言われています。現在より昔は川の幅も広く、深さもあったようです。その場所で安里大親は釣りをしていたとあります。

近くの崇元寺の場所は、昔から王統や統治者が変わろうと、その時々の偉大な王達の聖廟でした。崇元寺の前を通る祭は、馬に乗っている者達は、聖廟の前では馬から降りるべしと決まりがありました。今もその碑があります。「ここから馬から降りるべし」と書かれています、表現がどこか琉球風で面白いですね。

安里大親は実力者だったが、隠居の身、崇元寺に住み、近くの浮繩の海で釣りをする毎日でした。第二尚氏王統を無欠クーデターで打ち立てた尚円、金丸は第一尚氏王、尚巴志の元で那覇港の貿易大臣として、毎日崇元寺を通り那覇港に通っていました。そこで出会った二人は、初対面にもかかわらず、安里大親が尚円はいずれ、琉球国の王になると分かったそうです、霊力がある安里大親はそのことを尚円に言い、その通りになりました。

又吉道路の崇元寺にはそんな逸話があったのです、沖縄の言葉の原語だったのではと考えられる浮繩御嶽、壮大な歴史が眠っているのに那覇市民や県民がどれくらい知っているだろうかと思います。

その浮繩御嶽から久茂地方面に、長虹堤という、海上道路がありました。去る太平洋戦争の時に破損して今は見ることが出来ません。王府時代、首里城から那覇港や中国の冊封使達が宿泊していた久米村(那覇港近く)の天使館までの海上道路であり軍用道路でもあったそうです。

港に関して話します。

那覇港は国場側からの水の流れ出る出口にあります。長年の水の流れに乗り、大量の泥、砂が港に流れてくる、港の深度は浅くなる、浅くなることは、大型の貿易船が港に入れなくなる、不便である。

では浚渫をすればことは簡単に解決するが、昔は浚渫船なんて無い時代、ではどのようにして港の底をさらい、深度を深めるか?

水や泥は常に陸から海側に流れている、その流れの幅を狭くしたら流れの速さが増す、ビニール製のホースを狭めれば水の勢いが増すことと同じです。

陸側から土手用の工事をして海みむけて細い流れを造る、これで流れが速くなる、泥や堆積物が沖合まで流されて船が入る桟橋は深さが深くなるのです。

昔の人は知恵がありましたね、すごいことをやっていた。

今一度、先人達の努力と知恵、未来を見つめた想像力に感嘆します。

tiger60

琉球人としての誇りを感じます。現代の我々よりも壮大なスケールで生きていた情景が見えてきます。今の我々はあまりにも、チマチマした世界に生きているような気がしてならない。時代は進んで便利な社会になったはずだが、ひとつ何かが足りない気がしていたのは、これですね。マインド、日本語では精神!すこし構えた感がある言葉ですね。もっと気楽に表現すると、ロマンとか気構えでしょうか、うまく言えません。ダイナズム溢れる人生を歩きたいですね。

 

 

 

 

 

 

 


日本人として

2016-01-26 21:36:38 | 沖縄社会

 

 

 

 

 

 

 

 

                    日本人として

最近、思う。沖縄県民は日本人であるが、日本人として意識があるのかと不安になる。

振り返れば、戦後生まれのtiger60でも戦後の米軍の施政下での琉球住民として生活していた頃ははっきりと覚えている。生まれた時に終戦から数年して平和な世の中になっていた。人々の暮らしはまだ豊かでも十分な快適さがある生活環境ではないが、悲惨な戦争が終わり安堵していたころの風景があった。

みんな、さあ、これから未来に向かって生きていこうと夢を持ち生きていたと思う。確かに異民族の米国の米軍の統制下にあったとはいえ、戦前のイモ・裸足の時代よりは暮らしが良くなっていた。環境が変われば順応して生きていくものだ。戦後の復興と米軍景気、ベトナム戦争の慌しさなどもあった。ベトナム行きの米兵がどうせ死ぬのだから、お金なんて全部使ってしまえて民間のバー街で湯水のように浪費したので沖縄の業者が大儲けしたものだ。あんなに大儲けしたのはいいが、その熱狂が冷めてあとの不景気感から抜け出せなく、フヌケニになったのも事実だった。かえってそんな景気は無いほうがよかった気もする。

