幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

「イスラム国」による日本人人質事件への政府対応について、「評価する」50% に思うこと

2015-02-18 02:03:14 | 社会
朝日新聞が14,15の両日実施した全国世論調査(電話)で安部内閣の支持率は50%(1月17、18日実施の前回調査42%)と上昇した。不支持率は31%(同37%)。中東の過激派組織「イスラム国」による日本人人質事件への政府対応について、「評価する」50%が「評価しない」29%を上回った。との記事がありました。

今回の湯川さん、後藤さんの殺害は、安倍首相の中東歴訪とその時の発言「イスラム国と戦う国を支援する」が、きっかけになってしまいました。人道支援だけで、イスラム国と戦う国を支援・・・の言葉がなければ、少なくとも口実を与えることはなかったと思います。

湯川さん、後藤さんと捕虜になっていることが分かっていてでのパーフォーマンスは必要だったのでしょうか?
2014年8月に湯川さんはイスラム国に拘束されていましたが、政府は特に動かなかったようです。
11月には後藤さんが拘束され、10億円の身代金を要求され、それを政府にも報告したとのことです。
しかし、政府はその情報を公開することもなく、何の対応もしなかったそうです。
12月の総選挙に影響するのを懸念して、公開しなかったと言っている人もいます。

後藤さんの妻に、イスラム国と思われる人物から身代金要求が来ていて何度かメールでやりとりされたそうです。しかし、政府は直接交渉できたのに一度も交渉しなかったそうです。

イスラム国からのビデオでの身代金請求が、安倍首相の訪問時に起き、それからの対応でした。
今回、「イスラム国」による日本人人質事件への政府対応について、「評価する」50%の方は、こういった事実をご存知な上での「評価する」だったのかと思ってしまいました。

フランスでテロが起きた時に、わざわざ中東を歴訪してあの発言しなければ、今回のイスラム国からのビデオによる身代金請求はなかったと思います。見方を変えると、ご自分の判断が引き起こした事件でもありました。

秘密保護法で、ますます国民には情報を知らせないようになってきました。TVでは政府を批判するゲストを呼ぶ時は、政府を擁護するゲストも呼ぶようにTV局に要請しています。そのため、最近のTVでの報道は自由に発言ができない状況です。TVで言えないことがまだラジオで言っています。

最近の安部首相の発言を聞いていると、日本は紛争解決に軍事力で持って対処しようとされている姿勢がはっきりと出て来ています。50%の方は、日本が再び軍事力を持って世界に出て行くことも含めたうえでの支持なのだろうか?と思いました。この高い支持率が日本の将来を決めて行くように感じました。







一般に問題は起きた時に直ぐに対応しないと、後でより大きな問題になると言います。
今回はまさに、昨年に誘拐された時に対応しなかったこと、そして安部首相の発言が今回の事件のきっかけになったのでしょう。


「大平光代のくじけない生き方 ”自分らしい“幸せをつかむ75のヒント」 大平光代著

2015-02-17 00:28:20 | 本の紹介
著者が41歳になる歳に産んだ娘は、ダウン症候群を持っていて、白血病、心室中隔欠損、心房中隔欠損、肺高血圧、甲状腺機能低下症などの合併症があります。また、五歳時の発達テストでは発達年齢1歳9か月と診断され、養育手帳「B1」をもらっています。
私は娘の療育のため、これまで築いたキャリアを捨て、弁護士の仕事はほとんど休業状態です。こんな私は世間の尺度からすると「不幸な人」と見えるかもしれません。でも、私は今、とても幸せです。娘の白血病は抗癌剤治療で良くなり、心臓手術も成功し、元気で明るい娘に成長しています。そして、発達テストの結果など、私にはどうでもいいことで、ただただ目の前にいる娘がかわいくて愛おしいのです。他人が下す評価に、一喜一憂するのは愚かなことだと思っています。

きっとこの先も楽しい人生が待っています。今は、これまでできなかったことをしようと思って、毎日ワクワクしています。娘を療育するための教材を作ったり、趣味のステンドグラスの図案を考えたり、畑で野菜やハーブを育てたり、したいことはいくらでもあります。毎日が楽しく、日々幸せを感じているのです。

著者は中学生の時に割腹自殺を図り、その後は家からはなれ極道の組長の妻になりクラブで働き、そこで叔父さん(大平氏)に出会い、叔父の熱心な働きで人生をやりなおし、中卒の資格しかないところ、宅建、司法書士、大学卒業資格、弁護士の資格を取得した。娘を出産した時に壊死が広がる難病にも罹り、ステロイド剤投与で何とかいのちを救われました。

