幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

6歳で逝った娘、今も急に流れる涙。暑い日は、亡き妻を思う。辛い喪失抱えた2人を支えた“共感の場” "グリーフクッキング”

2024-09-05 00:30:03 | 生き方 考え方 笑顔 ロゴセラピー

 6月中旬、料理教室に参加した奥山由美さん(48)は、作ったばかりの和菓子の前に、あどけない女の子の写真を置いた。小学1年生で亡くなった「こっちゃん」。奥山さんの一人娘だ。奥山さんは2022年夏、長女・琴音さん(当時6歳)を亡くした。写真を常に持ち歩き、こっちゃんとはいつでもどこでもずっと一緒だ。

 死別などによる悲しみに寄り添った支援を「グリーフ(悲嘆)ケア」という。奥山さんが失意に暮れていた時に知ったのが、この「グリーフケアクッキング」だった。この日の参加した10人はみな、子どもを亡くした経験を持つ。水ようかんなどを手作りした後、悲しみを打ち明け合った。

 奥山さんが初めて参加したのは2023年冬。無心に粉をこねて広げ、皮から水ギョーザを作った。たわいもない会話が心地よかった。どうにかなってしまいそうだった気持ちが和らいだ。

 帰り道、こう思えた。

 「息をしてるだけでも偉いぞ、自分! 生きよう!」

◆わずか5歳で余命宣告

 こっちゃんは21年、わずか5歳で余命1~2年の宣告を受けた。有効な治療法がないとされる悪性脳腫瘍「小児脳幹部グリオーマ」だった。

右半身にマヒが出たこっちゃんが左手で描いた絵。もともと手を動かすのが好きで、折り紙や粘土で作った作品を両親にプレゼントしたことも
 その後も奥山さんは、いつも通りに過ごしてもらいたいと、友達と自宅でカードゲームやおしゃべりをして遊ばせた。しかし、病状が進行し、右半身はマヒして動かせなくなった。それでも、左手で文字を書き、絵を描いた。ランドセルを背負って歩きたいと、歩く練習もした。奥山さんは、全力で生きる娘を尊敬した。

こっちゃんが小学校に通ったのは4日のみ。ランドセルは中身もほぼそのまま残している
 病気との生活は1年4か月に及んだ。娘が亡くなった直後は、感情が高ぶっていたと思う。同じ時期に闘病していた仲間に会いたいと新幹線に飛び乗って、東北地方へ向かった。娘が行きたがった公園に行き、食べたがったアイスを食べた。短期入院した病院を外から眺めた。いつも娘の写真とともに。

 在宅医療でみとったこともあり、家にいると切なくなる。予定を詰め込むことで悲しみを乗り越えようとしたのかもしれない。仕事にも時間をあまりおかずに復帰した。

こっちゃんが亡くなってすぐに作った闘病の記録写真。模造紙3枚に、こっちゃんの写真のほか、夫、奥山さんの家族3人で撮った写真が100枚近く並んでいる。今も部屋に飾っている
 がむしゃらに過ごす日々は長くは続かない。3か月ほどで体調を崩した。ひとりでは気持ちを抱えきれず、共感できる人を求めた。同じような喪失体験をした人の生き方を知りたかった。

 たまたま見かけた新聞記事で知ったのが、この料理教室だった。

こっちゃんの体調が悪くなってから、症状の記録をつけ始めた。自身の気持ちや夫の様子も書き記されている。1年4か月ほどの闘病生活で、ノートは9冊になった

◆「試練は乗り越えられる人に与えられる」なんて…

 6月の料理教室では、子どもを亡くした母親たちが車座に座り、ぽつりぽつりと思いを口にした。

 「毎日必死に生きていたら、今日になっていた。時間の感覚がわからない」

 「つきっきりで看病していた時間が幸せだった」

 「『試練は乗り越えられる人に与えられる』という言葉をかけられたが、そんなことない」。ひとりが話すと、周囲が大きく何度もうなずいた。「息子の死から30年以上たっても、毎日泣いています」。すすり泣く声が部屋に響く。

