遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

山村暮鳥③ー初期詩編まで

2019-03-17 | 心に響く今日の名言
 山村暮鳥が群馬での生活を離れて東京築地聖三一神学校に入学したのは明治三十六年。入学の経緯については曖昧ながら、親しかったウオールの世話であったようだ。本人の「半面自伝」によれば「(進学校に入るまで)に自殺を図ること前後三回。学校では乾燥無味なギリシャ、ヘブライの古語学より寧ろ文学の方面により多くの生けるものを感じ、その研究に傾いた。」と 述べている。
 
暮鳥は明治三十七年に岩野泡明、前田林外、相馬御風が創刊した短歌雑誌「白百合」に短歌を発表。これが文学活動の第一歩をしるすことになる。当時は木暮流星の筆名で掲載していた。その作品を右に記してみる。

さらば君白衣さきてわれゆかん野にはいなごの餓のあるまじ
名は知らず柩かく人髪白く泣く子にしむき竹の杖とる
うけたまへわが霊神よかへしまつる落穂に足らふ鳥もある世ぞ
秋が乗る天馬にやらめしろかねの倉にふさはん黄金向日葵
母おいて小狗よぶ子のあとさきに絵日傘二つ何おもひ行く
うらぶれて行く子いだきて彩霞(あやがすみ)いずか消えん果てをおしへよ
あゝ恋いよ汝がうちすてし詩の子はいま太刀とりて馬駆り行く

 (短歌としては特に見るべき作品もないまま、のちに詩へと転向することになる。)やがて日露戦争が開戦し、戦時補充兵として召集され満州に渡った。明治三十八年から九年まで満州にいて、帰国後は再び進学校の学生となる。やがて牧師となりまた作家となっていく素地をここで養ったとされていて、詩人としての活動を展開していくことになる。和田義昭氏の文章によれば明治四十年の頃、短歌から詩へと転向していく。「書生はもう三十一文字やめ申し候、この頃は長詩(新体詩)のみ作りをり候、なかなかさかんなものに候、」と詩作への抱負を述べたことを記している。なぜ短歌をやめて詩作に変わったのか、その理由は書かれていない。短歌では自分の思いを実直に述べることが出来なかったのだろうか。その年の暮れには『文章世界』に次のような作品が掲載されている。まさに初期の詩作品である。

葛蔦の一褸
石の壁の
上をひきぬたそがれ。

あたゝかき光
追ふなる陰の相
たちまち冷えて
吸はれ行く
影よとまれ
我が心
あなや崩るる。
花もなく葉も
落ちはてゝ
冬近きこぼれ日拾う
恋いなればー恋は
いだけど脈絶えて
血の燃えぬ壁 (「壁」全行)

 口語自由詩の芽は山田美妙のによって提唱され発表された。次のような詩が「伊良都女」に発表。

  一
こどもよまなべ
おもちゃをしまへ
あそびたいなら
まずよくまなべ

こどもよあそべ
わすれようさを
なまけずあそべ
きままにあそべ

こどもよねむれ
ねむりてやすめ
からすもねぐら
金魚も しずむ

たあいないものであったが、鉄幹、湖処子、夜雨、林外、泡明、夕暮らの詩人によって、それそれの雑誌に口語自由詩が全盛をきわめていく。明治四十二年に自由詩社から「自然と印象」が創刊。人見東明の「酒場と夢見る女」が発表され、その第九号には暮鳥の作品が掲載されている。(つづく)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