遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

中原中也ノート16

2019-08-22 | 近・現代詩人論
 一ページを作品の引用に資したようだが、唯一の散文詩と言うことでゆるしていただきたい。
それにしても今号は中也が大学に行くまでの作品の紹介におわりそうだが、むろん大方の批評は書かれおり目あたらしいものなどなにもないのだから、こうして京都で過ごした短い間の思い出を書いた作品を読み返す。新しい場所での学生生活が不安と希望に満ちていたことがよく分かる詩である。
大正十二年九月一日、関東一円をマグ二チュウード七・九の激震が襲った関東大震災の日である。首都としての東京は横浜とともに壊滅的な打撃を受けた。首都東京が完全に回復するのは帝都復興祭(昭和五年)まで待たなくてはならない。
中原中也は、当時京都の立命館中学の三年生。この震災には直接であってはいないが、この未曾有の大混乱である関東大震災は、当時十六歳の中也には大きな転機をもたらしたであろうことが想像できる。
多くの文化人や経済人は関東を離れた関西に移ったという。京都時代に中也は、山口時代に書いていた短歌には何故か見向きもしなくなり、小説を書き出した。中也の「詩的履歴書」には「秋の暮れ寒い夜には丸太橋際の古本屋で『ダダイスト新吉の詩』を読む、中の数編に感激」と書いている。
おそらく偶然、古本屋の棚から見つけた高橋新吉の詩集『ダダイスト新吉の詩』にであって、何が心をうったのか。「ダダ手帖」と呼ぶ創作ノートを作りダダの詩を書き始める。この辺りのこともよく知られていることだが、時代が大きく変わろうとしている時の主義主張の変化を敏感にとらえて、それは当時の風潮のように価値観の変化を伴って反芸術、半文学といった表現運動がわきおこってきたものといえるようである。おそらく明確な主義主張があったわけではなかったからか、やがてシュールレアリズムの登場によって自然消滅したといわれている「ダダ」につい次号ではすこしふれてみたい。

中原中也ノート15

2019-08-19 | 近・現代詩人論

  ゆきてかへらぬ
     ー京都ー

   僕は此の世の果てにゐた、日は温暖に降り酒ぎ、風は花々揺つて
ゐた。

 木橋の、誇りは終日、沈黙し、ポストは終日赫々と、風車を
附けた乳母車、いつも街上に停つてゐた。

 住む人達は子供等は、街上に見えず、僕に一人の縁者なく、
風信機の上の空の色、時々見るのが仕事であつた。

 さりとて退屈してもゐず、空気の中には蜜があり、物体では
  ないその蜜は、常常食すに適してゐた。

   たばこくらゐは喫つてもみたが、それとて匂ひを好んだばかり。
おまけにぼくとしたことが、戸外でしかふかさなかつた。

   さてわが親しき所有物は、タオル一本。枕は持つてゐたとは
いへ、布団ときたらば影だになく、歯刷子くらゐは持つてもゐ

  たが、たつた一冊ある本は、中に何にも書いてはなく、時々手
にとりその目方、たのしむだけのものだつた。

女たちは、げに慕わしいのではあつたが、一度とて、会ひに
行かうと思わなかつた。夢見るだけで沢山だつた。

 名状しがたい何物かが、絶えず僕をば促進し、目的もない僕
ながら、希望は胸に高鳴つてゐた。
* *

林の中には、世にも不思議な公園があつて、無気味な程にも
にこやかな、女や子供、男達散歩してゐて、僕に分らぬ言語を
話し、僕に分からぬ感情を、表情してゐた。
さてその空には銀色に、蜘蛛の巣が光り輝いてゐた。
                      (『在りし日の歌』所収)

 一ページを作品の引用に資したようだが、唯一の散文詩と言うことでゆるしていただきたい。
それにしても今号は中也が大学に行くまでの作品の紹介におわりそうだが、むろん大方の批評は書かれおり目あたらしいものなどなにもないのだから、こうして京都で過ごした短い間の思い出を書いた作品を読み返す。新しい場所での学生生活が不安と希望に満ちていたことがよく分かる詩である。
大正十二年九月一日、関東一円をマグ二チュウード七・九の激震が襲った関東大震災の日である。首都としての東京は横浜とともに壊滅的な打撃を受けた。首都東京が完全に回復するのは帝都復興祭(昭和五年)まで待たなくてはならない。

