遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

昭和歌謡曲の軌跡9

2017-09-30 | 昭和歌謡曲の軌跡
「東京行進曲」の作詞者西条八十が雑誌『キング』に連載中の菊池寛原作「東京行進曲」映画化にあたり、その主題歌を委嘱されたのは37歳の時でした。


●特記(その前に昨日書き忘れていました、昭和初期のレコードの値段をここに記しておきます。
・レコードは、12インチが2~4円、10インチが1~1.5円。
・蓄音機の方は、 ゼンマイ式の外国製で200~500円。国産品 20~200円
・電蓄の場合、外国製200~800円、国産品70~300円。
・当時の主要都市での一所帯の平均月収は130円95銭。紳士服100円前後。家賃は21円前後という時代でした。)

    
「日本一おもしろい、日本一ためになる、日本一安い」と銘打って『キング』が定価50銭で創刊されたのは、大正14年1月、発売と同時に50万部を売り尽くし、版を重ねて74万部を記録。昭和3年当時は150万部をこえる文字通り「大衆雑誌の王様」でありました。
その雑誌に連載中の小説を映画化するにあたり、主題歌を依頼した日活宣伝部長樋口雅美は「ストーリーに縛られず、ヒットする物ものを書いてほしいい」と西条に申し込んだといいます。

すでに大正8年6月に第一詩集『砂金』を上梓、訳詩集をむくめ10冊をこえる詩集を世に送り、大正13年から足かけ3年にわたるフランス留学を追えて、早稲田大学でフランス文学・近代詩などの講座をもっていた西条八十でありました。

第一次大戦で荒廃したヨーロッパに変わり、戦後のベルサイユ体制の提唱にその力をみせたアメリカが大きくクローズ・アップされ、アメリカナイズされた風俗が、即モダンの名のもとにもてはやされていたころです。

スウェーデンからハリウッドにやってきたグレだガルボの登場はたちまち人々を魅了し、「モロッコ」でマレーディートリッヒがシンプルな中に女らしさを協調すればそれがそのままファッションの中心となりました。モダンガール、モダンボーイが銀座を闊歩した当時の風俗を安藤厚生は『銀座細見』で次のように述べています。

「昨日まで、銀座は、フランスの文化の下にあった。今日では銀座に君臨するものはアメリカである。ヴアレンチノ出ずれば銀座青年の揉み上げは一斉に長くなり、コーリン・ムーアの映画来れば銀座の女性は一斉に断髪した。何が銀座をさうさせたか。
 いま、ふたつの恐怖が世界を指導ている、ロシアとアメリカだ。まことにーー
アメリカが世界なのか?世界がアメリカなのか?ヨーロッパは完全に田舎になってしまった。日本は明治以来ヨーロッパ文明は一応吸収してしまった。我らも彼らと同じ水準に立っているのだ。今やスピードとアメリカだ。日本人の多くはアメリカを通じてのみ世界を理解しようとしている。」

長々とした引用になったが、当時に日本の姿がうかびあがってくるだろうとおもいます。
このときヨーロッパの各地を回って帰国した西条八十は、こんな風俗をどのように感じたのだろうか。

銀座 銀座と 通ふ奴は馬鹿よ
 帯の幅ほど ある道を
 セイラー・スボンに 引眉毛
 イートン・断髪 うれしいね
 スネーク・ウッドを棹(ふ)りながら
 チョイと貸しましょ 左の手

これは、昭和3年、川口松太郎・直木三十五らの雑誌『苦楽』に寄せた「当世銀座節」であります。
この詩は、同時に載った西条八十の「マノン・レスコオの歌」とともに中晋平により曲がつけられ、佐藤千代子の歌でビクターでレコーディングされた(昭和3年7月発売)が、ここにみられるアメリカンモダニズムへの揶揄は「東京行進曲」やそれに続く「都会交響曲」に共通してみられるものでありました。

ところで日本にジャズソングが流行したのは昭和3年頃から後だそうですが、それは本格的というよりジャズ風のリズムで演奏されるアメリカのポピュラーソングやダンスミュージックだったということです。このことは次回します。


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