遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

現代詩「泥む、脳髄」(ナズム、ノウズイ)

2019-07-27 | 富山昭和詩史の流れの中で
泥む、脳髄ー入江まで
(ナズム、ノウズイ)


……許せないことがある
許すべきだという人がいて
不遜の傷みに
強靱な憤りは抑えがきかない
夢なら時またずして醒めるはずが
喉の奥深く滞留し
泥む、
脳髄がある


……入江のひと(たち)よ
その苦悶を代弁するのではないが
許せざるものの根拠は
排砂の滞積によるものかどうか
おそらく比類のないダムの死に水の
答えなき循環性にも
泥む、
魚群の屍があるというのか


渚に
しかし
それでも
うさん臭い
異界からの漂流物は
椰子の実ばかりではない
洗剤用のポリの容器にバケツ
すり減った歯ブラシや破れたポーチ
必死で脱出する意志を波打ち際にひけらかされ
男はひとりあてない海沿いの仮定空間という波間の
霧ふかい夢隣りを走ってみることは愚の骨頂なんだと
まるで行旅死亡人になりそこなって惜しまれるばかりの
夜行列車「北陸」や「能登」号が急に冥土に至ったことぐらいで
新生の故郷喪失者たちよ純情な文学のように歎いてみせるな!
深い負傷も郷土の特権的な幽霊のせいと気づかいながら
水府的な国家側の甘い見識、気弱な双子のダムの
不可解は排砂による裁きの元凶もみえぬまま
行旅死亡人を黙ってはこぶ泥だらけの
孤独に滅びそうで滅びないいまも
静かに波と波が火花を散らす
不安な他国からの贈り物で
あふれる、愚鈍な
わたしと
私の


……二重の許されざるものの
不運を乗り越える道筋は一向に見えず
厳冬期の朝の挨拶として
許せないものの欺瞞に差し出す
掌のうえの
一片の淡雪にも透明な牙の
憤りがあった


……ただ一瞬にして
光に還る眩しい天のしずくを目蓋に受け止める今朝は
泥め、泥め!
こたえなき脳髄(なずき)に
うなずく無縁のまぼろし(死者たち)の
永久に滞留する声なき声の
悲鳴を訊け!






中原中也ノート6

2019-07-26 | 近・現代詩人論
 雨がふるぞえー病棟挽歌

  雨が、降るぞえ、雨が、降る。
  今宵は、雨が、降るぞえ、な。

  俺はかうして、病院に、
  しがねえ暮らしをしては、ゐる。

  雨が、降るぞえ、雨が、降る。
  今宵は、雨が、降るぞえ、な。
  らんたら、らららら、らららら、ら
  今宵は、雨が、降るぞえ、な。

  人の、声さえ、もうしない。
  まくらくらの、冬の、宵。
  隣の、牛も、もう寝たか。
  ちつとも、藁のさ、音もせぬ。

  と、何号かの病室で、
  硝子戸、開ける、音が、する。
  空気を、換へると、いふぢやんか。
  それとも、庭でも、見るぢやんか。

  いや、そんなこと、分るけえ。  
  いづれ、侘しい、患者の、こと、
  ただ、気まぐれと、いはば気まぐれ、
  庭でも、見ると、いはばいふまで。

  たんたら、らららら、雨が、降る。
  たんたら、らららら、雨が、降る。
  牛も、寝たよな、病院の、宵、
  たんたら、らららら、雨が、降る。 (了)

中也はおそらく狂気と狂気でないものの境界線を彷徨いつつあったとみるべきだろうか。愛児の文也の死後に、衝撃のあまり神経衰弱に陥ったということだが、もしかすると中也の深い悲しみは文也のなかに入り込んで同一化してしまったようにみえないだろうか。生きて帰らぬ我が子と同一化したその目でこの世を見つめると言う悲しみの局限化で「たんたら、らららら、」とオノマトペは意味の違った音をひろい上げ特別の感情をあらわしている。悲しいような切ないようなあるいはなぜかうれしくはずむような微妙な心の振動。精神病棟でのことばにならない感情は中也にしか表現できないものであるかもしれない。わずか三十年でこの世を去った中也は、世間がどう評価を下すかと言うことの前に肉親への愛の深さを甘受することの方にこそ大切な詩作の根拠があるように思える。    (未)