中原中也ノート14

2019-08-16 | 近・現代詩人論
 中也が 一九二二(大正十一)年、中学の先輩と防長新聞の若手記者との共著で合同歌集「末黒野」を刊行。ここには(初版本、部数二〇〇部、頒価二十銭。)中也が二年二学期から三学期にかけて制作した作品二八首を「温泉集」と題して収録する。学校の成績はすっかり落ちて、ついに山口中学三学年を落第という結果になるのだが。(一家が一時、騒然とし、やがて沈鬱になったと、弟がのちに述べている。)それでも落第した当人は「ひと月読んだらわかる教科書を、中学校というところは一年もかかって教える、そんなばからしい勉強はせん」といって学校へはいかないという、そんな中也に、父の謙助がもと家庭教師の京大生(井尻)に京都へ連れて行ってくれるように頼んだという。
一九二三(大正十二)年四月、京都・立命館中学校に補欠合格、第三学年に編入が決まり、中也は山口を発つ。見送りは養祖母コマひとり。一九二五年三月に東京に移るまで京都で中学生活を送る事になる。

第二詩集『在りし日の歌』の第二章「永訣の秋」冒頭に収められたいる作品「ゆきてかへらぬー京都ー」と題した収録作品中唯一の散文詩である、ここに抜粋しよう。中也が京都に行ったという記録が無いようだからおそらく中学時代の思い出が題材になっているのだろうか。

中原中也ノート13

2019-08-14 | 心に響く今日の名言


さらに{防長新聞」短歌欄に掲載された歌をここに記していきたい。この頃はまだ定型とは出合っていなかった。三年後の定型詩と出合う前の短歌を拾い集めてみる。(およそ一九二十年から二十三年にかけての歌) 
  子供心
  菓子くれと母のたもとにせがみつくその子供心にもなりてみたけれ
  小芸術家 
  芸術を遊びごとだと思つているその心こそあはれなりけれ
春の日
 心にもあらざることを人にいひ偽りて笑ふ友を哀れむ日
    去年今頃の歌
  一段と高きとこより凡人の愛みて嗤ふ我が悪魔心

 いずれの歌も中学生が自己の内面を見つめようと、真剣できまじめな姿がよみとれるであろう。
晩年の詩《曇天》が発表されたのは昭和十一年七月。先にそれを書き写したい。

  ある朝 僕は 空の 中に、
 黒い 旗が はためくを 見た。
はたはた それは はためいて ゐたが、
 音は きこえぬ 高来が ゆゑに。

手繰り 下ろうと ぼくは したが、
 綱も なければ それも 叶はず、
  端は はたはた はためく ばかり、
空の 奥処に 舞ひ入る 如く。
 
  かゝる 朝を 少年の 日も、
 屡屡 見たりと ぼくは 憶ふ。
かの時は そを 野原の 上に。
 今はた 都会の 甍の 上に。

かの時 この時 時は時は 隔
 此処と 彼処と 処は 異れ、
はたはた はたはた み空に ひとり、
いまも 渝らぬ かの 黒髪よ。

この黒い旗のはためきと言う中也の詩の感性は、今読み返しても私に不安感をよびおこす。この不吉な予感は、この詩が発表された昭和十一年七月に、二・二六事件に連座した将校および民間人十五人が処刑されている。

中原中也ノート12

2019-08-11 | 近・現代詩人論
中也が三歳の記憶を二十代の終わりに書いているが、子供の頃は親の期待に応えようと、何でもよくやった優等生でそして早熟だったようだ。前回につづき子供の頃の中也について小学生の頃から中学生の頃について、みていくことにする。一九二〇(大正九)年、小学六年の時には雑誌や新聞に短歌を投稿。{婦人画報二月号)に次の歌を自薦として掲載。「筆捕りて手習いさせし我母は今は我より拙しと云ふ」。地元の「坊長新聞」二月十七日に短歌三首が掲載。しかし両親は中学入試の勉強に集中させる。
 中也は「大正四年のはじめの頃だったか おわりころであったか兎も角寒い朝、その年の正月に亡くなった弟を唄ったのが抑抑(そもそも)の最初である。学校の読本の、正行が御暇乞の所 「今一度天顔を拝し奉りて」といふのがヒントをなした。」と〈詩的履歴書〉に書いている。

