天ぷらとてぃんぷらー
久しぶりの更新です。
秋の観光シーズンで超忙しい状態でした。
天ぷらとてぃんぷらー? てぃんぷらーとは沖縄の方言で天ぷらです。
同じ天ぷら属なら中身も同じかというと、少し違います。沖縄の気候は
気温が高く湿度もある。夏場には食材が腐れやすい、てんぷらの素材を
厚めの天ぷら粉で揚げて腐れにくいようにしたもの、もう一つの理由がある、貧しい昔の沖縄、食材が豊
富でないから、安いメリケン粉を多く使い、量をふやしたものです、県
民の好みとして残っており、ソウルフードです。
すべてを破壊し尽くした太平洋戦争の後、県民は食料も生活物資が不足
している時代でした。米軍も最低限度の食糧しか県民も配給をしない時
代でした。戦闘が終了して、落ち着いたら、天ぷらが食べたいと思っ
た、てぃんぷらーの油が多く含んだ食感が湧いてくる。
乏しい芋や野菜の材料を確保してたが、揚げる油がない、無い無いずく
しの世の中でした。県民は米軍のトラックや戦車、車両、軍の機械類に
使われている工業用油、いわゆるエンジンオイルを活用することを考え
た、ソウルフードであるてぃんぷらー食べたい一心で考えた。米軍から
くすねた重油やエンジンオイルでてぃんぷらを揚げた。形はなんとか
てぃんぷらーに仕上がっている。
ワクワクしながら食べた、久しぶりの揚げ物、無心に無中に食べた。
食べ終わり、長い間、我慢していた食べる欲望を満たした。満足感いっ
ぱいだった。20分後から腹の調子が何やらおかしい、ごろごろ、むかつ
き、更にしばらくするとお尻がおかしい、慌てて便所に駆け込む。お尻
から油が漏れているのだ。今、70~80代の方たちはこの経験を当時の
思い出として話す。人は無いなりにいろいろ工夫するのですね。終戦直
後の結婚式の酒の器は、米軍が廃棄したコカコーラのビンを底部近くで
切って、盃として使ったそうです。
先日、嘉手納基地から米軍人、軍属の一行が那覇市壺屋の陶器まつりに
来た。私の所属する那覇市街角ガイドが一行を壺屋陶器通りを案内する
ことになった。私がガイドを務めた。壺屋町の側に、戦後賑わったてん
ぷら通りがある。今や一軒だけが営業している、戦後10軒前後あったそ
うです。そこで米側に戦後の天ぷらを揚げる油のことを話した。興味
深々に聞いていた、もしかしたら彼らの祖父や父親の時代に沖縄に駐留
して軍人だったかも知れない。私は話した、戦勝国のアメリカは敗戦国
側の沖縄県民が戦後の困窮した時期にこのような生活を送っていたこと
を知ってほしいと訴えた。彼らも神妙な面持ちで聴いていた。事実は事
実として話すことによって相互に理解出来ると思います。
tiger60
沖縄と米軍、もう70年余の付き合いになる。良いも悪いもある。悪いこ
とは弾劾せねばならない、しかしすべて弾劾してはならないと思う。良
いことは認める姿勢は必要である。米兵の悪事や蛮行に県民が被害者と
なった時、心ある彼らはひそかに県民の被害の思いに泣いている、事件
とは関係ない軍人、軍属が被害者宅まで行き、土下座して謝ったことが
あった。それでも被害者の悔しさ、無念などは消えないのは確かである
が、陰で県民に寄り添うことをやっている彼らもいることは知ってほし
い。
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