(昨日からの続きです)
ほつほつ 目をもつた櫻樹
小枝小枝に
ささやき合っている裏山の四十雀の群れ
若松の茂み
はちきれそうな力とその翠色
静けさと寂の中にある
この若若しいものを感じながら
透き通る湯を零してはすくつてみる
ほとほと ぬくもるうちらから
すぎた日のおもひが
冷えていた情熱が
かげろうのやうにほのめいてくる
うっすら日はそこの窓硝子に這いながら
このうちらのほのめきに相添ふて
りり・るる溢れながられる湯にひたっている(「浅春」ー泊町小川温泉にてー全行)
「ほつほつ」「ほとほと」「りり・るる」などのリズムが春を迎えた静かな歓びをつたえてくれる。「うちら」というのは方言だろうか、「ぼく」や「私」よりも柔らかな響きがあっておだやかな詩になっている。厳しい冬の季節から春を迎える雪国の人々の歓びをありありと受け止めることが出来る秀作だとおもう。情景に流されていないところに、舟川詩の力がみえる。集中で一番光っているといっていいだろう。
(5)『潮騒』と四季派との位相
舟川が中心になって同人誌「うきぐさ」を発刊した昭和四年は、、田中冬二の第一詩集『青い月夜』が発刊された年であり、翌五年には『海の見える石段』が発刊される。舟川栄次郎は冬二の詩をどのように読んだか、あるいは読んでいなかったか、残念ながら知ることはできない。詩壇的にも話題になった冬二の詩集には目を通していたのではないかと私は憶測する。むろん勝手な憶測にすぎない。
第一詩集を発刊して四年後の昭和十年に第二詩集『潮騒』を発刊する。この詩集は舟川にとっても重要で大切な詩集であったようだ。同人誌「うきぐさ」の中で詩集の読後感や批評を掲載していることからもそれはうかがえる。
詩集の表題となった作品「潮騒」の一部を次に掲げよう。
潮騒は私を捉へて
孤独のなかへ閉じこめる
波がしらのかげでもまれたむかしの日記は
さびしくなるとひろひ読みする
ひとりの妹を都にのこしてきたが
妹と渚をゆききしたあの頃の陰影が白いなみに濡れている
貧しい母が世に迎えられられながらも
歯ぎしりのなかからもらした
夢幻の温籍のおもおもしくしみた子守唄よ
私は今も潮騒の中にそれを聴く
初秋の風がしらじらと吹きわたるとき
この町に印したいくつもの失敗の足跡をおもふ
私を 蘇らせたものは女でも何者でもない
私はこの底力のこもる潮騒をきくのがたのしみであった
曇天の中空へひろがりながら
諦めと畏れを知らぬ潮騒の唄の翼よ
私は力に充ちて今日と明日をおもふ詩を書く
私は書く沖の青波の上に (「潮騒」の一連から六連の部分)
舟川が三十歳に発刊したこの詩集の中の作品の部分を抜き出してたが、まだ若い力が詩作へと向かう強い意志を潮騒に重ねて書いていることがよくわかるであろう。現在はヒスイ海岸と呼びならわされている朝日町の海岸で聴いた日本海の激しくも力強い波音に詩人のたしかな決意が響く。
そうかと思えば次のような詩はどう読んだらいいのだろう。
どこかで藁をくべて夕飯をたくにほいがする
ぼくはいま藁をたくにほいのする町を歩いている
祖母は藁をくべて夕飯をたきながら
いつも地獄と極楽の話をしていなさった
祖母が亡くなってからは
ぼくが藁をくべて夕飯をたき
こげつきに塩をつけてこっそり食べた
だがぼくはいま罪とがに汚れはて
職にあぶれてまたこの町を歩いている
けむりは見えぬが
どこかで藁をたくにほいのする町ー (「ある町」全行)