著者の優しさ、慈しみ深さを感じさせる本でした。

それを表すエピソードを。
身体が硬いのでヨガに通っていたそうです。中に同じように身体の硬い人がいて、目線が合ってニコッとしたことがきっかけで、一緒にお茶を飲みました。彼女曰く、「そのカフェで働いている男性が好き」とその男性を教えてくれました。まだ片思いだそうです。その男性を見ると、同じマンションで時々エレベーターで一緒になる人で挨拶をしている人でした。そこで彼女を応援するつもりで、自宅の部屋でパーティを開き、その男性、彼女、他何人かを招きました。その時に彼女に伝えました。
①片思いの彼と一緒になれて嬉しくても、すぐに自分から「好きです」とは言わないこと。
②女性から強く押すと、男性は逃げてしまう。まず、彼にとってはいい友人になることを心がけること。
③仮に思いを成就できたとしても身体だけの関係になってしまうと、最後は悲しい別れ方をしないといけなくなるので慎重に。
パーティで彼に会った彼女は、彼から「時々、お店に来てくれてますね。ありがとうございます」と言われ、「あなたの入れてくださるコーヒーが美味しいから」と返事したそうです。それから数年後、ポストに一通の招待状が届きました。「私たち結婚します。・・・。彼からでした。おそるおそる妻の名前を見ると・・・よかった。片思いが成就したんや・・・。そして招待状の余白には彼女のかわいらしい文字で、こう書かれていました。  身体が硬くてよかったです(笑い)。

介護付有料老人ホーム慰問に行きました 腹話術を披露

2015-02-16 01:23:58 | 笑顔
池袋から一つ目の駅近くの介護付有料老人ホームに慰問に行って来ました。
”かっぽれ”をやっているボランティア仲間から声がかかりました。
セミナーの資料作成中で難しいかなと思いながらも、久しぶりに参加してみようかとの気持ちになりました。

これまで、泥鰌掬いまたは腹話術で何度か参加していましたが、暫くやっていなくて数年ぶりでした。
15人ほどの入居者の方が見てくださいました。

かっぽれ、落語、そして私の腹話術でした。
当初は、泥鰌掬いで参加しようと思って、泥鰌掬いのテープを聞いて、「これは練習しないと踊れないな」と感じ腹話術にしました。
腹話術は10数年前に大学の社会人セミナーで受講しました。日本腹話術師協会の会長さんが講師でした。

笑いもあり、かっぽれの踊りに合わせて手を動かす人もあり、久しぶりに参加してすがすがしい気持ちになりました。
ボランティアの友だちが、かっぽれを習っていると聞いて、私も何か芸を身につけたいなと思いました。
当時たまたま通っていた”カラオケ教室”のある社会保険センターに”泥鰌掬い始まります”のポスターが目に入り参加しました。
3年通い、3段を取ったところで止めました。

泥鰌掬いを習ったことで一番の収穫は、人に笑われても(嘲笑ではなく)、それはその人が笑われたことで良かったと思うようになりました。
それと芸があるので、何かやれ!と言われても何かできるようになりました。
あらためて「芸は身を助ける」、「情けは人の為ならず」を実感した日になりました。
それと少し、自分の老後はどうなのだろうと思った日でもありました。

声をかけて貰い、よい一日になりました。午前中はボランティアのキャンセルの連絡がなくて行ったら誰もいませんでした。
ひょっとしたらキャンセルかもしれないと担当者には行く前に2度メールしたのですが、返信がありませんでした。
連絡がなかったので徒歩往復30分が無駄になりました。「何故連絡してくれないのだろう」の気持ちをを自分で「健康のために30分運動で来た」と思うようにしました。
それだけに、午後の慰問は気持ちの切り替えになりました。人を笑顔にすると自分も笑顔になりますね。

「魂主義という生き方」 高橋佳子著 ”宿命の下、使命を見い出し果たす”

2015-02-15 03:04:44 | 本の紹介
5人の方が厳しい現状の中で、考え方を変えることで、自分の周りの環境も変わって行った事例を紹介している。
「人生に見えない次元をプラスする内外エネルギー交流の発見」
米国の会社Aの製品を日本のBさんの会社が日本で販売していたが、その製品が会社の販売の9割を占めていた。ところがA社が競合会社C社に身売りをすることになった。C社には日本代理店D社があり、それはBさんの会社と競合する会社で、9割占めていた製品の販売がD社に移ってしまう可能性が高かった。A社のオーナーが会社をだめにしてそのあげくにC社に身売りすることにすごく腹が立って、その怒りをぶつけるレターを出そうとしていた。しかし、魂の学びにより、A社のオーナーにも世話になったことを思い出し、オーナーも今が苦しいのだろうと相手を思う気持ちが芽生え、ここで罵倒するレターをだしても何も解決しないと思い、そのオーナーにこれまでお世話になったことを感謝していること、新しい道が良い方向に進むことを願っているレターを出した。
その後、A社はC社に身売りされたが、販売は継続してBさんの会社で継続できることになった。後でわかったことだが、A社のオーナーがC社に身売りの契約の場で「日本での販売は引き続きBさんの会社で行って欲しい」と進言してくれていた。

