遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

無名の詩人舟川栄次郎論(3)

2009-12-26 | 富山昭和詩史の流れの中で
(4)詩的出発と「碧落塾」
 舟川栄次郎(1907生)という詩人は、泊町(現、朝日町)生まれで泊実業高校卒業(1925年)の後、泊図書館司書として従事しながら詩作を始める。源氏鶏太とは『新詩脈 』時代に詩的出発をした仲間であった。
舟川の遺稿集に記された「碧落塾水曜会同人」の終わりの言葉には「舟川栄次郎氏は、詩人として一切の穢れたものを拒絶し、世俗感との妥協を許さず、その生涯において孤高のひとであった。」とある。
 碧落塾というのは彼の居住に集まって行われた私塾のことであり、彼を慕うひとが地域の文化活動の拠点として集まったところから碧落居と名付けて読んでいた。また、水曜会同人とは、尾崎法、橘益永、橘実、藤城正克、中川擁一、板東健二、松倉利喜、以上の七名である。
 さらに、詩書出版等の略歴をみておきたい。

昭和四年四月(24歳)「うきぐさ」創刊 昭和33年まで75巻刊行
昭和六年九月(26歳))「戸籍簿の社会」(詩と民謡社)序詩・藤森英夫、序・中山輝
昭和十年四月(30歳)「潮騒」(詩と民謡社)
昭和二七年八月(47歳)「障子と鶴」発刊・版画 棟方志功(蛭谷和紙使用)
昭和三十年六月「夢の橋」(白萍社)
昭和三二年三月 三人展を開催(詩・舟川栄次郎、書・大平山濤 画・豊秋半次)

昭和五七年六月 「ある男の墓碑銘」ー舟川栄次郎遺稿集(碧落塾水曜会発行)

 第一詩集『戸籍簿の社会』のあとがき(巻末記)で、舟川は次のように述べている。
「いくらあせってもあせっても私の心臓はよくならぬように吹き上げたい思ひも潜めていなければならなかった。そんな立場は赤木君がよくしっている。二三年前までは泊には詩を書く者は殆どいなかったそこで何処とも交渉なしにに何も知らないで孤りでぽくぽくやってきた(略)」
 
表題作は、次のような作品である。

戸籍簿に一列に連なっている人の名/おびただしい人 人/戸籍簿の一家族 戸籍簿の//離婚されて他へ行っても/やはり前の家のことが思ひ出されるだろ/戸籍簿にかう名が残っている//(略)人達は一家族づつ少し間隔を置いてはつながっている/この東洋的ななつかしさか//(略)誰も此処では資産を鼻にかけたり/権力を振りまく者がない/この正直でかざりけのない立派さ/このつながりの融和/戸籍簿の社会ー
(以下略) 

 右の作品に説明など必要ないだろう。ただ、現在の登記簿とは形式が違っていることで今に照らすと不自然にみえる所があるだろう。
 ところで昭和初年の頃から現在(二00八年)まで、私の状況と比べるまでもなく全く同じで、周囲に詩を書く者がいないという孤立感はよくわかる。まさに私も「ぽくぽく」と「ぽくぽく」と詩らしきものを書いてきたのだった

戸をはずして出してもまたもとの籠へ這入る
不自然な服従のすがたを
彼らは自慢にしている

お上手にうたひへつろふくせをつけたのだ くせを
あの無理な声のしぼりようを
彼らは聴いて楽しんでいる  (「鳥」全行)

 この「鳥」」は集中でもめずらしく「彼ら」に「服従」する「くせ」をつけたことへの抵抗を示している。集中でももっとも短い詩である。「彼ら」とは、政治的な権力者をさすのだろうか、それとももっと身近なことをたとえているのか。いや「鳥」そのものなのかもしれない。しかし、あえていえば、町の「旦那」衆のことかもしれず、当時の泊町(現、朝日町)には芸妓が多い町だったときいたが「無理な声のしぼりよう」からもそんな関係を想像させる。「鳥」という比喩。私には静かな怒りの唄のようにきこえる。