中原中也ノート5

2019-07-24 | 近・現代詩人論
 自戒(戒律ヺ守ル)
  五悪十悪
  十前の戒律
  身・口・意二悪ガアル
   身(折衝、偸盗、邪淫)
   口(悪口、両下、綺語、妄語)
   意(食欲、䐜恚、愚痴)

精神衰弱の治療方の一環なのだろうが私にはまったく意味がわからない。どんな効果があって筆記させるのかも。だから中也はどんな思いでノートにかきうつしていたんだろうとおもう。「雑記」には中也自身によって病因を分析し、報告する形をとっている。

 中也が三十歳の若さでなくなるのだが生前と死後に出版された詩集が二冊あるだけだが、どうしてこんなに昭和詩人の中では一流の抒情詩人と評価され読み継がれているのだろうか。私の単純な疑問は鮎川信夫の文章で(「日本の叙情詩」)でおおよそ納得できた。
「『先日、中原中也が死んだ。夭折した彼が一流の抒情詩人であった。字引き片手に横文字詩集の影響なぞ受けて、詩人面をした馬鹿野郎どもからいろいろなことを言われ乍ら、日本人らしい立派な詩を沢山書いた。(後略)』と小林秀雄は中也が死んだときに書いています。まさか小林がそういったからというわけでもありますまいが、その後、文壇・詩壇の多くの人々が、中原を別格視、もしくは昭和初期に活躍した詩人の最右翼にあげています。」{それにしても詩人面した馬鹿野郎どもとは、ひどくないか)
小林の中也を取り上げているその態度には詩人としては言葉に出せないある異和を感じているような感触を受け取る。「小林や、河上徹太郎が中原の死に対してだけ、深い理解しめしたのでしょうか。」鮎川はそれがたまたま仲間だったからその言動に共鳴し、偶然のように詩を説く鍵を持ち合わせていた仲間同士というよりも、人間中原中也をよく理解していたからという結論に至っている様子だが、鮎川は「中原中也を知らない人間が単に一冊の詩集『中原中也詩集』を読むとき非常にすぐれた少数の詩を除いては風変わりな作者のその場その場の思いつきに終わっているように感じられる詩が決して少なくない部分を示している」{黒田三郎の発言)ことも事実でしょう。」とそれとなく黒田の批判を指摘。
 話は横道にそれそうだが、作業療養所では中原は松葉を掻き、貝殻を砕くという単純作業に従事しながら、薬物に対し手頼ってはいけないという健気さを見せる、いまが〈十年に一度あるかないかの詩歌の転換期〉とも主張している。入院当初は詩作は禁じられたいたが、それでも「雑記」には何編か記されていて、この時期の中也の心と精神の有り様を見ることが出来る。

中原中也ノート4

2019-07-23 | 近・現代詩人論


  前略、ご無沙汰しました 實は最後におあいしたましたあと神経衰弱はだんだん昴じ、「一寸診察して貰ひにゆかう」といひますので従いてゆきました所、入院しなければならぬといふので、病室  に連れてゆかれることと思ひて看護人に従いてゆきますと,ガチャンと鍵をかけられ、そしてそこ  にゐるのは見るからに狂人である御連中なのです。頭ばかり洗ってゐるものもゐれば,終日呟いているものもゐれば、夜通し泣いてゐるものも笑っているものもゐるといふ風です。ーーそこで僕は先づとんだ誤診をされたものと思ひました。子供を亡くした矢先であり、うちの者と離れた、それら狂人の中にゐることはやりきれないことでした。     {四月六日 安原喜弘への書簡)

