中也が 一九二二(大正十一)年、中学の先輩と防長新聞の若手記者との共著で合同歌集「末黒野」を刊行。ここには(初版本、部数二〇〇部、頒価二十銭。)中也が二年二学期から三学期にかけて制作した作品二八首を「温泉集」と題して収録する。学校の成績はすっかり落ちて、ついに山口中学三学年を落第という結果になるのだが。(一家が一時、騒然とし、やがて沈鬱になったと、弟がのちに述べている。)それでも落第した当人は「ひと月読んだらわかる教科書を、中学校というところは一年もかかって教える、そんなばからしい勉強はせん」といって学校へはいかないという、そんな中也に、父の謙助がもと家庭教師の京大生(井尻)に京都へ連れて行ってくれるように頼んだという。
一九二三(大正十二)年四月、京都・立命館中学校に補欠合格、第三学年に編入が決まり、中也は山口を発つ。見送りは養祖母コマひとり。一九二五年三月に東京に移るまで京都で中学生活を送る事になる。
第二詩集『在りし日の歌』の第二章「永訣の秋」冒頭に収められたいる作品「ゆきてかへらぬー京都ー」と題した収録作品中唯一の散文詩である、ここに抜粋しよう。中也が京都に行ったという記録が無いようだからおそらく中学時代の思い出が題材になっているのだろうか。
ゆきてかへらぬ
ー京都ー
僕は此の世の果てにゐた、日は温暖に降り酒ぎ、風は花々揺つて
ゐた。
木橋の、誇りは終日、沈黙し、ポストは終日赫々と、風車を
附けた乳母車、いつも街上に停つてゐた。
住む人達は子供等は、街上に見えず、僕に一人の縁者なく、
風信機の上の空の色、時々見るのが仕事であつた。
さりとて退屈してもゐず、空気の中には蜜があり、物体では
ないその蜜は、常常食すに適してゐた。
たばこくらゐは喫つてもみたが、それとて匂ひを好んだばかり。
おまけにぼくとしたことが、戸外でしかふかさなかつた。
さてわが親しき所有物は、タオル一本。枕は持つてゐたとは
いへ、布団ときたらば影だになく、歯刷子くらゐは持つてもゐ
たが、たつた一冊ある本は、中に何にも書いてはなく、時々手
にとりその目方、たのしむだけのものだつた。
女たちは、げに慕わしいのではあつたが、一度とて、会ひに
行かうと思わなかつた。夢見るだけで沢山だつた。
名状しがたい何物かが、絶えず僕をば促進し、目的もない僕
ながら、希望は胸に高鳴つてゐた。
* *
*
林の中には、世にも不思議な公園があつて、無気味な程にも
にこやかな、女や子供、男達散歩してゐて、僕に分らぬ言語を
話し、僕に分からぬ感情を、表情してゐた。
さてその空には銀色に、蜘蛛の巣が光り輝いてゐた。
(『在りし日の歌』所収)
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