遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

舟川栄次郎論(2)

2009-12-25 | 富山昭和詩史の流れの中で
源氏鶏太は田中富雄の本名で詩を北陸タイムスに投稿し、入選がきっかけとなって『日
本海詩人』に詩を発表し、やがて川口清、菊池久之、舟川栄次郎らと『新詩脈』をおこし、後に『詩と民謡』に参加して詩的活動にはいった。その間およそ百数十編の詩を発表している。まだ習作期だった『日本海詩人』時代は富山商業在学中であったが、この詩誌で六編の詩を発表している。
 「鐘」(四巻四月号、昭4・4)「親ごころ」(四巻五月号、昭4・5)「深夜の世界」(四巻六月号 昭・4・6)「白雲」(四巻六月号、昭4・6)「行方」(四巻八月号、昭4・7)「神がみ」(四巻十一月号、昭4・11)以上がすべててである。参考のためにここに数編掲げてみよう。高校時代の習作とはいえ内省的で自己を見つめるみずみずし感性が感じられる。

  月のつめたく光っている下界の深夜/誰の足音もしない寂しい道で/忘れられた道ば  たの石ころだけは/地上に捨てられたおのれの濃い影を/凝視しながら寂しいこころ  で/東のしらむのを待っている。(「深夜の世界」)

青空にうかんで入り白くもは/海に投げられた花たば/ ひからびて色あせた花たば
/みんなから忘れられて/ぼんやりと遠い日のことを/ 考えているのだろう(「白雲」)

何事をなす時でもー/喋っている時でも/働いて入るときでも// 働いて入るとき  でも/眠っている時でも/わたくし等が/意識していると、していないにも関わらず
/きっと 音が生まれている/すると ひねもす絶えまなく/送り出される/その音  は結局/何処へいくのだらうか/限りない音の生命はどこにやどっているのだろか。  (「行方」)

晩秋の中野にそびえ立つ枯木の姿/その醜い外皮のうしろに/透明な秘められた神が  みの暗示の姿が/すっくりたっている/神神の心臓のひびきから/いま、自然の寂の  心がうごいている(「神がみ」)

むろん、源氏鶏太の初期作品の紹介が目的ではない。ただ当時の富山の詩人たちの近代人としての鬱屈した心情や、人間存在の根源的な問いによる批評精神などがそれとなくわかる気がする。それと同時に箇々の同人誌にそれぞれ集結して自己を磨いていた姿を想像することができた。その実直さ故の自己規制は先の同人誌による詩人の作品からも読み取ることが出来るが、それは自らの倫理観によって縛られていることの裏返しであり、無意識の内に第二次世界大戦を迎える静かな絶望へのささやかな抵抗であったと云えるかもしれない(源氏鶏太が後にユーモア作家と称されて世に迎えられた過程などは当然ながら省かさせて頂く)