中也が千葉寺療養所に入院したのは一月七日。千葉県にある中村古峡療養所であった。友人の安原に差し出した手紙からは精神病とはおもえないのだが。事実京大神経科の村上仁の伝えるところでは病状は〈軽いヒステリー〉程度のものだったらしく、病院の診断もそれに応じた治療体験録などが残されている。
収容されたという言い方が不釣り合いかもしれないが、先の安原宛の手紙にはそのときの中也の恐怖は〈誤診をきっかけに狂人の中にゐてはついにほんとうに狂っちまふなぞといふ杞憂があり、全く死ぬ思ひであった。〉と書かれている。(このあたりのくだりは、北川透『中原中也わが展開』の「天使と子供ー中原中也の千葉寺受難」に詳しく書かれている。)
 収容された千葉寺での中村とは、かつて夏目漱石に師事し実弟の狂気を題材にした小説『殻』を執筆している人物で、それも漱石のすすめで朝日新聞に連載し好評を得ている。その中村療養所での中也はどのような日々をくっていたのか。三十八日間もの間の作品もあるが、入院中の手記として「千葉寺雑記」がある。だがこれは中也が自発的に書いたものというよりは、治療の一環として中村が患者に書かせていたものであるらしく、中村自身が行う精神病理の概説や白隠禅師和讃講義なども、中也はノートをとるように指導されている。


中原中也ノート3

2019-07-10 | 近・現代詩人論



  前略、ご無沙汰しました 實は最後におあいしたましたあと神経衰弱はだんだん昴じ、「一寸診察して貰ひにゆかう」といひますので従いてゆきました所、入院しなければならぬといふので、病室に連れてゆかれることと思ひて看護人に従いてゆきますと,ガチャンと鍵をかけられ、そしてそこにゐるのは見るからに狂人である御連中なのです。頭ばかり洗ってゐるものもゐれば,終日呟いて  いるものもゐれば、夜通し泣いてゐるものも笑っているものもゐるといふ風です。ーーそこで僕は  先づとんだ誤診をされたものと思ひました。子供を亡くした矢先であり、うちの者と離れた、それら狂人の中にゐることはやりきれないことでした。     {四月六日 安原喜弘への書簡)

中也が千葉寺療養所に入院したのは一月七日。千葉県にある中村古峡療養所であった。友人の安原に差し出した手紙からは精神病とはおもえないのだが。事実京大神経科の村上仁の伝えるところでは病状は〈軽いヒステリー〉程度のものだったらしく、病院の診断もそれに応じた治療体験録などが残されている。
収容されたという言い方が不釣り合いかもしれないが、先の安原宛の手紙にはそのときの中也の恐怖は〈誤診をきっかけに狂人の中にゐてはついにほんとうに狂っちまふなぞといふ杞憂があり、全く死ぬ思ひであった。〉と書かれている。(このあたりのくだりは、北川透『中原中也わが展開』の「天使と子供ー中原中也の千葉寺受難」に詳しく書かれている。)

中原中也ノート②

2019-07-07 | 近・現代詩人論
 中也が三十歳の若さでなくなるのだが生前と死後に出版された詩集が二冊あるだけだが、どうしてこんなに昭和詩人の中では一流の抒情詩人と評価され読み継がれているのだろうか。私の単純な疑問は鮎川信夫の文章で(「日本の叙情詩」)でおおよそ納得できた。


