魅惑の島 沖縄を知り楽しむ

沖縄を知り楽しむ。
魅惑の島 沖縄。歴史、文化、亜熱帯の気候が織り成す独特な空気。
旅人を魅了して止まない沖縄

言葉の危うさ

2016-05-06 19:59:58 | 言語 文化

 

               言葉の危うさ

 

言葉の危うさ、昨今は日本語だけではなく英語や別の国でも言葉の危うさがあります。まず日本人、

最近の若者の流行り言葉は全く解らない、まるで宇宙人の話しを聞いている感さえある。

tiger60自身も自分でも気づかないままに変な話しかたをしていことがある。人と話して別れた後、

振り返り何を喋ったのかと思いだすと、我ながら赤面することもある。ブロガーの皆さんも同じ経験

をされたことがあるのでは。

ある学者風の気難しい男と昨年出会った、物事を端的に言う人で、こちらの論理がアヤフヤナ時は、

すかさず論点は何かと突きまくる。こちらはタジタジになる。会話で主語が欠けていて、あれとか、

それとか、あちらそちらと言うと、そんな表現はするなと言う。話している時は、正直ムカッとくる

が後でよくよく考えてみると、彼の言うのが正しいことに気付く。

普段の生活の中で、語尾ははっきりしない、論点がはっきりしない、あれこれ、どこそこのあいまい

表現で済ませていることに気付くて、簡潔にまとめる努力をするようになるものです。

聞かれたことがあるはずです、5W1Hの手法が大事だと。会話でも演説でも報告書や申請書、職場や

団体でもプレゼンテーションをする際に、この手法、基本に沿えば上手く運ぶのである。

5W1Hは、

When(いつ) ・Where(どこ)・Who(誰) ・ What(何を) ・ Why(なぜ) ・ How(どのように)

