立原道造ノート6
「(大学三年の夏、)追分を訪れるがその途中、汽車の中で偶然、一少女と知り合う。彼女は近く結婚する身であることを告げて軽井沢で下車してしまうが、別れに肌につけていた十字架を彼に与えた。 追分では、例の恋人の到来を待つが、彼女も東京から別れの手紙をよこし、なかなか姿を現さない、 やがて彼女を垣間見るのだが、ついに言葉を交わすこともできず、別離は決定的なものになる。これらの重なる別れを味わった彼は心の痛みに耐えかね、夏の終わりに追分かららひとり飄然と近畿に旅立つ」やがて旅先で車中にもらった十字架も別れの手紙も 勝浦あたりの海に捨てる。この詩はそのときのものなのかどうかわからないが、傷心の旅であったことはたしかなようだ。恋人を思う夢はもはやそこまで。ありもしないふるさとの風景だから本質にはたどり着けない。観念の中のふるさとは思い出の中で凍らせる、あるいは凍えているものであり、啄木の「ふるさとはありがたきかな」の心境とはずいぶんかけ離れてしまう。また犀星の「小景異情」の「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの/よしや/うらぶれて井戸の乞食となるとても/帰るところにあるまじや」を思いおこさせてくれた。
山のみねの いただきの ぎざぎざの上
あるのは 青く淡い色 あれは空
空のかげに 輝く陽 空のおくに
ながれる雲……私はおもふ 空のあちらを
夏の日に咲いてゐ 百合の花も ゆふすげも
薊の花も 堅い雪の底に かくれている
みどりの草も いははなく 梢の影が
茜色のこまかい線を 編んでゐる
ふと過ぎる……あれは?白 あれは鶸!
透いた林のあちらには 山の峰のぎざぎざが
ながめてゐる 私を 私たちを 村をーー
すべてに 休みがある ふかい息をつきながら
耳からとほく 風と風とが ささやきかはしてゐる
……ああ この真白い野に 蝶を飛ばせよ!…… (「ひとり林に」全行)
私が愛し
そのためにわたしのつらいひとに
太陽がこうふくにする
未知の野の彼方を信ぜしめよ
そして
真白い花を私の憩ひに咲かせしめよ
昔のひとの堪へ難く
望郷のうたであゆみすぎた
荒々しいつめたいこの岩石の
場所にこそ (「冷たい場所で」全行)」
この「冷たい場所で」は伊東静雄の作品であるが、先の立原道造の「ひとり林に」と傍線の部分がにていないか。立原は昭和十二年三月に大学卒業間際に「コギト」に発表している。「この真白い野に蝶を飛ばせよ!」と「真白異花を私の憩ひに咲かせしめよ」と並べてみると不思議にどこか詩句の影響を見ることができないか。「コギト」に掲載された詩を読んでいたことは当然であろう。
また立原道造は、中原中也の詩をどのように見ていたのだろうか。おそらくライバル的な意識がなかったとはいえないだろう。中原中也の〈汚れちまった悲しみに……〉を評してーーこれは詩である。しかし決して「対話」ではない、また「魂の告白」ではないーーといらだつように断じている。立原の詩こそ完璧に芸術化されたモノローグである。立原は自らの「生」と「詩」とをいらだつくらいに錯覚していたのだといえよう。このことは菅谷規矩雄は次のように述べている。
「立原が「魂」を完璧に欠落させしめていたゆえに可能になった。告白するにたる「魂」を欠いている故に、そのモノローグは、徹底して「対話」の仮装と仮象をおいもとめた。中原の「魂」とは、そのあまりの現実性のゆえに「心理」たらざるをえないもののことであり、立原の心理すなわち「対話」は、そのあまりの物語性のゆえについに「魂」にとどくことのないものであった。立原は中原にたいして同時代的に拮抗しうる詩人でもあったのである。「完璧な芸術品」を作り上げたのは、中原ではなく立原のほうである。」
立原道造の詩は、自然を唄ったとして詩のうちの夏が一番多いのはなぜか。古典的な短歌などを見ても夏は一番歌としては作りにくいはずである。併し立原は軽井沢、追分といった舞台によって夏という季節は自然に詩の場面にとりいれられたのではないかともう。立原の詩の世界が一つに夏を舞台にしている。これは都会からみれは豊かさの象徴でもある。一方、宮沢賢治のように農村では、農民の感覚からすれば冷夏は不作の代名詞にもなる。立原がこの浅間山麓での「不毛な美」を見極めようとすれば必然的にこの背理のさけめのにみこまれてしまうだろう。古典的な和歌の作者たちは盛夏に対していわば口を紡いできた、口をつむぐざるを得なかった、というべきだろう。立原の「夏」は、全く別の社会のように、異和のように現れる。
昭和十年代の都会生活者にとっては、避暑地の夏の軽井沢での生活、あるいは別荘でのひと夏の生活は一つのステータスか、あこがれであったのだろう。立原道造の詩もまた若い人のあこがれに転じていったに違いなかろう。詩集は「日曜日」「萱草に寄す」「暁と夕べの詩」「優しき歌」(没後刊行)立原はこれを「風信子叢書」第三編と出版するつもりであったらしい。神保光太郎によれば、その草案を中村真一郎から示されたことがあって、その記憶に従って配列などを編集し現行の詩集になったという。
