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ダウン症の書家・金澤翔子さんの母・泰子さん|私の死後の娘のために…80歳を前につけた人生の区切り ”愛しかない”

2024-01-28 02:48:02 | 社会
 2023年6月、初のドキュメンタリー映画が公開された、ダウン症の書家・金澤翔子さん。共に歩んできた母・泰子さんは80歳を前に、翔子さんとの二人三脚の人生に一つの区切りを付けたと言います。
※この取材は2023年4月に行いました。 年齢は取材当時のものです。 

 ダウン症の書家・金澤翔子さんは37歳。 天衣無縫で力強い書は「魂の書」とも呼ばれたくさんの人の心を動かしてきました。 そんな翔子さんの書の師匠でもある母・泰子さんは今年80歳。娘に障害があると知ったときからずっと「私が死んでもこの子は生きていけるのか」と考えてきましたが、昨年、一つの区切りをつけたと語ります。 かなざわ・やすこ 1943(昭和18)年千葉県生まれ。書家の柳田泰雲・泰山に師事。90年、東京都大田区に「久が原書道教室」を開設。『天使がこの世に降り立てば』他著書多数。 かなざわ・しょうこ 1985(昭和60)年東京都生まれ。5歳より母の指導で書を始め、20歳で初個展。東大寺などの神社仏閣で奉納揮毫(きごう)。森アーツセンターギャラリーなどで大規模展覧会を開催。

一人暮らし7年目、翔子は思った以上に暮らし上手でした

 「一人暮らしをして家事や買い物をしっかりこなす生活力がついた一方で、『お母様、お空の雲を取ってほしい』と頼んできたり、翔子は独特な世界観を持っています」と泰子さん
 翔子さんが、初めて実家を出て一人暮らしを始めたのは30歳のときでした。泰子さんは、こう振り返ります。 「出産して50日目に翔子はダウン症で知的障害があると告知されて以来、『この子は一人でどれくらいやっていけるだろうか』『私が死んでも生きていけるだろうか』と考えてきました。 今思うと、人の気持ちに敏感な翔子は、そんな私の不安を感知していたのかもしれません。自分が一人で生きていくことで、母親が救われるとわかっていて、自分から料理や掃除を一生懸命覚えました。そして20歳になったとき、みんなの前で『30歳になったら一人暮らしをします』と宣言したのです」 しかし障害があることで部屋を貸してくれる人はなかなか見つからず、やっと借りられたのが地元の商店街にあるマンションでした。 「自ら飛び出していった翔子は、思っていたよりもずっと一人暮らしが上手でした。スーパーマーケットでは買い物せず、お米屋さん、和菓子屋さん、喫茶店と、商店街をひた走り、一人一人と顔見知りになって、みんなが翔子を待っていてくれるようになりました」

この街に翔子を託していく。それが私の終活です


 長い間、人に迷惑をかけてはいけないと思っていた泰子さんですが、翔子さんが一人暮らしを始めてから「この世はやさしさに満ちている」と実感したと言います。 「あるとき商店街の女性と翔子がトラブルを起こしたんです。すぐに電話をしたら『これは翔子ちゃんと私の問題ですから、お母さんは口を出さないで』と言われました。そのとき彼女が翔子と向き合って一緒に問題を解決しようとしてくれていることがすごくうれしくて。その方と翔子は今もとても仲良しなんですよ」 

 そして2022年、80代を前にして終活を意識した泰子さんは、大きな決断をします。自身が長年住み、書道教室を開いていた家を思い切って処分。商店街に翔子さんの居場所となる画廊を兼ねた家を建てたのです。 「1階が翔子の画廊、2階が書道教室、3階が作品の倉庫で、4階に翔子、5階に私が住んでいます。4階と5階は勝手に行き来できず、暮らしは完全に別。料理上手な翔子がこの間ハンバーグを持ってきてくれましたが、一緒に食べるのは年に数回で、堂々たる一人暮らしを続けています。 ここは翔子の名義にしたから、追い出される心配がない。お金のことがわからない翔子のために後見人も決めました。死後のことは支配できないけれど、やれるだけのことはしたから、あとはこの街に翔子を託していく。これが私の終活です」

闇がなければ光はない。苦難のときに道が開けます
 今は各地で個展を開き書家として活躍する翔子さんですが、「決して書家を目指していたわけではなかった」と泰子さんは話します。 「翔子の父親は、翔子が14歳のときに心臓発作で倒れて亡くなりました。突然のことで遺言も何もなかったけれど、『翔子は書がうまいから、二十歳になったら個展を開こう』と話していたんです。 翔子が18歳で高校を卒業後、作業所に就職するはずが失敗してしまって、この先どうしようかと深い闇に落ち込んだとき、ふと翔子の父親の言葉を思い出し、生涯一度きりの個展を開こうと思いました」 この個展が大反響を呼び、「うちでも個展をしませんか」とたくさんの方から声がかかり、「いつの間にか翔子は書家と呼ばれるようになっていた」と泰子さん。これまで国内外で開いた個展は500回を超えました。 「闇がなければ光はないと私は思うんです。闇が大きければ大きいほど、待ち受けている光も大きい。苦難のときに道は開けます」

