サンパウロの庶民的生活

わたしの半径1メートル以内で考えたことや感じたことをつづってみようと思います。

日本ゲットー

2013-02-08 07:57:20 | Weblog

時々サンパウロにはっきりと現れる前線↓

 いわゆる旧大陸の陸続きで暮らす人にとっては、共通文化を有する人だけで集まる教会やら結社やらがあって、異文化の人にはあまり開かれていない組織があったりする。ブラジルでもそんな組織がある。開かれていないからと言って別に危険なわけではなく、来たい人は迎え入れてくれるし、むしろその中に入れば、誰もが安心できる空間だったりする。ただ、迎え入れられても、一時的にはよくてもお客さんの方がいつまでも落ち着いてその場にいられないというのが本当のところだと思う。極端な例えだけれど、ものすごいきれい好きの人がゴミ屋敷では居ても立っても居られない様な。

 異郷の地で異文化の人が隣にいて、隣人に異う匂いを感じれば感じるほど、ゲットーを求める気持ちは強くなる。

 国際社会は、誰にでも開かれて人が交わる社会と一瞬思いがちだけれど、それは短期旅行とか一時滞在の場合に必要な発想で、島国日本がややもすれば陥りやすい国際化というものへの認識であると思った。異文化に生活基盤をおこうとする時は、より閉鎖的になっていくことが国際化ではないかと思うことがある。

  異文化の人と深く付き合わない間は、「ヤアヤア、アミーゴ」の関係で済ませられるけれど、一歩異文化の生活に身を投じはじめて、家の中、心の中に異言語異習慣の人に入りこまれ始めると、ヤアヤアでは済まされない、決定的な文化摩擦があって、自らの精神衛生を保つのには、ゲットー化する必要が生じたりする。小規模では個人の心のゲットー、それが集団化すると組織的なゲットーになる。もっとも、結婚こそが同民族同士であれ、異民族とであれ、もっとも身近なカルチャーショックだったりする。

 当たり前だけれど地球上はとっくの昔からグローバルで、日本は天然のゲットーで、ゲットー内では必要以上にゲットー化する必要はなかったので、島の中だけを見ているとコソコソとした存在で閉鎖的な構造の人工的なゲットーは見えにくい。危機感も薄く開かれた国際社会にいるような錯覚に陥りがちだけれど、なんせ恵まれた天然のゲットーに比較的単一の民族が暮らしている。つまり、とっくの昔から日本列島というゲットーにいるわけで、地球規模でみると類まれな素晴らしい大きなゲットーと見てとれる気がする。ゲットー内には立派な文化も花開いている。

 ゲットーらしき組織を昔から作ってきたブラジルの日系移民や世界各国の移民の気持ちが、ここのところなんとなく分かるような気がしてきた。