 中也が三十歳の若さでなくなるのだが生前と死後に出版された詩集が二冊あるだけだが、どうしてこんなに昭和詩人の中では一流の抒情詩人と評価され読み継がれているのだろうか。私の単純な疑問は鮎川信夫の文章で(「日本の叙情詩」)でおおよそ納得できた。
「『先日、中原中也が死んだ。夭折した彼が一流の抒情詩人であった。字引き片手に横文字詩集の影響なぞ受けて、詩人面をした馬鹿野郎どもからいろいろなことを言われ乍ら、日本人らしい立派な詩を沢山書いた。(後略)』と小林秀雄は中也が死んだときに書いています。まさか小林がそういったからというわけでもありますまいが、その後、文壇・詩壇の多くの人々が、中原を別格視、もしくは昭和初期に活躍した詩人の最右翼にあげています。」{それにしても詩人面した馬鹿野郎どもとは、ひどくないか)
小林の中也を取り上げているその態度には詩人としては言葉に出せないある異和を感じているような感触を受け取る。「小林や、河上徹太郎が中原の死に対してだけ、深い理解しめしたのでしょうか。」鮎川はそれがたまたま仲間だったからその言動に共鳴し、偶然のように詩を説く鍵を持ち合わせていた仲間同士というよりも、人間中原中也をよく理解していたからという結論に至っている様子だが、鮎川は「中原中也を知らない人間が単に一冊の詩集『中原中也詩集』を読むとき非常にすぐれた少数の詩を除いては風変わりな作者のその場その場の思いつきに終わっているように感じられる詩が決して少なくない部分を示している」{黒田三郎の発言)ことも事実でしょう。」とそれとなく黒田の批判を指摘。
 話は横道にそれそうだが、作業療養所では中原は松葉を掻き、貝殻を砕くという単純作業に従事しながら、薬物に対し手頼ってはいけないという健気さを見せる、いまが〈十年に一度あるかないかの詩歌の転換期〉とも主張している。入院当初は詩作は禁じられたいたが、それでも「雑記」には何編か記されていて、この時期の中也の心と精神の有り様を見ることが出来る。

 雨がふるぞえー病棟挽歌

  雨が、降るぞえ、雨が、降る。
  今宵は、雨が、降るぞえ、な。

  俺はかうして、病院に、
  しがねえ暮らしをしては、ゐる。

  雨が、降るぞえ、雨が、降る。
  今宵は、雨が、降るぞえ、な。
  らんたら、らららら、らららら、ら
  今宵は、雨が、降るぞえ、な。

  人の、声さえ、もうしない。
  まくらくらの、冬の、宵。
  隣の、牛も、もう寝たか。
  ちつとも、藁のさ、音もせぬ。

  と、何号かの病室で、
  硝子戸、開ける、音が、する。
  空気を、換へると、いふぢやんか。
  それとも、庭でも、見るぢやんか。

  いや、そんなこと、分るけえ。  
  いづれ、侘しい、患者の、こと、
  ただ、気まぐれと、いはば気まぐれ、
  庭でも、見ると、いはばいふまで。

  たんたら、らららら、雨が、降る。
  たんたら、らららら、雨が、降る。
  牛も、寝たよな、病院の、宵、
  たんたら、らららら、雨が、降る。 (了)

中也はおそらく狂気と狂気でないものの境界線を彷徨いつつあったとみるべきだろうか。愛児の文也の死後に、衝撃のあまり神経衰弱に陥ったということだが、もしかすると中也の深い悲しみは文也のなかに入り込んで同一化してしまったようにみえないだろうか。生きて帰らぬ我が子と同一化したその目でこの世を見つめると言う悲しみの局限化で「たんたら、らららら、」とオノマトペは意味の違った音をひろい上げ特別の感情をあらわしている。悲しいような切ないようなあるいはなぜかうれしくはずむような微妙な心の振動。精神病棟でのことばにならない感情は中也にしか表現できないものであるかもしれない。わずか三十年でこの世を去った中也は、世間がどう評価を下すかと言うことの前に肉親への愛の深さを甘受することの方にこそ大切な詩作の根拠があるように思える。(つづく)  


中原中也ノート①

2019-07-05 | 近・現代詩人論

① 千葉寺での詩作など
中原中也が二度目の精神衰弱が起きるのは昭和十一年である。太宰治がバビナール中毒により東京武蔵野病因に収容されたのが同年の十月、その翌月の十一日に、溺愛していた文也が小児結核で急死。やっと築きかけた幸せな生活が崩れ去る。文也の遺体は中也が離さず、上京した母フクに説得されてやっと棺にいれたという。しかし元の生活は望むべきもなかったようだ。