 奥山さんもここでは、思いを自然と口に出せる。「今月(6月)はこっちゃんがおなかに来た月。日常では平静を保っているけれど、涙が出ます」

 対話の中で、悲しみを抱えながら、子どもを亡くした経験から保育の資格を取ったり、ボランティア活動をしたりする人もいることを知った。

いつも持ち歩く写真は病気になる前のこっちゃんだ
 料理教室は、NPO法人「病気の子ども支援ネット遊びのボランティア」(東京)が、子どもを亡くした家族を対象に22年5月から実施している。「手を動かすことで、少しでも気持ちをほぐすことができるかもしれない」。法人理事長の坂上和子さん(70)はそう話す。

 悲しみが癒えることはない。奥山さんは、いまだに電車の中、在宅勤務中でも急に涙が流れることがあるという。グリーフケアを通じ、子どもとの死別という共通項があるものの、悲しみへの向き合い方は一人ひとり異なることを知った。寄り添い合ってくれる人たちがいて、分かち合う場所がある。それが支えになっている。

◆福知山線事故がきっかけ
 日本でグリーフケアという言葉が知られるようになったのは2000年代のことだ。05年4月に起きたJR福知山線脱線事故で、遺族の心のケアの重要性が注目された。以降、遺族らに寄り添う取り組みが少しずつ広がっていった。大学に研究機関が設けられ、専門家の養成講座もできた。取り組みは、医療関係者など遺族に接する人々、精神科医やカウンセラーなど専門職によるもの、自治体が提供するもの、当事者たちの自助グループなど多岐にわたる。

◆絶望…1か月で7キロも減った体重
 岐阜県の会社員・加藤豪さん(45)は、自らを支えてくれたグループを、今は支える側になっている。

 21年9月、最愛の妻(当時44歳)を病気で亡くした時、加藤さんはこう思ったという。

 人生、終わった――。

妻のスマホはそのまま置いている。妻が作った、子どもの弁当を記録したインスタグラムを眺めることも
 「この後、自分はどうなっちゃうんですかね」

 妻の死から1か月ほどがたった秋の夜、パートナーとの死別を経験したひとり親のサークル「エミナル」のオンライン会合で、加藤さんは尋ねた。

 画面越しに初めて顔を合わせた人々は、「今はそういうふうに思っていても、上を向けるようになりますよ」とほほえんだ。

 もしかしたら、自分もそうなれるかもしれない。押しつけには感じず、自然にそう思えた。同じような経験をした人の言葉だったからかもしれない。

 妻の死後、何も考えられなかった。「乳がん、ステージ4」と宣告されてから4年半。別れの日が来ることはわかっていたが、考えないようにしていた。不謹慎だと思っていた。心の準備ができなかった。

亡くなる前に妻が残したレシピは1ページしかない。「もっと書いてほしかった」とこぼす
 手続きをしていると、頭がしゃんとするが、ほかの時間は祭壇の前でぼう然と過ごした。食事をしたいとも思わない。1か月で体重は7キロほど減った。何をしていたのか覚えていないのが本当のところだ。

◆「エミナル」の由来は…?
妻が残した手帳を眺める。細かい文字で書かれた予定表やメモから、まじめな性格で子どもや仕事への思いが伝わってくる
 これからどうなるのか不安で検索し、「グリーフケア」という言葉を知った。妻が生前、図書館で予約していた本を借りに行き、グリーフケア関連の本も手に取った。自分がおかしいわけではないとわかったが、その後、どのように対処すべきかはわからなかった。

 心配だったのは子どもたちのことだ。当時はまだ中学生。「グリーフケア ひとり親」と検索し、「エミナル」に出会った。

 エミナルでは、配偶者の死別によるグリーフに寄り添い合い、ひとり親の悩みを話し合う。笑顔になれる場所にしたいという思いを込めて、「笑みになる」を縮めた「エミナル」と名前がついた。月に1回ほどオンラインで集まり、気持ちや経験、悩みを話す。

