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井上靖は『わが文学の軌跡』の中で「日本海詩人という雑誌が石動でだされていました。主宰者は大村正次さんでした。日本海詩人には、昭和四年から五年にかけて約十編の詩を発表しました。その同人の独りに宮崎健三さんがおりまして、高岡で“北冠”という雑誌を創刊することになり、私もそれに寄稿しました。」と詩との出会いにふれながら往時を懐かしくしのんでいる。
ここで『全詩集』(新潮社版)の《拾遺詩編》の中に収められている「少女」は巻末の〝発表誌紙一欄〟の中では「北冠」と書かれているが、これはあきらかな間違いである。ここに「少女」の「日本海詩人」に掲載された時のものを載せておこう。
ーーねっ、止めてよ、私おりるわ。
キャベツのいっぱい載っている荷馬車のなかに
少女が俯いて坐っている。
リンゴの花粉がこぼれそうなおやかな頬である。
大きいふくろをだいて、明るい大胆なはにかみである。
ーーばかめが、なあに、かもう事がるもんかい。」
御者台でおやじは朴訥そうな顔をゆがめている
少女の心に伸びている繊細な触覚。
少女の胸に流れている青磁色の気流。
それをこの愛すべき年老いた
父親はかんじていないのだ。
あゝこんな新鮮な親子のいさかいがころげていよとは! (「少女」部分、以下略)
井上靖は『わが文学の軌跡』の中で「日本海詩人という雑誌が石動でだされていました。主宰者は大村正次さんでした。日本海詩人には、昭和四年から五年にかけて約十編の詩を発表しました。その同人の独りに宮崎健三さんがおりまして、高岡で“北冠”という雑誌を創刊することになり、私もそれに寄稿しました。」と詩との出会いにふれながら往時を懐かしくしのんでいる。
ここで『全詩集』(新潮社版)の《拾遺詩編》の中に収められている「少女」は巻末の〝発表誌紙一欄〟の中では「北冠」と書かれているが、これはあきらかな間違いである。ここに「少女」の「日本海詩人」に掲載された時のものを載せておこう。
ーーねっ、止めてよ、私おりるわ。
キャベツのいっぱい載っている荷馬車のなかに
少女が俯いて坐っている。
リンゴの花粉がこぼれそうなおやかな頬である。
大きいふくろをだいて、明るい大胆なはにかみである。
ーーばかめが、なあに、かもう事がるもんかい。」
御者台でおやじは朴訥そうな顔をゆがめている
少女の心に伸びている繊細な触覚。
少女の胸に流れている青磁色の気流。
それをこの愛すべき年老いた
父親はかんじていないのだ。
あゝこんな新鮮な親子のいさかいがころげていよとは! (「少女」部分、以下略)
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