  彼は文也の死後、一日に何回ものその霊前に座ったが,口からしばしば「正行」の名が漏れるの家族は聞いている。〈略〉弟亜郎への追悼と文也へのそれが二重写しになり,時空の混乱が生じたのである。「御稜威を否定したのは悪かった」いいながら叩頭を繰り返すようになった(時代は天皇の権威の増大と、戦争に向かいつつあった)。そのために文也が死んだ、という自責が生まれる。二階の座敷に座っていて,不意に手摺りすの  庇屋根に白い蛇が出ている。文也を殺した奴だ、といった。附近の人が葬式のやり方について,悪口を言うのが聞こえる。やがて玄関に巡査が入ってきて足踏みする音が聞こえ出した。    (大岡昇平「在りし日の歌」)

ちなみに「正行」とは楠正成の長男、楠正行である。(南朝への忠義心から明治になって父と共に名誉回復し、戦後の教育勅語にも登場したという。) 中也が六歳の時死んだ次男の亜郎を追悼する詩を書いた時、この正行きの勅語を参考にしたという。

  枝々の ?みあはすあたりかなしげに
  空は私児らの亡霊にみち                  (「含羞」)

  コバルト空に往交へば
  野に
  蒼白の     
  この小児     (「この小児」)

  菜の花畑で眠ってゐるのは……
  菜の花はたけでふかれてゐるのは……
  赤ン坊ではないでせうか? (「春と赤ン坊」)」

それにしても中也の詩には死児や夭折のイメージであふれている。次男亜郎、三男恰三(二人とも結核で)という弟二人の死に愛児文也までと、中也の分身は夭折にとりつかれたようなものであった。翌年十二年の正月、上京していた母フクは、次男三男亡き後に頼るべき四男の思郎を上京させる。思郎にも兄の中也を慰めるすべはなかった。


  前略、ご無沙汰しました 實は最後におあいしたましたあと神経衰弱はだんだん昴じ、「一寸診察して貰ひにゆかう」といひますので従いてゆきました所、入院しなければならぬといふので病 に連れてゆかれることと思ひて看護人に従いてゆきますと,ガチャンと鍵をかけられ、そしてそこにゐるのは見るからに狂人である御連中なのです。頭ばかり洗ってゐるものもゐれば,終日呟いているものもゐれば、夜通し泣いてゐるも  のも笑っているものもゐるといふ風です。ーーそこで僕は先づとんだ誤診をされたものと思ひました。子供を亡くした矢先であり、うちの者と離れた、それら狂人の中にゐることはやりきれないことでした。{四月六日 安原喜弘への書簡)

中也が千葉寺療養所に入院したのは一月七日。千葉県にある中村古峡療養所であった。友人の安原に差し出した手紙からは精神病とはおもえないのだが。事実京大神経科の村上仁の伝えるところでは病状は〈軽いヒステリー〉程度のものだったらしく、病院の診断もそれに応じた治療体験録などが残されている。
収容されたという言い方が不釣り合いかもしれないが、先の安原宛の手紙にはそのときの中也の恐怖は〈誤診をきっかけに狂人の中にゐてはついにほんとうに狂っちまふなぞといふ杞憂があり、全く死ぬ思ひであった。〉と書かれている。(このあたりのくだりは、北川透『中原中也わが展開』の「天使と子供ー中原中也の千葉寺受難」に詳しく書かれている。)
 収容された千葉寺での中村とは、かつて夏目漱石に師事し実弟の狂気を題材にした小説『殻』を執筆している人物で、それも漱石のすすめで朝日新聞に連載し好評を得ている。その中村療養所での中也はどのような日々をくっていたのか。三十八日間もの間の作品もあるが、入院中の手記として「千葉寺雑記」がある。だがこれは中也が自発的に書いたものというよりは、治療の一環として中村が患者に書かせていたものであるらしく、中村自身が行う精神病理の概説や白隠禅師和讃講義なども、中也はノートをとるように指導されている。