 一九二〇年四月、県立山口中学校(現・山口県立山口高等学校)に入学にする。成績の方がどんどんとおちていったようだが、読書熱は増す。そして新聞への短歌の投稿をし、歌壇欄に頻繁に掲載されるようになる。短歌会にも顔をだし、益々文学に熱を上げる。「防長新聞」の歌壇欄で瞠目されたのは、(大正十年十月二日)の掲載された「煙」と題する次の二首であろう。

 ゆらゆらと曇れる空を指さして行く淡き煙よどこまでゆくか
  白き空へ黒き煙のぼりゆけば秋のその日もなほ淋しかり

 この二首については福島泰樹が感覚的な視点に触れた解説を寄せている。
「まず視覚的にみてふらつきがない。均整がとれているのである。活字の行間から、モノクロームな風景が煙のようにユラユラと立ち上ってゆくではないか。聴覚的にはさらなる完成度が見られる。十四歳の少年は曇天の空の向こうに、詩の予兆を、ひとりはためく黒旗を見たのか。」。 (『中原中也 帝都慕情』)にさらにつづけて「一首目の、「ラ」行音と{カ」行音からなる連弾の妙!」と別冊『太陽』誌の{曇天の朝」で述べている。ここではまだはっきりと認めにくい「連打の妙」は、のちに発表された「曇天}(昭和十一年七月)に連なっていくとみていいのだろう。

中原中也ノート⒒

2019-08-07 | 近・現代詩人論
 「私が金沢にゐいたのは大正元年の末から大正三年の春迄である。住んでいたのは野田寺町の照月寺(字は違ってゐるかも知れない)の真ン前、犀川に臨む庭に、大きな松の樹のある家であった。其の末の樹には、今は亡き弟と或る時叱られて吊り下げられたことがある。幹は太く、枝は拡がってゐたが、丈は高くない松だつた。」
(中略)ーさらにつづける。
 「金沢に着いた夜は寒かった。駅から旅館までの俥の上で自分の息が見知らぬ町の暗闇の中に、白く
立昇つたことを夢のやうに覚えている。翌日は父と弟と祖母とで、金沢の町を見て廻つた。威勢よく流れる小川だけがその日の記憶として残っている。
 十日ばかりして家が決まると旅館を出てその方へ超した。それが野田寺町の先刻云つた家であつた。
夕方弟と二人で近所の子供があつまつて遊んでいる寺の庭に行つた。却却みんなちかづかなかつたが。そのうちの一人が「名前はなんだ」と訊いた。僕は自分の中也問い府名前がひどくいやだつたものだから「一郎」と小さな声で躊躇の揚句答へた。それを「イチオー」を尋ねた方では聞き違へて「イチオーだ」とみなの者に告げ知らせた。するとみんなが急に打解けて、「イチオー遊ぼう」と近寄ってくるのであつた。由来金沢にゐるあひだぢう、僕の呼名は「イチオー」であつた。」
 (中略)
「寺ばかりといつてもいゝやうな待ちに住んでゐたので、葬式は実に沢山見た。」
 (中略)ーここでおわります。ー
 この後、神明館という映画館と軽業との話がつづき、「サーカス」の詩がふとおもいおこされた。また、ここの号では詩人の詩想や語彙の変化について触れることが出来なかった。      

中原中也ノート⒑

2019-08-05 | 近・現代詩人論
 中也のふるさとは古くから温泉地としられている山口の湯田である。医院であった中也の生家は現在後をとどめていない。生家があったところに近い井上公園には詩碑が建っている小林秀雄の筆によって中也の詩「帰郷」からとった詩句がきざまれている。私は二十数年前に一度ある研修会で当地を訪れそれを拝見した。当時はさっととおりすぎただけだった気がする。

