魅惑の島 沖縄を知り楽しむ

沖縄を知り楽しむ。
魅惑の島 沖縄。歴史、文化、亜熱帯の気候が織り成す独特な空気。
旅人を魅了して止まない沖縄

天ぷらとてぃんぷらー

2017-12-03 17:00:37 | 戦を超えて

         天ぷらとてぃんぷらー

 

 久しぶりの更新です。

 秋の観光シーズンで超忙しい状態でした。

 天ぷらとてぃんぷらー? てぃんぷらーとは沖縄の方言で天ぷらです。

 同じ天ぷら属なら中身も同じかというと、少し違います。沖縄の気候は

 気温が高く湿度もある。夏場には食材が腐れやすい、てんぷらの素材を

 厚めの天ぷら粉で揚げて腐れにくいようにしたもの、もう一つの理由がある、貧しい昔の沖縄、食材が豊  

 富でないから、安いメリケン粉を多く使い、量をふやしたものです、

 民の好みとして残っており、ソウルフードです。

 すべてを破壊し尽くした太平洋戦争の後、県民は食料も生活物資が不足

 している時代でした。米軍も最低限度の食糧しか県民も配給をしない時

 代でした。戦闘が終了して、落ち着いたら、天ぷらが食べたいと思っ

 た、てぃんぷらーの油が多く含んだ食感が湧いてくる。

 乏しい芋や野菜の材料を確保してたが、揚げる油がない、無い無いずく

 しの世の中でした。県民は米軍のトラックや戦車、車両、軍の機械類に

 使われている工業用油、いわゆるエンジンオイルを活用することを考え

 た、ソウルフードであるてぃんぷらー食べたい一心で考えた。米軍から

 くすねた重油やエンジンオイルでてぃんぷらを揚げた。形はなんとか

 てぃんぷらーに仕上がっている。

 ワクワクしながら食べた、久しぶりの揚げ物、無心に無中に食べた。

 食べ終わり、長い間、我慢していた食べる欲望を満たした。満足感いっ

 ぱいだった。20分後から腹の調子が何やらおかしい、ごろごろ、むかつ

 き、更にしばらくするとお尻がおかしい、慌てて便所に駆け込む。お尻

 から油が漏れているのだ。今、70~80代の方たちはこの経験を当時の

 思い出として話す。人は無いなりにいろいろ工夫するのですね。終戦直

 後の結婚式の酒の器は、米軍が廃棄したコカコーラのビンを底部近くで

 切って、盃として使ったそうです。

 先日、嘉手納基地から米軍人、軍属の一行が那覇市壺屋の陶器まつりに

 来た。私の所属する那覇市街角ガイドが一行を壺屋陶器通りを案内する

 ことになった。私がガイドを務めた。壺屋町の側に、戦後賑わったてん

 ぷら通りがある。今や一軒だけが営業している、戦後10軒前後あったそ

 うです。そこで米側に戦後の天ぷらを揚げる油のことを話した。興味

 深々に聞いていた、もしかしたら彼らの祖父や父親の時代に沖縄に駐留

 して軍人だったかも知れない。私は話した、戦勝国のアメリカは敗戦国

 側の沖縄県民が戦後の困窮した時期にこのような生活を送っていたこと

 を知ってほしいと訴えた。彼らも神妙な面持ちで聴いていた。事実は事

 実として話すことによって相互に理解出来ると思います。

 tiger60

   沖縄と米軍、もう70年余の付き合いになる。良いも悪いもある。悪いこ

 とは弾劾せねばならない、しかしすべて弾劾してはならないと思う。良

 いことは認める姿勢は必要である。米兵の悪事や蛮行に県民が被害者と

 なった時、心ある彼らはひそかに県民の被害の思いに泣いている、事件

 とは関係ない軍人、軍属が被害者宅まで行き、土下座して謝ったことが

 あった。それでも被害者の悔しさ、無念などは消えないのは確かである

 が、陰で県民に寄り添うことをやっている彼らもいることは知ってほし

 い。




 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


やがて6月23日がくる !

2016-06-05 23:57:34 | 戦を超えて

 

 

             やがて6月23日がくる !

