幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

阿川佐和子さん「サワコの朝 ナイツさん」 ”ヤホー漫才”

2021-03-06 16:06:16 | 生き方/考え方
塙さん、土屋さん。漫才協会の副会長と常務理事。
二人とも1978年生まれ
師匠は内海桂子さん。師匠は昨年97歳で亡くなった。
M-1グランプリの審査員を努める。

毎日ラジオをやらせてもらっている。週に15時間30分。
週に3種類やっている。最初の30分はフリートークをやる。
最初は大変だった。この前もされていた。
土屋さんは街中で気付かれない。
眼鏡取って清水ミチコさんに挨拶しても、誰かわかってもらえなかった。
文春の記者とカメラマンが気付かなかった。

1曲目 津島明希「浪花節だよこの俺は」
基演歌歌手で土屋の母。母がお世話になっていた事務所に入った。
同期が和田アキ子さん、クールファイブ、藤圭子さんなど。
塙の兄が、ピン芸人のはなわ。佐賀県で有名になったが、千葉県出身。
10歳まで千葉にいて引っ越しして佐賀県に行った。

事務所の社長から、浅草行きを指示された。
弟子にならないと入れないので、桂子師匠に挨拶に行った。ずーと“メイツ”と呼ばれた。
何か覚えよと言われて、南京玉すだれを学びに行った。

演芸場は60歳以上。最初はぜんぜん受けない。
売れるために色々な漫才を試した。どつき漫才も。
あした順子・ひろし師匠が淡々と日常を紹介する漫才に惹かれた。
言い間違いをずーっとやると受けるのではないかと思った。
落語の寄席に呼んでもらった。いろもの(落語の間に入れる演芸)として呼んでもらった。
400回くらいしてきたら、二人の呼吸が合って来た。

大学の落研。土屋さんが1年後輩。塙さんは落研の部長。100人ほどメンバーがいた。
塙さんが相方を探していた。大学4年の時に塙さんから声をかけてもらった。憧れの先輩。
塙さんとなら上手くできるように思った。
塙がバイクの事故で1年間、活動休止した。
ビンゴ大会の司会を土屋がした。一等賞がこの牧場の牛乳。
一日6回も1か月やっていると慣れてくる。

ヤホー漫才で大ブレイク。
ヤホーで阿川佐和子さんを調べてみた。
「聞く力」素晴らしい。聴かせていただきました。
読んでないだろう!

ヤフーをヤホーと呼んでいた人もいた。
ツッコミはやはり場数。先輩の漫才を聞かせてもらった。
「言葉で絵を描きなさい」と師匠によく言われた。
まじ、やばいという言葉を舞台上で使うと叱られた。
漫才の終わりの時に師匠が入って来て、それがとてもウケる。
ダメ出しされると嫌だった。でも自分たちもダメ出しするようになってすごく受けるようになった。

内海桂子師匠は2人が活躍しているのを嬉しく思ってくれていた。
もっと私を使ってくれと言われた。

2曲目 吉幾三「俺ら東京さ行ぐだ」
歌に突っ込む。この歌が最初の歌に突っ込む漫才。

70歳までは一緒にやりたい。
70歳過ぎると先輩の多くがすれ違ってる。塙
家のローンが75歳まであるので、75歳まで延ばしていただきたい。土屋

感想
やはり何回も何回も積み重ねることなのでしょう。
何ごとも、”間”が大切と言われますが、この”間”を何度もやることで身に付けて来られたのでしょう。

一芸に秀でるためにはやはり時間をかけ何度も何度もやってみることなのでしょう。

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