遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

昭和歌謡曲の軌跡8

2017-09-29 | 昭和歌謡曲の軌跡
この流行語(ルンペン)に敏感に反応して、昭和6年、徳山(たまき)が豪快にうたった「ルンペン節」が世におくられましたが、柳水巴の筆名で西条八十は〈金が亡いと手くよくよするな 金があっても白髪はふえる お金持ちでもお墓はひとつ 泣くも笑うも五十年〉とうたい〈てもルンペンのんきだね〉と結んでいます。

徳山自身、ルンペン姿で舞台に立ち、また自費でパンを買い浮浪社を激励したといわれていますが、本人の意識とは別にして、それは所詮一つの宣伝効果に過ぎなかったという見方もあります。

先に紹介した唖蝉坊は「先端流行歌漫談」の中で流行家は世相底流の発散携帯であるとしら、階級意識とは、単なる流行でしかないのであろうか、こんなことを云ったら私は叱られるだろう。だが、何故、もっと流行歌が利用されないのであると嘆き、さらに「躍り出せ、歌よ。流行歌をコマーシャルリズムの宣伝ビラに売り渡すものはだれか?」と憤り、先端流行歌の機械時代の「機械の響き」だと云っています。

先に考察した唖蝉坊が活躍した時代の演歌は、ひとつのイデオロギーの啓蒙手段でしたが、レコード音楽の普及はまさに、その変質の上に成立していました。

流行歌の支持層は、強固に構築された国家権力とその教育的施策によって出来る限り首をすくめ、背をかがめて風の吹きすぎるのを待つ態度をとる。そして、胸の中に淀む不満、わびしさ、悲しさ、そして喜びを歌のなかに溶解してなぐさめとしていたといえましょう。

流行歌の指示層がそうした庶民であるとすれば、唖蝉坊がいらだつ思想性のなさ、皮相な社会感覚こそが、逆に昭和期のレコード産業の本質なのだといえます。

池田憲一氏が「流行歌を社会的的弱者の平均的表現」と規定していましたが、流行歌に反体制的表現を求めることは無いものねだりと等しく、メッセージソングとしてのフォークソングが、いつかコマーシャリズムに絡め取られていく過程とよく似ているといえます。

大正14に産声をあげたラジオの電気音響装置を導入することによりレコードの録音方式が大きく進歩していきます。

ところで「歌謡曲という呼称自体が、当時NHKに在籍していた町田嘉章が逓信省の意向を受けて考案したものですが、一般化するのは昭和十年代以降のこと。当時は流行歌(はやりうた)と言う呼び方がほとんどでした。

昭和7年にNHKと逓信省が第一回全国ラジオ調査における地域別の希望慰安種目は、各地区とも浪曲が第一位で、講談・落語・琵琶などが、上位をしめています。
初代重人、初代雲月、虎丸らが築き上げた浪曲全盛時期、初代友衛、二代目雲月、二代目勝太郎、虎三、米若、梅鶯、鶯童、博、奈良丸、重松、清吉、清鶴、小柳丸ら多彩な演者により、さらに勢をましていったと云います。

まさに、この時期の流行歌はまだ娯楽の王座には就いていなかったのです。

(つづく)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