結婚10周年、77歳と32歳。
今はすごく元気。肉が好きだった。お酒も飲んで、その後ラーメンも食べていた。野菜を食べなかった。
減塩の料理教室に通って。野菜は食べるようになった。タンドリーチキンなども作る。
介護の資格も取った。去年の11月に習いだした。ヘルパー2級に合格した。
100歳まで介護までしようと思って、このコロナ下で1級まで取った。
自立支援で、加藤茶さんに自分で取ってもらうようにしている。
それまでは私が取ってあげていたがそれがよくないと言われた。
1曲目navy&ivory「指輪」
俺は死にませんという歌。
加藤さんがよく行く日本料理のお店でアルバイトで働いていた。
その時はまだ学生だった。
加藤さんがかっこいいなと思った。
冗談で「お茶のみに行かない?」と誘われた。
コースターに電話番号が書いてあったのでドキドキしながら電話して1時間話した。
話が合った。
それで初めて会ったら、そこには左とん平さんと小野ヤスシさんがべろべろに酔っていた。
マージャンした後だった。
二人に会う話をしたら、「お前だまされている」と言われ確認するからと。
二人からいろいろ尋ねられた。
次にデートしたらまた二人いた。それが半年続いた。
その内、私について尋ねられることがなくなり、若者に聞きたいことを尋ねて来るようになった。
ドリンクバーは自分で取りに行くと初めて知った。それまでは毎回払っていた。
そして正式に「お付き合いしてもらえませんか?」と申し込んだ。
「はい」と即答した。そうしたら、フルーツ盛りをその二人が持って現れた。
8年間くらいはパッシングが続いた。
自宅も知られた。母の携帯番号もネットに上がった。
私の自転車がペンキ塗られて、木に吊られていたこともあった。
仕方がないので木から下ろし、ペンキを拭いて乗った。
誰がやっているかわからないから守りようがない。
それがあったから、10年続いたかもしれない。
結婚4年目に加藤茶さんがパーキンソンが治った後、動脈乖離で大量の血を吐いた。
生死をさまよった。その時人工透析を受けた。
これで数値が落ちなかったら、ずーっと透析が続きますと言われた。
意識がもうろうとしていた。
そこで志村さんとのコントを見せていたら、クスクス笑い出した。
覚えていない。そうしたら数値が戻った。
自分で使命があると思った。死にまでコメディアンでいたいと思った。
宮本亜門さんが大事故に遭ってきれいなお花畑でもう一度戻りたいか?と言われて、まだやることがあるので、やりたいと思って戻れた(サワコ)。
僕も同じことがあった。いかりや長介さんが声をかけてくれた。
あわてて離れた。それが良かった。良いタイミングで出て来てくれた。
志村のスタッフから調子が悪いと電話かかってきたので、「コロナかもしれないからすぐに病院へ運べ」と言ってから、4日後に亡くなった。
自分が先に亡くなると思っていたので、自分が死ぬまでコントできると思っていた。
志村さんは自分の付き人だったのが友だち的になった。
付け人なのに僕の頭を殴る。
長さんに殴られるより、志村さんに殴られた方が気持ちが良かった。
志村さんは東村山で遠かったので僕の家に下宿していた。自分より先にお風呂に入ったり、ビールを飲んでいた。
母が「今日何食べたい」と尋ねると、志村さんが「すき焼き」と答えたら、すき焼きを作ってくれた。
母に気に入られていた。
長さんが新しい人を入れようとしたので、志村さんを推薦した。
志村さんとも会ったが、二人が聞こえないくらいの声で話していて、かつ主語のない会話をしていたので内容はわからなかった。
志村さんは声が小さい。
そのぼそぼそがネタ合わせだった。
僕の方がネタを忘れることが多かった。
それで違う笑いが生じた。
それだけ上手くやってくれた。
2曲目 美空ひばりさん「悲しき口笛」
こんな上手い人がいるんだと思った。今でもよく聞いている。
まだひばりさんが10歳の頃。
今は一番元気で、好きなコントもできて、イケメンだと思う。
「めんぼくねえ」
感想;
奥さんは本当に加藤茶さんが好きなんだと思いました。
それにしても、酷い嫌がらせをする人がいるもんです。
批判するのは自由ですが、行動までするとそれは犯罪なのですが。
生死をさまよって必死の介護で助かったから良かったですが、亡くなっていたら財産目当てだと言われたでしょう。
結婚して一緒に生活していたからこそ、動脈乖離で大量の血を吐いても助かったのです。
独り暮らしだったら亡くなっていたでしょう。
健康はやはり食事からということも改めて思いました。