これが私の古里だ
さやかに風も吹いている

あゝ おまへはなにをして来たのだと
吹き来る風がわたしにいふ

 原詩は昭和五年の「するや」第五集と昭和七月の「四季」第二刷とに二度発表され、詩集『山羊の歌』の「初期詩編」に収められている作品だが、四節十四行の後半部分によっている。「さやかに風も吹いている」の次に「心置くなく泣かれよと/年増婦の低い声もする」の二行があるが、小林の配慮だろうか、削除されている。古里のさわやかな風を唄い、後の二行では東京での無為無頼の生活を自責するかのようにつらい思いを風にたくしている。
 いま、私が中也ノートをつづっているのも、別段新しい発見や多くの著書に対する個人的な主張があるというわけでもない。学生の頃に近代詩を読むようになってから中也を知ったのだから、その魅力に引かれたのは年齢的にもおそい方なのかもしれない。でも一時ははなれていたのだが。

ここで先の「金沢の思ひ出」のその幼年期の感性のきらめきを垣間見ようとおもう。

中原中也ノート9

2019-08-04 | 近・現代詩人論
これが私の古里だ
さやかに風も吹いている

あゝ おまへはなにをして来たのだと
吹き来る風がわたしにいふ



 原詩は昭和五年の「するや」第五集と昭和七月の{四季」第二刷とに二度発表され、詩集『山羊の歌』の{初期詩編」に収められている作品だが、四節十四行の後半部分によっている。「さやかに風も吹いている」の次に「心置くなく泣かれよと/年増婦の低い声もする」の二行があるが、小林の配慮だろうか、削除されている。古里のさわやかな風を唄い、後の二行では東京での無為無頼の生活を自責する可のようにつらい思いを風にたくしている。
 いま、私が中也ノートをつづっているのも、別段新しい発見や多くの著書に対する個人的な主張があるというわけでもない。学生の頃に近代詩を読むようになってから中也を知ったのだから、その魅力に引かれたのは年齢的にもおそい方なのかもしれない。でも一時ははなれていたのだが。

ここで先の「金沢の思ひ出」のその幼年期の感性のきらめきを垣間見ようとおもう。

 「私が金沢にゐいたのは大正元年の末から大正三年の春迄である。住んでいたのは野田寺町の照月寺(字は違ってゐるかも知れない)の真ン前、犀川に臨む庭に、大きな松の樹のある家であった。其の末の樹には、今は泣き弟と或る時叱られて吊りたことがある。幹は大変よく拡がってゐたが、竹派高くない末だつた。」
(中略)ーさらにつづける。
 「金沢に着いた夜は寒かった。駅から旅館までの俥の上で自分の息が見知らぬ町の暗闇の中に、白く
立昇つたことを夢のやうに覚えている。翌日は父と弟と祖母とで、金沢の町を見て廻つた。威勢よく流れる小川だけがその日の記憶として残っている。
 十日ばかりして家が決まると旅館を出てその方へ超した。それが野田寺町の先刻云つた家であつた。
夕方弟と二人で近所の子供があつまつて遊んでいる寺の庭に行つた。却却みんなちかづかなかつたが。そのうちの一人が{名前はなんだ」と訊いた。僕は自分の中也問い府名前がひどくいやだつたものだから「一郎」と小さな声で躊躇の揚句答へた。それを「イチオー」を尋ねた方では聞き違へて「イチオーだ」とみなの物に告げ知らせた。するとみんな芽球に打解けて、「イチオー遊ぼう」と近寄ってくるのであつた。由来金沢にゐるあひだぢう、僕の呼名は「イチオー」であつた。
 (中略)
寺ばかりといつてもいゝやうな待ちに住んでゐたので、葬式は実に沢山見た。
 (中略)ーここでおわります。ー
 この後、神明館という映画館と軽業との話がつづき、「サーカス」の詩がふとおもいおこされた。ここでは、詩人の詩朋や語彙の変化について触れることが出来なかった。


中原中也ノート8

2019-08-02 | 近・現代詩人論
 中也は、生まれて半年後には旅順に渡り柳樹屯へ移っ後、山口に半年ほどいて広島へ行く。二歳になるすこし前のことである。軍医である父謙助は広島の病院付きになったからである。

 「その年の暮れの頃よりのこと大概記憶す」と後年語っている。記憶力のいい人だと思うが、先に記した詩編では、「なんだか怖かったと」当時を振り返っている。
一九一一(明治四十四)年四歳、で広島の女学校付属幼稚園(現広島女学院ゲーンズ幼稚園)に入園。