 

ブロガーの皆さんは、6月23日が何の日かご存知ですか?昨今は若い人でも分からない世代が増えつつある。

1945年6月23日に日本軍の組織だてての抵抗が終わったと米軍側が判断した日なのです。戦争の停戦ではありません。抵抗の終了です。すこし意味あいが違いますね。敗走状態になった日本軍は抵抗すら出来ない状態であの糸満市摩文仁地区に立てこもりました。軍隊と共に逃げてきた沖縄住民も逃げ場がなく幾多の犠牲者を出しました。沖縄平和祈念公園のある摩文仁地区だけで13~14万人の軍民の戦死者の遺体があったそうです。足の踏み場もないくらいに死体だらけだったのです。そんな砲弾の雨が降る場所で生き残った住民もいました。人には運命のようなものがあるのではと考えさせられることもあります、全員死んでもおかしくない状況でも死なないのは、死ぬ時ではないと決められた人かも知れません。そんな生き残りの人達があの過酷で悲惨な戦争を語りついでいるのです。八十代半ばで平和ガイドとして頑張っておられる吉嶺氏もガマ(自然豪)に家族と隠れて命を生き長らえた一人です。吉嶺氏は母親と妹の三名で摩文仁高地の下の豪に隠れていたが、米軍の投降呼びかけにも応じず隠れていました。米軍の最後通牒で、翌朝に豪を火炎放射器で焼き払うとの通告がありました。翌朝、豪の入り口にいた男性が火炎放射気器で生きているままに焼かれるのを目撃しました。大きな悲鳴を上げて火だるまになり焼かれるのを見て、戦争の怖さを感じたそうです。母親が決意して、外に出て投降しようと言ったら、中学生の吉嶺氏は反対しましたが、母の言う言葉に従いました、「こんな死に方はしたくない、ぬちどぅ宝やさ!」と言ったそうです。「命こそ宝!」の意味なのです。

吉嶺氏の家族が出たら、他の住民もそれに続いたのです。その豪には100名余の住民が隠れてほとんど助かりました。

その後、投稿者が続き、米軍が人数を数えたら、8万人の住民が豪から出てきたそうです。悲惨な壮絶な戦闘があった場所から幾多の人達が命を助かった、悲劇の地でもあり、希望の地でもあったのです。生き残った8万人の人達は戦後、家庭を持ち、子を産み育て、孫が出来て沖縄の戦後の復興に尽力、貢献したのです。

tiger60個人も、戦争で兄、姉と母方のおじ、おばを失くしました。毎年沖縄県主催の異例の日が6月23日に行われます。毎年参加するようにしています。母も亡くなり私が慰霊の日に参拝しないて、いつか子孫が忘れるのではと思い継承していくように頑張っています。沖縄の6月23日は梅雨の終わる頃、梅雨の中、砲弾の雨が降り注ぐ戦場をずぶ濡れないなり、梅雨が明けたら負傷したものは暑いから水をくれと泣き叫び死んでいったのです。

沖縄が背負った運命と言うには、あまりにも無慈悲な戦争だったのです。今、摩文仁の地には平和祈念公園が出来て、かっての敵味方の区別、差別なく合肥してあるのです。死んだらみんな同じ仏になると信じるのが沖縄の心なのです。敵味方を平等に合肥してあるのは世界中でも例がないそうです、沖縄だけが憎しみを乗り越えて共存しているのです。

毎年、慰霊祭に出席して思うのは、政府、総理大臣が参拝に来ると、政治的に反対の立場の団体や個人が非難の言葉を浴びせるのです、拡声器の音量を大きくして慰霊祭の妨げになるくらい自らの主張をしていることがあります。これでは静かに眠りたい戦死者も落ち着かないのではと思います。そっとしてほしい思いが遺族の心情だと思います。亡くなった英霊たちが浮かばれないと思います。

毎年この季節は夏の始まりで、月桃の花がたわわに実を咲かせています、あの時もそうだったのかなと思いをいたしております。

いつまでも平和でありますようにと月桃の花に祈る。

tiger60

沖縄の戦後はいつまでも終わらない気がします。いつまでも引っ張ってはいけないのかもと自問自答しながらも続いています。

戦跡地はいつまでも残ると思うが、合肥や慰霊のやり方が未来の世代では違うものになるかも知れない、時代は進んで変化していくからそれはそれで良いのではと考える、ただ残ってほしい思いだけです、いつまでも。沖縄から世界へ平和のオーラとエネルギーを送れたらいいですね。