琉球から沖縄へ
ご存じのとおり、琉球王府から沖縄県になりました。日本全藩が廃藩置県となったのが1871年(明治4年)だった。265年間続いた徳川幕府の体制が天皇家に移った歴史の変わり目だった。なぜ徳川幕府が鎖国を長い間しいていたのか、理由はいろいろある、自分たちの体制維持もあるが、当時の西洋列強から開国を要求されていたが、開国すればイエズス会の浸透と干渉で日本人が変わるのを恐れたのである。日本を救おうと努力したとも言える。
西欧の企みで日本国内の協力者たち(坂本龍馬や伊藤博文等々)が長崎のグラバーから資金を得て動いたから倒幕が起きた。
倒幕して日本が世替わりする際、明治政府が出来て、新たなる支配構造が出てきた。
琉球王府もその影響を受けた。中国と親しくしてきた背景がありかなり琉球王府内にも明治政府の下にくることを抵抗するグループがあった。中国派と日本派に分かれて琉球も暗たんたる状態だった。
中国派は中国が強大な国で、世界中で一番の経済国家であり、世界最大の軍艦を持ち(英国発注製造)アジアの覇権国だと信じていた。しかし中国はイギリスや他の西洋列強から干渉されて国が危うい状態でもあった。そんな国際的な物の見方をすることが出来ない琉球王府は中国を頼りにしていた。明治政府からは琉球王府の支配体制を解き明治政府に従うようにと再三の要求があったが聞き入れなかった。中国を信じて、応援を派遣してくれるようにと何度か琉球から密使を送ったのだが、中国皇帝は、表向きだけは、中国軍を艦隊で送るからしばし待てとウソをついていた。純粋でウブナ琉球側はいつくるやらと待っていたが、応援は来なかった。その間も明治政府はなるべく説得しようとしたが琉球側は聞かなかった。予算もやる教育もやる住民の福祉厚生も考えると説得したが無理だった。
業を煮やした明治政府は1879年、他府県に遅れること8年して強制的に琉球を日本の一県とした。それでも住民が政府の指導や説得に耳を貸さなかった。政府は他府県よりも有利な予算や教育制度を敷いたが住民側にやる気がないので、現在の首里高校が最初の教育機関だったが、80名ほど試験無しで入学させて少額資金も全員に配布して教育しようとしたが、4年遅れて卒業出来た
学生は7名しかいなかった。これが沖縄での最初の教育の結果だった。中には政府から多額の奨学資金を受け取り、その金で中国にひそかに渡り中国からの応援を要請する始末だった。
日清戦争が始まった、日本海軍が清国海軍の艦艇を大打撃に合わせたのだ、さらに陸地戦でも日本側勝利したのだ。
その光景を見た沖縄住民は、中国が力を失ったことを悟ったのだ、あてにしていた親分中国清国は強くもなく、弱い国だったことが明らかになった。中国の国は事大主義である、同じことをなんどももったいぶってやる民族である、張り子の虎と言われるゆえんはここにある。いつでも面子を重んじて、自分を大きく見せようとする。
こんな中国を信じた琉球側はうぶで何も知らない純粋なのか世間知らずなのかは分からないが、結果として損をする判断力である。
首里城を明け渡した尚泰王一行は首里の龍潭池の向かいにある中城御殿に数か月ほど滞在して後、東京に上ったのだ。東京で広い家屋敷を与えられて暮らした。
余談だが、首里にあるのになぜ、中城御殿と呼んだか!中城城は王の息子に与えられる城と決まりがあったので、中城御殿とよんだそうです。
仏教の普及でも、首里は臨済宗で、那覇は真言宗だったとのこと、その名残りでそのままの形が多いのである。
沖縄は四度名前が変わっている、琉球から沖縄、沖縄から琉球と。
王府から明治日本政府、日本から琉球群島政府へ、復帰により日本へ。
tiger60
歴史に翻弄されて世替わりが何度かあったが、変わらないのは沖縄の住民かも知れない、ならば本当の主人公は沖縄の住民であるはず。こんな当たり前のことを、我々はいつしか忘れていたのだ。
もうひとつ変わらないものが沖縄にはある、緑豊かな常夏の自然、青い空、サンゴ礁の青い海、唄にある芭蕉布の世界がまだある、貴重な財産ですね。
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