「幼稚園では、中也はみんなから好かれたようです」と母フクは語っている。翌年、父健助の転任によって金沢にひっこすことになったとき、幼稚園で別れを惜しみ、先生や友達とともに泣いたという感受性の強い子だったのだろう。金沢に向かう途中汽車のなかでも「広島の幼稚園は良かったね」と中也は母フクに語っている。「あのころ、中也はほんとうによくいうことを聞く、優しい子供でした。子供とは思えんほど、ききわけがよかったんです。」と、フクは語っている。


 一九一三(大正二)年六歳、北陸女学校付属第一幼稚園(現北陸学院短期大学付属第一幼稚園)に入園。通園路の途中にある犀川が、雪解けで水勢が増したときには「橋が落ちる、橋が落ちる」といって中也は恐がり、橋を渡らず回り道をしたという。繊細な感受性は幼年時からだったにちがいない。
 又友達と遊んでいてよその家家の窓ガラスを壊してまったとき、ガラスを弁償してくれるよう母に懇願。「悪かったよ、」と「えらい気をもんで」いたというエピソードがある。母は「物が気になる性質だったんですよ}と語っている。そして中也は広島・金沢時代に、三人の弟の兄に成るのだが、このようにいくつかのエピソードから記憶力のいい、他人思いの心の優しい子だったことがうかがいしれるだろう。
亜郎(中也三歳の時)、恰三(四歳の時)、思郎((六歳の時)が誕生。その兄弟達は「父は軍隊式、母は小笠原流、実祖母スエは寺子屋式」でしつけられたという。(以上は「別冊太陽」からの引用)

一方、父謙助はよく子供らを連れて映画などを見に出かけている。そのことは「金沢の思ひ出」にもつづられている。詩編「サーカス」のモチーフになっているという見方もある。

 中也のふるさとは古くから温泉地としられている山口の湯田である。医院であった中也の生家は現在後をとどめていない。生家があったところに近い井上公園には詩碑が建っている小林秀雄の筆によって中也の詩「帰郷」からとった詩句がきざまれている。私は二十数年前に一度ある研修会で当地を訪れそれを拝見した。当時はさっととおりすぎただけだった気がする。


中原中也ノート7

2019-07-31 | 近・現代詩人論
 このノートでは中原中也の晩年から(千葉寺の入院)書きはじめたので(①、②で)あらためて幼い頃の記憶をもとに書かれたという詩等と生い立ちについてみてゆきたいと思う。
数え年満二歳で山口に居た頃の中也は「その年の暮れ頃よりのこと大概記憶ス」と、自身で記してもいるのだが、中原家の中庭には大きな柿の木があったという。先の詩の「三歳の記憶」の初出は{文芸汎論」一九三六(昭和十一)年六月号。たぶん二九歳頃の作と推定される。
  三歳の記憶

 縁側に陽があたつてて、
 樹脂が五彩に眠る時、
 柿の木いっぽんある中庭は、
 土は枇杷いろ はえが唸(な)く  

 稚厠の上に 抱えられてた、
 すると尻から 蛔虫(むし)が下がった。
 その蛔虫が、稚厠の浅瀬で動くので、
 動くので、私は驚愕(びっくり)しちまった。

 あゝあ、ほんとに怖かった
 なんだか不思議に怖かった、
 それでわたしはひとしきり
 ひと泣き泣いて やつたんだ。

 あゝ、怖かった怖かった
――部屋の中は ひっそりしてゐて、
 隣家は空に 舞ひ去つてゐた!
 隣家は空に 舞ひ去つてゐた!
    ({在りし日の歌」所収より)

一九〇七(明治四十)年十一月、生後六ヶ月の中也は母フクと祖母スエにつれられ、門司から船で大連へ向かい、汽車で父謙助の赴任地・旅順に赴くことになる。その時の記憶を題材にした随筆に「一つの境涯」があり詩編として先に掲げた{三歳の記憶」がある。一家がが山口に戻った頃(明治四十一年八月~翌三月)二歳に満たない中也の記憶がここにはうたわれている。中也が二十八、九歳の頃に書かれたものであろう、といわれている。