この「ある町」を読んで何故か遠い郷愁が蘇ってくる。実際このような風景を見たわけではないが、私の記憶がどこかで体験しているような気がする。それと同時に田中冬二の「ほしがれいをやくにほいがする/ふるさとのさびしいひるめし時だ」を思い出したのだが、この詩の「ぼく」は「罪とがに汚れ」「職にあぶれ」た男として登場している。集中でも、みように気になる作品である。
同時代の詩人川口清はこの「ある町」について「『潮騒』の作者とその詩」と題した詩集評で、「一寸室生犀星氏の詩を読むやうな感じであるが、舟川君なら室生氏以上の詩が書けると思ふ。私はこの詩を日本的なもの、東洋的なものとして云いやうのない懐かしさを感じている。〈略〉こうした魂の底からゆりうごかすような、しかも細々とした感情をとらへることになると最早僕等は君の前にシャッポをぬがねばならぬ。」と書き記している。
ここで田中冬二の詩集『青い夜道』から、短い詩を参考まで引用しておきたい。
みぞれのする町
山の町
いのししがさかさまにぶらさがっている
いのししのひげにこほりついた小さな町
ふるさとの山の町よ
ーー雪の下に麻を煮る(「みぞれのするちいさな町」全行)
ふるさとの家の壁
すすけた壁ーー
厨のあかりとりを下りた光が
魚のかたちとなってきえる
ふるさとは刈麦の匂ふ頃
そしてまたそろそろ氷水を飲む頃である
故郷の家の壁
石斑魚に似た魚の
いまもつめたくはしるか
ふるさとの家の厨の壁 (「故郷の家の壁」全行)
同時代のふるさとのとらえ方をくらべてみるまでもなく、貧しく寂しいと言った悲愁はおそらくどこの田舎でも同じような状況だったのではないかとおもう。日本の昭和の田舎に見受けられる貧しいけれど、どこかほっとするような情景なのだろう。(私が生まれる前の故郷であれ、追体験によて十分想像することが出来る)
作品「ある町」を書いた頃の舟川は図書館司書として、十分に仕事をこなしていたはずだから、この作品の主人公の「僕」はフィクションとして登場しているのであり、ある不遇な男を通して北陸の風土の厳しさと、同時に豊かさとはほど遠い庶民の時代的な背景を読み取ることが出来るだろう。高村光太郎を私淑していたことからも、田中冬二の抒情詩とは、あきらかに詩意識が異なっていたのだろうが、大きな違いは感じられない気がする。
ここに潮騒の言葉として同人誌に掲載されている多くの読後感やお礼の書簡のなかから相馬御風の言葉を書き写して置こう。
「うららかな春の陽のさす二階の書斎でおちついたいい気持ちで読ませていただきまし た。そして新緑を度る五月の風に吹かれるやうなすっきりした快さを与へて貰ひまし た。濁り氣のないあなたの詩情を、私はなつかしく思ひます。
小川を季節が流してくる/そこらの景色をおしひろげて行く/小川はささやかなあ
の女の眸をおもひださせる/こっそり私の乾いていた足をしめす/小川は私の乾い ていた足をしめらす/そこらに活々したものを撒いていく
あなたのこの詩がすっかりあなたの詩全体を説明しているようです。なほくりかへし 読ませていただきませう。ご健勝御精進を祈ります(四月十一日)」
第一詩集を携えて上京し、高村光太郎に諫められてからの詩集であるが、そのところを
巻末記に書いている「ここ三年前からすっかり田舎に腰をすへるやうになつて、あまり詩壇的の交渉もなかった。しかし黙々と詩を書いていた。詩壇は今、表現形式に内容取材に、多彩に検討される秋(略)私などはまだ遠慮すべきであつたかも知れなかった。だがこの一巻は私の築いていたささやかな塔である。そして私はいま、この塔にも別れをお告げて、塔のてっぺんから更に新たな世界への飛翔に想ひをたぎらせている。」この文章からもうかがえるように上京なんかしなければ良かったと言った慚愧の念も滲んでいるような気がしてならない。