上記の原則に基づきものごとを運べば、簡潔になる。読むひとにも混乱させない方法なのだ。

この方法をやる前に、自分が何を言いたいのかを明確にすることが大事である。

硬い話しだけではつまらないので、琉球の歴史に言葉のことを話します。

首里城や沖縄県立博物館なで見る琉球の古文書には漢文が多いが、これは琉球が中国を相手に交易

(貿易)をしていて中国皇帝への親書を書く場合に中国語の漢字でないと意思疎通出来なかったから

である。

首里城などにある石碑には表には、日本語のひらがな、裏には漢文が書かれている、内容は両面同じ

意味です。

琉球が中国と交易で付きあう前は、日本語のひらがなだけの表現でした。琉球方言を分解してたどっ

ていくと、日本語になるのです。多くの沖縄県民は、琉球方言は中国からきていると間違ったことを

信じています。中国語の割合はたったの3割しかなく、それも単語のみの導入です。中国語の文法は

導入されていないので沖縄の名前や名称の読み方は独特だと言われる、

東西南北

東はあがり(上がり)太陽が上がる

西はいり (入る、落ちる)太陽が沈む

南はふぇ  日本語では、はえと呼ぶから変化した

北はにし  西をいりと呼び、北をにしと言う、北斗七生(北に上がる星)をふぃぬふぁぶしと呼ぶ

      のから変化した

北谷はちゃたんと呼んでいるが、昔は北谷と普通の日本語読みだったのです。いつのまにか変化させ    

      られているのです。

勢理客はじっちゃくですね、これもせりきゃくなのです。

喜屋武はきやんですね、ちゃんとも言う。これもきやたけなんです、きゃめと呼ぶ時代もあったそう

です。

保栄茂はびんですね、これもほえもなんです。

糸満はいちまんですね、これもいとまんです。

ちなみに、現代の市町村の呼び方、

豊見城市は、とみぐすくしと呼ぶそうです。とみしろしと言わないそうです。現代の市が決めた呼び

      方です。

具志頭村(旧名、現在は八重瀬町)は具志頭、ぐしかみと呼んだそうです。沖縄風にぐしちゃんと言

      いそうだがぐしかみだそうです。

那覇はなーふぁと呼んでいました。今もそう呼ぶ場合が多いです。

具志川はぐしちゃーと呼んでいた、現在はうるま市です。

石川はいしちゃーでした、ここもうるま市です。

金武はちんと呼んでいました。

首里はすいと呼んでいた、今もすいと呼ぶことがある。

宮古はなーくですね。

八重山はえーまですね。

沖縄の呼び方もウチナー、かっては古い言い方には、おこなわと呼ぶ時代もあったようです。

日本語の生活、沖縄県民は日本人になってわずか、145年くらいしか経っていない。1500年の伝

統の日本文化と比べると天地の差さえある。日本語教育を受けてきたが伝統や文化は違う面もある

が、日本語の持つ奥の深さに県民はまだ到達していないと思います。そこが埋めても埋めがたい差で

あると考える。一朝一夕に文化は作ることは出来ないものです。

アメリカの家庭での子供たちの英語の基礎文法がおかしくなっていると聞く。多くのアメリカ人の親

たちも、子供の文法がひどく崩れていることを危惧しているそうです。

日本人が習った英語文法が正しいのです、今のアメリカ人の若者、子供たちは、英語を話せるが文法

が乱れているから、まともに聞いていたらとんでもない表現となり意味不明です。

韓国系アメリカ人の若い青年に数年前に出会う機会があった。日本語が完璧に上手いので片親は日本

人かと聞いたら、両親とも純粋の韓国人でアメリカに移住して自分は韓国系アメリカ人の二世である

とのこと。話す日本語が現代の若者が話す流行り日本語である、態度も日本風に腰が低くお辞儀も

ちゃんとするのだ。日本語学校か日本人の友達がいて言葉を習ったのかと聞くと、日本語を覚えたの

は、テレビやビデオの日本語アニメだそうです。ビックリですね、日本のアニメの影響力がこんなに

凄いとはと思いました。こんな外国人が増えているようです。日本文化ここにありですね。

アジアのある国の人達が英語の上達が早い、上手い国があるのは有名な話しです、彼らの固有の言語

もあるが文字での表現が少ないのと、多言語が多すぎて統一した言葉がないのも理由です。加えてア

メリカがこの国を植民地にしたので英語を普及させて支配する意図もあって翻弄されたのです。言葉

だけではなく政治、経済、いろいろな国民生活において大国アメリカの言い成りになっているので

す。表向きは独立国だが実態は風になびく竹がゆれる国、バンブーと揶揄されました。

 

tiger60

言葉を失えば、国を失う、 名言ですね。真に名言です。

沖縄方言の廃れていくのが分かる、日本語が変化しているのが分かる、アメリカでは英語が乱れているのが分かる。世界中で民族の言葉、言語が消えつつあるのが分かる。世界中が悩んでいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


東西南北

2016-03-11 15:53:35 | 言語 文化

 

              東西南北

 

世界中、東西南北の基軸でものを考えたり生活したりと文化や歴史などに関係している。琉球も同じですね。

沖縄の方言で東西南北を言えますか?

東 あがり 太陽が上がる

西 いり  太陽が沈む

南 ふぇ

北 にし

どうですか?年配の方なら分かります。東と西は分かるが、南はそうなんだろうと考える、北をにしと呼ぶのが不思議ですね。

なぜかは説明不可能です。那覇市久米に西武門と見たことがあるはずです、字のごとくニシンジョウと呼びます。那覇市の西の方

角にあるから西武門と呼ぶと思っているかたが多いですね。本島は西の方角を表していません。北を表しています、方言で北をに

しと呼ぶからです。久米大通りの端を北と位置して、北(にし)と呼ぶのです。南は国道58号線の泉崎交差点ですね。

なんだかややっこしくて混乱しそうです。現在の西原町も首里城から見れば、北よりに位置するので西原(にしはら)と北を意味

したそうです、その名残で西原町なんです。昔の西原間切りは首里王府の直轄領だったので、その西原が那覇にある末吉は西原の

飛び地であった。石嶺や泊、安里、真和志なども西原間切りに属していたそうです。本来の那覇はごく一部の面積でした。

那覇は浮島でした、浮島通りがあるのは昔の首里城から浮島通りを通って久米などに行ったそうです、宿道だった名残りです。

浮島とは陸地から離れた島だったから浮島と名付けたのです。今の若狭や松山は海だった。埋め立てや橋を繋いで領域が広がった

のです。那覇の町は中州に点々と小さな陸や島が浮かぶ内陸湖のようなものでした。

昔の中国からの冊封使が泊まった場所は今の久米あたりにあり天使館と呼ばれていました。

沖縄のエイサーは誰が持ってきたかご存知ですか?

