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「三流の維新 一流の江戸」原田伊織著 ”歴史は勝利した側が作るもの”

2017-04-11 00:30:00 | 本の紹介
何とか幕府を戦に引きずりださなければならない。ここで西郷の使った手が、「赤報隊」といテロ集団を組織し、江戸市中及び関東でテロ活動を繰り広げ、幕府を挑発するという、なりふり構わぬ卑劣な手段であった。徳川慶喜が、この挑発に乗ってしまったことで、西郷たちは待望の幕府との戦を創り上げることに成功した。これが「鳥羽伏見の戦い」である。

孝明天皇という人は頑迷なまでの大政委任論者であり、何よりも「復古」が嫌いであった。「復古」嘆く勢力が大嫌いであった。このような事実から、孝明天皇の暗殺説が生まれた。孝明天皇が在命だと、岩倉具視や大久保利通が画策するストーリーにはならなかった。

朝廷内の討幕派公家は少数派であったことを基本環境として理解しておく必要がある。80年ぶりに摂政に就任していた二条家や賀陽宮(かやのみや)家という親徳川派の上級公家が朝廷の主導権を握っていた。そこで、岩倉具視や薩摩の大久保利通たちは、偽の勅許(密勅)を作った。これは天皇、摂政の署名もなければ花押もないという〝天晴れな”偽物である。ところが慶喜サイドはこれを「勅命が下る」と解釈した。教養人慶喜は、まさか大久保たちが勅許の偽物などとは考えもしない。密勅とはいえ勅許が下ることは、幕府として避けなければならない。そこで先手を打って大政奉還に出たのだ。これによって「倒幕」の大義名分を消滅させたのである。
大政奉還を行っても、所詮朝廷には政権運営能力はない。つまり、幕府に代わって六十余州を当時する能力はない。慶喜がそう読んだことは明らかである。事実、大政奉還から一週間後、朝廷は、外交については引き続き幕府が担当することを指示している。
大号令の内容
・徳川慶喜の将軍職辞職を勅許する
・京都守護職、京都所司代を廃止する
・江戸幕府を廃止する
・摂政関白を廃止する

小御所会議(1867年)
 「徳川慶喜に辞官納地を求める」を決した。

慶喜は、朝廷に対して「王政復古の大号令の撤回」を要求した。
それに対する朝廷からの返書は
・徳川慶喜の内大臣辞任(前内大臣として処遇する)を認める
・徳川慶喜が最高執権者として諸大名会議を主宰する
・諸大名会議で朝廷へ「献上する」費用の分担割合を取りまとめる
との内容で「辞官納地」は完全に骨抜きにされた。
俗にいう「明治維新」の核となる出来事が「大政奉還」と「王政復古の大号令」であるとことは、学校教育でも一貫して常識であったが、以上のような史実が存在する以上、学校教育は「この時点で明治維新は失敗した」と教えるべきではないか。

イギリスの支援を受けて展開した倒幕というムーブメントでありながら、それを大火事のように燃え上がらせるためには、彼らは「尊王攘夷」「復古」というキャッチフレーズを掲げ、喚き続けたのである。つまり、激しいテロリズムに正当性を与えるように動乱の時代をを席巻したイギリスの支援を受けていたテロリストたちの「尊王攘夷」「復古」という叫び声は単なる方便に過ぎなかったということなのである。

ベルツ博士(日本女性と結婚し、約30年も日本で生活した知日派)の「ベルツ日記」より
「不思議なことに、今の日本人は自分たちの過去を何も知りたがらない。それどころか、自分たちの過去=歴史を恥じている。何もかも野蛮でした、我々には歴史なんかありません、これから始まるのです、という者さえいる」

明治維新の動乱時の混乱の一つ「廃仏毀釈」は品性に欠ける下劣な手法あると言わざるを得ない。僧侶は、ほとんど全員が神官に、文字通り”衣替え“したり、還俗することが強制された。経典は、町方で包装紙として使われるというゴミ同然の扱いを受け、五重塔は二十五円で売りに出さた、薪にするために売りに出されたのである。多くの宝物は、混乱に乗じた略奪者によって散逸し、二束三文で町方に出回った。

「復古」「復古」と喚いて、激しく「尊王攘夷」と口先だけで主張し、幕府にその実行を迫ってテロを繰り広げた薩摩長州人は、このような古来の仏教文化でさえ、「外来」であるとして排斥したのだが、政権を奪うや否や一転して極端な西欧崇拝に走った。
(多くのお城も廃城の指示で取り壊された。残っていればすごい遺産になっていた)

キリシタン大名の領内はキリスト教以外の宗教を認めないというほどのキリシタン独裁国家であった。
キリスト教という宗教は、一元主義の排他性の強い宗教であるが、その特性通り彼らは仏教をはじめとする他の宗教を徹底的に弾圧した。

「伴天連ら、日本人を数百、男女によらず黒船へ買い取り、手足に鉄の鎖を付け、船底へ追い入れ、地獄の呵責にもすぐれ~」とい当時の記録が残っている。
マカオやマニラには多数の日本人奴隷がいた。九州では、伴天連の協力を得て、ポルトガル商戦が多くの日本人を買い取り、平戸と長崎からせっせと東南アジアに積み出していたのである。伴天連たちにとっての権威であるイエスズ会が、日本から少年少女を奴隷として積み出そうとするポルトガル人の人買い商人に輸出許可証を発行していたのである。

イエスズ会宣教師コエリュの言葉
「ポルトガル人が日本人を買うのは、日本人がポルトガル人にそれを売るからである」と“見事な”回答をしている。
しかし、日本人(戦で負けた側の捕虜)を自国の商人へ安易に売り渡し、暴利を貪っていることが布教の障害になることが明確になってきたので、イエスズ会は、一転して本国の国王に日本人奴隷の売買を禁止するよう要請した。これを受けてポルトガル国王は1570年、日本人奴隷取引の禁止勅令を出すに至った。既に効果は全くなかった。

1587年、コエリュとやり合った秀吉は、コエリュの態度によほど怒りを覚えたのか、すぐさま「伴天連追放令」を発令し、その中(十条)で「人身売買停止令」を併せて発動したのである。江戸幕府に継承されるキリスト教の禁止という基本方針は、まさにこの時の禁令が端緒なのだ。

感想
歴史は勝利した側が作ると言われています。
薩長土肥が明治政府の実権を握ったので、自分たちの悪いことには蓋をしたのだと思います。

西郷隆盛が江戸幕府を戦に誘い出すために、江戸で放火など起こしたことは他の本でも書かれていました。

会津藩は幕府の命で京都の治安を任されたので、長州藩に恨まれ、降伏しても許されずに会津藩は攻撃されました。
会津藩を信頼していた孝明天皇が生きていた歴史は変ったでしょう。

秀吉がなぜ伴天連を追放したのか?
戦闘で捕らわれた捕虜が東南アジアに輸出されていたのは初めて知りました。
それに激怒したことで伴天連追放、キリスト教禁止とつながっていったのも一つの原因だったのでしょう。


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