ヨーロッパの言語、ブラジルではポルトガル語になるけれど、多分、日本語のみが母国語の人は、ポルトガル語を流暢に話せないとか理解せずに過ごし続ける人が、ヨーロッパや中東出身の人に比べて断然多いと予想する。
そもそも日本語とポルトガル語が全く違う言語である上、異言語を習う意味についての定義の不安定さが日本にはある気がして、それがいつまでも言語の使いこなしの向上に歯止めがかかる気もする。
ブラジルでもヨーロッパ(いわゆるポルトガル、スペイン、イタリア、及びフランスなどのラテン系の国々)、および南米のスペイン語圏から来た人は比較的ポル語が早く上手に話せるのは、方言的な似ている言語同士という事が要因しているという事で納得がいく。ノンバーバルな文化も日本とほどはかけ離れていない。
中東出身者に関して言えば、ポルトガル語やヨーロッパ言語の生みの親的な言語や文化を持っているという自負がありそうに見える。ポルトガル語の何千とも言われる単語がアラビア語起源だったり、キリスト教文化の起源は言わずと知れた中東で、親なんだから、自分でまいた種の子の文化を理解するのは容易だったりする。事実、アラブ系がサンパウロの政治経済で君臨するのも自然な流れかもしれない。
同じヨーロッパといえども、ドイツ以東の中欧や東欧となると、ゲルマン語やスラブ語、ハンガリーにおいてはアジア的な独特な言語で、フィンランド語も独特な言語という事から、ポルトガル語とはどうやら一線を画する言語らしい。でも、そのような国の人々のポルトガル語の流暢さといい、さらには異文化(ブラジル)への理解力といったら、どうもラテン系の国々の人よりも深い気がする
特に中欧の国の人々は、民族語はありながら、長らくいつも西から東からと新しい支配者が出入りするわけで、それ故に民族意識は高まるものの、民族語に固執しても生きる糧には乏しいわけで、生き延びる糧の言語を学ぶしかないという割り切りが容易にできる性質が育まれていると予想できる。時にドイツ語、時にロシア語、時に英語やフランス語は食べるためには学ばねばならず、学んでいるうちに、自然と異なる多文化の理解力が高められて、知的な雰囲気の中欧の人が多くなるのかもしれない。
ヨーロッパの人は何か国語も操るなんて言うイメージは、どこの国でも見られるだろうけれど、もっとも優れて多言語を操るのは、多分中欧出身の人なんじゃないかと思うようになった。どんなに流暢にポルトガル語を話しているように見える中欧の人でも、よくよく聞くと、一番楽なのは(多分、心の事)、出身国、母語である中欧の言語らしい。
そんなこんなで言語文化的にどこにも属し難い日本を思うと、つまるところ、世界での位置は、冷静におとなしく世界の傍観者となるか、世界を大人な姿勢でまとめられる孤高の存在になるかのどちらかというのが、独断的な結論だったりする。見習えるとしたら、中欧的な言語文化に対する姿勢が理想であると思う。つまり、生きる糧と割り切って、徹底して必要な第二言語を学ぶというあり方・・・異文化に身を置かねばならないというのは、心の苦の種でもあり楽の種でもある。