「(大学三年の夏、)追分を訪れるがその途中、汽車の中で偶然、一少女と知り合う。彼女は近く結婚する身であることを告げて軽井沢で下車してしまうが、別れに肌につけていた十字架を彼に与えた。 追分では、例の恋人の到来を待つが、彼女も東京から別れの手紙をよこし、なかなか姿を現さない、 やがて彼女を垣間見るのだが、ついに言葉を交わすこともできず、別離は決定的なものになる。これらの重なる別れを味わった彼は心の痛みに耐えかね、夏の終わりに追分かららひとり飄然と近畿に旅立つ」やがて旅先で車中にもらった十字架も別れの手紙も 勝浦あたりの海に捨てる。この詩はそのときのものなのかどうかわからないが、傷心の旅であったことはたしかなようだ。恋人を思う夢はもはやそこまで。ありもしないふるさとの風景だから本質にはたどり着けない。観念の中のふるさとは思い出の中で凍らせる、あるいは凍えているものであり、啄木の「ふるさとはありがたきかな」の心境とはずいぶんかけ離れてしまう。また犀星の「小景異情」の「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの/よしや/うらぶれて井戸の乞食となるとても/帰るところにあるまじや」を思いおこさせてくれた。
山のみねの いただきの ぎざぎざの上
あるのは 青く淡い色 あれは空
空のかげに 輝く陽 空のおくに
ながれる雲……私はおもふ 空のあちらを
夏の日に咲いてゐ 百合の花も ゆふすげも
薊の花も 堅い雪の底に かくれている
みどりの草も いははなく 梢の影が
茜色のこまかい線を 編んでゐる
ふと過ぎる……あれは?白 あれは鶸!
透いた林のあちらには 山の峰のぎざぎざが
ながめてゐる 私を 私たちを 村をーー
すべてに 休みがある ふかい息をつきながら
耳からとほく 風と風とが ささやきかはしてゐる
……ああ この真白い野に 蝶を飛ばせよ!…… (「ひとり林に」全行)
私が愛し
そのためにわたしのつらいひとに
太陽がこうふくにする
未知の野の彼方を信ぜしめよ
そして
真白い花を私の憩ひに咲かせしめよ
昔のひとの堪へ難く
望郷のうたであゆみすぎた
荒々しいつめたいこの岩石の
場所にこそ (「冷たい場所で」全行)」
この「冷たい場所で」は伊東静雄の作品であるが、先の立原道造の「ひとり林に」と傍線の部分がにていないか。立原は昭和十二年三月に大学卒業間際に「コギト」に発表している。「この真白い野に蝶を飛ばせよ!」と「真白異花を私の憩ひに咲かせしめよ」と並べてみると不思議にどこか詩句の影響を見ることができないか。「コギト」に掲載された詩を読んでいたことは当然であろう。
また立原道造は、中原中也の詩をどのように見ていたのだろうか。おそらくライバル的な意識がなかったとはいえないだろう。中原中也の〈汚れちまった悲しみに……〉を評してーーこれは詩である。しかし決して「対話」ではない、また「魂の告白」ではないーーといらだつように断じている。立原の詩こそ完璧に芸術化されたモノローグである。立原は自らの「生」と「詩」とをいらだつくらいに錯覚していたのだといえよう。このことは菅谷規矩雄は次のように述べている。
「立原が「魂」を完璧に欠落させしめていたゆえに可能になった。告白するにたる「魂」を欠いている故に、そのモノローグは、徹底して「対話」の仮装と仮象をおいもとめた。中原の「魂」とは、そのあまりの現実性のゆえに「心理」たらざるをえないもののことであり、立原の心理すなわち「対話」は、そのあまりの物語性のゆえについに「魂」にとどくことのないものであった。立原は中原にたいして同時代的に拮抗しうる詩人でもあったのである。「完璧な芸術品」を作り上げたのは、中原ではなく立原のほうである。」
立原道造の詩は、自然を唄ったとして詩のうちの夏が一番多いのはなぜか。古典的な短歌などを見ても夏は一番歌としては作りにくいはずである。併し立原は軽井沢、追分といった舞台によって夏という季節は自然に詩の場面にとりいれられたのではないかともう。立原の詩の世界が一つに夏を舞台にしている。これは都会からみれは豊かさの象徴でもある。一方、宮沢賢治のように農村では、農民の感覚からすれば冷夏は不作の代名詞にもなる。立原がこの浅間山麓での「不毛な美」を見極めようとすれば必然的にこの背理のさけめのにみこまれてしまうだろう。古典的な和歌の作者たちは盛夏に対していわば口を紡いできた、口をつむぐざるを得なかった、というべきだろう。立原の「夏」は、全く別の社会のように、異和のように現れる。
昭和十年代の都会生活者にとっては、避暑地の夏の軽井沢での生活、あるいは別荘でのひと夏の生活は一つのステータスか、あこがれであったのだろう。立原道造の詩もまた若い人のあこがれに転じていったに違いなかろう。詩集は「日曜日」「萱草に寄す」「暁と夕べの詩」「優しき歌」(没後刊行)立原はこれを「風信子叢書」第三編と出版するつもりであったらしい。神保光太郎によれば、その草案を中村真一郎から示されたことがあって、その記憶に従って配列などを編集し現行の詩集になったという。
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