袋中上人という福島県岩城市出身の教養ある僧侶でした。自分の寺を開いた後、中国(民)に留学しようとして長崎経由で中国に

渡航しようとしたが、折しも豊臣秀吉が朝鮮出兵をして中国との関係が悪い時期でした。アジアの国々を転々として琉球の国にた

どり着きました。1603年から三年間琉球に滞在して浄土宗の布教に努めて琉球国王を帰依させました。国王は桂林寺(那覇市

松山公園周辺)を建立しました。サツマイモや砂糖製造技術の普及、和紙や漆器などの工芸品の発展に貢献した琉球の大恩人、儀

間真常も袋中上人に帰依して師弟関係を結びました。

福島の「じゃんがら念仏踊り」を三線と琉球方言に乗せて作ったのがエイサーの始まりでした、袋中上人がエイサーの元祖とも云

えます。1603年から三年間滞在して福島に帰ったが、その後1609年に薩摩の琉球侵攻が始まりました。所説あるが、袋中

上人は侵攻前に琉球入りしたのは、情報収集のためだったのでは、いわゆるスパイだったのではと捉える人もいます。時期的にタ

イミングが合うのでそうなのではと信じる人も多いようです。そうでないことを祈るが、万が一にもそうなら、琉球国王始め、ウ

チナーンチュが何と幼稚なんだろうと考えてしまいます。スパイ説は、今後なんらかの確たる文書、証拠が出てこなければ判明し

ないはずです。歴史の謎になるかも知れません。

ちなみに首里の王府や士族はエイサーをやる習慣が無かったのです。エイサーは一般庶民に広がり発展してきました、では士族は

何をやったかといえば、旗頭という大きな上りを上げた長い棒を一人の男が持ち、周囲の数人がつっかえ棒で補佐してその雄姿を

披露するものです。旗頭は今でもエイサーと並ぶ伝統伎です。

首里城のことに話しを戻します。城の西側に木製の展望台があります、那覇市の風景が一望出来る場所です。ここは西の方位にあ

るので、いりのアザナと呼んでいます。冒頭で説明したように、西をいり(太陽ば沈む、地平線の彼方に沈み入る)と呼ぶからで

す。南にはふぇのアザナ(南)、アザナとは古い方言で、崖を意味します、切り立った断崖を意味します。

tiger60

どうですか、言葉だけでも琉球の文化や伝統芸能が繋がりますね。場所や地名も繋がり歴史や昔の様が解る気がします。言葉がへ時代と共に変化することは仕方がないが、基本の言語が忘れられることは、その文化、民族などが消えていくのと同じですね。ウチナーンチュが良い意味での危機感を持って後世に伝承、継続出来れば幸いです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ウワーフール -臭い話しですが!

2016-03-08 14:51:39 | 言語 文化

 

 

 

             ウワーフール -臭い話しですが!

 

