サンパウロの庶民的生活

わたしの半径1メートル以内で考えたことや感じたことをつづってみようと思います。

衛星都市の通勤時間

2014-05-31 08:01:42 | Weblog

 衛星都市と言っても、サンパウロの中心を離れると、都市というよりは町らしい街並みの衛星町が広がっている。
 そんな衛星町とサンパウロ市の中心部を結ぶCPTMと呼ばれる電車の速度はとてもゆっくりしている。各駅停車でもある。
 素敵な駅の雰囲気も電車のスピードもノスタルジック。
 東京と衛星都市を結ぶ電車なら快速で20分で移動できそうだとすれば、この電車はその3倍くらいの時間が費やされ続けている。

W杯効果を期待したブランド?

2014-05-29 06:30:32 | Weblog

 去年後半くらいからだったか、お菓子売り場なんかで目につくようになったドライフルーツ等を売るブランドBrasil Fruit。
 ブラジルっぽさを感じるパッケージのお菓子&運送用トラックのシェゴーーーールの文字が、W杯景気を期待させる。
「2014-5-31号リビングひろしま16面-地球の裏で私たちが応援!」

マラカス

2014-05-27 07:12:24 | Weblog

 日本でマラカスと言えば、メキシコの楽器と思っていた。
 それは本当のことだと思うけれど、マラカスみたいな楽器は世界中どこにあっても不思議ではない。
 ブラジルのグアラニ族が生産するマラカスのような楽器。
 メキシコ風マラカスも独特なデザインがエキゾチックだったけれど、グアラニ族のマラカスはさらにファッショナブル。
「サンパウロ市のグアラニ族」
 

焚書、サッカー少年…

2014-05-26 06:22:02 | Weblog
 サッカー少年たちのスクールユニフォームにアルマジロが付いているのを見たり、子どもの幼稚園でもW杯について調べよという宿題が出たり、なんだかんだ言ってもやっぱりW杯ブラジルは近づいているんだなぁっと。


 昨日、デヴィ夫人も都知事選で応援していた田母神俊雄さんのブラジル講演会が開かれていて、話を又聞きすると、第二次世界大戦後に7000冊ぐらいの本がアメリカによってお掃除(=焚書)されたらしい。
 焚書なんて秦の始皇帝の時代の昔のことだけかと思っていたけれど、いつの時代にも勝者が敗者に対して、自分たちに都合の悪いものは抹殺してしまうもので、なんだか悲しい日本の歴史。
 ブラジルでも第二次世界大戦中、日本人移民の子どもたちが勉強していた日本語の教科書が燃やされたり埋められたりしたのは、生きている人々の口から知らされる事実であり、これだって実は立派な焚書。あまりにも目の前の現実過ぎる焚書だと、衝撃が強すぎて、焚書も焚書という言葉すら忘れがち。焚書というのは何も古代の時代のことだけではなかったんだなあっと。
 そのお掃除する部屋に東大教授が入ると、素っ裸のオランダ人女性が座って髪の毛をとかしていて、犬が入ってきたような眼差しで日本人男性を見ていたんだとか。そのくらい、白人による有色人種への差別はひどかったらしい。現代はどうなんだろう。そんな時代は過ぎていると信じたいけれど。
 ブラジルのサッカー少年を見ていると平和な時代を感じるけれど、今も世界のどこかで正義を掲げた誰かの欲望のために戦争や極度の貧困、飢えに巻き込まれる罪なき普通の人々がいる、と思うと…
  

心あるポルトガル語を伝えるために

2014-05-24 05:45:13 | Weblog
 普段、適当に今日は寒いですね~レベルの会話をするポルトガル語は特に問題ない。至って上辺だけの会話では、悩むこともない。伝えたいというよりは、独り言に近かったりする。
 それが、熱い思い入れのある個人的にお世話になったポルトガル語を母語とするブラジル人に対して、丁寧なお礼状を書くとなると、いざ、作文を書いてみると、なんて機械的なポルトガル語力しかないことに気づかされてしまった。
 意味は通じるけれど、ややもすれば機械の翻訳機レベル。
 日本語を母語、母国語とする人でも、ポルトガル語を母語とする人と毎日生活して、心ある会話をしている人なら、心あるポルトガル語表現も自然に身につくかもしれない。 でも、日本人の家庭で、ブラジルで生活しているとそうはいかない。磨けば比較的簡単に日本語力がアップすることはあっても、ポルトガル語は自発的な努力によってしか身につかない。
 多分、外国人と生活していてさえ、会話で交わされる言葉なんて言うのは、家族や慣れた人との暮らしの中では、ツーと言えばカー、お決まりの言葉でその場が流れていくものだから、会話だけで、心ある言葉、豊かな会話表現を身につけるのは、意識しなければ難しいかもしれない。ひとえに、近くで過ごす人に熱い思いがあるかに尽きると思う。
 お礼をしたい人は信仰深い人であると人から聞いた。それで、思い立ったかのように聖書の中に良い言葉の表現は見当たらないか、まずは日本語で探してみた。インスタント的にふと目に留まった言葉が、箴言17-22の一文だった。

 これをポルトガル語の聖書で見ると、下線部だった。

 特別に難しいポルトガル語ではないけれど、日本語でならともかく、ポルトガル語ですっと出てくる言葉でもない。でも、なかなか思いやりある豊かな表現で、ポルトガル語話者の人にも、心ある言葉として聞き入れられる表現のような気がした。
 結局、ヨーロッパの言葉や文化、表現のルーツには聖書は根深いものがあると思う。聖書を読まない人でも、生活の中でそこに由来する表現や様式が伝えられていると思う。日本人、日本語を母語、母国語とする人には骨の髄に身についていないものだと思う。
 心あるポルトガル語で伝える力を身につけるために、ポルトガル語の聖書を地道に読むのは必須かなとふと思った。
 高校生の時、なぜか一人の英語の先生が、個人的に英語と日本語の聖書をくれたことを思い出した。あの時の意味が今、ようやく分かるようになった気がする。
 

本一冊は安くても…

2014-05-22 05:29:42 | Weblog

 W杯ブラジル大会に出場する各国選手の顔写真や会場写真なんかを貼って仕上げるアルバム本。
 本一冊は安いタイプで6レアルくらい。
 その後、5枚一組で1レアルのシールを買ってはっていく。
 新聞雑誌販売所の店頭で購入すると中に何が入っているかが分からず、同じ顔写真が出てくることがある。
 そういう場合は友達と交換するのだけれど、それでも、全ページの顔をそろえるために、300レアルも費やしたという親子の話が聞こえてきた。
 本一冊は安くても、その後、うっかりその60倍の経費が掛かる覚悟も必要な一冊。