遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

山村暮鳥の初期詩編をめぐって

2019-03-15 | 近・現代詩人論
*この文章はもう五年ぐらい前に書いた文章です。きっと堅くてよみずらいと思いますが、よろしくご判読ください。又連載になりますが、引き続け宜しくお願いします。

山村暮鳥が、萩原朔太郎、室生犀星と 「人形詩社」を設立したのは大正六年三月のこと。『文章世界』の紹介によると、「人魚詩社」は「詩、宗教、音楽の研究を目的」としていた。暮鳥が、朔太郎、犀星との詩の世界でむすばれていたのは北原白秋への敬慕ということからでもあって、お互いの作品を認めあっていた。のちに暮鳥の詩第二詩集『聖三両稜玻璃』が当時金澤の室生犀星の所から「人漁詩社」として発行される。http://blog.goo.ne.jp/admin/newentry/#私はこの三人詩人の出会いに不思議な命運というものを感じてしまう。言葉が連想をあおるからか、想像的な誤解さえ、真実を呼び込もうとする。だから詩の命運には逆らえないのだ、逆らっても無意味なのだと思う。

暮鳥の内部のでは、おそらく近世キリスト教神秘思想をひとつの土壌として、彼のいう「白金のリズム」が次々に生まれていたのではないか。必然的にというか、言葉を必死で追い込んだ結果、『聖三稜玻璃』に結晶する日が訪れる。この詩集が出版されたときは「主として鋭角的表現の得意さと云う点で世に注目を浴びた詩集である。」(鮎川信夫)この詩集についてはのちにみていくことにして、そこに至までの暮鳥についてもう少しふれておきたい。
 山村暮鳥主宰の『風景』第四号で、はじめて朔太郎、犀星の三人が名をならべる仲になる。当時、朔太郎は、暮鳥あての書簡でつぎのように述べている。

 今の詩壇で私の私淑している人は四人しかありません。すなわち室生君と北原君と吉川宗一郎 君(詩誌に毎号寄稿する)だけです。北原君の真実、室君の感傷、貴兄の軌跡、吉川君の幽霊、この四つは確かに世界第一の宝石であり哲学であると思ひます。之等を除いて日本の芸術に何が残るか、特に詩壇に置いて……
  (中略)
昔の貴兄は樹木の「形」と会話をして居た。
今の貴兄は金属の「リズム」と会話をしていると思ふ。金属とほんとうに話しを出来る人は今ではあなた一人だ。
大正三年、北原白秋は『地上巡礼』を創刊。朔太郎はさっそくこれに参加し、白秋を訪れている。櫻蝋は同人集会に、暮鳥をまねき主賓格の白秋を中心に話しがはずみ放歌高吟の銀座の夜をすごした。この集会ではめずらしいことだが、暮鳥と朔太郎は、「白金夜曲」と題した詩を合作してる。

肉体さんさん
凶悪せんちめんたる
一列流涕なしたまふ
空にまっかの雲のいろ
正覚坊がぽたりぽたり
なんと可愛いあたまだねぇ

 二人の才気に集会は拍手が湧き、白秋も機嫌が良かったという。「白金」も「さんさん」も白秋が好んでつかった語彙だからというわけでもなかろうが白秋の笑い声がとくに印象的だったようだ。
北原白秋は大正三年九月に発刊の『地上巡礼』に暮鳥は、朔太郎、犀星とともに詩を発表することになるが、翌年三月には第二巻第二号で終刊となってしまう。その後の人形詩社発行『卓上噴水』の広告を、此処に書き写してみる。

人魚詩社機関紙 卓上噴水 三月一日創刊。人魚詩社の門は感傷門にして、その扉はラジウム製,その額上には金属の穂龍を点ず。いま、門にはいるものゝため、我等があたらしき饗宴がひらかれ、この酒杯と雲雀料理の間、卓上噴水の香水しんしん薫郁たり 三人の住んでいる所が前橋、金沢、平(暮鳥)と離れていて仕事がすすめにくかったのだろうか。暮鳥は犀星は文通だけでまだ一面識もなかった。
 暮鳥の『聖三稜玻璃』は金澤市千日町(現在の犀星文学記念館の近く)の室生犀星方の人漁詩社から発行された。この詩集は「藝語」「だんす」「岬」「いちめんのなのはな」など三十五編。新鮮な実験的作品、冒険的な意欲と暮鳥の自信がみなぎっていた。
暮鳥の言葉(詩)は、暮鳥自身が最大の愛唱歌としている旧約聖書の詩編を貫く神が万物に与えている賛歌、暮鳥に「詩僧」とよばせたせいフランチェスコの「兄弟なる太陽」の歌と何処かでむすばれているとおうことかもしれない。私はキリスト教には無縁なのでもっと詳しく理解することが出来ないのは残念である。

竊盗金魚
強盗喇叭
恐喝胡弓
賭博ねこ
詐欺更紗
?職天鷲絨
姦淫林檎
傷害雲雀
殺人ちゆりつぷ
堕胎陰影
騒擾ゆき
放火まるめろ
誘惑かすてえら。(「藝語」全行)

詩集の冒頭におかれたるこの作品は、読者におおいに愕きで迎え入れられ、ほんの僅かの喝采の他は批難囂々集中し、大胆な言語構成に多くの読者は戸惑いを隠せなかった。
 一語一語の意味は明瞭で了解できても正に「藝語」という「うわごと」「寝言」として了解不能という烙印を押されかねない作品であえると、おおかたの批評には、暮鳥もすっかり肩を落としたようであった。新しさと冒険への意欲は、ときには無理解な声を大きくすることがある。やがて乱暴な罵声にかわることもある。
 一行二語の上の段は、「竊盗」「強盗」「恐喝」等の名詞は問題ないが、そのしたにつらなる「金魚」「喇叭」「胡弓」とのむすぶつきをどうよむか。映像よりも音声に求めるイメージとの言葉を結びつきによってもたらされるもの。詩人内部における必然性があるのだろうが、読者にとっては了解不能であったのだろう。朔太郎の詩集もまだ発刊されていない時期、言葉の音楽性を感じることにも読者は未成熟な部分があったのだろう。キリスト教の悪と善を具現化しようと試みたとも言えるし、暮鳥自信は難解な感想のなかで「まことの芸術」は、「哲理」も「道徳」も超越し、奇蹟に根ざした「宗教」である、とまでいって常識を否定している。しかし当時の読者には受け入れがたいものがあったということだろう。
 紛れもなくこれまでの詩の表現に対する挑戦であった。「解らなくなればなるほど解るのである。解らなければなるほど真である。解らなくなればなるほど光るのである。」と暮鳥の詩に対する考え方を端的に表現したものだが、室生犀星は、その難解性について序文に書いている。(ここでは省略翔する)
ただ「すべての日本の詩人に比類なき新鮮なる情景である」また「恐るべき新代生活者が辿るものまにあの道」であるというが、それは必然的に読者の理解を拒絶することになる。

(萩原朔太郎の写真です)
朔太郎は、当初は「象徴派中でも最も端的な象徴派」という意味で詩の極端な象徴主義こそ「未来派」の芸術でなければならぬと規定し、、そのような詩人として村山暮鳥をあげる。のちのちには離れていく朔太郎であるが、暮鳥の出現の詩史的意味を評価する。しかし全面的に暮鳥の詩を評かしていたわけではなかったようだ。(つづく)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