ブロガーのみなさんは、ウワーフールって言う言葉を聞いた覚えがありませんか?50~60代の人なら分かるかもです。出身が田舎

なら分かるはずですが、町方の人なら分からないのも無理はないです、町方には無かったからです。フールの言葉はどこでもありました。

ウワーフール? 意味には豚便所です(直に表現して生々しいのですみません)。

戦前までは田舎や農村・漁村ではどこの家にもあった便所です。では豚と便所が繋いでいる言葉の意味はと思われるでしょう。

石で作った豚小屋がある(露店で囲いだけ)、その側や上に人ば使用する便所があったのです。豚は貴重な食糧でした、現代の今

でこそ豚肉や牛肉、鶏肉、玉子などが普通にあり食べることが出来るが、昔は豚は一年に盆・正月くらいしか食べることが出来な

い貧しい食生活でした。普段は豚小屋に入れておく、人が用を足すと豚小屋に落ちるのを豚が食べたそうです。もちろん人間の落

としたものだけでは豚も栄養が十分ではなく、人間が残したわずかな残飯やゆうなの葉っぱをエサとしていたそうです。

便所は不浄なので屋敷の北西の場所にしかありませんでした、理由ははっきりしていないが中国の風水によると北西は鬼門の一つ

にあたるのでその場所に設置したのではと思われます。では今で云うトイレットペーパーは昔は無かったので、何でその代用をし

ていたのか?旧式の四角いちり紙でもなかったです。天然の豊富に咲いているゆうなの葉っぱを使ったそうです。だからウワー

フールのすぐ側にゆうなの木を植えて、便所の側の木箱に入れてありました。

排泄物も時々垂れて溜まるので豚小屋に溜まりぱなしでは衛生上良くないので、豚小屋の側に肥溜めの槽をつくり貯めていまし

た。昔は人糞を畑の肥料として利用していました、有機農業ですね、今の科学薬品まみれの肥料hよりは良いかも知れません。

自分の畑にまいても余りが出るので、肥溜めを扱う業者に売っていたそうです。戦前までは大規模な専門業者が運んでいたそうで

す。糸満市あたりには船で運び肥溜め場に貯蔵して農家に売っていたそうです。真に立派なリサイクルですね。

トイレットペーパー変わりのゆうなの木も県民には親しまれたものだったようです。ゆうなの葉っぱに餅を包み、あるいは皿の代

わりに使ったりしていたそうです。あぁ!勘違いしないで下さいね、トイレに使った葉っぱを食品の皿などに使ったわけではあり

ませんので。ゆうなの葉っぱは表と裏があり、表はツヤがあり滑らか、裏はごつごつしています。トイレットペーパーに使うのは

柔らかい表でした、時々間違ってごつごつした裏で尻を吹いて痛い思いをしたそうです。

首里や那覇の町方には便所のフールはあったが、豚は飼っていなかった。王族関係や士族の生活にはその必要は無かったので便所

だけだったが、ポットン式の便所だけでした。やはり溜まった肥えは業者にくみ取りをさせていたそうです。そのなごりが衛生公

衆車ですね、今でも田舎あたりだと見かけます。現代の生活ではほとんどの家、会社、施設では水洗式だが、今でもくみ取り式で

利用している地域もあります。その自治体が推進する下水道設備の工事費用が高くつくので、くみ取り式がまだ安いとの理由らし

いです。

tiger60

今日のブログは最初から最後まで本当に臭い話しになりました。「ゆ~らゆら揺れるゆうなの花が~」と歌にもあるゆうなの木、

沖縄ではどこでも自然にある県民の愛する木と花です。どうでしょうか、のどかな昔の生活が見えましたか?臭い話しもここまで

やらなければ昔の人たちが歩いた、生きてきた生活や風景が見えませんね。不便な時代を生き抜いた先人たちの知恵がうかがえま

す。添付してある写真はウワーフールです、歴史ある墓や史跡と見間違わないで下さいね(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


一人よがりの会話! ウチナー編

2015-11-17 08:17:55 | 言語 文化






   一人よがりの会話! ウチナー編


ブロガーの皆様が興味をもっておられるはずのウチナー編一人よがりの会話をします。


おばぁが観光客の若い青年をつかまえて聞いた、

おばぁ   「兄さん、あんたどこの人ねー、ナイチャーか?」

若い観光客の青年は、ナイチャーの意味が分からずとまどい返事がすぐ出来ず黙っていた。

おばぁが独りごとを言う 「やっぱりナイチャーはヒジュルーさー」

注解: ナイチャーは内地人(他府県人)の意

    ヒジュルーは冷たい人の意


バスガイドが中国人らしい男性客がバスに乗ってきたので、慌てて聞いた。

バスガイドはどこに行くかと紙に書いて見せた

「ローマ字で、Dokoni ikimasuka ?] ドコニ イキマスカ?

これじゃ会話が成り立たないですね。


ある沖縄食堂で青年がそばを注文した、昔うら若きおばぁが看板娘となり注文のそばを持ってきた、ソバを入れた容器からソバが二本はみ出して垂れている。おばぁが手ではみ出

したソバを容器に入れるのを見た注文した青年が言った、

「おばぁ、ソバがあふれているよー!」

おばぁ  「兄さん、あんた今の若者にしてはえらいねー、ものを大事にする気持ちはいいよねー」「今のひとたちは物を粗末にするからねー」

青年   「無言」 


ある小さなレストランなのか食堂なのか分からない雰囲気の食事処に入ってメニューを見ていたら、熟年の経営者風のおばさんが言う。

おばさん  「このステーキ、おいしいよー、これしなさい!おすすめだよー」

客     「安いけど柔らかいかねー?」

おばさん  「当たり前さー、私は店やって長いから大丈夫よー」

客はステーキを注文した、

柔らかいどころか、タイヤのゴムを噛むようなノーベル賞ものの固さ、せっかく注文したので悪戦苦闘してなんとか食べたが夜中まで胃の中の不快感は続いた。


沖縄から東京周辺に転勤になり、職場の同僚達と行った店が沖縄出身のおじさんが経営する沖縄居酒屋。喜んだ男性は沖縄では飽きるほど毎日食べられるポークランチョンミート

のオツマミを注文した。出てきた品を見て驚愕した。なんとポークの薄さが新聞紙の厚さに切られた超極薄ランチョンミート4枚、3センチ四方のサイズ。これだけだった、値段は

