奈良は良かった。ほんとーに良かった。
20年近くぶりに行ったわけだが……いいね!奈良はね!
こないだテレビを見てたら、国宝の仏像の半分以上が奈良にあるそうで……。やっぱり仏像を見るなら奈良なんだね!
京都も好きだが、そういえば奈良と違って仏像どっぷりという感じにはならない。
むしろ建物や庭、それらを含めたエリアの魅力ですかね、京都の場合は。
美しいものを視界いっぱいにとらえる、という見方が好きだ。
例えば、屏風を展示ガラスぎりぎりまで近づいて見る。そうすると(大きさにもよるが)、視界のほぼ全てが
屏風で占められ、美に包まれる雰囲気になる。これが至福感に繋がる。
もちろん全体像は見えなくなるけど、細部のみを愉しむ見方が出来る。
こういう見方は、おそらく日本美術特有のものである気がする。
西洋美術は、基本的に対象との距離が日本美術よりも長い。
そして細部ではなくて全体を見るような性質を持っている。
もちろん「モナリザ」の手の重なりの美しさだけを見るような、瞳だけを見るような見方をしてもいいけれど、
それをベースには置いてない。基本はあくまでも全体のバランス。
でも日本美術だと(特に日本画はその傾向があると思うが)何しろ茶室の軸や寺の襖絵などを基本として
発展してきたために対象距離が短いよね。まれには御所や二条城の大広間といったような
そこそこの大空間を飾る絵もあるけれど、一部屋の容積を考えた場合に、比較すれば日本の建築は細かい。
なので、全体よりもむしろ細部に真骨頂を発揮する。まさに描き手の視点の距離で一番真価を発揮する。
「洛中洛外図屏風」なんてのは最たるものでしょう。
全体もキンキラキンでそれなりに美しいものだが、でもああいう絵は目を近づけて、細かく描かれた
庶民の暮らしを見てこそ。
仏像はそこまで寄りで見なくてもいいものではあるが、わたしはだいぶ近寄って、顔をじっと見上げてるのが好きだ。
耳を澄ますように物を見る。目の前の物が語るか語らないかは物の良し悪しというのもありつつ、
こちらの好き嫌いと、精神的肉体的コンディションによるところが大きい。
なので常に最高の出会いがあるわけではないのだが……今回の奈良でも常に最高とは言えないけれど、
なかなかいい出会いもありましたよ。
やはり今回は浄瑠璃寺の阿弥陀仏が筆頭。美的にどうかといえばそこまでではないのだが、
とにかく出会いに感謝出来る、いい出会いだった。
浄瑠璃寺の庭も建物も、派手さはないけれど心地よい場所。開放されるとでも言えばいいのか。
次には二月堂・三月堂付近の風景。静けさや雨催いの空気も相俟って、印象深かった。
ラインの美しさ。絵でも建築でも彫刻でも、これだ!というラインがすっと通っているものは、
……言葉で言い表すのが難しいが、“気持ちいい”。すーっとする。
法隆寺の百済観音。あれは数ある日本の仏像のなかでも特異なもののうちの一つ。
聞こえてくる気配が他の仏像とは違う。衆生を救う温かさではなく、別な世界へのむしろ誘惑。
大仏殿を入口直前から見上げるアングルも印象深い。あれは今まで知らなかった今回の発見。
興福寺の五部浄像と阿修羅像。にらめっこのようにずっと見ていた五部浄像。
勝負に近いですよ、わたしの方はね。先方は特に何も考えてないでしょうけれども。
山田寺の仏頭も、運慶作「木造釈迦如来頭部」も思い出すとそのラインが“気持ちいい”。
あ、忘れてはいけない、戒壇院の四天王とその辺りの佇まい。
宝くじに当たったらこの辺に家を買って住むんだ。
平城宮跡のエキゾチックさも目を開かれた部分。
今回の奈良では、主に上記の場所でセロトニンが分泌されていた気がする。
こういうセロトニンが分泌される場所が家から30分以内にあるといいなあ。
こないだ初めて行ったカメイ美術館の蝶の展示は、視界全てを美しい色彩で埋められるという点において
セロトニン分泌可能な気はするけれども、ぼーっと蝶の標本を見ている人というのも客観的に見て
コワイ気がするので何とかして欲しい……。
わたしの野望?は、ジョー・プライスさんに自身のコレクションの中から作者不詳の「紅白梅図屏風」を
仙台市博物館に寄贈していただくことだな。あれは可愛くてとても素敵。視野いっぱいにとらえて幸せ。
野望でもなんでもなく、ただのおねだりにすぎないが。
また行きたいです、奈良。
しかし高野山にも行かなならんし、積年の課題である大阪の陶磁器博物館にも行かなならんし、
日本征服まではあと9県……。とりあえず近場つっちゃ近場の、新潟・富山に行っておくかー。
ほんとは久々にイギリスに行きたいんだけどねー。
しかし現在のイギリスはレートが超高く、まあ今後も安くなることはしばらくなさそうだが、
多分物価の体感は日本の2倍くらいと思われる。ううう。それでは行けません。
ではまた、いずれ。ごきげんよう。

20年近くぶりに行ったわけだが……いいね!奈良はね!