翔子には、愛しかないんです
 何か書いてほしいというお願いに、笑顔で書いてくれたのは「愛」でした。
 2023年6月、翔子さんと泰子さんのこれまでの歩み、そして翔子さんの書が「魂の書」といわれるゆえんを描いた映画「共に生きる 書家金澤翔子」が公開されました。 「一昨年、初めて個展に来られた宮澤監督が、翔子の書を見てびっくりされて、瞬く間に映画化が決まったんです」と泰子さん。翔子さんの書は、なぜ見る人の心を動かすのか――ずっと考えてきた泰子さんは一つの答えにたどり着いたそうです。 「翔子ってね、愛しかないの。お金持ちになりたいとか、えらくなりたいとか、そういう欲望が何もない心には、ただみんなに喜んでもらいたいという愛しかない。IQは低く、常識も社会性もないけれど、純粋な感性が育っていたのだと思います」 翔子さんはいつでも幸せなのだと言います。 「翔子が電話で『お祭りでお神輿(みこし)を担いだの。楽しかった。でも背が小さくて届かなかった』と言うんです。背が届かないのに何が楽しいのと思ってしまうけど、翔子はとても幸せそうで。 
 同じ現象の中に地獄を見る人と天国を見る人がいて、翔子は常に天国を見ているんです。思えば翔子の障害を知り、もう希望がない、生きていけないと苦しんだのは私だけで、翔子はいつでも幸せだった。
 人間は生きているだけで大成功なんだと、今思うんです」
  映画「共に生きる 書家金澤翔子」 天賦の才を二人三脚で開花させた書家金澤翔子さんと母、泰子さん。数々の苦難を乗り越え育まれた母娘の絆を描くドキュメンタリー映画。 監督:宮澤正明 出演:金澤翔子、金澤泰子 プロデューサー・構成:鎌田雄介 公式サイト:https://shoko-movie.jp/ 翔子さんの誕生から幼少時代までを振り返る「母・金澤泰子#1 ダウン症の書家・金澤翔子さん・泰子さん母娘の歩み」から、大人になっていく翔子さんと人生後半へ向かう泰子さんの思いを全5話でご紹介します。 取材・文=五十嵐香奈(編集部) 撮影=中西裕人 ※この記事は「ハルメク」2023年6月号の内容を再編集しています。 

■書家・金澤翔子さん・泰子さん母娘インタビュー《シリーズ5回》 
【第5回】娘・翔子と歩んでわかったこと「人間は生きているだけで大成功」

感想
 ダウン症の子どもがパン作りに取り組んでいるドキュメント番組を見ました。
「美味しいパンを作るコツは?」とアナウンサーが尋ねました。
その子は答えました。
「愛を込めるの」

 つい、上手くして、人よりも儲けたいなど考えてしまいます。
その心が忍び寄るとやはりどこか純粋さが薄まってしまうのでしょう。
 政治の世界ではパーティ券のキックバックや闇金、検察も政治家の下っ端だけを起訴して大物は見逃しています。大物を起訴すると仕返しが怖いのかもしれません。
 権力者は自分たちの人事権を握っていますから。
 菅前首相は正直に、「私に逆らう人は左遷する」意味のことを言われていました。
実際、菅前首相の肝いりで始まった”ふるさと納税”を当時総務省の次回事務次官候補No1が問題点を進言したら、飛ばされてしまいました。
 逆らったら出世はできないということを周りに知らしめたのでしょう。
それを見てしまうと、つい「不正なことはだめだ」と思っていても、上からの指示で不正に加担してしまうのでしょう。手を汚すのは末端です。
 今回も会計担当者が責任を負わされて終わりそうです。会計担当者が自分だけの判断でやることはないのですが・・・。
検察もそんなことわかっているのですが・・・。
そして苦しむのは、手を染めた本人です。
森友学園での赤木さんは他の人にやらせるのは酷だ思って、その不正の指示に従い苦しみ、自殺されました。その不正を指示した人は出世しています。
 自分はどうするかが常に問われているのでしょう。
 不正に加担するなら、闇金を使う政治家の爪の垢を煎じて飲むくらいの覚悟が必要なのかもしれません。

 ダウン症の子どもたちは私たちに本当の”愛”を教えてくれているのかもしれません。

 街が翔子さんを支えている。
支えている人が幸せを実感されているように思いました。
ダウン症の子どもは神様から大切な使命を与えられた子どもなのかもしれません。
自分の使命はなんだろう?

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