一皿600円!怒り心頭になるのをこらえて言った、

男性  「おじさん、少ないな、もっとあると思ったのに」

おじさん 「当たり前だろ、運賃や手間賃やらかけて沖縄から取り寄せるんだから」

男性   何も言えなかった


高年者と話していると、現代の話しだと思い聞いていると、70年前の話しをしていたことがよくある。急に話しを変えることを言わずに、どんどん前に話しが進んでいく。もうど

うにも止まらないとは山本リンダの歌のセリフにあった記憶がある。

15年ぶりに会う老年のおじぃちゃん、いろいろ懐かしい思い出話しに盛り上がった。途中、名前が分からない人の話しをするので聞くと、本人の幼な友達で既に他界している人

のこと、40才若い私を同じ世代だと勘違いして話しているのだ。これじゃこちらが戸惑うのも無理はない。

私達も普段の会話の中で論旨や話しの筋道がバラバラの場合がある。まず主語が無い、喋っているほうは気がつかないことが多いが聞いているほうは、何が言いたいのかと頭をフ

ル回転させるが、分からない。終いにはイライラや焦燥感に襲われる。

5Wの使い方をするとすっきりまとまる。

誰が     何を   何処で   なぜ   いつ    どのように(どんな目的で)


Who    What   Where   Why    When   How


この方式でまとめると文章や話し、説明、演説でもうまくいくものです。どんな名演説でもこの法則が根底にあります。


tiger60

生活の中の面白いハプニングとして今日のブログを書いてみました。沖縄だけではなく日本全国でこのようなハプニングが起きていると思います。そのうちご当地ハプニングと題

してブログで上げてみるのも面白いですね。ブロガーの皆様からの便りを待っています、コメントで知らせてもらえばブログと発表も可能です。よろしくお願いします、一緒に楽

しみましょう、笑いを!





 













































沖縄の方言は何語?

2015-11-02 21:55:39 | 言語 文化


 

     沖縄の方言は何語? 


今日のブログは沖縄の方言は何語?と書いてみたい。

今、琉球の歴史、文化などの講座を受けている。習ったことを少し話します。

沖縄方言の6割は古語の日本語から分かれてきた。3割は中国語からの影響、残り1割は他の国からの導入だそうです。方言を分解していくと確かにに日本語になります。古い日本語

が変化してきたのです。沖縄の地政学的位置から外地からの影響、導入があり言葉や食べ物が影響したらしいです。

日本語はひらがなが昔の琉球の言葉として使われていました。特権階級の王族や士族は文字を持ち使い、一般階級は文字を持たなかった。

ひんぷん、ウンチェー、ぼーぼー(赤子)、はんめー(飯)、ぶちくん(気絶)、ヘーレー(山賊)、チュンジー(中国囲碁)などの言葉は中国語から導入された。

ちんぺー(つば)、てーげー(だいたい)うない(女子)、タッチュー(尖っている)は朝鮮語からの導入された。

チャンプルー(料理のかき混ぜ)びんだらい(洗面器)はインドネシア語から導入された。

赤飯はインドネシア料理から導入された。

カイコ(繊維織物の糸)は中国から入って久米島かすりになった。

沖縄の三味線の原点はインドのシタール楽器だった、沖縄で蛇の皮を張り、日本に上陸してネコの皮に変わった。

沖縄の独特な織物、紅型は首里王府、王家だけが使った。

こうして並べてみると、沖縄県民が意識しないで呼んだり話している言葉が意外な国々からやって来たことがわかります。まだ詳しく調べてないが、普段の生活の中で当たり前に

やっている習慣やしきたり、行事などもいろいろ意味があり、意外なルートから来たかも知れませんね。

ブロガーの皆さんはこれらの話しを読んでびっくりされたかもですね。今後、もっと意外なものが出てくるやも知れません、その都度公表します。


tiger60
沖縄って面白いですね。いろいろな変化に富む風習や文化が生活の中に根ずいています。沖縄県民はあまり身近にあって感じなくなっているはずです。再度考えてみるのもいいで

すね。今日のブログは沖縄県民には理解出来たが他府県のブロガーには解かりづらかったかもと思います。なるべく日本語で正確に伝えたいが言葉のニューアンスなどの壁がある

ことはどうしようもないですね、真にすみません。

他府県の皆様も普段使っている言葉や風習、ならいなどを、なぜだろうと考えてみるのもよいのではないでしょうか。それで楽しみが増え
ればいいですね。