当初、米国は沖縄をハワイやグアム、サイパンなどのように米国の植民地にして、生活全体を面倒をみる計画だったが、琉球住民の人口が多すぎたので、その経費を米国が負担しきれないので、植民地計画は頓挫した。米軍が自由に沖縄を東アジア太平洋の要石(かなめいし)と使えるなら表だっての施政権は日本政府に返してもよいと判断した、いかにも米国らしい抜け目のないやりかたである。

とにもかくも琉球住民は日本人となった(復元したが正しいかも)、復帰して40年余が立ち、今の沖縄がある。復帰前と比べてずい分暮らしが良くなったと思う、解決する諸問題も沢山あるが時間をかけてやっていくしかない。

昨今、今の政治潮流なのか分からないが、日本人ではない風潮を感じる、日本本土からそのような圧力がある訳ではなく、沖縄側から、我々は日本人ではないと恣意するような風潮がある。とても心配になる、まさか日本人を返上するような勢いなのだから、不安になる。

沖縄県民は日本人である、沖縄の方言は確かに本土の言葉と違うが、沖縄語の源流は日本語である、詳しくいうと古の時に北九州の古語日本語から分かれて変化したのが沖縄の言葉である。沖縄の言葉を分解していくと日本語になる、これが日本語が原点である証拠である。中国語なんて単語だけの導入が三割なので、文法の導入が無い、文法の導入が無ければ中国語からの大きな影響や組み込みは無いことになる。自信をもって日本語の一部であると誇れる沖縄の言葉である。

日本人として生きていきたい、日本人として権利と義務がある。国を作る国民とはそのようなものなのではないかと思う。

tiger60は若い頃、海外に良く出かけたものです、日本人として日本政府発行のパスポートを持ち海外を回る、これこそ国の一員として安心して出かけることが出来る。昔の米軍政府発行の琉球政府のパスポートなんて世界のどこに行っても認知度が低く、どこの人だと不信がられていたはずです。

復帰前の沖縄漁船は日本の日の丸を揚げていなかった、琉球の黄色い三角旗を上げて航行していたら南方の国の海上警備艇から機銃掃射されて被弾、船員が負傷することもあったそうです。

国籍や国旗とはそんなものなのです。認知度が無いと怪しまれることは現実ですね。

 

tiger60

最近の風潮を心配するのはtiger60の思い過ごしであってほしいと願う。もう日本人にも飽きた、日本人になったが、夢が覚めて失望した、あるいは日本以外の他所の国が魅力的に見えるから変えてもいいと思ってはいないだろうかと疑心を持つ、あまり考えないほうがいいですね、眠れなくなる。ブロガーの皆さんはどんな思いで最近の沖縄の世論を見ていますか?興味深いところです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


みんなが主役

2015-12-30 06:49:05 | 沖縄社会

 

 

 

                     みんなが主役

 

年末には忘年会が開かれるのでブロガーの皆様もいろいろな会に参加して忙しい年末を送られていると思います。tiger60も那覇市のある団体の忘年慰労会があり進行を

任された。進行の仕方はみんなが主役にした。形だけは何々挨拶、乾杯音頭や来賓の挨拶などを設けたが、各自紹介で言いたいことを話してもらったら、好評でした。各々が自分が主

役のスピーチをして笑いの連続で楽しく終われた、硬いだけの雰囲気が和んで参加者同士の距離が急速にちじまった。まだ話し足りない面々が多かったことは、全員の満足度が高いと

分かった。進行するこちらとしては成功裏に終わり安堵感でいっぱいだった。今年の締めくくりが良い形で出来たことに、良かったと思いました。

みんなが主役のテーマで沖縄の歴史を語ってみたいと思います。

沖縄では、三山時代、琉球王府時代、明治の廃藩置県時代、戦前時代、米軍統治時代、復帰以後時代の時代が変転している。ここに沖縄の歴史や諸問題の根源があるように思う。

 

三山時代はどうだったのか?