今はすごく元気。肉が好きだった。お酒も飲んで、その後ラーメンも食べていた。野菜を食べなかった。
減塩の料理教室に通って。野菜は食べるようになった。タンドリーチキンなども作る。
介護の資格も取った。去年の11月に習いだした。ヘルパー2級に合格した。
100歳まで介護までしようと思って、このコロナ下で1級まで取った。
自立支援で、加藤茶さんに自分で取ってもらうようにしている。
それまでは私が取ってあげていたがそれがよくないと言われた。
1曲目navy&ivory「指輪」
俺は死にませんという歌。
加藤さんがよく行く日本料理のお店でアルバイトで働いていた。
その時はまだ学生だった。
加藤さんがかっこいいなと思った。
冗談で「お茶のみに行かない?」と誘われた。
コースターに電話番号が書いてあったのでドキドキしながら電話して1時間話した。
話が合った。
それで初めて会ったら、そこには左とん平さんと小野ヤスシさんがべろべろに酔っていた。
マージャンした後だった。
二人に会う話をしたら、「お前だまされている」と言われ確認するからと。
二人からいろいろ尋ねられた。
次にデートしたらまた二人いた。それが半年続いた。
その内、私について尋ねられることがなくなり、若者に聞きたいことを尋ねて来るようになった。
ドリンクバーは自分で取りに行くと初めて知った。それまでは毎回払っていた。
そして正式に「お付き合いしてもらえませんか?」と申し込んだ。
「はい」と即答した。そうしたら、フルーツ盛りをその二人が持って現れた。
8年間くらいはパッシングが続いた。
自宅も知られた。母の携帯番号もネットに上がった。
私の自転車がペンキ塗られて、木に吊られていたこともあった。
仕方がないので木から下ろし、ペンキを拭いて乗った。
誰がやっているかわからないから守りようがない。
それがあったから、10年続いたかもしれない。
結婚4年目に加藤茶さんがパーキンソンが治った後、動脈乖離で大量の血を吐いた。
生死をさまよった。その時人工透析を受けた。
これで数値が落ちなかったら、ずーっと透析が続きますと言われた。
意識がもうろうとしていた。
そこで志村さんとのコントを見せていたら、クスクス笑い出した。
覚えていない。そうしたら数値が戻った。
自分で使命があると思った。死にまでコメディアンでいたいと思った。
宮本亜門さんが大事故に遭ってきれいなお花畑でもう一度戻りたいか?と言われて、まだやることがあるので、やりたいと思って戻れた(サワコ)。
僕も同じことがあった。いかりや長介さんが声をかけてくれた。
あわてて離れた。それが良かった。良いタイミングで出て来てくれた。
志村のスタッフから調子が悪いと電話かかってきたので、「コロナかもしれないからすぐに病院へ運べ」と言ってから、4日後に亡くなった。
自分が先に亡くなると思っていたので、自分が死ぬまでコントできると思っていた。
志村さんは自分の付き人だったのが友だち的になった。
付け人なのに僕の頭を殴る。
長さんに殴られるより、志村さんに殴られた方が気持ちが良かった。
志村さんは東村山で遠かったので僕の家に下宿していた。自分より先にお風呂に入ったり、ビールを飲んでいた。
母が「今日何食べたい」と尋ねると、志村さんが「すき焼き」と答えたら、すき焼きを作ってくれた。
母に気に入られていた。
長さんが新しい人を入れようとしたので、志村さんを推薦した。
志村さんとも会ったが、二人が聞こえないくらいの声で話していて、かつ主語のない会話をしていたので内容はわからなかった。
志村さんは声が小さい。
そのぼそぼそがネタ合わせだった。
僕の方がネタを忘れることが多かった。
それで違う笑いが生じた。
それだけ上手くやってくれた。
2曲目 美空ひばりさん「悲しき口笛」
こんな上手い人がいるんだと思った。今でもよく聞いている。
まだひばりさんが10歳の頃。
今は一番元気で、好きなコントもできて、イケメンだと思う。
「めんぼくねえ」
感想;
奥さんは本当に加藤茶さんが好きなんだと思いました。
それにしても、酷い嫌がらせをする人がいるもんです。
批判するのは自由ですが、行動までするとそれは犯罪なのですが。
生死をさまよって必死の介護で助かったから良かったですが、亡くなっていたら財産目当てだと言われたでしょう。
結婚して一緒に生活していたからこそ、動脈乖離で大量の血を吐いても助かったのです。
独り暮らしだったら亡くなっていたでしょう。
健康はやはり食事からということも改めて思いました。
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