遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

井上靖論4

2017-12-26 | 心に響く今日の名言
(二)       

 「日本海詩人」第五巻号十一月号に掲載されたときは行分け詩である。『全詩集』にはこのめずらしい行分詩を散文詩のスタイルに変えて収められている。(一字一句異なってはいない。)
 この「日本海詩人」で結束した詩人たちも、大村は四十九年、埴野は五十七年、宮崎は六十三年に病没、それぞれの生涯を閉じることになる。
 ここでさきほどの井上靖の「青春」の後半を読むことにする。冒頭に引用した部分とつながった一連の散文詩である。 
   
   この一枚の青春の絵を、それから今日まで四十年の間に、
   私は何回思いだしたことであろう。思い出す度に、絵は
   遠く小さくなって行く。そしてこの頃ではもう、雪に降
   りこめられた石動の町は、蜆貝を並べたようなものとし
   て眼に浮かび、駅の建物もまた、その蜆貝の一つになっ
   ている。蜆貝の中に居る二十歳の私! 暗く、哀しく、
   純粋である何かが、雪を跳ねのけ、雪にまぶれながら近
   付いて来る明るい花畑を、賑やかな市場を、シャンデリ
   アの眩しい謁見の部屋を待っている。刻一刻、それらが
近づいて来るのを待っている。   (「青春」後半部分)

 この詩はここで終わっている。
「蜆貝の中にいる二十歳の私!」が、「雪を跳ね除け、雪にまぶれながら近づいてくる」明るい未来への予感。それを希求して終わる詩には、蜆貝という石動の町全体の侘びしい比喩と自らの内面とを重ね合わせて「一枚の青春の絵」に遠い春をまちわびる心情がつたわってくるだろう。このことはむろん事実かどうかはわからないが、石動を訪ねたことは事実でも、鬱屈した青春の淋しさ、哀しさといった感情を、たとえそれがフイクションであれ、それもふくめて詩的事実として受け止めたい。


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