地域の腕力のある按司が台頭して勝手に支配地を作った、三ヶ所に勢力が分かれてしばらく体制が進んだのが三山時代と云われる。

この時代は強いものが弱いものを凌駕する弱肉強食の時代である。強引な主役の按司が弱い者を従わせる憐れな体制が長く続くはずはなかった。アジアの連主の中国との貿易で

儲けた時代で琉球かいびゃくの時代でもあった。日本の支配を受けない自由な体制でもあったが、支配者と被支配者がはっきり区別されていたと言える。

 

琉球王府時代はどうだったのか?

この頃になると支配の体制がしっかりしたものになったが、以前として支配される側は苦労が耐えない体制だった。むしろ支配の力と束縛感が強まったものである。この頃になり薩摩

や日本の権力側からの圧力が強くなったが、以前として弱い立場の住民は憐れな環境に置かれたのである。この時代に今で言う、琉球王府の文化、交流、発展の基礎が出来たとも

言える。中国、日本どころか米国の圧力が強まり、米海軍のペリー艦隊が琉球に数度来航してきて、琉球の開国と友好修好条約を結ぶように求められたものである。

 

明治の廃藩置県時代はどうだったのか?

日本は琉球に日本の一県となるように求めた、数年ほど体制を維持したい琉球王府は抵抗した、中国の力を借りて抵抗しようとしたが肝心な中国は力が落ちていて国の存続さえも危

ぶむ状態だった。ならば琉球王府もこれ以上抵抗出来ないと観念して日本の一県となった。琉球住民が日本語を習い始めたのがこの明治廃藩置県からであった。このことは2千年の

日本語を使ってきた本土の一般的な日本人との違いや格差が生じる原因である。学校で日本語教育で教えているが、長年の歴史の重みからくるものには勝てないのである。何かが

違うのである。沖縄県の学力の向上の問題がここにあると考える。明治なり日本の価値感や基準と向き合う沖縄県民、日露戦争、日清戦争、世界大恐慌、太平洋戦争、敗戦と兵役

の義務や戦争の犠牲にも日本国民として向き合った時代ではあった。ではこの先の琉球王府時代と比べて明治の体制は沖縄住民にとってはどうだったか?

奴隷制度、状態から抜け出せたと言える。絶大な権力を振るった支配階級が無くなり自由になった訳である。一般平民は名前だけしかなかった王府時代よりも姓名が出来たことが嬉

しかったはずです。土地開放が進み自分の土地も持てたのだから、奴隷解放どころか体制開放だった。

 

米軍施政権下時代はどうだったのか?

今の沖縄で問題になっているのはこの米軍施政権下にあったことである。ではこの先の明治から太平洋戦争終了までの時代と比べてどうだろうか?これも戦前の生活状態よりは向

上したのである。我々沖縄県民があまり気がついていないことであるが、戦前の芋、裸足の時代から戦後は異民族の米軍施政権下とはいえ、生活の向上はしたのは確かである。公

衆衛生面では他府県よりも沖縄が進んでいた、徹底したアメリカの公衆衛生の思想の教育を受けたのが幸いした。異民族の支配だったからと、東欧や中国のチベット政策のような

がんじがらめの抑圧ではなかったのだ。沖縄県民もそんな環境に置かれて、民主主義とは戦い取るものだと学んだ。昨今の状況は過去の米軍の支配下ではすべてが悪かったと云う

風潮があるがプラスもマイナスも見なければならないと考える。言えることは戦前の時代よりは自由で生活の向上が出来た次代だったのではと思う。

 

復帰後の今の時代はどうなんだろう?

復帰して良くなったのは道路である。生活も戦後の高度成長を日本の国と共に歩みその甘味を体験した。情報の自由、国民としての権利がある。ある米軍施政権下に米軍人として沖

縄に駐留していた将校が40年ぶりに沖縄を訪れた、彼は沖縄の発展した変わりように驚いた、「我々は沖縄で何をやったのか、今のこの発展ぶりを見て我ながら恥ずかしく思う」と

言った。その元将校にとっては、「アメリカこそがナンバーワン!」と信じてきたのが根底から覆ったのだ。それくらい日本の国の底力が凄かったのだ。沖縄は中国、アメリカ、日本の良

いところを取り入れてきた、そのことが沖縄が沖縄たる存在の理由であると考える。

みんなが主役のテーマに戻る、いろいろな時代を通してみんなが主役だっただろうかと振り返ると、そうではなかった。主役は権力者だった、その他大勢の大衆は召使か奴隷と同じ

