魅惑の島 沖縄を知り楽しむ

沖縄を知り楽しむ。
魅惑の島 沖縄。歴史、文化、亜熱帯の気候が織り成す独特な空気。
旅人を魅了して止まない沖縄

あぁ首里城!

2019-11-18 22:13:51 | 歴史

                        あぁ首里城!

               あぁ首里城!

首里城が焼けて無くなった。まさかの出来事。沖縄県民、日本全国、外国でもショックだった。

無残にも焼き落ちる首里城を見て涙が落ちた。

沖縄県民にとって誇れるものは首里城だけだった。心の拠り所だった。

今、心の中は虚無感となった。

火災の原因らしきものが見えてきた。分電盤からの出火だという。何もないところから火が出た。

警備員が本殿の北のシャッターを開けたら火が燃えていた、すでに火が広がっていてなすすべ無い状態で本殿、南殿、北殿と火が広がり、燃え尽きた。未明から火災は始まり夕方近くに消火した。

首里城は漆塗りだから燃えやすい、消火設備のスプリングクーラーも設置されいなかった。

設置は法的義務が無いのが理由だったそうだ、とても愚かな判断をしたものだと呆れる。

法律ウンヌンで決めたのが良くなかった。本来の予防の意識が皆無だったのではと疑いたくなる。

我々観光に従事する者にとって毎日、訪ねていた首里城は愛着があった、誇りだった。

沖縄県民は戦後、米軍の施政権下に置かれてようやく祖国復帰した。嬉しかった再び日本人に戻れて。県民も誇りの首里城が出来た、唯一の誇れるものが出来た思いが県民が持った。

燃えて灰になってしまったのは戻しようがない。

今後国と一緒に再々復元していかなければならない。課題がいくつもある。

屋根の赤瓦が復元が不可能となった、製作者が無くなり再現が出来ない。

木材のイヌマキの木(方言でチャーギという)が絶対数足りない、2年前から本島北部の原生林で美ら島財団が音頭を取り県民による苗木の植林活動が始まった、150後せえいか木材として使えない。代用木材として台湾ヒノ木を使う手があるが、肝心な台湾政府がヒノ木を輸出禁止にしてある。今後の大きな課題になる。

首里城は過去に3度火災で焼失している、太平洋戦争の時は米軍の空爆にあい焼失した、首里城の地下に日本軍が1千メーターの長さの司令部壕を構築していたからだ。

1回目と2回目は失火で焼け落ちた、3回目は第一尚氏の内部抗争で城に火を放って焼いた。

計4回の城の焼失があった。昔は消火設備が無かった、火が点けばなすすべがなかった。

現在は消火設備がある、当たり前の時代だ、だが設備をするのに少しの予算をケチった。

所有者の国と県の記者会見があった。国は沖縄総合事務局の局長自ら会見に出た。県は担当課長

が出た。県は言った「沖縄県は大家の国から現状のまま引き継いだ」。

結論は、責任は無いと言っているのだ。当然、国も県も責任がある。ウヤムヤニすることは明らかだ。

後で関係者から聞いた、出動して消火活動にあたった消防隊員達全員泣きながら消火したそうだ。

父親が美ら島財団に働く消防隊員がいた、懸命に消火に努めたが燃え落ちたことに贖罪の気持ちを持った。息子の隊員は父親に謝った

「お父さん、ごめんなさい、火を消したかった、だけど出来なかった」と号泣した。

この話しを聞いて私達も涙が落ちた。救われた思いもした。沖縄の若者達がこんなに故郷を大事に

思っていることが判ったからだ。

首里城火災の報は日本全国、海外まで知れ渡った。他府県からドイッやベトナムからもお悔やみと

激励の連絡があった。いろんな人たち、国々が沖縄を注視しているのだ。

私達はガイドサービスを提供する組織である。

火災発生の2日間は首里城ガイドのキャンセルが続いた、3日目から首里城以外の観光案内に切り替わった。東北の高校生達が毎年アルミ缶等を集めて売り災害に遭った被災地へ義援金を贈っている。沖縄に修学旅行に来るので、その義援金を首里城復元の為に贈りたいと申し出があった。

沖縄を見てくれている、嬉しい限りだ。

未だ首里城を見ていない県民も多くいる、火災発生後、首里城お周辺でも見たいからとガイド案内を申込む県内自治会が増えてきた、首里城

復元の為に何か役立ちたいとの思いそうだ。

tiger60

過去の出来事から学ぶのが人間であると思う。過去の火災から学び今に生かしていると思ったが

そうではなかったのだ。過去と同じ失敗をしている、それこそ愚かである。

恥ずかしい限りだ。国や県はこの恥知らずな失敗をどう受け止めるのか今後を注視したい。

今年の那覇大綱引きの綱が切れた、与那原の綱も切れた。滅多に切れることがないそうだ。

ある人が言う、「ウチナーはウグァン不足では」。

県民みんなで拝もう、「あートゥートゥ、ウートートゥ」!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


歴史を繰り返し中、どうする沖縄!