 自戒(戒律?守ル)
  五悪十悪
  十前の戒律
  身・口・意二悪ガアル
   身(折衝、偸盗、邪淫)
   口(悪口、両下、綺語、妄語)
   意(食欲、?恚、愚痴)

精神衰弱の治療方の一環なのだろうが私にはまったく意味がわからない。どんな効果があって筆記させるのかも。だから中也はどんな思いでノートにかきうつしていたんだろうとおもう。「雑記」には中也自身によって病因を分析し、報告する形をとっている。(つづく)

同人誌という詩神~舟川栄次郎論(富山昭和詩誌の流れ)

2019-07-04 | 富山昭和詩史の流れの中で

今日は以前に書いた朝日町の詩人舟川栄次郎について、地元の人もあまりにも知らなすぎるので、以前の文章を再掲します。
(今日は序文のみですが機会を見計らって以前に書いた文章を、掲載できたらとおもっています。)

富山の昭和詩史の流れの中で
同人誌という詩神ー舟川栄次郎論
(1)
 いま、詩を書くとはどういうことか。「詩などどこにもない場所」で、しかも「求められもしない詩」をただ、あらしめようとする詩とは何か。詩人とは何か。一つの躓きに踵を接しながら、世界の全体的な必然性を越ええないと言う諦念の見えない、薄い皮膜に覆われているわが国の時代感情にあえて反することは意味のないことだろうか。どんなに自由に振る舞ってみても、言葉に纏わりつくものから、詩は免れることは出来ない。そのような詩の居場所を訪ねるために詩が書かれるというよりも、そのような場所のないところで詩は表される。それは求められることでしか表せえないモノやコトを越えている。詩は理論や倫理や正義といったことがらからも、なにも求められはしない。求められないから「ただ、あらしめる」のである。
 ここでは、富山の昭和詩史の流れの中で、ひたすら詩を表すことに生涯をかけた詩人のひとり、舟川栄次郎の詩的軌跡をたどりたい。戦前から前後にかけて全国的にも無名に近い詩人の「ただ、あらしめる」詩への希求は、現在にも通じるものがあるのではないか。未熟な豊かさと言うものを排除しようとする過去の詩的状況の中で、書くべき詩とは何であったか。詩人の存在とはどういうことであったか。舟川の作品を通して詩人としての心の軌跡をたどりたい。

(2)詩人の偶像化
 室生犀星が自らの著書で、生涯の好敵手であったという高村光太郎について、あらゆる面でかなわないものを感じていたと書いている。あらゆる面という中には詩そのもの以外の事柄にも十分な比重が含まれている。たとえば、光太郎が芸術院会員を断ったことや、『中央公論』のような大雑誌には書きたくないと断りながら、名もない同人誌から頼まれた時はしっかり書いて、おまけに同人費まで為替にくんで送金していたという、光太郎の詩人としての態度に、どこか偽善的なものを感じていたのかもしれない。さらに、犀星はつぎのように書いている。
 「光太郎は自分の原稿はたいがい自分で持参して、名もない雑誌をつくる人の家に徒歩で届けていた。紺の絣の筒袖姿にハカマをはいて、長身に風を切って、彼自身の詩の演出する勇ましい姿であった。」ここには、詩人の風貌まで書いて、それとなく言動を非難しているように見える。だが、内心では大詩人として認めているからこその文章でもあるのだろう。このような外聞は俗な耳に入りやすいのだけれど、ありふれた通俗的な言動も含めて当時は高村光太郎の詩に、詩人としての振る舞いに、心酔し、私淑した若い詩人たちも多かったということである。まさに舟川栄次郎もそのひとりであった。
 