だった長い期間があったのは確かである。みんなが主役の時代の今、我々は生活を桜花していると言える。いい時代だと思う。

昨今のtiger60の家庭ではみんなが主役だろうかと考えてみた、主役は私ではなくなったことに気がついた。山の神が主役になっているのだ、驚きだ。長年の少しずつそのように慣ら

されてきたふしがあるが分からなかった。皆さんはどうでしょか?まさか主役の座を追われただけではなく、奴隷か召使の身に甘んじてはいないでしょうか(笑)!くれぐれもお気をつけ

て。静かなるクーデターにあって身も体もガンジガラメに成りませぬように共に祈りましょう。

アートゥト ウートゥト......助けてたぼれニラィカナイの神様よ!

 

tiger60

今年最後のブログの書き込みでした。真面目に話すつもりが最後はおかしくなりました、それも善しとしましょう。今年のマブヤーを落としたことを来年まで引きずらぬようにがんばりま

しょう。来年が良き年になりますよう祈念しております。 感謝、二フェーデービル、サンキュウ、謝々、シパシーバ、グラッチェ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


あんた、どこね~!

2015-10-16 16:16:58 | 沖縄社会






              門中


門中、沖縄ではよく聞く言葉ですね。標準語ではもんちゅう、沖縄呼びではむんちゅうと言う。

沖縄はこの門中制度が残っている社会です。tiger60は糸満市の観光関係の仕事でミニバスに乗ることがあります。車内の運転手の名前が掲げられているのを見て、糸満の人達は必

ずどこの門中だねと聞く。運転手もどこどこの門中で屋号はこうこうしかじかと述べる。これが普通の会話としてあるのだ。

現代の社会ではプライバシー意識が出てきて、名前やどこの出身かとか門中かと聞けない雰囲気になっているが、南部糸満市でプライバシーに関係なく会話が成り立つ。

tiger60はこの光景を見て那覇市ではこんな会話が出来ないが糸満市では違和感も無く話せるのは不思議でもあります。

どこどこの出身や出目、門中を聞いて自分と同じ関係者なら話しが弾むのです。これが沖縄の田舎の風景です。血縁や一族意識を大事にする、選挙の立候補者も門中や血族、地縁

をフル活用することが当落につながるとさえ言われる社会です。糸満市や南部の集落の住宅の並ぶ道を車で走っていると、丁度選挙運動の真っ盛りの時、ノボリが立つ広場や家か

ら支持者らしい一団がこちらを見ている、警戒しているようにも見える。地縁、血縁を通じて必死に選挙を戦っている様子が分かります。

地域の発展もこの血縁、地縁によってかなり差がでるようです。結束が固い集落や一族からは市会議員を三名も出す集落もあると言われます、逆に結束があまり無い地域、血縁だ

と一人の議員も当選させることが出来ないところもあるそうです。政治の中身ではなく地縁、血縁で決まるとはすごいことですね。

門中意識も良い面もあります、自分がどこから出てきたのかが分かることは人間としてとても大事なことですね。出目と言う言葉は現代ではあまり聞かないと思います、分からな

い、聞いたことがない人も多いのではないでしょうか。出目とは自分の先祖の大元に当たります。誰でも沢山の先祖が生きてきたお陰で今の自分が生きているのです。一人で生き

ているわけではないのです。目に見えない先祖たちがいたので今の自分があるのは当たり前のことですね、昨今の風潮としてこの自然な簡単な論理が理解していない人が多くな

っているように感じるのはtiger60だけでしょうか。決して自分よがりしてはならないのです、誰かがいて自分がある。

普段の生活では門中を意識することはないが、一年に一回、4月の清明祭や旧盆の時や冠婚葬祭の時に門中の大事さ、こんなに多くの親族縁者がいることに感銘するものです。

先祖崇拝の基本は子が親を敬ぶ心だと確信します。この事実を忘れたら、失くしたら人間失格になりますね。親らしいことをしなくても親がいたから自分が生まれた、自分がいる

のだと考えることは自然なことですね。


tiger60
今日のブログは少し真面目に語り過ぎたかもと思います。

好きな言葉があります、

   失って初めてきずく、親と金!

   悔いのない親孝行が出来るのも親が生きている間だけですね。