2018-10-12 22:45:03 | 歴史

 

               歴史を繰り返し中、どうする沖縄!

 

4月に沖縄戦で亡くなった米兵の話しをアップした。

戦争での悲劇を忘れてはならないと思う。またいつまでも敵だったと思う感情も持たないほうがいい。悲しみは我々だけではない、かっては敵だった彼らも悲しみがあったのだと解かった。もう敵だ味方だと考えないほうが互いの為に良いのでは。

多くのブロガーに毎日読んでいただき反響の凄さに掲載を続けてきた。ものごとには終わりがある、今そのエピソードを閉じるべきときだ。

この太平洋戦争の出来事も沖縄の過去の歴史の中の一つの流れのような気がしてならない。

最近の沖縄を見ていると、沖縄がどこに進もうとしているのか分かる。この流れは過去にもあったようだと思った。

もしかして沖縄は同じ繰り返しをしているのではとの思いに駆られる。

まず過去を振り返ろう。

琉球王国で500年栄えた王朝も日本の国になった。

明治の廃藩置県に最後まで抵抗して沖縄県になるのが7年も遅れた。

当時、琉球の頑固派、親中国派は日本に抵抗していた。明治政府はそれらの人たちにかなりの額の資金を出して日本の一県になるように粘り強く説得した。中国は大国と自負していた対面もあり今すぐ軍隊を送り日本を追い出すと返事をしていた。沖縄から何度も要請した、その度に、軍艦を送るから待てとの返事。中国は世界一の金持ち国だった。アジアの中華大国、世の国々は中国の属領であり、世界の中心にいるのは中国だと言っていた。世界一巨大な軍艦を持ちアジア諸国を回り威嚇したのだ。日本にも寄港してその巨大な軍艦を見せて日本人を驚かせたのだ。だが脆弱な日本海軍の戦艦に敗れたのだ。東郷平八郎が指揮した日本海軍が勝った、陸上戦でも日本陸軍が中国軍を完璧なまでに打ちのめしたのだ。アジア諸国は中国の横暴さに戦々恐々だったが日本が中国を負かした。日本の国に尊敬と信頼が集まった。

中国が黄色の中国海軍の戦艦を琉球に送り日本を追い出してくれると願っていた琉球人は信じる親分が落ちたのを見た。

中国は琉球を助けるどころか欧米列強に押されてじり貧になっていたのだ、そんな世界情勢や状況を理解しない琉球人は盲目に信じていた中国の権威が崩れた。もう頼るものが失くなった。

琉球人はどうしたか、日本人になる決心がついた、決心したら身替わりが早かった。日本反対から日本称賛になった。

明治から大正、昭和となり太平洋戦争を通り、米軍支配を過ぎ日本にふたたびなった沖縄。

今は日本人である沖縄人。最近の政治の状況を見ると過去と同じ経路を辿っているのではと思えてしょうがない。同じ歩みではないのかこれは。

今考えてみる、もし何かの状況で、琉球人が中国を選び、中国に帰化、いや中国人になることを望み中国として歩んできたら我々沖縄人は立派な中国人としての地位を与えられていただろうかと想像した。私の想像では、琉球人は中国人になれず、自ら中国人になることを望んでも中国側がそうさせないだろう、日本から琉球を奪い取り、琉球を属領にしたのでは。属領ならまだ良いが、もしかしたら奴隷並みの立場、身分に置かれているのではと思う。現在のチベットやその周辺国がそうであるように。

中国人は幾千年も国内動乱があった国だ、そんなことも知らない琉球人は中国を美化し過ぎる。

沖縄にはいろいろ問題はあるが、今の状態が中国の奴隷になるよりまだましだと確信する。

我々は中国人にはなれない、沖縄県民は多くが勘違いしている。中国は同胞だ、同胞の沖縄人を責めたり迫害などしないと信じている節がある。まず沖縄の言葉に中国語がいっぱいあるではないかと言う、中国語の単語がある程度はあるが、沖縄語の中でも比率は低い、単語のみの導入である。文法の導入はない。文法の影響を受けていないから中国の影響をまともに受けなかった、県民の日本語化が出来たのだ。単純に考えても解ることである。

今の沖縄県民は中国を疑わないどころか信じきっている。危ない状態だ。日本政府や日本の良識ある冷静な人たちはそれを見ている。

沖縄から米軍を追い出して一番喜ぶのは誰か、中国である。こんな単純なことを県民は見ていない。沖縄県民が情緒的に物事を考えて決める県民性がある。軍隊があるから敵が攻撃すると言う論理、もっともまともで平和主義的に聞こえる、言葉の魔術もここまでくると芸術ものだ。