◆暑い日は、妻が亡くなった日を思う
 同じような喪失経験をした仲間とだから、気兼ねなく話せることもある。

 男親ひとりだと、学校の保護者会はちょっと行きにくいかな。妻のことを聞かれたらどう答えたらいいのだろう。遺骨はいつまで自宅に置いていた? 病気を宣告されてからの日々もつらかったよね――。経験を交えながら語り合う。

配偶者を亡くしたひとり親が集まる「エミナル」の仲間とは、ビアガーデンで楽しむことも。亡くなったパートナーのことを自然に話せる大切な場所だ
 気の合う仲間とは実際に会ってバーベキューをしたり、飲み会をしたりも。友人や会社の知人とは、遠慮して妻のことを話しにくいと感じることもある。だが、エミナルの仲間とは自然と話せる。何げない会話に妻が出てくる。いつの間にか心が安らいでいく。

 料理上手で子どもの服も手作りした器用な人だった。親戚や知人への贈り物を欠かさない優しい性格。そんな妻をいつでも見ていたいと、今はリビングに位牌(いはい)を置き、デジタルフォトフレームで妻の写真を流す。自宅は、常に妻の存在を感じられる空間だ。

 もう「グリーフケア」は必要ないかもしれない。そう感じる一方で、命日や誕生日には何ともいえない気持ちになる。「記念日反応」と呼ばれる現象だ。

 お盆が近づいてくると、妻が帰ってくる気がする。妻の誕生日、生きていたら、何歳になるのだろう。春は病気を宣告された日を、暑い日は妻が亡くなった日を思う。エミナルの仲間にラインのメッセージを送ると、「わかる」「そうだよね」と反応がある。気持ちを打ち明けられる、わかってくれる人がいることのありがたみを感じる。

◆上を向いて歩こう
 今も月に1回はエミナルのオンラインの集まりに出る。悲嘆を抱えるひとりではあるが、話し合いがスムーズに進むように司会などを担うファシリテーターとして会を仕切る。

 初めて参加した人は、かつての自分のような質問をする。

 「この後、自分はどうなっちゃうんですかね」

 そんなときは、自分が最初にかけてもらった言葉をかける。

 「きっと、上を向けるようになりますよ」

 大丈夫。自分がいま、そうだから。

 つらい別れは誰にでも、いつかは訪れる。乗り越えなければならないものでもない。グリーフケアという支えのあり方が、少しずつ社会に広がればと願う。

◆悲嘆は誰もが経験する正常な反応
 「死別による悲嘆は、誰もが経験する正常な反応。しかし、悲しみの表現方法などは人それぞれです」。グリーフケアに詳しい関西学院大の坂口幸弘教授(臨床死生学)はこう話す。

 遺族の多くは、自身の力で日常生活に少しずつ戻ることができるとされる。一方で、専門家のサポートがあった方がよいと考えられる人もいる。半年以上、日常生活が送れないほどの悲しみがあれば、「遺族ケア外来」などがある医療機関への受診を検討する。

 死別の悲しみはかつて、地域や親族で共有され、そっと寄り添うことで癒やされてきたが、そのつながりは希薄化している。グリーフケアは、奥山さんや加藤さんの心の支えになっている。ただ、グリーフケアは、言葉もその意味もまだ社会に浸透しているとは言いがたい。ホスピス財団が23年に公表した調査では知っている人は1割ほどにとどまった。取り組みはまだ十分でないのが現状だ。

奥山さんが参加したグリーフケアクッキングを開催する「NPO法人病気の子ども支援ネット遊びのボランティア」では、活動のための支援を募っています。

感想
 子どもを亡くした親が、一緒に料理を作って食べる。
食べることも後回しになっている人も多いのではないでしょうか。

 子どもを亡くしたことには意味がないですが、苦しいここから一歩前を向いて歩いていると、意味が生まれてくるのではないでしょうか。
その意味は亡くなった子どもと一緒に適えているものでもあるのだと思います。

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