 舟川栄次郎はは昭和六年九月に第一詩集『戸籍簿の社会』を上梓、地元で反響を読んだ。そこでかねて私淑していた 光太郎を訪ねて上京するのだが、高村光太郎は 寄せ付けなかったという。
 「地方での詩活動こそが、本来のありうべき姿だ」と舟川は諭されるのである。それ以来、舟川は生涯、その言葉をこころに、泊(現、朝日町)で、しっかり根を張って詩活動を展開したのだった。舟川のせめてもの小さな野望はあっけなく消し飛んだともいえる。光太郎の人道的な詩が、外聞を越えたフィクションとして受け止めることのない当時の詩的状況のなかでは、高村光太郎という詩人を世間的に偶像化することが起きてしまうのは当然かもしれない。
 舟川栄次郎という詩人が後に同人誌仲間や地域の人々に大変慕われたという詩人像の外聞をつうじて思うことは、詩人として生まれてくる数少ない運命の人と、生涯を通じて詩人に近づこうと努力する圧倒的に多勢の中の人との違いなど、単なる星のめぐり合わせという一言で済ませられない微妙なものを感じる。むろん諦念ではない。諦念の先に見据えたあるかないかの微かな希望でもない。舟川栄次郎は泊町図書館司書として終生地域に挺身したと言う、ここではその事実だけをしっかり受け止めておきたい。

(3)同人誌『日本海詩人』とその詩友
 舟川栄次郎の詩の世界を戦前にさかのぼってみていくと、昭和の初めに生まれた同人誌『日本海詩人』に行きつく。この詩誌は私にとってまぼろしの詩誌であったが、近年は稗田菫平氏の発掘による著作(『牧人八一号、八二号』の巻末特集)によって、徐々に明らかにされている。今に思えば『日本海詩人』は北陸の文学の拠点としての役割を担っていた歴史的に重要な意味を持つ詩誌である。
 この『日本海詩人』 には、井上靖(旭川市生まれ)と源氏鶏太(富山市生まれ)のふたりの作家の文学的出発に大きく関わっていることからも、富山では希な詩誌であったと思う。このふたりの作家の初期の作品等は、先の稗田氏の著書にあったってもらえればいいが、ここでは特に舟川栄次郎と関係深い源氏鶏太の初期の作品について、簡単にふれておきたい。

詩集の表紙に使えそうなので、

2019-06-12 | 心に響く今日の名言


群星の写真です。詩集のタイトルにつかえそうなので取り出しました。

立原道造ノート6

2019-06-05 | 近・現代詩人論
 立原道造ノート6


「(大学三年の夏、)追分を訪れるがその途中、汽車の中で偶然、一少女と知り合う。彼女は近く結婚する身であることを告げて軽井沢で下車してしまうが、別れに肌につけていた十字架を彼に与えた。 追分では、例の恋人の到来を待つが、彼女も東京から別れの手紙をよこし、なかなか姿を現さない、 やがて彼女を垣間見るのだが、ついに言葉を交わすこともできず、別離は決定的なものになる。これらの重なる別れを味わった彼は心の痛みに耐えかね、夏の終わりに追分かららひとり飄然と近畿に旅立つ」やがて旅先で車中にもらった十字架も別れの手紙も 勝浦あたりの海に捨てる。この詩はそのときのものなのかどうかわからないが、傷心の旅であったことはたしかなようだ。恋人を思う夢はもはやそこまで。ありもしないふるさとの風景だから本質にはたどり着けない。観念の中のふるさとは思い出の中で凍らせる、あるいは凍えているものであり、啄木の「ふるさとはありがたきかな」の心境とはずいぶんかけ離れてしまう。また犀星の「小景異情」の「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの/よしや/うらぶれて井戸の乞食となるとても/帰るところにあるまじや」を思いおこさせてくれた。