ほつほつ 目をもつた櫻樹
小枝小枝に
ささやき合っている裏山の四十雀の群れ
若松の茂み
はちきれそうな力とその翠色
静けさと寂の中にある
この若若しいものを感じながら
透き通る湯を零してはすくつてみる
ほとほと ぬくもるうちらから
すぎた日のおもひが
冷えていた情熱が
かげろうのやうにほのめいてくる
うっすら日はそこの窓硝子に這いながら
このうちらのほのめきに相添ふて
りり・るる溢れながられる湯にひたっている(「浅春」ー泊町小川温泉にてー全行)
「ほつほつ」「ほとほと」「りり・るる」などのリズムが春を迎えた静かな歓びをつたえてくれる。「うちら」というのは方言だろうか、「ぼく」や「私」よりも柔らかな響きがあっておだやかな詩になっている。厳しい冬の季節から春を迎える雪国の人々の歓びをありありと受け止めることが出来る秀作だとおもう。情景に流されていないところに、舟川詩の力がみえる。集中で一番光っているといっていいだろう。
(5)『潮騒』と四季派との位相
舟川が中心になって同人誌「うきぐさ」を発刊した昭和四年は、、田中冬二の第一詩集『青い月夜』が発刊された年であり、翌五年には『海の見える石段』が発刊される。舟川栄次郎は冬二の詩をどのように読んだか、あるいは読んでいなかったか、残念ながら知ることはできない。詩壇的にも話題になった冬二の詩集には目を通していたのではないかと私は憶測する。むろん勝手な憶測にすぎない。
第一詩集を発刊して四年後の昭和十年に第二詩集『潮騒』を発刊する。この詩集は舟川にとっても重要で大切な詩集であったようだ。同人誌「うきぐさ」の中で詩集の読後感や批評を掲載していることからもそれはうかがえる。
詩集の表題となった作品「潮騒」の一部を次に掲げよう。
潮騒は私を捉へて
孤独のなかへ閉じこめる
波がしらのかげでもまれたむかしの日記は
さびしくなるとひろひ読みする
ひとりの妹を都にのこしてきたが
妹と渚をゆききしたあの頃の陰影が白いなみに濡れている
貧しい母が世に迎えられられながらも
歯ぎしりのなかからもらした
夢幻の温籍のおもおもしくしみた子守唄よ
私は今も潮騒の中にそれを聴く
初秋の風がしらじらと吹きわたるとき
この町に印したいくつもの失敗の足跡をおもふ
私を 蘇らせたものは女でも何者でもない
私はこの底力のこもる潮騒をきくのがたのしみであった
曇天の中空へひろがりながら
諦めと畏れを知らぬ潮騒の唄の翼よ
私は力に充ちて今日と明日をおもふ詩を書く
私は書く沖の青波の上に (「潮騒」の一連から六連の部分)
舟川が三十歳に発刊したこの詩集の中の作品の部分を抜き出してたが、まだ若い力が詩作へと向かう強い意志を潮騒に重ねて書いていることがよくわかるであろう。現在はヒスイ海岸と呼びならわされている朝日町の海岸で聴いた日本海の激しくも力強い波音に詩人のたしかな決意が響く。
そうかと思えば次のような詩はどう読んだらいいのだろう。
どこかで藁をくべて夕飯をたくにほいがする
ぼくはいま藁をたくにほいのする町を歩いている
祖母は藁をくべて夕飯をたきながら
いつも地獄と極楽の話をしていなさった
祖母が亡くなってからは
ぼくが藁をくべて夕飯をたき
こげつきに塩をつけてこっそり食べた
だがぼくはいま罪とがに汚れはて
職にあぶれてまたこの町を歩いている
けむりは見えぬが
どこかで藁をたくにほいのする町ー (「ある町」全行)