こないだテレビを見てたら、国宝の仏像の半分以上が奈良にあるそうで……。やっぱり仏像を見るなら奈良なんだね!
京都も好きだが、そういえば奈良と違って仏像どっぷりという感じにはならない。
むしろ建物や庭、それらを含めたエリアの魅力ですかね、京都の場合は。
美しいものを視界いっぱいにとらえる、という見方が好きだ。
例えば、屏風を展示ガラスぎりぎりまで近づいて見る。そうすると(大きさにもよるが)、視界のほぼ全てが
屏風で占められ、美に包まれる雰囲気になる。これが至福感に繋がる。
もちろん全体像は見えなくなるけど、細部のみを愉しむ見方が出来る。
こういう見方は、おそらく日本美術特有のものである気がする。
西洋美術は、基本的に対象との距離が日本美術よりも長い。
そして細部ではなくて全体を見るような性質を持っている。
もちろん「モナリザ」の手の重なりの美しさだけを見るような、瞳だけを見るような見方をしてもいいけれど、
それをベースには置いてない。基本はあくまでも全体のバランス。
でも日本美術だと(特に日本画はその傾向があると思うが)何しろ茶室の軸や寺の襖絵などを基本として
発展してきたために対象距離が短いよね。まれには御所や二条城の大広間といったような
そこそこの大空間を飾る絵もあるけれど、一部屋の容積を考えた場合に、比較すれば日本の建築は細かい。
なので、全体よりもむしろ細部に真骨頂を発揮する。まさに描き手の視点の距離で一番真価を発揮する。
「洛中洛外図屏風」なんてのは最たるものでしょう。
全体もキンキラキンでそれなりに美しいものだが、でもああいう絵は目を近づけて、細かく描かれた
庶民の暮らしを見てこそ。
仏像はそこまで寄りで見なくてもいいものではあるが、わたしはだいぶ近寄って、顔をじっと見上げてるのが好きだ。
耳を澄ますように物を見る。目の前の物が語るか語らないかは物の良し悪しというのもありつつ、
こちらの好き嫌いと、精神的肉体的コンディションによるところが大きい。
なので常に最高の出会いがあるわけではないのだが……今回の奈良でも常に最高とは言えないけれど、
なかなかいい出会いもありましたよ。
やはり今回は浄瑠璃寺の阿弥陀仏が筆頭。美的にどうかといえばそこまでではないのだが、
とにかく出会いに感謝出来る、いい出会いだった。
浄瑠璃寺の庭も建物も、派手さはないけれど心地よい場所。開放されるとでも言えばいいのか。
次には二月堂・三月堂付近の風景。静けさや雨催いの空気も相俟って、印象深かった。
ラインの美しさ。絵でも建築でも彫刻でも、これだ!というラインがすっと通っているものは、
……言葉で言い表すのが難しいが、“気持ちいい”。すーっとする。
法隆寺の百済観音。あれは数ある日本の仏像のなかでも特異なもののうちの一つ。
聞こえてくる気配が他の仏像とは違う。衆生を救う温かさではなく、別な世界へのむしろ誘惑。
大仏殿を入口直前から見上げるアングルも印象深い。あれは今まで知らなかった今回の発見。
興福寺の五部浄像と阿修羅像。にらめっこのようにずっと見ていた五部浄像。
勝負に近いですよ、わたしの方はね。先方は特に何も考えてないでしょうけれども。
山田寺の仏頭も、運慶作「木造釈迦如来頭部」も思い出すとそのラインが“気持ちいい”。
あ、忘れてはいけない、戒壇院の四天王とその辺りの佇まい。
宝くじに当たったらこの辺に家を買って住むんだ。
平城宮跡のエキゾチックさも目を開かれた部分。
今回の奈良では、主に上記の場所でセロトニンが分泌されていた気がする。
こういうセロトニンが分泌される場所が家から30分以内にあるといいなあ。
こないだ初めて行ったカメイ美術館の蝶の展示は、視界全てを美しい色彩で埋められるという点において
セロトニン分泌可能な気はするけれども、ぼーっと蝶の標本を見ている人というのも客観的に見て
コワイ気がするので何とかして欲しい……。
わたしの野望?は、ジョー・プライスさんに自身のコレクションの中から作者不詳の「紅白梅図屏風」を
仙台市博物館に寄贈していただくことだな。あれは可愛くてとても素敵。視野いっぱいにとらえて幸せ。
野望でもなんでもなく、ただのおねだりにすぎないが。
また行きたいです、奈良。
しかし高野山にも行かなならんし、積年の課題である大阪の陶磁器博物館にも行かなならんし、
日本征服まではあと9県……。とりあえず近場つっちゃ近場の、新潟・富山に行っておくかー。
ほんとは久々にイギリスに行きたいんだけどねー。
しかし現在のイギリスはレートが超高く、まあ今後も安くなることはしばらくなさそうだが、
多分物価の体感は日本の2倍くらいと思われる。ううう。それでは行けません。
ではまた、いずれ。ごきげんよう。