敢えて、問う、警察や交番があるから犯罪が起こる、無ければ犯罪が無い! こんな無茶苦茶なバカな理屈が通るのかと言いたい。

警察や交番がないと犯罪ばかりの世の中になる。子供でも分かる簡単なことだが、騙され翻弄されている。

中国は沖縄を取ったら、最初は熱列友愛とポーズを取る、しばらくして自分の都合の良いように仕向ける、言うことを聞かなければ、則奴隷に落とす、これは間違いない。今の沖縄の政治動向は中国の宣撫工作で揺さぶられている。沖縄県民が盲目になり分かっていない。

第二次世界大戦、太平洋戦争の沖縄戦で多大な犠牲者が出た沖縄、戦争の悲劇と軍隊反対をうまくからめとられている。沖縄県民の情感を利用した戦術にハマっている。

沖縄こそ世界で有数の安全な場所であると断言する、理由は米軍がいるから。

中国あるいはどんな国でも沖縄を攻撃することはアメリカ合衆国に対する攻撃だと認識される、米軍が発動して迎撃する。迎劇されたら損害が大きくなるのは攻撃した側である。こんなリスクを冒して攻撃してくるだろうか、来ない。

沖縄に米軍がいなくなったら、中国は軍隊を送るだろうか、必ず送る。

昨年、世界中を駆け回る日本人と話した、世界の政府関係や国家元首クラスに友人が多い人だ。

彼が言う、沖縄から米軍が撤退したら翌日中国軍が沖縄に上陸すると。世界の常識がこれだと言った。沖縄県民だけがのんきに一方的な平和主義者なのだ。世界の常識を理解していない。すべての武器を楽器にとは夢、夢想の世界のこと、世界には通用しない。

tiger60

しばらくぶりのブログアップに激白した思いだ。日々のことを思うと発言せずにはいられない。危機感さえある。世の中が平和でありますように!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


首里城あれこれ

2016-09-19 22:35:42 | 歴史

 

               首里城あれこれ

 

 首里城、ウチナーンチュの心の拠りどころと言ったらオーバーかなと思うが、我った自慢の首里城であることは間違いない。

tiger60は観光関係の仕事をしているので、よく首里城に観光客を案内する。

見た通りの不思議なこと、面白い事を書いてみる。

首里城は第一尚氏の尚巴志が作ったと言われる、確かに本格的に造り始めたのは彼の指示で始まった。その昔から誰かが城の基礎を積んだりした跡がある。察度王ではないかとの説が濃厚である。今も首里城の石垣に古い遺構がある、古い遺構の上に新しい遺構が積まれているのだ。古い時代と新しい時代がプレートで案内表示されている。古い遺構(石垣)はのら積である。もっとも原始的な積み方なのである。古い順から、の積み、平積、相方積となっている。

首里城の石垣で北西と北東は直角ではない、丸く突き出している。風水でいる邪気払いの丸さである。未だ科学的論証がされておらず今後の調査にかかる。

首里城の階段は外側に下がっている、排水の為に外に水が流れるように作られている、もっと別の理由がある。敵が攻めこんだ時、場内に入ろうとする時、上に上がりにくいように造られている。

あれだけの広い首里城の中に便所の跡がまだ見つかっていない。総勢500~800人が常時いた城である、どこかにあるはずだと調査中と聞く。ただ国王が日常過ごす、御書院と呼ぶ部屋がある、その後ろの畳の間が控えや着替えの間であるが、オマル様の汚物入れを置いて用をたしたとのこと、国王だけは特別扱いだったようだ。

首里城の二階は国王と家族だけの空間だった、生まれた男子は13歳まではその空間に住めるが、原復の13歳を過ぎるとここを出るのだ、王子は一人前とみなして別の家・屋敷を与えられるのだ。中城城は王子の城と云われる、中城御殿とは王子の住まいを意味する。廃藩地置県まえは現在の首里高校の敷地に中城御殿と大見御殿があった、王子と娘たちや側室などの住まいであった。

首里城明け渡しの為、国王の住まいが無くなるために、その変わりの家屋敷が元沖縄県立博物館跡(龍潭池真向い)に中城御殿が建てられた。国王は短期間だけ住み、東京に移らざるをえなかった。さる太平洋戦争で空爆にあり焼失した。

この屋敷の南東の角がカジマヤーの場所、耳切坊主が立った所として有名だ。

首里城の東側を発掘調査中である、かっては女官や家来、使用人の住む建物があったそうです。女官が200~300人控えていて大奥のようだったそうです。

守礼門から歓会門と入る正門があれば、裏門(勝手口)が北側の久慶門がその役割をする門だった。一般庶民は守礼門から出入りは禁止、近寄ることさえ出来なかったはず。

龍潭池は庶民にも開放されて憩いの場所だったようだ。1420年頃に造られた。

ウチナーンチュにとって、首里城は心の拠り所だが、多くの沖縄県民が首里城の中に入ったことがないのが残念である。見る価値がある首里城である。

tiger60

今日の二ユースで沖縄観光連盟が発表した、2030年までに観光客を1,500万人沖縄に呼び込むとしている。沖縄なら出来ると期待する。沖縄には達成できる潜在力がある。もっともっと宝の山が眠っているように思う。