この「ある町」を読んで何故か遠い郷愁が蘇ってくる。実際このような風景を見たわけではないが、私の記憶がどこかで体験しているような気がする。それと同時に田中冬二の「ほしがれいをやくにほいがする/ふるさとのさびしいひるめし時だ」を思い出したのだが、この詩の「ぼく」は「罪とがに汚れ」「職にあぶれ」た男として登場している。集中でも、みように気になる作品である。
同時代の詩人川口清はこの「ある町」について「『潮騒』の作者とその詩」と題した詩集評で、「一寸室生犀星氏の詩を読むやうな感じであるが、舟川君なら室生氏以上の詩が書けると思ふ。私はこの詩を日本的なもの、東洋的なものとして云いやうのない懐かしさを感じている。〈略〉こうした魂の底からゆりうごかすような、しかも細々とした感情をとらへることになると最早僕等は君の前にシャッポをぬがねばならぬ。」と書き記している。
ここで田中冬二の詩集『青い夜道』から、短い詩を参考まで引用しておきたい。
みぞれのする町
山の町
いのししがさかさまにぶらさがっている
いのししのひげにこほりついた小さな町
ふるさとの山の町よ
ーー雪の下に麻を煮る(「みぞれのするちいさな町」全行)
ふるさとの家の壁
すすけた壁ーー
厨のあかりとりを下りた光が
魚のかたちとなってきえる
ふるさとは刈麦の匂ふ頃
そしてまたそろそろ氷水を飲む頃である
故郷の家の壁
石斑魚に似た魚の
いまもつめたくはしるか
ふるさとの家の厨の壁 (「故郷の家の壁」全行)
同時代のふるさとのとらえ方をくらべてみるまでもなく、貧しく寂しいと言った悲愁はおそらくどこの田舎でも同じような状況だったのではないかとおもう。日本の昭和の田舎に見受けられる貧しいけれど、どこかほっとするような情景なのだろう。(私が生まれる前の故郷であれ、追体験によて十分想像することが出来る)
作品「ある町」を書いた頃の舟川は図書館司書として、十分に仕事をこなしていたはずだから、この作品の主人公の「僕」はフィクションとして登場しているのであり、ある不遇な男を通して北陸の風土の厳しさと、同時に豊かさとはほど遠い庶民の時代的な背景を読み取ることが出来るだろう。高村光太郎を私淑していたことからも、田中冬二の抒情詩とは、あきらかに詩意識が異なっていたのだろうが、大きな違いは感じられない気がする。
ここに潮騒の言葉として同人誌に掲載されている多くの読後感やお礼の書簡のなかから相馬御風の言葉を書き写して置こう。
「うららかな春の陽のさす二階の書斎でおちついたいい気持ちで読ませていただきまし た。そして新緑を度る五月の風に吹かれるやうなすっきりした快さを与へて貰ひまし た。濁り氣のないあなたの詩情を、私はなつかしく思ひます。
小川を季節が流してくる/そこらの景色をおしひろげて行く/小川はささやかなあ
の女の眸をおもひださせる/こっそり私の乾いていた足をしめす/小川は私の乾い ていた足をしめらす/そこらに活々したものを撒いていく
あなたのこの詩がすっかりあなたの詩全体を説明しているようです。なほくりかへし 読ませていただきませう。ご健勝御精進を祈ります(四月十一日)」
第一詩集を携えて上京し、高村光太郎に諫められてからの詩集であるが、そのところを
巻末記に書いている「ここ三年前からすっかり田舎に腰をすへるやうになつて、あまり詩壇的の交渉もなかった。しかし黙々と詩を書いていた。詩壇は今、表現形式に内容取材に、多彩に検討される秋(略)私などはまだ遠慮すべきであつたかも知れなかった。だがこの一巻は私の築いていたささやかな塔である。そして私はいま、この塔にも別れをお告げて、塔のてっぺんから更に新たな世界への飛翔に想ひをたぎらせている。」この文章からもうかがえるように上京なんかしなければ良かったと言った慚愧の念も滲んでいるような気がしてならない。