「果報側」から「因縁側」へ-人生の主導権を取り戻す
果報側とは誰かのおかげで何かを得ること。因縁側とは誰かのために何かをすること。
果報側とは、「人任せ、運任せで、自分では行動を起こさずに待っている」こと。因縁側とは、「何かできることがないか、もっとひきうけるべきだったのではないか、事前にもっと準備できたのではないか」と自分ができること。
乗馬クラブを経営するAさんは東日本大震災で馬たちが置き去りにされていることが気がかりになり、相馬市に行った。多くの馬が死んでおり、怪我をしている馬、弱っている馬も多く見た。そこで、一番弱っている馬12頭を分けて貰い、その馬を避難させることにした。いろいろ探したところ、30km圏外にある牧場が受け入れてくれることになった。「被災馬INFO」というサイトを立ち上げ被災馬救助のための基金を募った。取り組むと誰か助けが現れ、被災場の救助を果たすことができた。

「マルかバツ」を超える-「カオス」の導入;
今をカオスと受け止める。試練は100%未来を奪うことではなく、未来は残されており、その未来は試練の大きさとその対応によるところが大きい。試練はない方が越したことにはないが試練があることにより、それを乗り越えることで深く人生を生きたり、新しい価値を生みだすきっかけにもなる。

200年の歴史を持つロープ会社が下降線を続けて来た。社員の提案を生かし、シカやイノシシを防ぐロープをユーザーの声を聴き開発するという新しい試みにチャレンジした。そこには3つの「ち」が働いた。血;生まれた家(祖先からの流れ)、知;生まれた時代(新しい知識)、地;生まれた土地(現場の要望)を生かすことで困難なハードルを越えることができ、新しい収入源になった。

「青写真」(ヴィジョン)を描いて生きる-内在する魂の力;
どうあらんとするかの青写真を描いてみる。
すべてを条件として-魂に軸足を置いて生きる
人生は宿命から使命への物語。宿命とは生まれて来た環境、自分の親から受け継いだものは変えることができない宿命である。その宿命の中で自分が何かなすべきこと、それは使命である。自分が与えられた状況だからこそできる何かがあるはずである。それを実現していくことで自分にしかできない使命を果たすことができる。

感想;
人生は気持ちの持ち方で変わって行くことの実践事例が紹介されていました。
他の人の生き方を知ることで、自分の生き方を見つけ直すことは時々必要だなと思いました。


「喪の途上にて―大事故遺族の悲哀の研究」: 野田 正彰著 ”JALお世話係” ”時薬”

2015-02-14 01:28:46 | 本の紹介
日航機の御巣鷹山墜落の多くの遺族にインタビューして、大事故で大切な人を失くした悲哀とそこからの生活をまとめている。
4人姉妹の3人を亡くした、子ども二人を亡くした、子どもと孫まで亡くした、夫を亡くしたなど、
亡くなられた520人の遺族の悲しみ、苦しみが綴られている。

JALのお世話係りが遺族に当てられたが、そのお世話係の人の対応の違いもかなりあった。
JALに殺された思いがあるが、お世話係りに今も感謝している言葉がある一方、お世話係りの言葉に傷つけらえた人もいた。
パナソニックの社員が20数人亡くなったが、パナソニックの遺族に対する会社の配慮は大きかった。
それに比べてJALに対応は?に不満を抱いた人もいた。

時薬“という言葉があるが、時が経つから悲しみが癒されることはなく、その悲しみはずっと続いている。
”時薬“は,何とか日常生活を送れるようになっていくことを言っているように思った。
その日常生活も、悲しみと共にそれまでの生活の幸せを失ったものである。
 
いろいろな宗教団体からの誘いやレターも多くあった。
宗教団体なども良かれと思ってなのかもしれないが、中にはお金をたくさん払っただけのケースもあった。

喪ビジネス“があり、悲しみを商売にする人も出て来た。

墜落したパイロットが、何故、山の方向に機首を向けたのだろう?
海上に不時着する道を選択していたらもっと助かった人が多かったのではないか?
それはそういった緊急時のシュミレーション訓練が不足していたのではないか。

感想;
人を傷つけるのも、人を癒すのも人だということを強く感じました。
いつなんどき、大事故遺族になるかわかりません。
大事故遺族でなくても、事故で愛する人を亡くす、病気で亡くすことがあります。
その時、どう受け入れ、どう生きて行くか、難しいですが、遺された人がそのことをどう生かして行くかなのでしょうか?
大きな悲しみがあったけれど/大きな悲しみがあったからこそ、新しい人生に出会いました。
と言えるようになればと思いました。