山のみねの いただきの ぎざぎざの上
あるのは 青く淡い色 あれは空
   空のかげに 輝く陽 空のおくに
ながれる雲……私はおもふ 空のあちらを
夏の日に咲いてゐ 百合の花も ゆふすげも
薊の花も 堅い雪の底に かくれている
みどりの草も いははなく 梢の影が
茜色のこまかい線を 編んでゐる

ふと過ぎる……あれは?白 あれは鶸!
透いた林のあちらには 山の峰のぎざぎざが
ながめてゐる 私を 私たちを 村をーー

すべてに 休みがある ふかい息をつきながら
耳からとほく 風と風とが ささやきかはしてゐる
……ああ この真白い野に 蝶を飛ばせよ!……   (「ひとり林に」全行)

  私が愛し
そのためにわたしのつらいひとに
  太陽がこうふくにする
未知の野の彼方を信ぜしめよ
そして
真白い花を私の憩ひに咲かせしめよ

昔のひとの堪へ難く
望郷のうたであゆみすぎた
荒々しいつめたいこの岩石の
場所にこそ (「冷たい場所で」全行)」

この「冷たい場所で」は伊東静雄の作品であるが、先の立原道造の「ひとり林に」と傍線の部分がにていないか。立原は昭和十二年三月に大学卒業間際に「コギト」に発表している。「この真白い野に蝶を飛ばせよ!」と「真白異花を私の憩ひに咲かせしめよ」と並べてみると不思議にどこか詩句の影響を見ることができないか。「コギト」に掲載された詩を読んでいたことは当然であろう。

また立原道造は、中原中也の詩をどのように見ていたのだろうか。おそらくライバル的な意識がなかったとはいえないだろう。中原中也の〈汚れちまった悲しみに……〉を評してーーこれは詩である。しかし決して「対話」ではない、また「魂の告白」ではないーーといらだつように断じている。立原の詩こそ完璧に芸術化されたモノローグである。立原は自らの「生」と「詩」とをいらだつくらいに錯覚していたのだといえよう。このことは菅谷規矩雄は次のように述べている。

  「立原が「魂」を完璧に欠落させしめていたゆえに可能になった。告白するにたる「魂」を欠いている故に、そのモノローグは、徹底して「対話」の仮装と仮象をおいもとめた。中原の「魂」とは、そのあまりの現実性のゆえに「心理」たらざるをえないもののことであり、立原の心理すなわち「対話」は、そのあまりの物語性のゆえについに「魂」にとどくことのないものであった。立原は中原にたいして同時代的に拮抗しうる詩人でもあったのである。「完璧な芸術品」を作り上げたのは、中原ではなく立原のほうである。」


立原道造の詩は、自然を唄ったとして詩のうちの夏が一番多いのはなぜか。古典的な短歌などを見ても夏は一番歌としては作りにくいはずである。併し立原は軽井沢、追分といった舞台によって夏という季節は自然に詩の場面にとりいれられたのではないかともう。立原の詩の世界が一つに夏を舞台にしている。これは都会からみれは豊かさの象徴でもある。一方、宮沢賢治のように農村では、農民の感覚からすれば冷夏は不作の代名詞にもなる。立原がこの浅間山麓での「不毛な美」を見極めようとすれば必然的にこの背理のさけめのにみこまれてしまうだろう。古典的な和歌の作者たちは盛夏に対していわば口を紡いできた、口をつむぐざるを得なかった、というべきだろう。立原の「夏」は、全く別の社会のように、異和のように現れる。


 昭和十年代の都会生活者にとっては、避暑地の夏の軽井沢での生活、あるいは別荘でのひと夏の生活は一つのステータスか、あこがれであったのだろう。立原道造の詩もまた若い人のあこがれに転じていったに違いなかろう。詩集は「日曜日」「萱草に寄す」「暁と夕べの詩」「優しき歌」(没後刊行)立原はこれを「風信子叢書」第三編と出版するつもりであったらしい。神保光太郎によれば、その草案を中村真一郎から示されたことがあって、その記憶に従って配列などを編集し現行の詩集になったという。