 


琉球から沖縄へ

2016-05-24 18:50:11 | 歴史

 

 

                 琉球から沖縄へ

 

ご存じのとおり、琉球王府から沖縄県になりました。日本全藩が廃藩置県となったのが1871年(明治4年)だった。265年間続いた徳川幕府の体制が天皇家に移った歴史の変わり目だった。なぜ徳川幕府が鎖国を長い間しいていたのか、理由はいろいろある、自分たちの体制維持もあるが、当時の西洋列強から開国を要求されていたが、開国すればイエズス会の浸透と干渉で日本人が変わるのを恐れたのである。日本を救おうと努力したとも言える。

西欧の企みで日本国内の協力者たち(坂本龍馬や伊藤博文等々)が長崎のグラバーから資金を得て動いたから倒幕が起きた。

倒幕して日本が世替わりする際、明治政府が出来て、新たなる支配構造が出てきた。

琉球王府もその影響を受けた。中国と親しくしてきた背景がありかなり琉球王府内にも明治政府の下にくることを抵抗するグループがあった。中国派と日本派に分かれて琉球も暗たんたる状態だった。

中国派は中国が強大な国で、世界中で一番の経済国家であり、世界最大の軍艦を持ち(英国発注製造)アジアの覇権国だと信じていた。しかし中国はイギリスや他の西洋列強から干渉されて国が危うい状態でもあった。そんな国際的な物の見方をすることが出来ない琉球王府は中国を頼りにしていた。明治政府からは琉球王府の支配体制を解き明治政府に従うようにと再三の要求があったが聞き入れなかった。中国を信じて、応援を派遣してくれるようにと何度か琉球から密使を送ったのだが、中国皇帝は、表向きだけは、中国軍を艦隊で送るからしばし待てとウソをついていた。純粋でウブナ琉球側はいつくるやらと待っていたが、応援は来なかった。その間も明治政府はなるべく説得しようとしたが琉球側は聞かなかった。予算もやる教育もやる住民の福祉厚生も考えると説得したが無理だった。

業を煮やした明治政府は1879年、他府県に遅れること8年して強制的に琉球を日本の一県とした。それでも住民が政府の指導や説得に耳を貸さなかった。政府は他府県よりも有利な予算や教育制度を敷いたが住民側にやる気がないので、現在の首里高校が最初の教育機関だったが、80名ほど試験無しで入学させて少額資金も全員に配布して教育しようとしたが、4年遅れて卒業出来た

学生は7名しかいなかった。これが沖縄での最初の教育の結果だった。中には政府から多額の奨学資金を受け取り、その金で中国にひそかに渡り中国からの応援を要請する始末だった。

日清戦争が始まった、日本海軍が清国海軍の艦艇を大打撃に合わせたのだ、さらに陸地戦でも日本側勝利したのだ。

その光景を見た沖縄住民は、中国が力を失ったことを悟ったのだ、あてにしていた親分中国清国は強くもなく、弱い国だったことが明らかになった。中国の国は事大主義である、同じことをなんどももったいぶってやる民族である、張り子の虎と言われるゆえんはここにある。いつでも面子を重んじて、自分を大きく見せようとする。

こんな中国を信じた琉球側はうぶで何も知らない純粋なのか世間知らずなのかは分からないが、結果として損をする判断力である。

首里城を明け渡した尚泰王一行は首里の龍潭池の向かいにある中城御殿に数か月ほど滞在して後、東京に上ったのだ。東京で広い家屋敷を与えられて暮らした。

余談だが、首里にあるのになぜ、中城御殿と呼んだか!中城城は王の息子に与えられる城と決まりがあったので、中城御殿とよんだそうです。

仏教の普及でも、首里は臨済宗で、那覇は真言宗だったとのこと、その名残りでそのままの形が多いのである。

沖縄は四度名前が変わっている、琉球から沖縄、沖縄から琉球と。

王府から明治日本政府、日本から琉球群島政府へ、復帰により日本へ。

 

tiger60

歴史に翻弄されて世替わりが何度かあったが、変わらないのは沖縄の住民かも知れない、ならば本当の主人公は沖縄の住民であるはず。こんな当たり前のことを、我々はいつしか忘れていたのだ。

もうひとつ変わらないものが沖縄にはある、緑豊かな常夏の自然、青い空、サンゴ礁の青い海、唄にある芭蕉布の世界がまだある、貴重な財産ですね。